忍ぶ恋から始めよう
第四段 衝撃の事実は水無月の滝壺で
忍君様が療養と称されて近江にお籠もりになってから早二ヶ月。
  華を無くしてしまった宮中は著しく生彩を欠いていた。
  そしてその影響を一番に受けていらっしゃったのが主上と東宮様であらせられた。何しろ忍君様が童殿上をお許しを戴いた頃から、主上は実の若宮のように、東宮様は実の弟宮のように可愛がっていらしたのだ。
  それ程忍君様に対して執着していらっしゃる御二方が二ヶ月もの長期休暇を我慢していらっしゃっるのは偏に、先帝・寿禄院様の御言葉によるものであった。
  しかし、その我慢も限界に近付かれたらしく、卯月に入るや否や、控え目に帰京を促されるようになった。
  と言っても、帝と東宮が一臣下を特別に重用なさるのは政治的にも宜しくないので、表向きは忍君様の同僚が近江くんだり、御二方の御内意を示しているらしい。
  それなのに忍君様は一向に帰京の意をお示しにならない。お使いの方が成果を果たす事なく帰ってくる度に御二方の御機嫌は、言うまでもなく、下降の一途を辿っていった。
  そして梅雨も皐月も終わりの晦日の事。俺は主上の御召しを受けて清涼殿に参上した。ちなみに俺は従七位下、いわゆる地下人なのでこの日の殿上は勅許戴いたのである。
  で、参上した清涼殿には東宮様もお出でで、緊張気味の俺を御覧になると親しげに微笑んで下さった。
  そして問題の主上直々の御言葉とは、
「時守、そなたが忍に取り憑いていた鬼を調伏したのだな?」
であらせられた。忍君様が鬼(正体は別にして)に悩まされていらっしゃった事は、御二方とも太政大臣様経由で御存知なのだ。
  まぁ、それはともかく、俺は「はい」とお答え申し上げた。
「と言う事はだ、忍はそなたに恩義が有ると言う事だな?」
「そ…そうなるのでございましょうか」
「うむ、そうに違いない。と言う事はだ、忍はそなたの言葉を無下には断れないと言う事でもあるのだ」
「そうなるのでございましょうか?」
  物凄い三段論法をお使いになる主上に俺は(それでいいのか?)と言う気分になってきた。それが表情に現れていたのだろうか、東宮様はにぃっこり笑われた。
「忍はね、クールな割に変な所で義理堅いから大丈夫だよ」
「………」
  確かに……。
「それにだ、万が一にでも断った場合は時守、君の職業を活かすんだ」
「わたくしめの……?」
「そう、いつまでもを空けていると家政が傾くとか何とか、最もらしい言葉を使って、忍を連れて参れ」
  否応なしに勅命が下ってしまった。
  俺如きが主上を御言葉に逆らえる筈もなく、直ぐさま邸に戻って松風達に旅支度を整えさせた。幸い天一神(この神がおわす方角は方違えしなきゃならないのだ)が天上に昇っているので、殊更方角を気にする必要もなく、翌日には出立できた。
  忍君様所有の山荘は有名な近江八景の一つ、『比良の暮雪』で有名な比良山の中の蓬莱山に在った。
  俺は京から打出浜まで馬を駆り、打出浜から船を調達し、近江の湖の志賀の浦を目指した。そして山の中腹にあるらしい山荘まで再び馬を駆った。
  俺としては久しぶりの遠出だから旅気分を味わう為に、ゆ〜っくりと進むつもりで居たのだ。が、涼を取る為に風(しかも追い風)をよんでしまった所為か、使いに言伝てた到着日よりも二日も早く到着してしまった。
  俺ってバカ………。
  それはともかく、俺はこの山荘に着いて何故に忍君様が帰京を渋られるのか、その理由を唐突に理解した。
  ──涼しいのだ、ここは。
  今年の夏は特に暑く、しかも長引くとの卦が出ている。茹だる下界よりも過ごしやすい山間を望むのが人情と言うものだろう。尤も、以前の忍君様しか存じ上げなかった俺ならばこうは思わなかっただろうな。
  さておき、到着した俺を出迎えてくれたのは最早馴染みの志濃の君だった。志濃の君は俺を母屋に通すと酒を持てなしてくれた。すると山荘中の女房方が集まってきて、過日の礼なんかを言ってきた。
