時は文月。京に戻った忍君は夜盗逮捕と快気祝いを兼ねてなんと、三位を除されていた。羨ましい………。
故に今の呼び名は『忍桜の三位の中将』と相変わらず長ったるいモノとなっていた。
ちなみに『忍君帰京大作戦』に成功した俺は主上と東宮様からお褒めの御言葉と御衣を賜ったのだ。やったぜ。
まぁ、その事は脇に置いといて。あの決裂の日から今日まで左大臣に対する忍君の態度にこれと言った変化は見られなかった。と言うのも、忍君は連日連夜どこぞの宴に引っ張り回されていたからだ。お貴族様ってのは根っからの遊び好き。
勿論、宮中での忍君にも変わった様子はなかった。相変わらずの猫かぶりで周囲を騙くらかし、俺に会っても社交辞令的な笑みを浮かべるだけだった。
………考えてみれば忍君自身の地位はまだ左大臣に遠く及ばない。今事を構えるのは時期尚早と踏んでいるのだろう。そして家人以外で唯一忍君の秘密を知る俺がそれをバラす筈もない事を熟知しているのだ。
そう、だから後は左大臣が余計な真似をしなければ良かったんだ………。
矢の如く時は流れて、葉月も十日余り二日。なぁんと左大臣は急な病の床に就いたのだ。
忍君の仕業ではないと知っていたが、俺はとりあえず萩代を遣って様子を探らせた。結果、只の風邪だった。チッ。
何でもへべれけに酔っ払った挙げ句に、若い見目の良い女房を追っかけ回して釣り殿から転げ落ちたのだそうだ。
あー情けない。こんなのが我が国のナンバースリーだなんて………。
そのままあの世に逝ってくれたなら俺も色々と思い悩む必要は無かったのに、と不謹慎ながら心底残念に思ったものだ。俺としては忍君、若しくは忍君縁の者が手を汚さなければいいのだ。故に自分の不注意で死んでくれるのなら、これ程ありがたいものはない。
ま、全ては俺の妄想だが、とにかく左大臣は風邪で寝込んだ。年の所為か、はたまた積もり積もった恨みの所為かは判じ難いが、左大臣の病は簡単には癒えなかった。が、そこは京屈指の大金持ち。有名な祈祷僧を数多く召して病魔退散、病気平癒を祈願させた訳だ。
祈祷が効いたのか、命根性が汚いからかはそれもまた判じ難いが、左大臣の病気は快方に向かっていった。
──そして観月の宴も無事終わり、問題の二十日がやってきた。
「忍桜の三位の中将様…」
「? ああ、時殿か。久しいね、蓬莱の山荘以来ではないか?」
俺が恭しく跪いて声を掛けると、忍君は柔らかく微笑んで快く応えてくれた。ちょっと優越感。
が、自称忍君の親友である雪平の右中将様や遠野の少将様、頭中将様、そして左中弁様はぎらりと俺を睨み付けた。
理由は二つ。
『七位風情が三位の忍君に声を掛けるなど、何と無礼な』
と言う、階級主義的な不快感からと、親友でも滅多に見られない忍君の微笑みを、ぽっと出の俺に向けられた事へのやっかみなのだ。全部顔に出てるんだよ、あんた達。
しっかーし! 当の忍君が俺の存在を認めている以上何も言えないのだ。ザマーみろ。
「雪平殿、申し訳ありませんが先に行っておいて下さい」
「………余り遅くなるなよ。左大臣様がお待ちなんだからな」
忍君の言葉に雪平の右中将様は特大明朝体で『不本意!』と顔に書いて念を押した。
「分かりました。左大臣様には少し遅れて参上するとお伝え下さい」
との言葉に頷いてから、皆様はもう一度俺を睨み付けると足早に行ってしまった。忍君は苦笑して見送り、その姿が見えなくなると俺を振り返った。
「心配しなくたって今日は大臣を見舞うだけだよ」
「そんなの分かってるさ」
腹に逸物有りそうな微笑みを受け、俺は辺りに誰もいない事を確認してから砕けた言葉を返した。
