昊天記神仙列伝
第七段 泡沫の夢
沙羅に請われて静かに緩やかに空を駆けていた號閃は、鈞天から六刻程掛けて白帝城の最奥、晶の房室に面した院子に降り立った。
  號閃の背からひらりと舞い降りた沙羅は、はしたなくも絡まる裾をたくし上げて大股に走って、中に飛び込んだ。
「晶──っ、生きてるかぁ?」
「!?」
「沙羅っ!?」×4
「沙羅ちゃん!」
「沙羅さんっ」
  寝台の周囲に跪いていた五獣と白沢はいきなりの乱入者に驚いて立ち上がった。が、その着飾った乱入者が沙羅であることを知って更に驚いた。
「何よ何よ何よ。むっちゃ空気悪いやんか、この部屋。窓開けよーや、窓。こんな空気吸っとったら、ヨケーに落ち込むやろが」
  言って自ら窓を開けて回る沙羅に、伯英は半泣き半笑いの複雑な表情を浮かべる。
「あんたって、あんたって、本当に颶風なのね…」
「へ? なぁに泣いてんよ? 喜びーや。晶助けられるんやで?」
「えっ!? ほ、本当にっ?」
「本当の、本当に、本当なのか? 沙羅ちゃんっ」
「號閃大哥。本当に晶様をお救い出来るのですかっ?」
  皆の問い掛けに沙羅は自信満々に、號閃は小さく、だがはっきりと頷いた。
「ようやった、沙羅。そなたは真の颶風たる者じゃな」
  白沢が満足げに握手を求め、跪いた沙羅の頭を撫でた。沙羅は嬉しそうに目を細めて白沢を抱き締める。
「あんたって凄いわっ。尊敬するわ! もう、感謝感激雨霰よぉっ!」
「沙羅っ。君は本当に成し遂げてくれたのだねっ」
  五獣は次々に沙羅を抱き締めた。暉などはボロボロに泣き出してしまって、何も言葉にならなかった程だった。
「ちょっ、ちょっと。やっぱ喜ぶのは全部終わってからにしよーや。なっ!? 晶まだうんうん唸ってるやんか」
  思ってもみない抱擁に照れまくった沙羅の言葉に我に返った五獣は、確かに牀榻の上で死に掛けている主の存在を思い出した。
  皆の腕から解放された沙羅は牀榻に近寄って晶の容態を見た。だが、それははっきり言って芳しくない。
  牀榻の上の晶は見る影もなく憔悴しきっていたのだ。頬とは言わず、身体全体の肉は削げ落ち、どす黒く変色した体色は、さながら生きたミイラであった。
「………急いで紫微宮に連れて行きたいんやけど、ちょっと無理そーやなぁ。…………せや、確か西王母のおばちゃんから色んな薬貰とったやろ? あれ飲まそーや」
「さ、西王母のおばちゃん? あ、あんた、よくあのお方の事を、お、おばちゃんって」
  九天に於いて至高なる存在と数えられる西王母を、言うに事欠いて「おばちゃん」呼ばわりした沙羅に、五獣と白沢は憤りを通り越して呆れてしまい、唖然呆然になっていた。
「? おばちゃんはおばちゃんやんか。別に西王母のおばちゃんも気にした風もなかったで? それに東王父のおっちゃんも」
「東王父のおっちゃん…」
「親しみが湧いてくるやろ?」
  天の呟きに沙羅はニッコリ笑って聞き返した。
「た、確かに、親しみは湧くけど……。威厳が消えて行くような……」
「ウルサイなっ。んな事より、今は晶の事、どうにかせなアカンねんやろが。粋珠、はよ薬出したってんか」
「は、はい。分かりました………」
  促されて粋珠は戸棚に保管してあった玉手箱を取り出し、薬が納められている錦の袋を手渡した。
  沙羅は天と樂峯に手伝って貰って晶に薬を飲ませようとした。が、死に掛けている割に晶が激しく暴れるので、自主的に薬を飲ませることが出来なかった。
  チッと舌打ちした沙羅は口に水と薬を含むと、暴れる晶の胸ぐらを押さえ込み、髪を鷲掴みに引っ張って口を開けさせ、強引に口移しで飲み込ませた。
「若いのう」
「ほー、やるモンだね」
「すごぉーい。沙羅って、本っ当にすごぉーい」
  白沢と天と伯英が感心したように呟く。暉のこめかみがひきつる。驚きの余りぼんやりしていた粋珠は、我に返ると慌てて袖で顔を隠した。樂峯は、
「あんまり髪を引っ張りすぎると抜けてしまうよ?」
と、てんで呆けた事を言っていた。
  騒々しい外野を無視して沙羅は晶が薬を飲み込んだことを確認してから唇を離した。途端、晶は大人しくなった。だがその呼吸は限りなく浅く、早い。
  その様子に沙羅は眉根を寄せながら、ピタピタと頬を叩き、