  その女房方、見ると中年女性ばっかりで、若い女房と言えば志濃の君一人だった。そんな俺の表情を呼んだのか、貫禄のある女房殿がにこやかな笑みを浮かべて説明してくれた。 ここにいる女房方は皆、忍君様の御母君・涼子様が内親王でいらした頃からお仕え申し上げていたところ、太政大臣様自らのご人選で忍様付きの女房になったんだそうだ。
  ちなみにこの女房殿は志濃の君の母君、つまり忍君様の乳母殿らしい。
  俺は己の修行不足を恥じ入りながら本題に入った。
「あの…ところで忍桜の宰相の中将様は?」
  途端、にこやかだった女房方は顔を曇らした。そして乳母殿・越前殿は膝を進めて、
「申し訳ございません。忍様は只今山中を散策なさっていらっしゃいます。………御帰邸は明日…になるかと存じます」
と心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「散策──ですか…?」
「はい、忍様は童殿上をお許し戴きました七つまで、こちらでお育ちになられたと申しましても過言ではない程でございまして、このお山は忍様にとってお庭の様なものらしく、…その、…こちらにお越しになってからは二、三日、長い時は五日程もお戻りになられないのです」
  俺は忍君様の破天荒な行動に頭痛を覚えながら、
「まさかお一人でって事は………無いですよね?」
あり得ないだろう心配を尋ねてみた。が、越前殿の答えは、
「そのまさかでございます………」
と非常に重いものであった。
「忍様はお邸にいらっしゃる。と、安心しておりますといつの間にやらふらぁっとお出掛けになられて、後はそのまま…。わたくし共もお諫め申し上げているいるのではございますが、一向にお聞き入れ下さらないのです」
  口調は渋いものの、その表情はやんちゃ坊主を見守る母親そのものであり、また誇らしげでもあった。
  早い頃に母上を亡くした俺としては羨ましい限りで、自然柔らかな笑みがこぼれてしまった。
  そんな俺を見て越前殿は庇際に控えていた女房殿──小宰相殿に目配せすると、小宰相殿は心得顔で頷いて、退出していった。
「今宵はわたくし共がお相手致しますわ。と申しましてもお婆ちゃんばかりではございますが、どうぞお楽しみ下さいませ」
  と言う訳で俺はエライ饗応を受けた。越前殿を始め、忍君様の女房方は古参故か、はたまた宮仕えの教育が行き届いているからか、その話術は機知に富んでいた。仕事柄、宴にはてんで縁が無く、邸にいるのは式神ばかり。俺は久方ぶりに人との語らいを楽しんだ。そして夜も更けると越前殿は西の対に臥所を用意してくれた。なんでもこの山荘に於いて西の対で見る月が一番素晴らしいんだそうだ。忍君様も邸にいらっしゃる時は母屋ではなく、この対で寝起きしていらっしゃるとのこと。
  今宵は三日月。忍君様もどこかで草を結んでこの細身の月を御覧になっているのだろう。
  俺は簀子に足を投げ出し、格子に背を預けて鎌のような月に見入っていた。
  実際、寝てしまうには惜しい程見事な月だった。
  結局俺が寝付いたのは月の傾く頃だった。



  翌朝、と言うか翌昼。俺が目を覚ましたのは巳の刻を過ぎた頃だった。女房方はどうやら旅の疲れを思いやってくれたようだ。なんとも頭の下がる心遣いである。
  ともかく俺は松風に手伝って貰って衣を整えると、絶妙なタイミングで志濃の君が朝餉(?)を運んできてくれた。
「お、おはようございます。すみません、こんな時間に…」
  恐縮して挨拶する俺に志濃の君は相変わらず人好きのする笑顔で首を振った。
「お気になさらないで下さいまし。きっと下界の暑さと、こちらにいらっしゃるまでのお疲れが溜まってらしたのですわ。こちらは本当に涼しく、過ごし良い所でございますから。……実を申しますと、わたくし共も一度朝寝坊をしてしまった事がございますの」
  最後の照れ笑いがなんとも可愛らしくて、俺もつられてにこにこ微笑んでしまう。
