忍ぶ恋から始めよう
第二段 殺人は如月の松原で
漸く春めいてきた如月も中頃。御所は俄に騒然となった。と言うのもだ。あの宴の松原で春霞の中納言様が死体となって発見されたのだ。
  そして何と、死体の第一発見者があの忍君様だったのだ!
  事の始まりは最近京を騒がす夜盗の存在であり、その夜盗を忍君様が逮捕なさった事であった。
  普通、夜盗等の取り締まり等は検非違使の仕事(忍君様がお勤めになっていらっしゃる近衛府の仕事は主に禁中の守護、及び行幸の供奉など)なのだ。だがしかし、この夜盗なかなかの知恵者で尻尾を出さず、のらりくらりと捜査の目をかいくぐっていたのだ。そして殿上の間でも取り沙汰された折り、自他共に忍君様の親友であると信じている雪平の右中将様が冗談で言った、

『忍を女装させて囮に………』

を、主上がいたくお気に召されて、厭がる忍君様と難色を示される太政大臣様を説き伏せて実行なされたのだ。
  結果、夜盗はものの見事に引っかかり、捕縛の徒に付いた訳だ。
  更にいたずら心をお出しになった主上は、その女装姿で忍君様に事後報告をおさせになったのだ………。



『夜盗の根城には攫われた業盛の大納言様の六の君様を始め、八人の女君、並びに盗品等数多くございました。女君方は各々御実家に、盗品も同様持ち主に返却致しました由。夜盗に関しましては今一人取り逃がしましたが追捕を放っておりますし、多少の手傷を負わせております故、程なく捕らえられるかと存じます』
  ここ殿上の間は黒山の人だかりが出来ていた。すべては女装なされた忍君様を(失礼ながら)見物させて頂く為にだ。………本当に失礼な言い様だな…。
  勿論俺も駆けつけた訳だが物凄い人混みで何も見えなかった。だから俺は陰陽寮に帰り、鼠に変化させた萩代を通して間接的に見聞きしていた。
  ………言っておくが俺はこんな覗きじみた真似は滅多にもしてないからなっ。
  まあ、ともかく。………はっきり申し上げて忍君様は腰が抜けそうな程にお美しかった。
『ご…御苦労だったね…。忍も、少将達も…本当に…』
  主上が御声を詰まらせつつも労を犒らわれると、忍君様達は平伏なさり代表して忍君様がお答えになる。
『有り難き幸せに存じます』
  とてつもなく素っ気ない声音でいらっしゃる。
  だがこれも仕方がない。忍君様は勅命が下された折りより、この上なくご機嫌がよろしくなかった。勿論、慇懃無礼な点など有る筈もなかったが、そのご表情は常よりも氷室の如く冷たく、化粧で増したお美しさがその迫力に拍車を駆けていた。
  忍君様に対してはかなり砕けていらっしゃる主上でさえも、その無言の怒りに恐れをなされて、いつものように軽口をお聞きになれず、後に、
「忍を怒らせると何とも恐ろしいという事が解ったよ。これは久里の少将から聞いた話だが、夜盗を捕らえた時の忍は鬼神もかくや、と言う程で、刃向かった夜盗の首領は殴り倒されて顔が原形を留めてないのだそうだ」
と、麗景殿の中宮様におっしゃられたとか…。
  だが、直接被害の及ばない他の人間にとって注目すべきはやはりその美貌だった。
  壺装束の紅梅の袿は忍君様のお色の白さを際立たせ、怒りでより紅潮している頬は、紅よりも鮮やかに忍君様を彩っていた。
  この日、主上を初めとする公達は忍君様が男性である事を心底嘆かれ、女御様を初めとする女官は胸を撫で下ろされたそうだ。
『こ…、此度の働き、本当に御苦労でした。また今日より京の平安に努めて下さい…』
  忍君様から発せられる怒りの冷気に耐え難くなられたのか、主上は早々に話を締めくくられ、忍君様は、
『御言葉胸に………』
とだけお応えになり、さっさと御前から退出なさって梨壺に向かわれた。何故かと言うと忍君様にはまだお会いしなければならない御方がお二人ばかりいらっしゃったのだ。
  その御方とは先帝・寿禄院様並びに東宮様であらせられた。
  寿禄院様は今日の忍君様を御覧になられる為だけにわざわざ参内遊ばされたそうだ。
そんでもって梨壺への道中、あまたの殿上人が忍君様にくっついて恐る恐る話し掛けた。が、忍君様は絶対零度の無表情で以て一切を無視して行ってしまわれた。
  俺はどうしても忍君様から目が離せずそのまま萩代を梨壺に移動させた。
  梨壺では寿禄院様と東宮様がそわそわとした御様子で忍君様のおいでをお待ちしていらっしゃった。
  そしてしばしの後、御簾を掲げて室内にお入りになった忍君様を御覧になると、御言葉を失われたかのようにお口を開け放たれた。
『………な、何というか…まぁ………』
『………』
  東宮様が喘ぐようにおっしゃった。その御表情は素直な感嘆で満たされていた。が、正反対に寿禄院様は眉根をしかめられて複雑な御表情をしていらっしゃった。
『………東宮様までもこの私の情けない姿を面白がっておいでとは…』
  不意に絶対零度の仮面が剥がれ、拗ねたようなお言葉が忍君様のお口から飛び出した。しかしながら、そのお顔はやり切れない程に悲しげでいらした。と言うのもつかの間、その相は一瞬で拭い去られてしまった。
  先程までの無表情はこの悲しみの相を隠す為では無かったのだろうか? 