「晶っ、聞こえるかっ!? ………アカンみたいやなぁ。どないしょ………」
耳元で大声を張り上げる。しかし、沙羅の呼びかけにも反応出来ない程に晶の生気は尽き掛けていたのだ。
「さぁて、どないしよかぁ」
「沙羅ちゃん、コレを主上に飲ませなよ」
  沙羅が腕組みして白沢達に目を向けると、天が懐から一握り程の小瓶を取り出し、差し出した。
「何コレ」
「神族が使う精力剤。すんごく効き目があるよ。人間だったら枯れた爺さんだってビンビンに元気になっちゃうくらいにね」
「そうそう、天の常備薬なのよね」
「へえ………」
  伯英の言葉に眉を顰めた天を無視して、沙羅は小瓶を受け取り、晶の口の中に少しづつ流し込んだ。
  一口二口と飲む毎に晶の血色は嘘のように良くなり、一本全部を飲み終えた頃にはパチリと目を開けた。
「晶っ」
「王っ!」
「主上っ!」×2
「ロ主!」
「晶様!」
「真君……!」
  待ちに待った主の目覚めに、六獣は一様に歓声を上げ、白沢は心底嬉しそうに微笑んだ。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
  そんな中、沙羅は晶を覗き込むと、
「晶、気分はどーや?」
言って袖で額の汗を拭ってやった。
「沙…羅?」
「うんそお、あたしや。気分はどないや?」
「凄く、良い」
  晶は沙羅の手を借りて起き上がると、改めて着飾っている沙羅を見つめ、感嘆したようにほぅっと息を吐いた。
「とても似合ってる。綺麗だ」
  との言葉に沙羅苦笑し、そして、
「おおきに」
と至極素直に礼を述べた。
  その返事に晶は「おやっ」と片眉を上げた。
  物凄く照れ屋な沙羅は人に(特に晶に)誉められると過剰な反応(特に多いのはビンタ)を示すのだ。なのに、今の沙羅は驚くほど素直に誉め言葉を受け入れた。
「? どないしたん?」
「いや、しばらく見ない内に大人びたな…と思って」
「あ、それ同感。ねえねえ、沙羅ちゃん、何があったの? お兄さんに教えてよ」
「んふふふふふー。な・い・しょ」
「意味深だなぁ。誘われてるみたい」
  意味有りげに笑う沙羅に晶と白沢と五獣は首を傾げた。
「………それはともかく、沙羅。俺の呪いは解けたのか?」
「うんにゃ、まだ。秀妃が死んだだけで、まだ呪いは解けてへんよ」
「公主が亡くなっても?」
  怪訝そうな晶達に沙羅は「うん」と頷いた。
「あの女な、死ぬ前に呪いを掛け直しよってん。あっ、でもな、女大君がその呪いの解き方知っとったから大丈夫。心配せんでもええで」
  さっと表情を強張らせた晶に沙羅はその肩をばんばんと叩いて落ち着かせた。
「そんでな? 紫微宮に行かなアカンねんけど、どないや。晶がしんどいようやったら明日にして貰うし……」
  沙羅の言葉に晶は暫し考えた後、
「身体の方は万全だが…。今から身を浄めて、支度して、それから出掛けるとなるとかなり遅くなるだろう。沙羅の言うように明日でも良いのならそうさせて貰おう」
と言い、その後八刻を掛けて、汚れまくった身体を念入りに洗い浄めた。
  そうして漸く一段落ついた晶は六獣と共に、黄泉での旅路や、紫微宮での出来事、謁見の感想と秀妃の最後などを尋ね聞いた。
  そして夜も更けた頃、尽きぬ話に終わりを告げて一堂は各自の房室に戻っていった。
  同じく沙羅も「おやすみー」と言いながら房室に向かい掛けた時、
「沙羅」
と、晶が小声で呼び止めた。
「へっ?」
  立ち止まり、振り返った沙羅に晶は手招きをした。
「何やの?」
「いいから、来てくれ。渡したい物があるんだ」
「渡したい物? 何、何?」
  興味をそそられたように沙羅はニコニコととって返した。晶はクスリと笑うと懐から小さな箱を出し、開けた。
「こ、これって…もしかして、指輪?」
「もしかしなくても指輪だよ。彼界に居た時、沙羅がてれびを見ながら言っていただろう? 指輪が欲しい、って。それを思い出して造らせて居たんだ」
  此界の装飾品の中に指輪はない。晶は沙羅の為だけに、正に特注でこの指輪を造らせたのだ。だが光り輝く金剛石の眩さにか、基本的に貰える物は全て貰う、貰えない物でも奪い取る、を主義としている沙羅には珍しく受け取るのに躊躇していた。