「ただ、あんたの事を占ってたらさ、良くない卦が出たから………。その忠告と守り袋をだな、渡そうと思って声を掛けたんだ」
「用がなければ声なんか掛けなかったって訳か?」
「そーゆー訳じゃ無いけどさ…。ほら」
くすくす笑って問い掛ける忍君に、俺は頬
をぽりぽりと掻きながら袂から守り袋を取り出し、手渡した。
「火難の卦が出てる。あんまり火の側に近付くなよ」
「火難? ……分かった、気を付ける。当代一の陰陽師・賀茂時守殿お手製の守り袋か…。法華経よりも効き目がありそうだ」
忍君はしばし興味深そうに守り袋を見つめていたが、大事に袷の隙間に押し込み、着物の上からまるで祈りを捧げるかのように恭しく手を重ねた。
「ありがとう。じゃあ私はこれで」
言って忍君は踵を返した。
「!」
「? どうした?」
「いや、何でもない」
俺の乱れた気配を感じ取ってか振り返った忍君に、俺は無理のない笑顔を作って応えてみせた。
「? 変な奴だな。ああ、そうだ。越前がお前の事をえらく気に入っていたぞ。また何時でもいいから顔を見せにでも来てくれ」
「ああ、今度、是非…」
忍君の姿が見えなくなるまで見送っていた
俺は急いで陰陽寮にとって返した。
そして畳紙を一枚取り出し、右の人差し指を噛み切った。滴る血で呪と俺の名を記し、丸め、抜き取った髪で縛り、念を込めて空に放り投げた。畳紙であったモノは小さな鳥に姿を変え、暗雲立ちこめる空に羽ばたき、三回程旋回した後、巽の方角へと消えていった。
三条堀川に在る左大臣邸、明石の海を模して広大な庭に白砂青松を造り上げた、別名白砂殿へと。
式神の変化に次いで、意識と共に視覚が変化した。足下がおぼつかなくなって俺はその場に座り込んでしまった。
「松風、俺はしばらく籠もるから、用のある奴は誰でもいいから追い返せ」
「承知致しました」
居ざりながら俺がそう言い付けると、松風は心得たように頷き、格子を降ろして俺を外界から遮絶した。
一人になった俺は改めて式神に意識を飛ばす。
式神は既に白砂殿に到着しているらしく、先程のように足下を掬われるような感覚は無かった。俺は鳥を鼠に変えて邸内に侵入させた。来客の準備の為か、忙しく立ち回る女房の目に触れないように、細心の注意を払って左大臣の寝所に辿り着いた。
さてさて、俺がいきなりこんな事をしているのには勿論訳がある。
………死相が見えたのだ。忍君に。もしかしたらあの守り袋では荷が重すぎるかもしれない。そう思ってこんな真似をしているのだ。断っておくが決して、絶対に、断じて趣味ではないぞ!
それはさておき、雪平の右中将様方の姿は未だなく、御簾の内では大臣が脇息にもたれ掛かって何やら思案顔だった。かと思うと、いきなりウフフと笑い出した。気持ちの悪いおっさんだ。どうせろくでもない事を考えているんだろう。そして何かを思い付いたのかパチンと扇を鳴らした。
『こちらに』
控えていた老女房が応えた。
『忍桜の三位の中将はまだお越しにならんのか?』
何と、このおっさんの目的は忍君だったのだ。
『お殿様、つい先程聞きはったばかりやおへんか。そないにそわそわご心配なさらんと、天下の左大臣様此処にあり、とゆう風にどっしり構えてはった方がよろしおすで?』
かなりの古参女房らしく、堂に入ったお言葉だ。主である左大臣も言い返すどころか、ウッと詰まって尻込みしている。控え目に扇の陰でごにょごにょ言っているが、そんなものはこの女房には全く通じていないようだ。
『お殿様。只今、雪平の右中将様、頭中将様、左中弁様並びに遠野の少将様がご到着なさいました』
『し、忍君は…、忍桜の三位の中将はどうなさった!?』
簀子から若い女房がそう報告すると、大臣はガバッと起き上がって、焦った様子で聞き返した。
