忍ぶ恋から始めよう
第六段 殺人は如月の松原で
──思い出すだけでも腹の立つ、忘れ難い真相編──
あの時私が殿上の間を辞してから梨壺に参上したのを知っているか? ──そう、その後私はせめて宿直装束に着替えてから帰邸しようと思って左近衛府に向かおうとしたんだ。そのまま帰ればいい、と思うだろうけど余りあの姿を家の者…、特に母上にはお見せしたくなかったからな。とにかく私は嘉陽門を出て建春門まで行ったんだ。そしてそこで春霞の中納言様…様付けは良いか。中納言に声を掛けられた。



『忍君、忍君。少し良いかな? 折り入って話したい事があるのだが…』
『………今でなければ──なりませんか?』
  この上なく迷惑だったから、私は不機嫌さを露にして尋ね返した。すると中納言は私にこう耳打ちしたのだ。
『あの事をバラされたくなければ、私の言う通りにした方がいいんじゃないのかな?』
  瞬間、私の心は凍り付いた。動揺が完全に表に出てしまったのだ。中納言はニヤリと笑うと顎で私を促した。
『さ、先に左近衛府に行っていてくれ』
  震える声で志濃と真友に言いつけると私は中納言の後についていった。中納言の目的地はどうやら私が居眠り場所に指定している松原のようだった。
  中納言はそこに着くまで何度となく振り返っては意味有りげな笑みを漏らした。その度に私は震えを禁じ得なかった。
  一体何時、何処で、自分は正体がバレるようなヘマをしでかしたのだろうか。
  全く答の思い付かない問いをぐるぐると巡らしていたのだ。そして、松原の中奥に辿り着くと中納言は立ち止まり、松に背を預けて私を見た。
『………しかしまぁお前さんも思いきった事をしたもんだよなぁ? さぁて、この事が主上のお耳に入ったら、主上は一体どう思し召すだろうか。なぁ、忍君よ。お前さんはどう思う?』
  俯く事しか出来なかった私の顔を、中納言は態度を豹変させて、陰湿な笑みを浮かべて覗き込んだ。
『当然、太政大臣家は断絶。一族郎党死を賜るだろうなぁ』
『何時………。一体何時、お気付きに…、なったのです』
『そんな事どうでも良いだろうが。問題はそれじゃあないだろう?』
『………私に、どうしろと?』
  押し殺した声で尋ねると中納言は生暖かい手を伸ばして私の頬に触れた。
『ははは……、俺はよぉ、前々からお前さんの事を気に掛けていたんだ。そして今日のお前さんを見てどうしても欲しくなってね』
  言うなり中納言は私に口付けた。気味の悪い舌に我慢出来ずに中納言を突き飛ばして、袖で口を拭った。
『何をカマトトぶってるんだか……。それとも男に口付けされたのは初めてか?── どっちにしても、そんな反抗的な態度は戴けないなぁ。ちゃんと俺の言う事を聞いて貰わないと』
  ぎりぎり歯を食いしばる私を地面に座らせると唐突に押し倒してきやがった。
『男を経験した事がないか? ま、確かに最初の内は辛いだろうけどさ、いづれ戦慄くような快感を味わえるんだから、それまで我慢してくれ』
  そうして中納言は私の服を一枚一枚脱がせに掛かった。しかしその手がふと止まった。その顔は物凄く怪訝そうで、滑稽だったが私にその理由が分かる筈もなかった。
『何を入れてるんだ?』
  首を傾げて中納言は着物の袷を開いた。私は羞恥に顔を背けずにはいられなかった。だが、アイツは、アイツは私の胸をまじまじと見つめるといきなり高々に笑い出したのだ。
『は、はは、はははっはははっ! こ、これがお前の…太政大臣家の秘密か!』
『なっ!? ま、まさか貴様…!』
  そう、私は中納言のカマ掛けに引っかかってしまったのだ! 私は咄嗟に起き上がろうとした。
『痛っ!』
  中納言は胸を鷲掴みにして地面に押し付けると、その顔に凶悪な笑みを貼り付かせた。
『はんっ、大人しくしてろよ。今からたっぷり可愛がってやるからさぁ』
