「ノゾム?」 「ノゾミじゃないですか?」 「女の子だもの、やっぱりノゾミじゃない?」 「えー?でも、女の子で『ワタル』とか『シゲル』とかっていう名前のコもいるよ」 ぴったりと額をつき合わせて、何やら言い合っている3人。 麻衣の手にあるものを覗き込みながら、綾子とシェリーは妙な唸り声をあげる。 「…問題は名前の読みじゃないんですよね」 「そう、そうよ。このコに見覚えがあるって方が重要なのよ」 「そういやそうだね…」 部屋の中央で円陣を組むように立つ三人は我に返り、だが再び唸り声を上げる。 とりあえず状況を整理しよう、と麻衣が言い、残る二人もその意見に頷いた。
単独行動を制限された麻衣とシェリーは、綾子を交え3人で館内を探索していた。 最上階に向かい、一室一室を見て回るが、最後の一部屋だけが施錠されている。 『どうする?カギが有るなんて、ナルも言ってなかったよね』 『入れないとなると余計に入りたくなるわよねー』 『んじゃ、入りましょっかv』 『『は?』』 尋ねる間もなく、シェリーはドアノブの下にある鍵穴にそれを突っ込んだ。思わず目を剥く2人の前で、彼女は鼻歌交じりに作業を続ける。数本の器具を使いこなし、数分後、そのドアは難なく開かれたのだった。
「今更こんな事言うのもなんだけど…アレって…やばいんじゃないの?」 「下手すりゃ犯罪の域まで行くわよ」 「正当な理由もなしにやりませんよ、鍵開けなんて。気にしない気にしな〜い」 「「気にしなさいって」」 状況を整理しよう、と言っておきながら、話はそこで行き詰まっている。まったく整理されていない。 このままでは埒があかない、と漸く3人が気付いた頃、その部屋のドアを外側から叩く音がした。 「3人ともここにいるのかー?」 「―ぼーさん!」 「あ、僕もいますよ。入りまーす」 ずかずかと踏み込んだ滝川と安原の2人は、ひとまず室内を見渡した。 すすけた天井。 変色した壁紙、カーテン。 埃臭い調度品。 あまり空気の良さそうな場所ではない。 何気なく天井を見つめていた安原が、思い出したように口を開いた。 「この部屋って…たしか、鍵がかかってませんでした?」 「あー、はい。閉まってましたけど、開けました」 「お嬢が開けたのか?」 「はいはい。コレでv」 「「えっ…」」 シェリーがかざして見せる物に、滝川と安原は口の端が引きつった。 実際に本物を手にした事も、目にした事もなかったが、昨今の物騒な世の中、それに関連したテレビ番組の特集などは多く、ブラウン管越しに見た記憶があった。 「つまり俗に言う…ピッキ○グってやつでは……」 「正解。ネットなんかでも買えるんですけどね、これは私専用なんです」 「専用ってなんだ!」 「私の知人って色んなのがいるんですよー。外科医内科医に始まり、精神科医に画家に小説家にカメラマンにタレントに金持ちの御曹司に銀行マンに社長さんに私立探偵に刑事にハッカーに裏世界の幹部にマフィアとか〜…」 「ハッカーはやばいだろう!!」 「マフィアも充分やばいですね」 「裏世界って…何?」 とにかく、そういった知人のつてで手に入れた道具らしい。 一体どこまでが本当でどこからがウソなのか。全部本当なのかもしれないが…。
「…で、皆さんはここで何をしてたんですか?」 「あ。あのね、見てよコレ」 麻衣が突き出した手には、一枚の写真。一世代以上は前に撮られたと思われる。 カラーだが、色がくすんで今の物ように鮮明な写りではない。 中央には子供がひとり。その両隣に、両親と思われる男女。中年までは行かない、大分若い印象を持つ。中央の子供は見事な黒髪をしていた。 「どうしたんだ、この写真」 「屋荒らしの成果です。…で、この裏に―」 麻衣から受け取った写真をシェリーが裏返し、滝川の目前に差し出す。差し出されるままにそれを見つめ、滝川は目を走らせた。 「ノゾム…『ノゾミ』か?」 「ま、そうでしょうね」 写真の裏には、丁寧に一文字、『望』と記してある。