  「何を根拠に」と聞かれれば「勘」としか答えられないのだが、とにかく俺にはそう思
えた。いわゆる陰陽師の直感だ。
『……いや、そうではないよ、忍。お前が余りにも美しかったから驚いてしまったんだ』
  我に返られたように東宮様は檜扇でにやけてらっしゃる御顔をお隠しになってそうおっしゃった。
『父上も越前達も声を失っていましたよ』
  今度は呆れたお顔とお声だった。
『ほう、あの大臣がねぇ……。では伯母上はどうなさっておいでだ?』
『………この姿を御覧になるなり泣き伏して、………お気を失われてしまいました。今もきっと伏せっていらっしゃる事でしょう』
  忍君様が沈痛な面持ちでお答えになると、寿禄院様は更に眉根を寄せられた。
『何ともお労しいかぎりだ。近い内にでもお見舞いに伺わせて戴こう』
『私からもお願い申し上げようと思っておりました。寿禄院様の暖かい御心遣い、母上もさぞかし喜ばれましょう』
  生半可な相手には決してお見せにならない柔らかな微笑みを忍君様がお浮かべになった。すると、寿禄院様は深く溜め息をお吐き遊ばされる。
『しかし主上も真、罪な事をなさる。確かに夜盗逮捕は大事だが、もう少し忍や大臣の名誉を慮られるべきだろう。少しお諫め申し上げる方がよいのではないのかな』
『おや、人払いをなさって梨壺に籠もっていらっしゃるかと思えばお三方で私の悪口ですか? しかもお小言を戴くのならご機嫌伺に参るべきではありませんでしたね』
  声と共にヒョイッと御簾の隙間から主上がにこやかに御顔をお出しになった。
『主上!』×3
  先触れなんかは全くなかったし、先導の女房は勿論、お付きの女房もいない。と言う事は完全にお忍びでいらっしゃったのだ!