  中納言は、片手で軽く私の首を絞め、苦しさと情けなさとに喘ぐ私を実に面白い見せ物のように見ていた。
『実を言うとさ、俺はお前の事が気に入らなかったんだよ。いつもいつも取り澄まして、自分以外の奴らを見下して。いつか泣かせてやろうと思ってたんだぜ。それが見ろよ。そいつが今は俺に組み敷かれてやがる』
『く、苦し…』
『ほらほら、啼けよ喚けよ。もっといい声でさぁっ!』
『げ、下郎が…っ!』
  私は精一杯の力でもって唾を吐き掛けてやった。
『こいつっ!』
  激昂した中納言が腕を振り上げた──その時。
『なななななんなんななあぁぁっぁぁぁ!』
  一瞬の出来事だった。中納言は体中の穴と言う穴から霧の如く血を吹き出した。
  何が起こったのか分からなかった私は、飛び散る血を浴びて全身を朱に染めながらただ呆然としていた。やがて、中納言の体はぐらりと傾ぐと大の字になって俯せに倒れた。
『…だ、大丈夫か!? おいっ!』
  我に返った私は慌てて中納言を揺さぶった。中納言は僅かに呻き声を出した。
『ま、待っていろっ!』
  自分でも大概お人好しだと思うが、この時は人を呼ばなければならない、って思ったんだ。でも立ち上がった私を遮るように五人の人影が現れた。
『お退き下さいっ』
〈いけませんわ。お助けになってわ〉
〈お助けになる必要など、これっっっっっっぽっちもございませんわよ。中納言様がお悪いのですからっ〉
〈そうですわ。中納言様がお悪いのですわ〉
〈中納言様がそなたに不埒な真似をなさるんですもの〉
〈わたくし達は忍様にお幸せになって戴きたいのですもの。それをこのようなお馬鹿な方に潰されてしまうなんて……。とんでもございませんわ〉
  姉上方は口々に中納言を糾弾しながら私を取り囲み、動きを封じてしまった。
『ですがっ……』
〈あら、大変ですわ。忍様、お早く衣をお整えになって。わたくし達の霊威を感じ取って陰陽寮の方々がいらっしゃいますわ〉
〈ほらほら、いつまでもその様なお姿でははしたなくてよ。袿はそちらに、帯はあちらにございましてよ〉
〈忍、お話は後でお邸に戻ってからでもいいではありませんか。それに中納言様は既に事切れておいでですわ〉
『! ………』
  私は舌打ちしながら血生臭い小袖と単を整えて、松の小枝に引っかかっていた袿を羽織って帯を乱雑に結んだ。
〈忍様がお気に病む事はございませんわ。わたくし達が中納言様をお倒ししたのですからな。ねっ?〉
  大姫様が幼子をあやすように私の頭を撫でられた。私は強く拳を握り締めると、物も言わずに宜秋門の方へと、陰陽寮の者が来る方へと駆け出した。
  背後では呑気な会話が続けられていた。
〈では皆様。急いでわたくし達もお暇致しましょう〉
〈そうしましょう。陰陽寮の方々は恐ろしい方々ばかりですもの〉
〈お先にお邸に戻って、忍様をお待ち申し上げましょう〉
〈まあ、それはとても良いお考えですわ。大姫様〉
〈本当ですわ。お邸に戻る頃にはきっと忍のご機嫌も直ってますわよ〉
〈ふふふ、哀れなお方ですわ中納言様は。控え目に生きてらっしゃれば、この様な事にはなりませんでしたでしょうに〉
〈あら、良い気味ですわ。わたくし達の大切な忍様にあのような不埒な真似をして………。あの方、絶対に浄土には参れませんわよっ〉
〈そうでございますか?〉
〈そうですわっ!〉
〈そうですわ〉
〈そうですわ〉
  ……………
  繰り返される声はいつまでも私の耳に届いていた」



  話を聞き終えた俺の脳味噌は怒りで沸騰寸前だった。
  ただ単に迫るだけでも許し難いのに、唇を奪って、押し倒して、あまつさえ胸を鷲掴むなんぞ、なんて羨まし……、もとい! 恥知らずな。畜生っ! こんな事ならあの時、一発殴っときゃよかった。
  憤る俺を余所に、忍君は心底辟易とした顔で口を拭い始めた。どうやらその時の感触を思い出してしまったらしい。