『ご一緒ではございませんでしたが………』
『何だと!? 今日、用があるのは忍君だけなのだぞっ!? あとは忍君を引っ張って来る為の餌なのだぞっ!?』
『…その様な事おっしゃられても、わたくしにはどうしようもございませんよ』
主人の激昂と八つ当たりをもろに受けたその女房は横を向いてぼやいた。
『何だとっ!?』
『いいえ、何でもございません。それよりもお殿様、中将様方をこちらにお通ししても宜しいのでしょうか?』
耳敏く聞き付けた主人をさらりと躱して話を変えた。なかなかに強かな女房だ。話を逸らされた大臣は憮然として指示を下す。
『用などないが追い返すのも何だし、忍君は後からいらっしゃるだろうし…。餌がおらねば折角の獲物が逃げてしまうやもしれん。………宴の準備は出来ておるのだろう?』
『それはもう』
『では通せ』
『畏まりました』
言って下がった女房はしばらくして中将様方を伴って現れた。
中将様方は座に着くと各々大臣に挨拶を述べ、その後は他愛もない世間話をしていた。
内容は主上の御様子や、桐壺の女御様の御機嫌、並びに宮中の出来事や何故忍君が遅れる羽目になったのか(俺の悪口を含めて)等だった。ド畜生。
そして俺の悪口で盛り上がっているところでやっと忍君が到着した。先導の女房に従って現れた忍君様の装いは、月草の襲に落ち着いた山藍摺の直衣という色だけならかなり地見目なものだった。だが、それこそが忍君自身の艶やかさを浮き上がらせ、際立たせていたのだ。その忍君の登場に、居合わせた者は皆蹴落とされたように嘆息を吐いた。
『左大臣様のお目汚しに成らぬようにと衣を選んでおりましたら、すっかり遅くなってしまいました。どうかお許し下さいませ』
女房が勧めた畳に腰を下ろした忍君は軽く頭を下げた。その拍子に襲と同じ月草の香がほんのりと広がる。
『左大臣様の長の御病気、父共々心よりご心配申し上げておりましたが、お見受け致しましたところ、かなり御快復なされた御様子。真に喜ばしい限りでございます』
………物凄い嘘吐きだ。
『何とも有り難い事です。太政大臣様にも御心配をお掛けしてしまい、真に申し訳なく思っています。………本当に皆様のようなお若い方々に見舞って戴けて、老い先短い身ではありますが些か若返った心地がします』
だが、忍君の真意を知らない大臣はその言葉にいたく感動したようで、嬉し涙に咽んでいた。
『何をおっしゃいますやら。左大臣様は天下の要。主上も左大臣様にはまだまだ頑張って貰わねば、とおっしゃっておいででした』
『いやいや、太政大臣様あっての私だよ』
大臣の甥である遠野の少将様の言い様に、更に気をよくした大臣は社交辞令のつもりか、太政大臣様を立てた。そしてまた他愛のない話が続いた。忍君はやはり積極的には会話に参加せず、絶えず人当たりの良い聞き手に徹していた。
そして日も暮れ、先程降り出した雨が勢いを増し、遠くで雷鳴が響き始めた頃。大臣は話を打ち切って中将様方を宴席へと誘った。先導の女房が案内の為に現れ、皆様が立ち上がった時。
『おお、そうだそうだ。忍君に大事な話がありましたのを、すっかり失念していました。申し訳ないが忍君、今少し私の相手をして貰えぬだろうか?』
やっとこ狸オヤジが本題に乗り出したのである。忍君は一瞬、しかも僅かに眉を眇めたが、にっこり笑って元の畳に座り直した。残りの中将様方は何やらニヤニヤ笑って去って行った。
『忍君、もそっとこちらに…おいで願えぬだろうか』
忍君が素直に従うと左大臣は満足げに頷き、パチンと扇を鳴らした。途端に潮が引くように女房達も下がった。
『………』
僅かに忍君の頬が強張った。過日の事でも思い出したのだろうか?