「で、でも、なんで」
「………彼界じゃ、『結婚』を申し込む時に…、指輪を贈るのだろう?」
「ええっ!? けけ、けっ、結婚て。まさか、これまさか…」
「彼界の言葉で何と言っていたかな……。ああ、そうだ。『えんげいじりんぐ』だ」
「うそお………」
沙羅は驚愕に目を見開いて、手を口に当てた。
  晶は右手に沙羅の左手を、左手に指輪を持つ。
「沙羅、これを受け取って欲しい。そしてずっと俺と共に生きて欲しい」
「! …………………………………………」
「沙羅?」
「ゴメン……。悪いけど、あたしにはよー受け取られへん」
  沙羅はぎゅっと左手を握り締めて指輪を拒否すると、晶の手を振り払って駆け出した。が、晶は再び手首を捕らえて離さなかった。
「離してやっ!」
「イヤだ」
  断られたにも関わらず晶の表情は静かな物だった。
「晶っ! 分かってんのん? あたしは断ったんやでっ!?」
「分かってる」
「やったら離しぃやっ! 男やろっ!? すっぱり諦めや! みっともないでっ」
  言って強引に腕を解こうとしたが、痛いほどに力の籠もった晶の手は開かなかった。
「晶! みっともないってゆーてんのが分からんのっ!?」
「それがどうした。俺は決めたんだ。沙羅が幸せになりたいのなら俺がそうしてやるって。沙羅を生涯の伴侶にして、誰よりも幸せにしてやるって決めたんだ」
「し、幸せになんかなりたないわいっ」
「沙羅は嘘吐きだな」
  しょうがないなぁ、と言わんばかりに晶は溜め息を吐いた。
「ああ、あた、あたしは嘘なんか吐かへんっ!!」
  『嘘吐き』の言葉にビクッとした沙羅だが、ぶんぶんぶんぶんっと首を振って必死に言い立てた。
「いいや、確かに沙羅が言ったんだ。誰よりも幸せになりたい、って。沙羅が黄泉で幼子の尸鬼を解放した時のことだ。俺はちゃんと覚えてる」
「あ、あれは夢……」
  明らかに動揺しているようで、沙羅はギクリと言い淀んだ。
「夢なんかじゃない。俺はあの場にいた。目が覚めた時、俺の深衣があっただろう?」
「!」
  沙羅の頬がかぁっと真っ赤になった。
「あ…アンタなんか嫌いやっ!! 触らんといてっ」
「沙羅は嘘吐きだからな。それにそんな顔して、泣きながら言ったって信じない」
「泣いてへんっ」
「じゃあこれは何なんだ?」
「汗や、汗っ。見て分らんのかいっ」
  沙羅は両頬を挟み込んで涙を拭う晶の手を払いのけたが、晶は今度はしっかりと両手首を掴んだ。
「大っ嫌いやっ!!」
「その分俺が愛しているからいいんだ」
「良くないっ! イヤッ、やめて──っ!!」
  悲鳴を上げる沙羅の唇を、晶は強引に塞いだ。沙羅が抵抗しなくなるまで晶は唇を重ね続け、そして、そっと離した。
「………俺を受け入れてくれないのに、どうして口付けに応えてくれるんだ?」
「…………………」
「沙羅…。俺の心にも応えてくれ。俺を、受け入れてくれ…! …………それが出来ないなら、いっその事その手で俺を殺せ」
  言って晶は護身用の短刀を沙羅に握らせた。だが、短刀は沙羅の手に留まることなく、チャリーンと音を立てて床に落ちた。
「そんなん…出来る訳無いやん。晶は………ズルい」
「なら俺を受け入れろ」
  言って晶はボロボロと涙を流して俯く沙羅を抱き上げ、牀榻に横たえさせた。
「沙羅、愛している」
「……………あたしも」
  出逢って三年。喜びと悲しみの涙に暮れながら、沙羅は晶の全てを受け入れた。



「沙羅……?」
  胸の中でずっと泣き続けている沙羅に眉根を寄せながら声を掛けた。
「沙羅、そんなに…辛かったのか?」
  泣き過ぎて少し腫れ上がっている頬をそっと撫でると沙羅は無言で頭を振った。
「ちゃう……。あたし、今めちゃくちゃ幸せ感じてるねん。………ありがとう晶。あたしもう死んでもええわ」
「バカな事を……。これからだろ? これから永遠が始まるんじゃないか」
「………せやな」
  小さく呟いて沙羅は震えながら晶にしがみつく。
「沙羅?」
「お願いやから、お願いやから、このまま眠らして………」
「……ああ、おやすみ」
  何か目に見えぬ物に怯えた様子の沙羅を強く強く抱き締めて、晶も最初で最後の満ち足りた眠りについた。
つづく