『忍に怒られたままだと思うと悲しくてね。なんとか怒りを解いて貰おうと思ってきたのだよ』
  寿禄院様と東宮様がさりげなく上座から降りられた。
  ………考えたらモノ凄い場面だぜ。
  先帝と今上帝と次代の帝が居並んでいらっしゃるのだ。そしてその御孫であり、甥御であり、御従兄弟でもあらせられる忍君様。しかもあの忍君様が何とも楽しげに笑っていらっしゃるのだ。滅多にもお目に掛かれる代物(我ながらなんて失礼な言い様だ)ではないぞ。
  そんでもってその至高の存在を御前にしても、全てに於いて何ら遜色を見せない忍君様。うーん、グレイト。
  てな風に俺が感動している間も会話は続いていた。
『しかし何だね。さすがは親子と言うべきか、そうしていると姉上に瓜二つだ』
  何故だか物凄く嬉しそうにおっしゃる主上に、何故だか悲しげに寿禄院様と忍君様は頷かれた。
『院や東宮にもお見せしたかったですよ。先程の殿上の間での様子を。雪平の右中将や頭中将、その他大勢はおろか、あの右大臣までもが見取れておりましたよ』
『とても残念に思っておりますよ。ですが主上、それ以上に私には忍が男であるという事実こそが残念で仕方がありませんね』
  東宮様はホォーっと心底残念そうに溜め息をお吐きになった。
『それはどういう意味でございましょうか? 私が万が一にでも姫でありましたなら、どうなさるおつもりですか』
  不機嫌な忍君様のお声に、東宮様は艶やかに微笑まれると、
『勿論入内して私の妃に……
   バキィッ
じょ、冗談だよ、忍っ。本気で怒るなっ』
  忍君様がお手にされていた檜扇を真っ二つに折ってしまわれると(洒落にならないお力だぞ)、東宮様は慌てて冗談になさった。が、時既に遅く、忍君様の絶対零度の無表情が復活してしまった。
『主上も東宮もあまり忍をいじめなさるな。御二方とも忍を本気で怒らせると後が恐ろしゅうございますぞ?』
  寿禄院様が取りなすようにおっしゃると、御二方は交互にお謝りになったが、忍君様は折れた扇を袂に放り込まれると、
『わたくしめこそ身の程を弁えず御無礼申し上げました、平に御容赦下さいませ』
と平伏なさった。
『ああっ、怒ってる! 他人行儀になってるっ!』
『しまった。怒りを解くつもりでここに参ったというのに、余計に怒らせてしまった』
『ほっほっほっ、では主上の御為にも、東宮の御為にも、そして忍の為にもこの話はこれで打ち切る事にしましょうか』
  心底困り顔の御二方に助け船を求められて寿禄院様はお話を締められた。
  それからは夜盗逮捕の詳細や裏話、忍君様の母君の涼子様の御不調、後宮の女君の話などで盛り上がっていた。そしてそれから……と言うところで、またもや父上から膨大な量の書類が届けられてしまった! チチィッ!!
  んでもって俺は泣く泣く萩代を呼び戻し、仕事に取りかかった訳だ。
  そしてそれから数刻たった戌の三刻ごろ。
「!!」
「何じゃ 今の霊威はっ」
  ここから乾の方角(多分、宴の松原だ)に強烈な波動を感じて陰陽寮に微かな緊張が走った。
「陰陽頭様、如何なさいますか?」
  橘殿が父上に尋ねると、
「捨て置く訳にもいくまい。実近………いや皆、松原に参るぞ!」
  てな訳で俺達は足早に松原に向かった。
  妙に興奮している鬼共を尻目に、辺りを探ながら注意深く進んでいくと、突然、紅の塊が木々を掻き分けて飛び出した。
「うわっ!」
「あっ」
  あまりに突然で、あまりに勢いが付いていたので俺は避ける事も出来ずに紅の塊と正面衝突してしまった。
「痛たたた…。な、何だぁ!?」
「………」
「しっ、忍桜の宰相の中将様ぁっ!?」
  橘殿の素っ頓狂な声が辺りにこだました。
「ええっ」
  その言葉に驚いて紅の塊に目を遣ると、それは先程見た紅梅の壺装束で、本当の本当に忍君様だったのだ! 
  俺はそれ程でもなかったが、小柄な忍君様は完全に体勢を崩されて、俯せに吹っ飛ばされていらした。
「すすす、すみませんっ! し、忍君様っ、お怪我は…、お怪我はございませんかっ!?」
「私なら大事無いっ!」
  父上が差し出した手をお取りになると忍君様はもどかしげにお立ちになった。
「し…忍君様…! そ、そのお姿は一体…」
  俺達は一様に息を飲んでしまった。と言うのもそのお顔は拭った血の跡で真っ赤になっていたのだ。併せて先程まで在った筈の髢は何故だか無くなっており、御自身の御髪も血糊で固まり掛けていた。
「忍君様! 如何なされました 大事はございませぬかっ」
