忍ぶ恋から始めよう
第五段 残酷な夢占は睦月の嵐の夜に
「あれは私が生まれる七ヶ月前の、鬼も息を潜めるような春の嵐の日の事だ………。


  当時御位を御譲り遊ばされたばかりの寿禄院様はその嵐の中、瑞泉院に向けて牛車を走らせていらした。
  やがて瑞泉院に御着なさった院は、まるで転がり込むかのように寝殿に御入りになった。
  寝殿では当時、内大臣であった父上と母上が緊張した面持ちで院のお越しをお待ち申し上げていた。
  実を言うとこの頃の瑞泉院は只ならぬ緊張感に包まれていたんだ。と言うのも母上の懐妊が確認されたからだ。頗るめでたい筈の懐妊が何故? と思うのも無理はないが、この時はどうしようもなかった。
  時守、お前も知っての通り、当時の我が家では既に姉上がお三方共ご夭折なさっていた。
  一の姉上は三ヶ月で、二の姉上は一歳で、そして三の姉上がつい二月前に亡くなっていた。お三方とも原因不明の熱病でだ。
  ともすれば次の御子も姫ならば……。そんな懸念が邸中を支配していた。
  母上は勿論、父上もその事を恐怖なさるのも無理はないだろ? それでたまりかねたお二方は院にご相談申し上げた訳だ。しかしながら、さすがの院も妙案を計じられず、一般的な『高僧を召して加持・祈祷をせよ』としかおっしゃれなかった。その夜、勿体なくも院は御自分の不甲斐なさに落涙遊ばされたそうだ。そしてそのまま御寝遊ばされると不思議な夢を御覧になった。
  異形の神が院の枕辺にお立ちになり、院におっしゃった次第は、
『次なる御子も姫であり、幼くして儚くなる運命にある。
  なれどその運命を違える術有り。
  姫御子を男の子御子として育てるべし。されば長寿を得ん』
であったらしい。院はその後飛び起きられ、眠れぬ夜をお明しになり、用意が整うや否や嵐の中、瑞泉院に向かわれたのだ。
  寝殿にお入りになった院は人払いをなさって、夢の内容をお二方におっしゃった。
『…──寿禄院様、その夢は…』
  父上のお口から呻きにも似た声が絞り出された。母上に至ってはお腹の御子が姫であると告げれた時点で、小さな悲鳴を上げて気を失っていらした。
『私にも分からぬのだ。しかし内容が内容だけに他言も出来なくてな…。勿論、只の思い過ごしかもしれぬが、万が一にでも涼子が姫御子をお産みになったらと思うと、気が気でなくて………』
『なれど寿禄院様。姫御子を男の子御子と偽るなど…。主上を、天下を謀る大罪でございます。たとえ長寿を得たとしましても、果たして罪の中で生きる事がこの御子にとりまして、真の幸せになり得るのでございましょうか?』
  頽れた母上を抱き抱えながら父上は涙をこぼされた。
『………私には厭な予感があって仕方がないのだ。もしも次の御子も姫であり、またしても幼くして亡くなりでもすれば、涼子は今度こそ生きる気力を失って、儚くなってしまわれるのではないかと…。そう思えて仕方ないのだよ、大臣…』
『なっ!?』
『凶言だが聞いておくれ。元来、涼子は気丈な方だが、今は見る影もなく心弱くなっていらっしゃる。だから私には………』
  衰弱の兆しが見れる母上の顔を御覧になって院はそうおっしゃった。
『寿禄院様…。わたくしは、わたくしはお腹の御子が男の子御子である事を望みます』
  絶望の相を呈して父上がそう呟かれると、院も、
『私もだ』
と呟かれた。
『私もあの夢が気の迷いに拠るものだと信じている。だが、これだけは覚えておいておくれ。もし姫御子がお生まれになって、そなたが太郎君としてお育てするとも、私にも真実を知らせておくれ。私もそなたらと共に罪の道を行こう』
  予想外の院のお申し入れに父上は心底驚き、それからゆっくり頭をお振りになった。
『その様な事をおっしゃるものではございません寿禄院様。歴帝に於かれましても稀なる徳をお持ちの寿禄院様が、我が家の私事でその徳を失われるなど……。その御気持ちと御言葉だけで充分でございます』
『何を申す。生まれ来る御子は我が孫。祖父が孫の為に何かをするのは当然の事であろう。第一、唆した張本人が飄々として良い筈がない。──護人、私はもう決めたのだ。御子が男の子御子であろうとも、姫御子であろうとも、私が後見人になって見守る事を。どうか聞き分けておくれ。そしてどうしようもない義父を持ったものだと諦めておくれ』
  院は父上の手をお取りになると涙をお浮かべになってそうおっしゃったのだ。そして父上は御手を強く握り返し、震える声で、
『ありがとうございます。義父上………』
とお応えになった。


