晩秋ながらも既に冬のような冷気が辺りを包むここは蓬莱の忍君の山荘だ。この肌を突き刺す冷気の中で鮮やかさを増した紅葉を肴に、俺は火桶に取りすがりながら忍君と盃を交わしていた。
何故に俺がこの山荘に居るのかと言うとだな、話が長くて面倒なんだが、話さなきゃ先に進めないので話すとしよう。
大元の原因はやはり先の白砂殿炎上だ。
結構大事に見えたあの火事だが、死者も二十人に満たない、奇跡的なほど小規模なモノで、隣家に飛び火する事もなく、あくまで被害は左大臣家だけに留められたのだ。勿論その幸運な結果の影には有能な式神達が存在する訳だ。まぁ、大雨も降ってた事だし………。
それから死者の内訳はと言うと、家司、女房、下女、下男併せて十六人。そして三の君の母君。勿論怪我人はそれ以上。
……問題の左大臣は怪我人の部類に属していた。
左大臣は最後の方まで火の中にいたからか、俺の守りが無かった所為かは別にして(忍君は無傷だぞ!)、全身に重度の火傷を負った上に、精神に異常をきたしていた。現在はどこぞの山奥で出家&療養しているそうだ。
余談だが京の艮にあった或る寺に住む、或る坊主も落雷で命を落としたそうだ………。
で、肝心の忍君はと言うとだな。またもや療養と称して近江に籠もってしまったのだ。
だが以前と違って状況は深刻だった。何と「忍君が出家を望んでいる」と、お付きの女房から火急の文が瑞泉院に届けられたのだ!
理由は先の大火事で世の無常さに嫌気が刺したとか。
このニュースは京中を席巻した。忍君を想い慕う女房、女官、その他の女君はこぞって出家を希望し、太政大臣様並びに涼子様は勿論の事、寿禄院様や主上、東宮様までもが御気色を失くして、お伏せになった。
その日を境に蓬莱の山荘は俄に慌ただしくなった。何とか出家を思い止まらせようと日に何人もの使者が遣わされた。中には使者如きに任せられるか、と言って自称忍君のご親友の方々は自ら近江くんだり説得にやって来た。だが、全て失敗に終わったらしく、意気消沈して帰京した。そしてその方々を見て更に絶望的な雰囲気が宮中を支配してしまった。
そして真打ちの登場である。
つまり前回の功労者である俺が再び勅命を戴いた訳だ。
…だが俺は近江への道すがら悩んでいた。あの心の優しい人は人を騙し続ける事に疲れてしまったのではないか。そして、その上での発意を邪魔する事が本当に忍君の為になるのだろうか…と。
これは俺だけの意見でなく、太政大臣様と涼子様、寿禄院様の御意見でもあるのだ。
実を言うと、俺は出立前に太政大臣様のお召しを受けて瑞泉院に参上したのだ。
俺は寝殿の庇に設けられた座に畏まって端座しながら、太政大臣様方のお出ましをお待ち申し上げていた。やがてさやさやと衣擦れの音が近付き、俺は手を付いて頭を下げた。
「賀茂時守。忙しい中、今日はよく来てくれた」
「御勿体ない御言葉でございます。太政大臣様のお召しとあらば、不肖の身ではございますが、何時如何なる時でありましても参上致す所存にございます」
「ははは、では我が家は大事が起こった時に、当代一の陰陽師を確保した事になるな。とても心強い」
「有り難き幸せに存じます」
俺はずぅっと平伏したまんまで申し上げていた。恐れ多くて顔なんか上げられる筈もなかった。何と言っても御簾の内には太政大臣様と涼子様は勿論、寿禄院様までいらっしゃったのだ。しかも人払いをなさっていらっしゃるのだ。どれ程重要なお話をなさるのか、と気が気でなかった。
「時守、あまり畏まらないでおくれ。さあ、面を上げなさい」
「はっ」
命じられて俺はギシギシと軋みながら面を上げた。
御簾を通して人影が三つ。正面に寿禄院様。向かって左方に太政大臣様。そして右方の几帳の向こうに涼子様がいらっしゃるようだ。
そうして太政大臣様は御二方にお目を向けられ、お互いに頷かれると小さく咳払いをなさった。
「時守、今日そなたを召したのは他でもない。我が…四の姫、忍の事である」
「だっ、太政大臣様っ!?」
「鎮まるが良い時守よ。我らは総てを知っておる。隠し立ては無用だ」
いきなりの太政大臣様の御言葉にぶっ飛んでしまい、大声を張り上げてしまった俺に寿禄院様の一喝が下された。
「………水無月に近江からお文が届きましたの…。そして忍は京に戻って参りました」
取り次ぎの女房がいないので涼子様が几帳の影から直におっしゃっると、太政大臣様が御簾を持ち上げて一枚の薄様を差し出された。頂戴して拝見すると、それはあの時忍君が詠んだ歌だった。はっとして前を向くと御簾の内で太政大臣様は頷かれた。
「だがな、これ以前にも我らはそなたを見知っておる。そなた、十年程前に忍に忠誠を誓っておろう」
な、何故に御存知なのだ!?