「馬鹿者…。折角苦労して記憶の彼方に追いやったというのに、思い出してしまったじゃないか」
  物凄くその様子が可愛らしくて(惚れた弱み丸出し)俺は怒りを忘れて思わず笑ってしまった。
「お前!」
  それを聞き咎めた忍君はキッと俺を睨み付ける。
「他人事だと思って笑ってるけどな。物凄ぉく気持ち悪かったんだぞ! お陰であの後三日は何も食べられなくなって……。笑うなっ! お前も一度されてみればいいんだ!」
「謹んで遠慮させて貰う。残念ながらそっちの趣味はなくてな。大体、ヤローの堅い胸なんか障って何が楽しいってんだ。男同士なんて考えただけでも虫酸が走るぜ」
  言って俺が腕を袖を捲ってみせた。すると、本当に鳥肌が立っており、忍君はさっきの俺と同様、思わず吹き出してしまった。そして一頻り笑った後、俺を見つめた。少し涙で潤んだ瞳に、情けなさそうに笑っている俺がいる。
俺の顔が真顔になった。細い肩に手を伸ばし、そっと顔を近付けた。忍君が目を閉じたのを確認してから、ツツッと顔を傾け、そして──。
〈何をしてらっしゃるの?〉
「どわぁっ!」
「あ、姉上!」
  突然掛けられた声に驚いて俺達は飛び離れた。
  ドチクショウッ、あと一寸も無かったのにぃ…。
  俺は二人に背を向けて悲観の涙に暮れた。
〈松風様がすっかり怒ってしまわれて、わたくし達困っておりますのよ。忍、何とかして下さいませ〉
「わ…分かりました。今直ぐ札を外して、結界を解きます」
  忍君は頷くと、同じ西の対に宛われた松風の部屋に駆けていった。
  俺は振ってわいた邪魔者を睨み付けた。
  ……うーむ。さすがに忍君の姉君だけあって絶世の美女だ。死霊でも忍君の姉君でもなきゃ遠慮なく口説かせて貰うんだがな…。勿体ない話だ。
〈何かおっしゃりたい事でもおありのようでですわね?〉
「大有りだ。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、って言うだろうが」
〈あら、わたくしは当の昔に死んでおりましてよ。──そう言えばご挨拶がまだでしたわね。お初におめもじ致しますわ。わたくし、今太政大臣家の二の姫で緑子と申しますの。いつぞやは妹が大変にお世話になりまして、心からお礼を申し上げますわ〉
  ふわりと簀子に降り立つと、そのまま座り込み、三つ指ついて名を名乗った。
「どーも、陰陽師を務めています賀茂時守。十九歳です」
  どことなく投げ遣りな感じで俺が返すと、あとの四人のお姫様方が現れた。死霊とは言え、いずれ劣らぬ美女揃い。あ〜、本っ当に勿体ない話だ。世間の損失だぜ。
  また、お姫様方も俺と同じく、俺を値踏むかのように四方八方から観察していた。
〈お顔はよろしくていらっしゃるけど…、少ぅし短気な所がおありのようね〉
〈駄目ですわ、忍ったら。その場の雰囲気に流されたりしては〉
〈忍様は恋の道にはうぶでいらっしゃるのね。うふふ、嬉しゅうございますわ。わたくし達が誠心誠意を尽くしてお育てした甲斐がございましたわね〉
〈本当ですわ〉
〈真に嬉しゅうございますわ〉
〈あら、でも皆様。忍様は前に弘徽殿の余りお美しくない、はっきり申し上げて忍様とは全っ然釣り合わない女房殿からお文を戴きましたでしょう? その時お返しになられたお歌は、それはそれは見事なものでしたわよ〉
〈あらら、皆様。お話が逸れてましてよ〉
〈あら本当に……。わたくし達忍様のお邪魔をなさらぬようにと、お願いに参りましたのに〉
〈変ですわね〉
〈変ですわ〉
「─────いい加減にしろっ! 聞きたい事があるなら、用件まとめて端的に聞けっ」
  放っておけば際限なく続けられたであろうお姫様方の話を打ち切る為に、俺は簀子をバンバンッと強く叩いた。
  お姫様方はキョトンとした様子で俺を見ると、再び顔を寄せ合い、ヒソヒソと俺の評を述べ合った。