『忍君はお幾つになられたかな?』
唐突な質問だった。問い掛けられた忍君は一瞬だが『何なんだ? いきなり』と言う表情がありありと出ていた。
『正月で十七になりましたが………』
『ほう、十七に……。ではもう縁談の話など数多くあるのだろうねぇ』
『今のところは別に……』
その答に大臣の目がキラリと輝いた。
『ほうっ、では忍君御自身に思う姫…薄氷の君以外にはいらっしゃるのかな』
『特にその様な方はおりません』
………段々と大臣の狙いが読めてきた。勿論忍君も分かっているのだろう。戸惑いがちだった表情が冷たくなってきている。
だが自分の世界に入り込んでいる大臣は全く気付かず、芝居掛った話を懸命に続けていた。
『忍君、私はね此度の病ですっかり心弱りをしてしまってね…。このまま儚くなってしまうのではないのか、と思い悩んでいたんだよ』
只の風邪如きで死ねる程繊細な質じゃないくせに、大臣はわざとらしく袿の袖で出てない涙を拭った。呆れ返っている忍君はもう生返事を返すだけ。
『それで私が最も心に掛かるのは我が家の三人の姫なのだ。忍君も御存知の通り、大君は山科の中納言殿を婿取りし、現在は北の方として四条の邸に移って久しく、中の君も入内なさって桐壺の女御となっていらっしゃる。だが、今、もし私が儚くなってしまえば、大君は勿論、桐壺の女御様までが明日をも知れぬ境遇となるだろう。しかも私には姫達の後見を担う為の息子がいないのだ』
『山科の中納言様がいらっしゃるではありませんか』
速攻で返ってきた忍君の答に、大臣はウッと息を詰まらせたが何とか笑顔を持ちこたえた。
『そ、それはそうだが…。中納言は名うての色好みで………』
さすがにその先は言い難いらしく濁して誤魔化した。ふと俺は山科の中納言様に関する情報を思い浮かべた。
なかなかの美丈夫で大君様とご結婚なさる前は相当浮き名を流していた筈だ。今は天下人・左大臣の惣領姫の婿と言う事で自粛しているとの噂だ。まあ、噂はあくまで噂なので、本当のところは知らない。だが、大臣が死んだりすれば、あっけなく捨てられるのは間違いないだろう。
そして桐壺の女御様も同様だ。未だ御懐妊の気配はないのだ。せめて御息所であるなら宮中にも残れようが、それでも不遇な生を歩むのは目に見えている。どれ程東宮様の寵が深かろうが、そこんとこはシビアな世界なのだ。後宮という所は。
さておき、大臣は吐き気を催すような笑みを浮かべる。
『そこで、忍君に我が家の三の君をお任せしたいのだ』
ドド ──ンッ
まるで大臣の戯けた言葉を遮るように何処か近くで雷が落ちた。それに負けじと女房達の悲鳴が響く。
『も、物凄い雷じゃな…。おお、恐ろしや恐ろしや……。いやいや、どうかな忍君、決して太政大臣家にとっても、勿論忍君にとっても悪い話ではない、と思うのだが? 幸い三の君も女御様や女房達から君の話を聞いてい
て、とても乗り気なの──
ズダダダァンッ
ひぃっ!』
強烈な雷に戦いた大臣は目を閉じて脇息に取りすがった。
『クックックッ──、は──はっはっはっ』
突然狂ったかのように忍君は嗤い出した。大臣はキョトンとしてしたが、その嗤いの意味を誤解してか、慌てて言い繕う。
『し、忍君がお笑いになるのも仕方がない。なにせ三の君は未だ裳着を済ませていないのだからな』
そうだ確か御年十歳の筈だ。
『しかし、年の差はたったの七つ。さして問題には成るまいて』
だが忍君の嗤いは止まらず、その肩は小刻みに震えたままだった。これにはさすがの大臣も不愉快に思ったらしく、それでも控え目に咳払いをした。
『ああ、失礼。余りにも愚かしくて』
そう言い放った忍君の顔は凄絶な程美しすぎて俺は戦慄を覚えた。
不味いっ。こいつ、ブッちぎれてやがるっ!