子供の名前だろうか。 少なくとも、両隣にいる両親の名前とは思わなかった。 「何か参考になる物かもしれませんけど…それだけで騒いでたんですか?」 「あのね、問題は名前じゃなくて、その写ってる子供のことなの」 「―?普通の女の子だと思いますけど」 濡れ羽色の髪には、まっ白なリボンを結んでいる。服装も、着る者によっては不似合いになりがちな、まっ白な柔らかいワンピース。 一目見た感想を率直に言わせて貰えば、なかなかに可愛いらしい。 「あのね…その女の子、前にあたしとナオミさんが見た子と同じ顔なの」 「見た?」 「あったでしょ?夜に、2人でテープの回収行ってて、水音が聞こえてきて―」 「「あ」」 「この子の顔…その時に見た女の子と同じなの」
「―関係があるのはたしかだが…まだ何かが足りないな」 柳眉をきっちり寄せて、ナルはそれを睨み見ている。それだけで空気が冷えたように感じ、麻衣は思わず自分の肩をさすってしまう。
じわじわと滲み出るような水音に気付けば、ドアが手も触れずに開いた。そこに立つ少女がこちらを振り返り、何かを呟き、笑い。視界が開けた瞬間、全てが赤かった。 それが最初だった。 気を失い、目を覚ますと、誰かに運ばれ寝室で横になっていた。独りで部屋を出てベースに向かうと、ひたひたと木魂する、違う誰かの足音が聞こえた。夢中で逃げてみれば、髪には赤い液体が付着していた。 その後寝室に戻ってみれば、ベッドに点々と残されている、小さな手形があって。 夢も見ている。 無人の廊下。満月の灯火。迫る気配と孤独感に恐怖しながら、その反面、言い様のない安堵と喜びを感じて――。
この時になって、麻衣は改めて疑問を持った。 (…あれは…誰だったのかな……) 月明かりが差し込むだけの長い廊下に、たった独りで立ち竦む。怖いのは当然。 誰だって独りは嫌いだと麻衣は思う。 ましてや、誰もいないことに酷く安心するなんて、そんな心境がよく分からない。 独りである事に、誰もいないことに、あんなにも喜んだのは誰だったんだろう。
三者三様といった具合に、全員が自分の思うところを述べている。しかしそれも、「納得がいかない」といった面持ちの所長の一言で次々に切り捨てられていく。 その輪から外れているのは、独りで考え込んでいる麻衣と、モニターの前から動かずにいるリン――…そしてもう1人。 古ぼけた絨毯に足音は吸い込まれ、気配もなくベースを後にする彼女の存在に気付いていたリンは、物音も立てず立ち上がる。ふとナルを盗み見てみれば、やはり気付いていたらしい彼からの「追いかけろ」との視線の促しを受け、リンは麻衣以外の誰にも気付かれずにベースを出て行った。
「やっぱり来たんだ、リンさん」 「シェリー」 面白くて仕方がない、というような口調の彼女にも、リンは表情を変えない。 「単独行動は止められている筈ですが」 「ああ、忘れてた」 「忘れないでください。何かあってからでは遅いんです」 僅かに語調をきつくすると、すぐにそれに勘付く彼女は首をすくめた。 悪戯を見つかった子供のようだ、とリンは思う。 「何処に行くつもりだったんですか」 「別に…何処って決めてるわけじゃないけど。出たかっただけですし」 「―何故、出たかったんです?」 「あの中に馴染みたくないから」 ある程度、予想通りの返事だった。つい溜め息を落としてみれば、それを聞いたシェリーが不満そうに抗議する。 「リンさんは当分日本から戻らないでしょう?私はもうじき本部に戻んなきゃいけないんですよ。ここに慣れたら向こうじゃ生きていけないでしょ」 「生きていけませんか」 「…こことあっちじゃ違い過ぎます。本部のバカどもと共存するのには、日本支部の空気は有害です」 彼女の言うバカとは、決して学力や偏差値のことではない。 権威、財力、学歴、研究結果の優劣。そんなものを生きがいにし、手練手管を磨いている人間達のことだ。 何も本部全体がそうだとは言わない。だが、少なくとも彼女を取り巻く人間はそんなものばかりだった。