「その日の内に忍が話したのだ。まだ幼いあれには、そなたの言葉の意味が分かっていなかったみたいでな。私に聞いてきたのだ。だが、私としてもそなたの真意が分からなかったので兼守殿に尋ねてその旨、噛み砕いて忍に教えたのだよ」
「左様でございますか………」
俺の表情をお読みになったのか、太政大臣様は気さくにお教え下さった。しかし、何だな。すっげー気恥ずかしい気がする。………父上もそんな事があったなんて全然言って下さらなかった訳だし…。
「おお、そう言えば先日、忍を火中から救い出してくれた礼がまだであったな。ありがとう、心から感謝する」
「言葉などでは言い尽くせない程に感謝しております。時守殿、本当にありがとうございます」
「私も祖父として礼を申す」
言うや、御三方は揃って御手をお付きになったのだ!
「お、お止め下さいませっ。わたくし如きに勿体のうございますっ! お願いでございますから、どうか御手をお上げ下さいませ! 本当に、本当にその御言葉と御気持ちだけで十分でございます!」
俺があたふた申し上げると御三方は御手を上げて下さった。あ〜、心臓に悪いっ。
「うむ、では本題に入るとしよう。時守、そなた主上の勅命を受けて忍の説得に近江に向かう事になっておるな? そこで我が家の事情を知り、忍に忠誠を誓っておるそなたに頼みたい事がある」
「………何なりとお申し付け下さいませ」
俺は平伏して太政大臣様のお言葉を待った。
「此度の忍の発意、忍が真に出家を望んでいるならばそなた、上総国の筑波山に在る仙覚寺と言う尼寺に……忍を連れて行ってほしいのだ」
「太政大臣様っ!?」
「仙覚寺は先の后の宮、承明門院の御乳母娘が庵主を務めておる尼寺。忍の事は女院を通じて知っておろう。………京より離れた仙覚寺ならば忍も心おきなく仏道に励めるであろう」
驚く俺に寿禄院様が溜め息交じりにそうおっしゃった。
「でも、でも時守殿。此度の発意が一時の気の迷いからなるものならば、どうか忍を説得して下さいませ。これはわたくし達からの切なる願いです」
涼子様がお声を震わせておられるのが、どうにも感じ入ってしまい、俺もしんみりとした気持ちになってしまった。
「分かりました。皆様方の御気持ち、余す事なく忍君様にお伝え申し上げます。そして忍君様が総てご承知になった上でのご決断であらせられるなら、わたくしめもお共仕り、仏門に下りまする」
「時守っ、何を!!」
「時守殿っ」
俺の申し出が余程意外でいらしたのか、御簾の内の気配が大きく乱れた。
「御存知の通り、今のわたくしめがございますのも、総ては忍君様の御陰。この時守、忍君様に忠誠を誓わせて戴きました折りより、この命をも捧呈申し上げるつもりで精進に精進を重ねて参りました。その忍君様が俗世をお捨てになる以上、わたくしめを俗世に捕らえる物は何一つございません」
「!………」
御簾の内では俺の真意を計っておられるのかしばしの沈黙が続いた。俺は両の目に総ての気持ちを込めていた。
「……やはり忍も我らも果報者である事よ」
「真に…」
太政大臣様のお声も涼子様のお声も震えていらっしゃった。
「時守、こちらに」
そうおっしゃると太政大臣様は御簾を抱え揚げられ、俺を御簾の内に招き入れて下さった。
俺が恐縮しつつ居ざり入ると御三方は俺の手をお取りになって、
「総ては忍の望むままに………」
と落涙遊ばされ、俺も共に感涙に袖を濡らしたのだ。
それなのに。そぉ〜れぇ〜なぁ〜のぉ〜にぃ、だっ。悩み悩み近江に着いた俺に、忍君が言った次第は、
「出家なんかハッタリに決まってるだろ?」
だったのだっ!