「私の事などどうでも良い! 春霞の中納言様がいきなり血を吐いてお倒れになったのだっ! 早く薬師をっ。早くしろっ」
  慌てふためいて容態をお尋ねする父上を遮って、君様は苛立たしげに命を下された。その迫力のあるお声とお姿に見習い達は尻を叩かれたように走り出す。
「わ、分かりました。して忍君様、中納言様はどちらに」
「ああ、こっちだ…痛っ」
  問われて歩き出された忍君様は右足首を押さえて蹲ってしまわれた。
  どうやらぶつかった拍子におみ足を挫かれたようだ。うっわぁ〜、俺の所為だよ。
「忍君様、申し訳ございません! 真に申し訳ございませんっ」
「気にするな。今は謝られるより肩を貸してくれた方が嬉しい」
「わ、分かりました。では失礼致します」
  土下座して平謝りしていた俺は差し伸べられたお手を恭しく取らせて戴き、肩をお貸しした。訳だが…。如何せん、俺と忍君様は六寸以上も背丈に差があって、少し…と言うよりも、かんなり無理があった。無理があるから当然おみ足が痛むらしく、お顔を顰めていらっしゃる忍君様。故に俺は意を決して、忍君様を抱き上げさせて戴いた。勿論一言断りを入れてからだぞ。
  忍君様は少ぅし不快げでいらしたが、溜め息を吐かれると目的地を指さされた。



「惨い………」
  忍君様の導きに従ってたどり着いた俺達を待ち受けていたモノは、血の惨状とその中央で目を剥き、既に絶命していた中納言様であった。
「松風、萩代、桐生。各々近衛府と蔵人所にこの事を報告して参れ」
「承知致しました」
  頷いて駆け出した三人の姿は程なく木々に紛れて消えた。
「…………。何とも惨い死に様じゃな…。忍君様、貴方様にお怪我はございませんか?」
  地に降りられた忍君様は父上の問いかけに頷かれた。そのお顔は血で汚れていても判る程に真っ青でいらしたし、挫かれたからか、どうもお足元が危うい。俺は父上の目配せを受けて忍君様に松の根元に腰を降ろして戴いた。
「…では、その血は中納言様の…?」
  父上から受け取った畳紙で血を拭いながら再度頷かれた。
「忍君様、一体何が…」
「何が起こったというのだっ!」
  俺が跪いて詳細をお聞きしようとした時、背後から大きなダミ声が耳に突き刺さった。左大将藤原成親様だ。
「忍桜の宰相の中将っ! 何が……! は、春霞の…中納言、殿?」
続いて右大将藤原紀道様や蔵人の別当藤原忠長様が同じように声高に駆けつけ、同じように言葉を失った。
「忍っ、忍は無事かっ」
  そして息子の一大事を聞き付けて、太政大臣様が必死の形相で駆け付けられた。後ろには真友殿と志濃の君(志濃の君は真友殿の妹君……つまり忍君様の乳姉弟で、今回の捕り物に特別参加したそうだ)が見えた。太政大臣様を始め、二人も忍君様の元に駆け付け、口々に安否を気遣った。
「忍! 怪我は、怪我はないのか」
「ち、父上、私は大丈夫でございます」
「本当ですの 本当にお怪我はございませんの」
  泣き腫らした目の志濃の君に、忍君様は小さく微笑みを浮かべて力強く頷かれた。
「お、お帰りがあまりにも遅くていらっしゃるのでご心配申し上げておりましたら、血塗れの忍様と中納言様が発見されたと聞いて……。わたくし…わたくし心の臓が止まるかと思いましたわ…。よかった…。忍様がご無事で本当によかったですわ…!」
  言うや志濃の君は忍君様にしがみついてオイオイと泣き出し、忍君様は苦笑なさるとそんな志濃の君を抱き締められ、
「大丈夫、私は大丈夫だ。だからもう泣かなくて良いよ」
嗚咽の止まらない背中を愛おしそうに撫でられた。
  ………なんか、ミョ──にいい雰囲気なのだ。しかしながら如何せん、今の忍君様は女君にしか見えないので、物凄ぉ──く妖しげな光景でしかなかった。
  それ故俺達は勿論、検証中の近衛の方々も手を止めて見入っていた。
「おいおい、志濃。いい加減に泣き止め。皆様が呆れておいでだぞ」
「えっ? ! やだ! わたくしったらすっかり取り乱してしまって…」
  真友殿の呆れ声で我に返った志濃の君は慌てて飛び退いて、兄君の後ろに隠れてしまった。顔もだが性格も可愛らしいな…。やっぱり、忍君様のお手付きなのだろうか? 
  などと俺が下らない事を考えていると、
「成親殿、紀道殿、忠長殿、今日の所は息子を邸に帰したいのだが宜しいか? 併せて詳細は後日に改めて戴きたい」
と、太政大臣様に於かれてはお珍しく、有無を言わせぬ強い調子でおっしゃった。そして慌てて頷くお三方と俺達に背を向けて、忍君様は父君と真友殿に脇を支えられて帰ってしまわれたのだ。
つづく