ひょっとしたら、そんな奴等が悪目立ちしているせいで、善良な者達が見えないだけなのかもしれない。 「私が何をしに日本支部に来たか、まさか忘れてませんよね」 「日本支部存続の決定の為ですか」 「存続の為?…―閉鎖させるのに丁度いい要因を『こじつける』ためですよ」 言葉とは裏腹な、見る者全てを惹きつける笑顔。 その笑顔に隠された何かを、リンは漠然とした不安として感じ取る。 「―…ぬるま湯に浸かり過ぎたら、皮膚がふやけちゃうじゃないですか」 居心地がいい反面、離れる時の事を考えると、酷く憂鬱になる。 気遣われることが当たり前になってしまったら。 互いに笑い合う事が当たり前になってしまったら。 ここを離れて、もと居た空間に戻った時、その空間が苦痛になってしまう。 だったら最初から距離を置けばいい。 笑っても、気を配っても、常にラインを引いていればいいだけのこと。 「保身と言ってしまえば、それまでですけど。…やっぱり、自分が一番大切だし」 「………」 「私ね、一応は自覚してますよ。卑怯って言うか、悪辣って言うか。私がしている事は、自分のバランスを保つために他人の厚意を無下にしてる」 だって怖いんだもの。傷つくことが、失うことが。 なんでも出来るフリをしなきゃいけないの。平気な顔をしないといけないの。 見下されるワケにはいかないから。 馴れ合えば弱くなる。甘えたくなる。縋り付いて、泣きたくなる。 でも、私は強く在りたいと思うから。 「他人に守られて安穏に生きるなんてしたくないんです。間近で見てきましたよ。 そんな生き方して、ダメになったヒト」 閉鎖させるために来たなんて知ったら、彼等はどんな顔をするだろう。 考えるだけで、嘲笑が零れそうになる。 ひょっとしたら嫌われるかもしれないし、だったら最初から距離を置く方がいい。 その方が、離レルトキモ痛クナイデショウ? 「それでいいんですか」 「?」 「貴方はこれからも、そうやっていくつもりですか?」 「どうして?」 「気付いていても気付かないフリをして、自分を騙し続けるんですか」 「…分かり易く言ってくれません?」 はぐらかすような言葉には確かに棘があって、リンは表情を険しくする。知らずに語調は厳しくなり、それにつれて彼女の表情からは笑みが消えていく。 「貴方は羨ましいんでしょう、ここの人間が。このまま馴染んでしまえば、今までの自分の生き方を自分で否定しているようで、面白くないだけではないですか」 「―何それ。勝手に思い込まないで下さい」 「思い込みではありません。見ていればわかる事です。意固地になって今の生き方を貫き通して、それで貴方にとって必要なものが手に入るんですか」 「余計なお世話だわ。私にとって必要なもの?何もないわよ。私のことに口出ししないで。貴方みたいに情にほだされて仲良しごっこするなんて冗談じゃない!」 「余計なお世話なのは貴方の方です。私は自分の意志で彼等と馴れ合っている。怖がっていることを隠すために無理矢理に考えを捻じ曲げて強がる貴方の方こそ、私は気が知れませんね」 込み上げる感情に歯を食いしばる彼女の顔は、見る見るうちに羞恥で赤く染まっていく。細い身体は小刻みに震え、表情には出ない動揺が窺えた。 「…、んで…もうやめてよ…。踏み込まないでよ…いい加減にして…」 「シェリー」 「黙ってよ!私の中に踏み込まないで!放っておいて!!」 「シェリー!」 「うるさい!!!―――っ」 感情に任せて振り上げた手は、すぐさまリンに止められる。 その歯痒さが、どうしようもなく疎ましくて、自覚するより早く、涙が落ちて。 それを見たリンが腕を掴む力を緩めると、すかさず振り払い、今度こそ横っ面を叩く。
先の事なんて考えられなくて。 やり場のない怒りが、羞恥が、自己嫌悪が。ただ真っ直ぐに、噴き出した。
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