  そして七ヶ月後。母上はとうとう産屋にお入りになった。付き従う女房達は皆、母上が内親王であらせられた頃から仕えていた精鋭中の精鋭達であった。
  彼女達は母上が産屋に入られる前に、父上からある命を仰せつかった。父上が人払いなさって彼女達に下した命とは、
『良いか、此度生まれ来る御子は我が内大臣家の太郎となる者である』
であった。
『殿……!』
『何も言ってくれるな。…そして越前、近江、式部、九条、小宰相、鈴鹿、中将、少納言。そなたらには生涯に渡って息子に仕えて欲しい』
  おっしゃって父上は畳から降りてお手を付き、頭をお下げになった。
『と、殿!』
  越前達は驚き慌てふためいて上座まで居座って行った。
『殿…! わたくし共にそのような…。お止め下さいましっ。勿体のうございます!』
  この時既に志濃を産み落としていた越前がそう言うと、近江達も涙を流して頷いた。
『そうでございますとも。殿にお申しつかるまでもございません。わたくし共はこの瑞泉院に骨を埋めるつもりで、お仕え申し上げて参りましたのでございますから』
  母上の乳姉妹の少納言の言葉に父上は再び頭をお下げになって、
『私も涼子も御子も………なんと果報者である事か…』
と震える声でおっしゃったのだ。

   オアァッ オアァッ オアァッ………

  産屋に一際大きく、元気な産声が響き渡り、
『内大臣、藤原護人様の………太郎君がお生まれ遊ばしました!』
寝殿に少納言の悲痛な声が響いた。
  父上はその声の真意を感じ取って、涙をこぼされたそうだ。
  と言っても、産養いに訪れた人々にその意が分かる筈もなく、只単なる嬉し涙だと勘違いしていたらしいがな。
  だから、父上が私に『忍』と名付けて下さった時は不思議に思ったそうだ。時の内大臣を父に、先帝の女一の宮を母に持って一体何を『忍ぶ』のか、と。
  それはともかく、私の誕生は誰からも祝福されたものであった。
  だが、この産養いに駆け付けた中で一番私の誕生を喜んだのはこのオヤジを於いて他にはいないだろう。
  そのオヤジとは時の大納言で、今左大臣の藤原義資だ。このオヤジ、宮中では好々爺を装ってはいるが、中身は最悪の極悪人だ。
  何故かと言うとだな、このオヤジは自家の繁栄の為に破戒僧と手を組み、呪殺を行っているのだ。
  我が家の三人の姉上も、兵部卿の宮の二の宮・桃生の宮様も、左大将藤原惟典様の大姫様もこのオヤジの手に掛かって殺されたのだ。
  だがこのオヤジ、呪殺なんぞ大それた事をしでかす割に肝が小さいのか、生まれた御子が男の子だと聞いて余程嬉しかったらしい。その気持ちが顕著に態度と贈り物に現れていたそうだ。



  まぁ、ともかく私は万人に望まれて生まれてきた訳だ」
  俺は足を投げ出し、柱にもたれ掛かっていた その俺の胸に忍君は顔を埋めていた。そして長い話が終わると大きく息を吐き、脇に置いてあった徳利に手を伸ばして喉を潤した。
「そうか…。そんな事が。………にしても左大臣が呪殺って………本当なのかよ」
「被害者本人にお聞きしたんだ。間違いなんかであるものか」
  その言葉にふと俺の眉毛がピクリ。。
「…って事はあの五人の死霊の正体、あんた知ってて惚けてたのか?」
「勿論だ」
  あまりにも素の顔で返されてしまって俺の頬はひきつった。
「………って事は春霞の中納言を殺したのも、あの五人なのか?」
「………ああ、止める暇もなかった」
  忍君は身を起こすと己の無力さを苛むように眉根を寄せた。
  俺は忍君の背中をポンポンと叩いて気を落ち着かせながら、ああも短期間に中納言が怨霊化した訳を理解した。
「…私にあんな事をしなければ、死なずに済んだんだろうな………」
  忍君がぼそりと一人言ちた。
「あんな事? あんな事ってどんな事だよ。一体何をされたんだよ」
「何って、何でもいいだろっ」
  明らかに失言だったようで、忍君は口を噤んだ。が、俺はその頬がうっすら赤くなったのを見逃さなかった。
  確か春霞の中納言と言えば、短絡的な性格で、目的の為には手段を選ばず突っ走る猪野郎だと聞いた事がある。
  気まずい沈黙に物凄く不安を覚えた俺は真っ正面から忍君を見据え、
「全っ然よくないっ」
と有無を言わさぬ調子で真実を求めた。すると忍君は、本当に、本っ当に渋々という感じで話し出した。
つづく