俺は視覚を半分切り替えて右馬寮へと向かった。
「お前達っ、急いで左大臣邸に跳べ!」
道すがら空に向かって放った命を受け、十二体の影が飛び立った。
裾を蹴散らして大内裏を駆け抜ける俺を見て人々は慌てて道をあけた。そして飛び込んだ右馬寮で鞍付きの馬を無断拝借し、その腹を思い切りよく蹴った。
「ヒヒヒィ──ンッ!」
馬は大きく嘶き、後ろ立ちして駆け出した。
衛士やら何やらが驚き慌てふためいて進路をあける。
ああ、明日やっぱり呼び出しくらうんだろうなぁ………。
俺は意気消沈しながら皇嘉門を出て、一路白砂殿を目指した。視覚の半分では未だ二人のやり取りが続いている。
『お、愚かしいだと?』
『図々しいとも言いますね』
さらりと返した忍君の言い様に、大臣の顔は真っ赤になった。
『な、な、な』
だが、怒りの余り言葉にならない。
『忘れたなどとは言わせませんよ。貴方が我が家に、いや内大臣家に、兵部卿の宮家に何をしたかを!!』
『! ………わ、わた、私がな、何をしたと、い…言うのだ』
左大臣最大の秘事を忍君が語り出したのだ。大臣はガタガタと震えだし、真っ赤だった顔が血の気を失って、真っ青になってしまった。
対照的に忍君は冷笑を浮かべ、すいっと立ち上がると大臣に近付き、片膝を付いた。優雅に伸ばされた手が乱暴に大臣の胸ぐらを掴み上げる。
『ひいぃっ!』
稲光を受けて薄暗い室内に浮かび上がった美々しい横顔は、何とも言えない迫力があった。
『何をと来ましたか…。あくまでしらを切る
おつもりか? ──左大臣ともあろうお方がお情けない』
恐怖に目を見開いた大臣は忍君の手を振り払うと、こけつまろびつ部屋の隅にいざった。
『姉上方』
妻戸の戸板にへばりついて息を荒くしている大臣を、ふっと鼻で笑うと忍君は静かな声であのお姫様方を呼んだ。
〈あらあら、やっとお声が掛かりましてよ、皆様〉
大臣がへばりついていた戸板から撫子姫がひょいと顔を出した。
『ひぃぃぃぃっ!』
〈忍様、わたくし達すっかり待ちくたびれてしまいましたわ〉
〈あら、左大臣様。お顔の色がよろしくなくてよ〉
〈本当に、今すぐにでも亡くなってしまいそうなお顔ですわ〉
〈ならばいっその事、今すぐ死んで仕舞われればよろしいのよ〉
大臣を取り囲むように現れたお姫様方は軽やかな足取りでくるりくるりと輪を巡らした。
透き通ったお姫様方の存在に、大臣はいよいよ血の気を無くし、見事な程にあっさりと気を失った。その横っ面に不愉快そうに眉根を寄せた忍君の痛烈な平手が二度、三度となく炸裂する。
『狡いのではありませんか? 大臣。気なんか失わせませんよ。貴方には私達以上の地獄を味わって戴かねばならないのですから…』
口の端から血を流す大臣の顔は最早涙と鼻汁と涎で正視に耐えかねるモノとなっていた。
『わ、わた、わた、私達って、わわわ、わしはしし、忍君には、何も』
大臣は無きに等しい根性を振り絞って抗弁をのたもうた。
ある意味称賛に値する行動だろう。俺ならばこの忍君を前にしては何も言えなくなるだろうからな。だがしかし、その根性は忍君によって一笑に付されて終わる。
忍君は襟紐を解き、心持ち下襲やらの袷を開いた。
『まま、まさか。おおお女っ!?』
『そのまさかですよ。これこそ貴方が私にした事です。──何もしてないなんて言わせないっ!!』
忍君は袷を直すと、襟紐を結んで大地をも轟かせる雷鳴に艶やかな笑みを浮かべた。
『お聞きなさい、大臣。天も貴方の罪に怒りを覚えていらっしゃる』
優雅な仕草で天を指差した時、一際巨大な雷が落ちた。
なりふり構わず馬で乗り込んだ白砂殿は既に炎に包まれていた。
「菖蒲っ、霧雨っ、菊水っ! 操れるだけの水を操って火を消し止めろっ!! 残りは生存者を引っぱり出せ!」
俺の怒号と共に広大な池の水が三匹の大蛇となって火に向かっていった。
大方の人間は一目散に逃げ出しているのだが、それでも南庭は腰を抜かした奴らや、右往左往してるだけの役立たずでごった返していて、悲鳴と炎の猛る音と雷鳴とで耳が壊れそうだった。