〈やはりお気が短くていらっしゃるわ〉
〈お気の短い方って若死になさるって言いません事?〉
〈あら、わたくし達気は長くてよ〉
〈そうですわ〉
〈それなのに、こんなに若くして死んでしまったなんて………。おかしいですわね〉
〈その通りですわ〉
  などと勝手な事を言いつつ、またも話題はズレてゆく…。言うまでもなく俺のこめかみは引き攣り、握り締めた拳が震えた。
  ………アイツはこんなのと十六年も顔を突き合わせてきたってのか? だとしら、恐るべきは女の連帯感だ。
  大仰に溜め息を吐いて見せた俺に気付き、お姫様方はコホンと咳払いすると居住まいを正した。
〈単刀直入に申し上げますわ。わたくし達のお邪魔をなさらないで下さいまし〉
  その目に厳しさを浮かべて、太政大臣家の一の姫・撫子姫が切り出した。
「邪魔ってどうゆう事だよ。一体、何するつもりなんだ?」
〈何を…とおっしゃるの? 勿論、世に言う復讐と言うものですわ〉
  聞き返す俺に至極当たり前、そんな感じで応えたのは今内大臣家の大姫だった。
〈わたくし達を死に至らしめ、忍の女としての幸福を奪い去った張本人、左大臣・藤原義資に対する復讐でございますわ〉
  太政大臣家の三の姫・桜子姫の言い様に俺の頬は再び引き攣った。
「呪詛 じゅそ はいずれ放った本人に還る。あんた達は忍の手を汚すつもりか?」
〈どさくさに紛れてわたくし達の忍様を呼び捨てないで下さいましっ〉
「すみませんねぇ」
  鋭いつっこみが今常陸の宮の姫宮・桃生の宮から入り、俺はぶっきらぼうに答えた。
〈お話を元に戻しますわよ? 呪詛 じゅそ が放った本人に還るのは良しと致しましょう。ですが術者は左大臣ではございませんわ。直接わたし達を呪詛 じゅそ 致しましたのは破戒僧・応鐘でございます。たとえ応鐘に仏罰が下されたと致しましても、左大臣はその後ものほほーんと生きてゆくのですわ〉
〈我慢できませんわっ〉
  激昂するお姫様には悪いが、俺の意識は出て来た破戒僧の名に集中していた。
  たしか応鐘とは世に名だたる法力僧で、先帝(寿禄院様の事だ)がその法力に感銘なさって、応鐘の為に浄福寺なる寺を建立なされた筈だ。
  その大恩ある院の孫娘を呪殺したというのか? だとしたら『恩を徒で返す』とはこの事だ。
「院には内密に頼むぞ。ただでさえ私の事で酷くお心を痛めておいでなのに、その上御自分が信頼なさった者に裏切られているなんて……。あまりにも御労しいからな」
  振り返るといつの間にやら忍君が立っていた。………何故か布で右の頬を抑えている。
「どうしたんだ? それ」
「何でもない」
  努めて素っ気なく答えた忍君だが、そう言われると却って知りたくなるのが人情というものだろう。
「ふーん。……よっ、と」
「わっ!」
  俺は忍君の左手を取ってグイッと引っ張ってやったのだ。案の定忍君はバランスを崩して俺の胸に転がり込み、俺は素早く右の頬をこちらに向けた。
〈んまぁ!〉×5
  お姫様方から大きなどよめきが漏れた。
「………松風がやったのか?」
  自然俺の声に怒気が宿る。一寸くらいだが、忍君の頬が横一文字に切れていたのだ。
「これくらいで済んで良かったんだ」
  忍君は言い聞かせるように苦笑しながらそう言ったが、俺は聞いちゃいなかった。
「あの野郎、女の顔に傷なんか付けやがって」
「待てっ、時守っ。私なら平気だから、何とも無いから。それに元はと言えば、私が悪いんだから」
「だけどっ」
「いいからっ。こんなかすり傷、唾付けとけば直ぐに治るっ。だからっ」
「──分かったよ。分かったから傷、見せてくれ」
  ほっとした忍君は大人しく俺の言葉に従って横を向いた。傷は確かに痕が残るようなものではない。精々三、四日で消えてしまうだろう。安心した俺はふと悪戯心を出してその傷に唇を寄せ、ペロッと舐めた。
「わっ! な、何を!?」