「そうなんですか。それはそうと忍君様はお帰りになられましたか?」
  食事に箸を付けつつ尋ねると、志濃の君は小さく頭を振る。
「申し訳ございません。忍様は未だお帰りには…。ですが、忍様はお昼までにお帰りになられない時は、必ず夕方頃にお帰りになられますの。ですから時守様もお暇潰しに辺りをお散歩なさって下さいまし。以前忍様がお教え下さったのですが、山荘からしばらく歩いた所に小振りながらも見事な滝があるのだそうです。なんでも五月雨の明けた今頃しか見る事が出来ない、いわゆる幻の滝なのだそうです」
「ほほぉ、忍君様程の風雅なお方が見事とおっしゃる滝ならば、見ない事には後々の後悔となりましょうや」
  しばらくして食事を終えた俺が立ち上がると、松風が階に沓を揃えてくれた。
「お気を付けていってらっしゃいまし」
  まるで夫婦のようなにこやかな志濃の君の見送りを受けて俺は、
「出来たなら忍君様をお捜し申し上げて参ります」
言って、北門から邸を出た。出たはいいが、詳しい場所を聞き忘れた俺は、煙るような木々の薫りを胸一杯に納めながら、中空に向かって尋ねる。
「──菊水、志濃の君が言ってた滝ってどの方角にあるんだ?」
  菊水は返事を返して姿を消した。待つ事暫し。
「お山に滝は三つ四つ程ございますが、ご所望の滝はここより艮に四半刻程でございます。お捜しの忍桜の宰相の中将様もその滝を御覧になっておいでです」
「へぇ、一石二鳥だな。よっしゃ、行こう」
  そうして坂を登り始めて既に半刻。行けども行けども幻の滝は姿を現さない。
「………おいっ、コラ菊水。ど…どこが四半刻だっ!」
  黙したまんまの菊水に悪態を付きながら俺は脇に在った大木の幹に手を付いて立ち止まった。
  一度止まってしまうと膝が笑ってしまって、もう一歩も歩けない(大袈裟?)と言う情けない状況に陥ってしまった。
  最近内向きの仕事ばかりしてた所為か、足腰が鈍ってるみたいだ。キツくって仕方がないっ!
  休もうかなぁ、休んだ方がいいなぁ、えーい休んじゃえ。と意志薄弱ぶりを披露してそこにあった大木の根本に腰を掛け、弾む息を鎮めて耳を澄ませた。
  すると小鳥の囀りや木々を渡る風のざわめきの中に、微かな滝の音が俺の耳に届いた。
  ………何だ、近いんじゃないか……
  ガクガク笑う膝に喝を入れ、音を頼りに再び歩き始めた。木々の向こうに小さな乱反射が目を打つ。更に歩を進めるといきなり視界が開け、噂の滝が全景を現した。
  高さは一丈程で本当に小振りだが、滝に掛かる木々。強い光を浴びて落ちる水飛沫。岩の配置などが素晴らしく映えている見事な、本当に見事な滝だった。おまけに距離がある所為か、虹までもがはっきりくっきり見えた。
  しばし心を奪われてこの滝に見入っていた俺に、そよ風に乗って侍従の香が流れてきた。とても微かだが記憶に残るこの薫りは…。そうだ、あの時(瑞泉院での調伏の事だ)忍君様が付けていらしたものだ。…って事は近くにいらっしゃるんだな。良かった、また何処かに行かれてたら、もう体力無いからお捜し出来ないところだった。
  俺は忍君様のお姿を探して辺りを巡ってみた。その時、滝の音とは異質な水の跳ねる音が聞こえた。
  ? 何だろうか。これと言って元になるようなモノはないようだが……。忍君様なのかな、と思って俺は再び巡って音の元を探してみた。
   ぱしゃーん
  次いで黒髪が宙に舞った。忍君様…か? 俺からは後頭部しか見えなかったが、間違いないだろう。滝から少し離れた所に大小合わせて二、三の泉(らしきもの)があった。その一つの大きな泉にその忍君様はいらっしゃったのだ。
  首まで浸かっておられると切り揃えられた黒髪がまるで扇のように水面に広がっている。
ガンガンガンガン………
  突然、脳裏に警鐘が鳴り響いた。
  はっと我に返った俺は無礼に気付き、慌てて立ち去ろうとした。だが俺の意に反して足は動こうとしなかった。それどころか全身が石化したように顔さえも動かせなかった!