「…………………はぁ? 何だって? もう一度言ってくれないか? なんか聞き違えたみたいだ」
先に述べた通り、この山荘はかなり寒い。故に俺は念の為に用意しておいた綿衣を着込んでいた(でも寒いぞ!)のだが、つい一瞬前まで感じていた冷気も忘れて聞き返した。
「出家はハッタリだ、って言ったんだ」
忍君はこれ以上はない程涼やかな笑顔でのたもうた。そして俺は………。
「あ、あ、あんたっ、何考えてんだよ! ふふふ……ふざけんなっ!!」
さすがにブッちぎれて庇に拳を叩き付け、怒鳴りつけた。忍君はその剣幕さにバツが悪そうに眉をしかめると、
「すまない。言葉が足りなかったな。今回の出家騒動は総て今後の為のカムフラージュなんだ」
と、扇で顔を隠して言葉を添えた。
「カムフラージュ…? どういう事だよ」
〈んまあ。その様にお怒りにならないで下さいましっ。忍様がお可哀想ではございませんか〉
〈忍の言うとおりですわ、時守様〉
〈まあ、相変わらずお気が短くていらっしゃるわ〉
〈わたくし達が一生懸命考えた事ですのに、酷いですわ〉
〈あらその椿襲の狩衣、とても似合ってらしてよ〉
「わっ!」
いきなし降って沸いた様に(その通りなのだが)あの五人のお姫様方が姿を現した。口々に好き勝手言ってる所など、相変わらず『向かうところ敵無し』の自己中心ぶりに俺は目眩を覚えてしまった。
〈ねえ皆様。わたくし、忍様の代わりにご説明申し上げようと思うのですけれど、どうでございましょうか?〉
〈そう致しましょう。何と言いましても、この方法を言い出しましたのはわたくし達なのですから〉
〈忍、よろしくて?〉
桜子姫の言葉に忍君は「どうぞ」と仕草で示した。
〈では僭越ながら、わたくし達でご説明申し上げますわね〉
〈わたくし達は忍の将来を考えてこの出家騒動を企てましたのよ〉
「将来…を?」
〈そうでございますわ。忍は只今十七歳でございましょ? 世間一般では結婚してもおかしくない年ですわ〉
「結婚って…。俺なんか恋人も居ないのに…」
俺が呆れ声でボヤくと、桃生の宮がキッと振り返り、
〈時守様と忍様とでは周囲の注目度と期待度が違いますわっ!〉
と熱弁を振るってくれた。あーそーでっか。よけーな口きいて悪ぅござんしたねっ。
〈コホン、先を続けますわよ? いくら忍が誰とも結婚する気がないと言いましても限度がございますわ〉
〈忍様のお立場からして一生を独り身で過ごされるのは政治的にも不可能は訳ですし〉
〈妖しげな噂も立ちますしね〉
溜め息を吐くお姫様方の様子で俺は段々と話が読めてきた。
「生涯結婚は出来ない。かと言って出家するのも人生に華がない。そこで私達は勝負に出る事にしたんだ」
「勝負?」
聞き返す俺に忍君はコクリと頷く。
〈今までする気のない出家を頑なに望み続けてきましたのは、世の人…特に宮中の大貴族の方々に忍の発意の度合いを知らしめる為ですわ〉
「時守、私は俗聖になる」
忍君はきっぱりと宣言した。
『俗聖』とは読んで字の如し。日々仏道に励む俗人の事で、俗にも非ず聖にも非ず、と言う者だ。
「ちょ、ちょい待ち。俗聖って、あんた、今の官位はどうするんだよ」
「官位なんかどうでもいいさ。元々家の七光りで得たものだからな、致仕したって構わない」