そんな中、俺は制止の声を振り切って寝殿に駆け込み、大臣の寝所を目指した。
〈時守様っ!〉×5
惚けた雪平の右中将様から拝借した太刀で火を纏った御簾を切り落として、やっとこ寝所に辿り着いた俺に、お姫様方は歓声を上げた。その声に驚いて忍君がはっと振り返る。脇では大臣が大の字になって火の粉を被りながら、「へ…えへへへ。うふふ……」と狂気の笑みを浮かべている。
………どうやら ショックの余り気が触れてしまったようだ。
〈時守様っ、お札のお陰で火の粉は避けて落ちるのですが、わたくし達も近寄れませんのよ!〉
〈お早く忍様をお外へお連れして下さいな。わたくし達がどんなにお願い申し上げましてもお聞き入れ下さらないのよ!〉
俺が、お姫様方に言われるまでもなく、
「おいっ、ボケッとすんなっ! 早く立てよ。一気に駆け抜けるぞ」
と言ってその手を掴むと忍君は思いがけない強い力で振り払った。
「おいっ」
「お前一人で行け。私は残る。大臣には秘密を話したんだ。いずれ主上より死を賜る」
「ばっ、馬鹿な事言うなっ。第一大臣は気が触れちまってるじゃないか」
「いつ何時正気を取り戻すか分からないだろうが」
とにべなく突っぱねて、頑として拒絶を続ける忍君に業を煮やして、俺は藤波達に命を下す。
「藤波、紅葉。大臣を連れて行け!」
「待てっ!」
忍君は素早く大臣の袖を掴んだ。が、藤波達の力が勝った。忍君の手に残ったのは焼け焦げた袖ばかり。
「もういいだろっ!? 行くぞっ!」
バシンッ!!
再度その手を掴んだ時、俺は忍君の平手を喰らった。
「………んな…、何しやがるっっ」
「うるさいっ、この大馬鹿者めが。何て事してくれたんだっ。大体何だってこんな危ない所に来たんだ!!」
「あんたの事が心配だったからに決まってるだろっ!!」
「大きなお世話だ! 私の心配なんかするなっ、迷惑だ!!」
「ンだとぉ」
〈お二人とも、言い争いをなさっている場合ではございませんでしょっ!?〉
「うるさいっっ」
「黙っていて下さいっ!」
桃生の宮が慌てて取りなしたが、俺達は耳を貸さなかった。最早俺の頭は炎よりも熱くなっていたのだ。
怒声に怯えたお姫様方はおろおろしながらも落下物を弾き飛ばしてくれている。
「元はと言えばだな、あんたが縁談話なんかに切れたのが悪いんじゃないかっ。いつもみたいにのらりくらりと躱してりゃ、こんな大事には成らなかったんだよっ!」
「のらりくらりとは何だっ! それにな、気付いた時には切れてたんだから仕方ないじゃないかっ。文句言うなら来なきゃよかったんだ!」
「そ、そ、それがわざわざ馬寮の馬、掻払ってまで助けに来てやった人間に言う言葉かよっ。感謝されこそすれ………」
「余計な事されて感謝なんか出来るかっ! 愚か者っ!!」
「人が心配してやってるってのにっ」
「誰が頼んだ!! 人の命の世話する前に自分の命を大事にしろっ」
「俺の命なんかより、あんたの方が万倍も大事なんだから仕方ないんだよ!!!」
言い切った俺は熱気の所為ではなく顔が赤らんだのが分かった。忍君の方はポッカァーンとしている。
「む…昔誓ったからじゃない。人道的な理由からじゃない。………す───好きなんだ! ………頼む、俺の…為に生きてくれ」
こんな時に告白するつもりじゃなかったんだが、もう構っていられなかった。
一方、信じられない、そんな風に頭を振っていた忍君だが、真面目な俺の顔を見て俯き、呟く。
「お前………、私なんかと一緒にいたら地獄に堕ちてしまうぞ?」
「一生側に居られるならそれでも構わない」
俺は両の手で忍君の頬を包み込んで面を上げさせた。煤や汗で汚れていたが、その顔は涙が出るくらい清らかで美しかった。
俺はそっと顔を近付けた──時。膨大な水が室内に流れ込んだ。
火は一瞬で消え、素晴らしく良かった雰囲気も一瞬で消えてしまった。
──ちくしょおおおおっ!!!!!!
つづく