「舐めときゃ治るんだろ?」
「─────。さ、さっきの話だけど、院の御耳に御入れするんじゃないぞ」
  真っ赤になってそっぽを向くと、忍君はわざとらしく話題を変えた。だが俺がにやにや笑って承諾すると、尚一層顔を赤くしてお姫様方に向き直った。
「姉上、大姫様、桃生の宮様。時守の説得は私がしますから、どうぞお休み下さい。もうすぐ日が昇ってしまいます」
〈あら、本当ですわ。仕方ありませんわね。皆様ここは忍様にお任せする事に致しましょう〉
〈残念ですわ、有り難い筈の朝日と読経程、今のわたくし達を苦しめるものはございませんわ〉
〈真に…。それはそうと時守様、これだけははっきり申し上げておきますわ。忍様はわたくし達に取りまして、掛け替えのない大切なお方。中納言様のような不埒な真似は努々なさいませぬように〉
「な、何を馬鹿な事をおっしゃるのですか。宮、そんな…」
  ぎょっとした忍君に桃生の宮は言い含めるように人差し指を立てて諭し付ける。
〈いけませんわ。忍様が背負っていらっしゃる重い宿命ごと、忍君様を受け止められるような度量の大きな方でなければ〉
〈あら、わたくし、短気でいらっしゃる所を除かせて戴ければ、お似合いだと思いますわよ?〉
〈わたくしもそう思いますわ〉
  もっと言え。もっと言え。俺は密かに大姫と桜子姫を焚き付けた。
〈どこがですの?〉
〈どこがとおっしゃられっると困ってしまうのですが…。なんとなくですわ。それに時守様は忍に誓いを立てていらっしゃる訳ですし、きっと忍の為にお役に立って下さいますわよ〉
  不機嫌な桃生の宮の問いを受けて桜子姫が思案顔で答えた。
〈まあ、でも…〉
「いい加減にして下さいっ! 寄り代にお戻りにならなくて、苦しい思いをなさるのは貴女方なのですよっ!?」
  正に鶴の一声だった。大好きな忍君に叱られたお姫様方はしゅーんとしてしまい、一言謝ると煙のように(比喩じゃないぞ)姿を消した。
「全く、外見は大人でも中身は全然子供でいらっしゃる。………仕方ないか。二つ三つで殺されてしまたんだからな…」
「って事は、あんたに合わせて姿を成長させたって訳か。珍しいな、そーゆーのは」
「忍がいくつになっても、わたくし達は忍のお姉様なのよ、って。でもやっぱり子供なんだなぁ」
  憮然とした表情だが、声音はこの上なく優しいものであった。きっとあのお姫様方は忍君にとって掛け替えのない存在なのだろう。丁度、俺にとっての松風達のように。
「忍──君」
「付け足しみたいな『君』だな。別に呼び捨てでも構わないぞ? 私は」
「いや、いい。やめとく」
  くすくす笑う忍君を言葉を俺は丁重に断った。
「ま、それは置いといてだ。左大臣に復讐なんて止めろよ。進んで手を汚す程、価値のある事じゃないだろ?」
「価値の有る無しの問題じゃないと思うが」
「いいや、呪術関係のプロが言ってるんだから間違いない。因果応報って言葉があるだろ? あの手のオヤジはいずれ時流から外れて寂れるさ」
「桐壺の女御様が男の子皇子をお産み参らせたら一体いつになる事か。待ってる内に大臣は幸せな老衰を迎えるだろう」
  にべない言葉だ。確かにその可能性は否めない。だが俺には忍君の手が汚れるのを傍観するつもりはないし、何より我慢ならない。
「駄目だ。俺は賛成出来ない。あんたの手があんなオヤジの血で汚されるなんざ、我慢出来ないねっ」
「人には命を賭してでも為さねばならない事が必ずある。──交渉は決裂だな。尤もお前を巻き込むつもりはなかったから丁度良い」
  元々説得する気はなかったと言う事か。忍君はあっさりと話を打ち切った。
「おいっ」
「邪魔はさせない。これは今まで私が生きてきた、そしてこれからも生きて行く為の意義なんだ。たとえ奈落に落ちようとも左大臣だけは許さない」
  迂闊にも見取れてしまう程にその顔は凛としていて美しかった。それ故に俺は悲しくて仕方がなかった。だが俺は揺れる心を叱咤して忍君に向き直った。