「ち、致仕って、そんな勿体ない。それに絶対に主上も東宮様もお許しにならないぞ」
「ま、その時はその時さ。それよりも時守。お前がこの話を私に持ちかけた事にしてくれないか?」
「お、俺がぁ?」
いきなり重要な役目を振り分けられて驚いた俺は自分を指差した。
〈そうですわ。そのつもりで時守様がいらっしゃるまでは、とここでネバッておりましたのよ〉
〈そうですわ。涙を流してご説得なさる雪平の右中将様方にも心を鬼にして拒絶してましたものね〉
〈ええ、真に心が痛みましたわ〉
〈わたくしも…〉
〈わたくしもですわ〉
つつっと袖で涙を拭うお姫様方の言葉に忍君はうんうんと頷いて、
「私としてもつい心が動かされそうになったよ。みぃ〜な物凄く必死だったからな。特に右大臣様とか、式部卿の宮様とか、左大将様とか、風間の大納言様とか、お年頃の姫君のいらっしゃる所の使者は涙ぐましい程だった。帰りは顔面蒼白だったしな。いやぁ、本っ当に気の毒だった」
と、さも気の毒そうに語ったが、俺には全然気の毒さを感じられなかった。そんな呆れ顔の俺に気が付いたのか、忍君はコホンと咳払いを一つ。
「言っておくが、これでも私はお前に気を使っているんだぞ?」
「へぇ、どこら辺に?」
物凄く不振そうに斜に構えて聞き返すと忍君は少し焦りながら事情説明をする。
「ほら、お前ってば結構主上とか東宮様の覚えもめでたい方だろ? 今回の事だってお前が成功すれば、更に覚えがめでたくなるって訳だ。もしかして特別に昇進するかもしれないぞ?」
「そんなに気を使って貰うと、有り難くって涙が出るね」
忍君達の手の上で踊らされていたのかと思うとどーも釈然としない。あの寿禄院様と太政大臣様と涼子様の涙は一体何だったんだ!?
故に俺の声音はこの上なく不機嫌だった。
「そんな気を使うくらいなら先に教えてくれればいいんじゃないのか?」
「ほら、敵を欺くには先ず味方から、って言うだろ? だから………」
「だからってなぁ、寿禄院様はあんたを筑波山の尼寺にやる覚悟までなさってたんだぞっ!? 俺なんかにあんたの事を頼むって頭まで下げられて…。落涙遊ばされたんだぞっ!? それなのにあんた達は…。俺にではなくてもいいから、絶対に寿禄院様達に一言あってしかるべきだ!!」
最早幼子を叱る親のノリだった。忍君もそこん所は痛感したらしく、項垂れていた。俺は大きく息を吐くと、
「返ったら何よりも先に御三方に謝るんだぞっ」
と言い聞かせた。忍君達は上目遣いに俺を覗き見ると、
「ごめんなさい」
〈ごめんなさい〉×5
と実に素直に謝った。その様子が幼くて、妙に可愛らしくて俺はウッと詰まってしまい、それ以上怒れなくなってしまった。ああ、言いたい事はまだまだあったのぃ。
「わ、分かってくれたんなら、もういいから。で、いつ京に帰るんだ?」
俺が話を変えると忍君はほっとしたように小さく微笑んだ。
「もうしばらくしてから帰る事にする。だから時守は先に帰って、『忍君は出家を思い止まろうとしている』って奏上してくれ」
「分かった」
俺が了承すると今度は安堵した様に笑んだ。
そして俺は二日後に京に戻ったのだが、忍君が京に戻ってきたのは結局、神無月に入ってからだった。
つづく