  そんな固まってる俺に気付かれる筈もなく、忍君様はとぷんと潜られては底で拾ってこられた石を光に翳し、翳しては投げ捨てていらした。まるで幼子の遊びのように。脳裏では相変わらず警鐘が鳴り続けている。俺は極度の緊張で脂汗が止まらなかった。
「くしゅんっ」
  忍君様はお一つくしゃみをなさった。この涼気の中、水に浸かり続けていれば当然だろうな。己を抱き締めるように御身をさすりながら岸に向かわれる。
  警鐘が耐えきれない程に強く高く俺を打ちのめしたが、この石化を解く術にはなり得なかった。瞬く事も出来ず、俺は忍君様を見つめ続けた。そして─── 。

   シノブキミサマハオンナ───

  瞬間、呪縛は嘘のように解け、俺はその場に頽れた。瘧のように手足が震え、歯がガチガチと音を立てる。だが目は相変わらず忍君様を追ったままだった。
  泉から上がった忍君様は袿の一枚で水気を拭き取り、手慣れた調子で衣を整えられた。未だ水の滴る御髪を搾り、取り出された紐で高く結い上げると烏帽子を被られ、もう一度滝を御覧になると木立の中へと姿を消してしまわれた。
  俺はただただ呆然と、誰もいなくなった泉を見続けていた。
  俺が不完全ながらも正気を取り戻したのは、それから数刻も経った逢魔ヶ刻だった。しかし不完全は不完全。行きの倍もの時間が掛かってしまい、山荘に辿り着いた時には既に真っ暗になっていた。無事に到着したと言っても、総ては式神達のお陰だろう。
  山荘ではあまりの遅さに心配してか、至る所に篝火が焚かれており、松明を持った家司や御半下の女達が辺りをおっかなびっくり窺っていた。その中の一人が俺を見付けると大急ぎで仲間を呼び寄せ、忍君様に俺の帰還をお知らせする為だろうか、母屋の方へと駆けていった。
「時守殿! 無事で良かった!」
  沓を履くのももどかしげに忍君様が駆け寄ってこられた。
  途端、俺の脳裏に昼間の光景がフラッシュバックした。
  豊かで形の良い胸。
  細く括れた腰。
  白くしなやかな四肢………。
  鼻血を吹きそうになって俺は慌てて手で覆い、忍様から顔を背けた。
「時守殿、どうした!? ! 顔が真っ赤だっ。もしや熱でも……。痛っ」
  何も御存知でない忍君様は心配そうに俺の顔を覗き込み、顔色を伺い知ると熱を計るおつもりかお手を伸ばしてこられた。だが、俺はそのお手を思いっきり払いのけてしまったのだ!