「ならば俺は左大臣を守る。あんたに左大臣は殺させない。あんたの手を左大臣の血と業から守ってみせる」
  これが俺の忍君に対する誓いだ。そう心に決めた俺は立ち上がって松風を呼んだ。
  音もなく現れた松風に帰京の支度を言いつけた。殆ど身一つで来た訳だから、直ぐに終わるだろう。
「聞いての通りだ」
「………分かった。志濃に朝餉の支度をさせるからしばらく待っていてくれ」
  忍君は真意を測るかのように俺の目を見つめていたが、フイッと視線を外すと、同じく立ち上がって母屋に向かっていった。
「ありがとう」
  言って室内に戻り、乱れた衣を整えた。一人になると急に睡魔が襲ってきた。
  あのやり取りは疲れるに充分な緊張を有していたのだ。脇息にもたれて目を閉じながら、俺は心の中で一つ忍君感謝した。それは俺に左大臣の呪詛 じゅそ を命じなかった事にだ。
  勿論、俺だって呪殺は出来る。が、したくない。………でも忍君に命じられれば、きっと逆らえずに為しただろう。そして心に重石を抱えたまま生きてゆくのだろう。
  忍君は分かっていたのだ、その事を。だから言わなかったんだ。奈落に落ちる事も厭わないなら、手段だって選ばない筈だ。でも、言わなかったんだ。そこまで憎しみに身を投じながら、それでも俺を、俺の心を思いやってくれたのだ。
  不意に暖かな気持ちに包まれた。やはり忍君は優しい方だ。協力を申し出た俺を駒に出来ないくらい、優しすぎる方なのだ。そんな優しすぎる方が人一人を地獄に貶めて平気でいられる筈がない。きっと俺以上に傷付き、苦しみ、思い悩んで生きて行くんだ。そしてその傷を、冷たく冴えた仮面の下に隠して生きて行くんだ。一生人と交わらず、全てを己の内に仕舞い込んで………。
  やっぱり駄目だ。そんな事はさせられない。俺は先程の誓いを深く心に刻みつけた。
  しばらくして、俺がうつらうつらしていると志濃の君が朝餉の用意をして現れた。ちゃんと化粧をしているが、まだまだ眠そうだ。
「急なお立ちですが、忍様が何かおっしゃられたのでしょうか?」
  眠そうだが少しばかり心配げでもある志のの君に俺は頭を振って、
「いえ、ただ長く留守をしていると仕事が溜まってしまいますし、今の時期は何かと忙しいもので………」
まんざら嘘でもない事を答えた。
  そして俺は膳を平らげた訳だが………今度は何も入ってなかった。
「御馳走様でした」
  俺は礼儀正しく言ってから座を立った。そして母屋に立ち寄って、主である忍君に出立の挨拶を述べる。
「慌ただしくて申し訳ございませんが、これにて失礼させて戴きます」
「──主上に一月以内に京に戻るとお伝え申し上げておくれ」
  言われてやっと俺はここに来る羽目になった理由を思い出した。
  馬鹿だな……俺って。すっかり忘れてたぜ。ま、そこんところはさすが忍君。ちゃんと分かってたらしい。
「主上もさぞかし喜ばれましょう。他の方々も忍君様のいらっしゃらない宮中は華が無くて戴けない、と常にボヤいておられましたから…」
  頭を下げたままだったが、忍君の視線は強く感じられた。
「遠路はるばる御苦労だったね」
「勿体ないお言葉でございます」
  面を上げると忍君と視線がかち合い、挑戦的な眼差しが俺を打った。だが俺も負けじと同じ視線を返す。
  ホンの数瞬、そうして見つめ(睨み?)合った後、俺はもう一度頭を下げた。
「ではこれにて」
  御前を辞して松風が待つ車宿りへと向かった。馬の手綱に手を掛け、ふと振り返ると忍君が半身を柱にもたれ掛けさせて微笑んでいた。
  俺は決意も新たに手綱を引いて西門を出、鐙に足をかけて一気に馬上に上がり、馬の腹を蹴った。印象的な忍君の微笑みが、次第に見えなくなる山荘とは裏腹に、いつまでも脳裏に刻み込まれていた。
つづく