「す、すみません……」
  だがそれだけ申し上げるのが精一杯だった。
「………いや、構わない。越前! 臥所の用意を早くっ。志濃は薬湯を用意しろっ。少しの間辛抱していてくれ。真友、お前は時守殿を西の対に」
  しばし唖然としていらっしゃったが、直ぐに我に返られると素早く指示を下された。
「すみません」
  繰り返して俯く俺に、真友殿は肩を貸して支えてくれ、西の対に向かった。背中に痛い程の視線を受けて俺の顔は更に赤らみ、脈は血の道を破りそうなくらい強くなった。もしかすると真友殿にこの音が聞こえてるんじゃないのか? などとあり得もしないを本気で心配していたのだ。そうこうしている内に越前殿が設えてくれた臥所に横になり、袿を引っ被って、気を鎮める為に呪を口ずさんだ。だがこの時ばかりは全く効かなかった。
「時守殿」
「は、はいっ」
「あっ、いいからそのままで。無理して起き上がるはない」
「すみません」
  ガバッと起き上がり掛けた俺を押し止めて、忍君様は畳に腰を下ろされた。
「…………………」
「…………………」
  ……妙な沈黙が流れる。
  誰かこの間を何とかしてくれぇっ───。
  爪が食い込むぐらい拳を握り締め、音が鳴りそうなくらい歯を食いしばって、俺は高ぶる感情を押さえつけていた。
「時守殿」
「はいぃっ」
  力み過ぎて声が裏返ってしまった。忍君様はクスリとお笑いになってから小さく溜め息をお吐きになった。そしてお手に持ってらっしゃった椀を高坏に置かれた。
「薬湯を用意したから飲んでほしい。きっとよく眠れる筈だから…。では私はこれで、お大事に」
「すみません。ありがとうございます」
  何度目の「すみません」だろうか? 忍君様は薄く微笑まれると、

   忍び忍び 咲くや常世の蓬莱に
      桜ならずば 人知らましを
(普通ならば、人の立ち入る事さえ叶わない仙郷で、それでも尚ひっそりと人目を忍んで咲いていたというのに…。全く、軽く風に舞う桜でさえなければ気付かれる事はなかっただろうに)

とお詠みになられた。
「えっ!?」
  いきなり歌を投げ掛けられ、驚く俺を尻目忍君様は母屋へとお帰りになってしまわれた。
  返歌を求めるつもりはなかったみたいだ。ともかく俺は今のお歌を心の中で繰り返してみた。
  この季節に狂い咲きでもない限り桜なんか咲くわきゃない。つまり、桜は忍君様自身だよな。
  ………げっ、って事は忍君様は俺が秘密を知ってしまった事に気が付いて………?
  サーッと血の気が引いた。忍君様の足音が完全に消えてから俺は飛び起き、髪を掻き乱した。緊張と混乱と貧血の所為か、動悸が激しすぎる。
  …死ぬかも知れない。……一体俺はこれからどうすればいいんだっっ! 他人の悩みなんかあっと言う間に解決できるのにぃっ!
  のたうち回って思い悩んでいると、異臭を放つ薬湯で満たされた椀が視界に入った。入れて下さった手前、飲まない訳にもいかない。効きゃしないだろうが、とりあえず飲み干して元の高坏に置いた。余りの苦さに思わず気が遠くなる。
  気休めにもなりゃしない…って、あれ?
  冗談ではなく、本気で意識が遠退いてきたのだ。急に視界がブレ、次いで意識が薄まる。
  眠り薬…。毒!?
「ま…さ…か…」
  俺は闇に喰われた。



  体が、痛い。特に手首と腰が痛い。……何かしたっけな?
  俺の意識に淡い光が射した。
「?…!」
「動くな。動くと切れる」
  呆けた俺の目に映ったモノは何と抜き身の太刀だった。そして戦く俺を制止する冷ややかな声。
「忍君…様?」
  そう太刀の持ち主は忍君様だった。烏帽子は被っておられず、狩衣の襟紐も解いているという、かなり砕けた格好で、しかも片膝を立てて座ってらした。灯台の灯りを受けて左側だけが闇に浮かび上がっているお顔には妙に迫力がある。
「こ、これは一体何の真似ですか!?」
  直ぐさま激昂した俺は身を乗り出そうとして初めて自分が柱に縛り付けられていると言う事実に気が付いた。後ろ手に括られ、縛り付けていれば手首や腰が痛いのも無理はない。だがこの謂れのない仕打ちに俺は怒り狂った(当然だ!)。
「何なのですかっ!? 私はこのような戒めを受ける覚えはございませんっ!」
「…ふん、果たしてそうかな?」
  含みのある妖しげな笑みに俺の怒りなんか一瞬で萎えてしまい、昼間の光景が再び甦った。そして、またしても俺は気まずげに忍君様から顔を背けてしまった。
「…………そんな特殊な仕事を生業にしてる割に正直な奴だな。ま、それはそれで結構」
  小馬鹿にしたように嗤われると、俺の頤を掴んで強引に正面を向かせた。勿論俺は振り解こうとしたが、意外にも忍君様のお力は強くそれは叶わなかった。
  忍君様がお顔を近付けてこられる。
  初めて見るもう一つのお顔。妖艶な笑みに昼間同様目が離せなくなった。自然と顔が赤らむ。それをじっと観察なさって忍君様は、
「はぁ──っ」
と大きな溜め息をお吐きになり、頤からお手を放されて俯かれた。が、太刀は降ろしては下さらなかった。
「…ったく、予定通りに来ればいいものを」
  舌打ちして吐き捨てなさると脇に置いてあった徳利を鷲掴みなさって、盃にも注がずにそのまま呷られた。喉を鳴らして豪快にお呑みになると、不作法にも袖でお口を拭われた。
  これが本当に本当の忍君様なのか?
  俺は重度のパニックに陥りながら、心の中で松風を呼んだ。
「助けを呼んでも無駄だ。この対には結界なるモノを張っているし、松風には札を貼って動きを封じてある。………下手に呪でも唱えようものなら、遠慮なく切って捨てるからそのつもりでいるんだな」
「────あんた…何者だよ」
  俺はもう腹を括った。最早敬語を使う気にもなれず忍君を真っ向から見据えた。
「藤原忍人。左近衛府所属、現在中将職並びに参議の位を戴いている。父は………」
「そんな事ぁわかってるんだよっ! ……俺を殺すつもりかよ」
  巫山戯た笑みを浮かべて自己紹介なんぞ始めやがった(途端に口の悪くなる俺…)忍君に怒鳴りつけた。一方怒鳴りつけられた本人は至極面白そうに微笑んだ。
「さぁて、どうしようかな。姉上方は殺せとおっしゃってるが、私としては余計な血は流したくないんだ──って言っても信用出来ないだろうな」
「いんや、信じるよ。元々あんたは小嘘をつくような奴じゃないし、こんな時なら尚更だろ?」
  その言葉に忍君は嬉しそうに、含み有りげに笑うと太刀を下ろした。でも鞘には納めてくれない。あくまで抜き身のまま、つるつるに磨き上げられた簀子の上に置いた。
「取り引きしよう。この事を黙っていてくれるなら、お前の望む物を何でも用意しよう。邸でも、地位でも、女でも………」
「………俺がそんなモン欲しがるとでも思ったか?」
「これっぽっちも」
  にっこり花のほころぶような笑顔で忍君は指先で僅かな隙間を示した。
「分かってるなら言うまでないだろうけどさ。クソっくらえだよっ、んなモン」
  俺の言い様に気分を害した風もなく、片眉を上げて「おやおや」と言う顔をした。俺は腹に力を込めて最大の疑問を口にする。
「何だって、何だって性を偽って出仕なんか。主上は、東宮様は御存知でなのか?」
「お前、馬鹿か? 御存知な訳ないだろうが。爪の垢程も疑っておられないさ。大体、万が一にでも主上が御存知ならば私にあんな真似はおさせにならないし、東宮様が御存知ならば私は疾うの昔に犯されている」
「おかっ! ………」
  ああっ、頼むからその顔でそんな言葉を吐かないでくれぇっ!
  愕然としている俺を余所に忍君は小さく呟いた。
「ま、尤も、寿禄院様は御存知だけどな」
「じゅ、寿禄院様って、あんたの実の祖父君じゃないか!」
  太政大臣家だけでなく、先帝までも絡んでいらっしゃる天下を揺るがす大スキャンダルに俺は寒気を感じ、震える喉を叱咤して言を紡いだ。
「教えてくれ!」
「……興味本位な奴に聞かせるような話じゃないんでな」
「きっ、興味本位なんかじゃないっ。俺はあんたの力になりたいんだ!!」
「!」
  冷笑を浮かべて、にべなく突っぱねた忍君にカッとして、俺は怒鳴りつけた。
  だけどこれこそが俺の本心なのだ。忍君が女だと分かったからじゃない。初めて逢ったあの時から決めていたんだ。どうせ忍君は覚えてないだろうけど、俺はあの時そう言ったんだ。そう心に誓ったんだ。
「………時守、お前、もしかしてあの時の事を、覚えてるのか?」
  信じられない、と言った様子で忍君は問い掛けた。だがその気持ちは俺も同じで、なんか妙に嬉しくなってきてしまった。
「あんたこそ。覚えてるとは思わなかったよ」
  思わず嬉しさの余り、弛んでしまう頬を禁じながらそう答えると忍君は柔らかく微笑んで太刀に手を伸ばし、
「そうか、覚えていたのか………」
感慨深げに呟くと太刀を横に薙いだ。途端に縄はバラリと解けて俺は戒めから解き放たれた。赤く擦れた手首をさする俺を尻目に、忍君は立ち上がり、太刀を納めたかと思うと、
「もういいや、後はお前の好きなようにすればいい」
踵を返して母屋に向かう。
「ちょっと待てよ。何がいいってんだ。一人で納得するな。第一俺はあんたの力になりたいって言ったんだぞ? 事情ぐらい教えてくれてもいいんじゃないのか?」
  慌てて呼び止めた俺に忍君は歩を止め、肩越しに振り向いた。が、再び前を見て歩き出す。
「おいっ、待てって言ってんだろっ」
  俺は立ち上がり詰め寄ると、肩に手を掛けて体ごと振り返らせた。この時初めて忍君は俺から目を背けた。
「自ら進んで罪に染まる必要はない。お前があの約束を覚えていてくれただけで、私はもう充分だ」
  笑って忍君は俺の手を振り解こうと身を捩ったが、俺はそれを許さなかった。僅かにだが声が震えていたのを俺は聞き逃さなかったからだ。
「そーゆー事は俺の顔見て言えよ。でもな、約束ってのは守らなきゃ意味がないんだ。あんたは俺を嘘つき野郎にするつもりか?」
「………」
「俺を見ろってばっ!」
  強い調子の言葉に細い肩がビクッと震えた。そしてゆるゆると面が上がり、視線が合った。
  だが、それは一瞬の事。我慢しきれなくなったかのように涙が一筋、また一筋とこぼれ落ち、その涙を見せまいと忍君は両手で顔を覆った。
「あの時兼守殿がいてくれたならっ。あの時お前が松原に来なければ! 何よりもあの時、お前と出逢わなければ……!」
  言葉と共に止めどなく涙が滴り落ちる。両手の中の肩が小刻みに震えているのを感じて、俺は思わず忍君を抱き締めてしまった。
  俺の腕の中に、胸の中にすっぽりと収まる小さな体が、真実の彼女がこれ程までにか弱く、無力な存在である事を俺に知らしめた。
「俺はヤだね。あの時あんたに出逢ってなかったら今の俺はいない。代わりにテメーの殻に閉じ籠もって、全てを拒絶した世間知らずなガキがいるだけだ。……頼む。俺に全てを打ち明けてくれ。俺はあんたの為だったら命だって惜しくない」
  嗚咽の止まらない背中を出来る限り優しく撫でながら、俺は忍君の答えを待った。
  しゃくり上げるような声がしなくなるまで、一体どれぐらい経っただろうか? 忍君は大きく息を吐くと、俺の胸に額を預けて、小さな声で呟きだした。
「あれは…十七年前の、私が生まれる七ヶ月程前の事だ………」
つづく