眠らせておくのは勿体ないのでつくっちゃいました!
夏の思い出アルバム「青海・西蔵編」

 

2004年5月完成

青海湖のほとり一面に咲き乱れる菜の花

同湖の岸辺

同岬

北京―(T151)―西寧

列車で青海省東部の西寧まで。この年1月に行って下調べは済んでいたので、車内ではその先のルートを予習していた。ゴルムド(格尓木)で杖を倒し、杖の先が北を向いたら新疆へ、南を向いたら西蔵へ行くことになっていたので、この時点では両方の資料を見比べ、言葉を勉強していた。初めて海外旅行したときの気持ちに似ていた。
三日目の夜8時に西寧到着。この日は交通に便利な民族賓館で一休み。駅前でどっさりもらった旅行会社の広告に目を通し、電話、翌日の「青海湖一日游」に申し込んだ。

「青海湖一日游」100元→90元/人
バス、ガイド料金。昼食と青海湖入場券は自己負担。

→つづく

 西寧→湟源峡谷→海晏→金銀灘→北小海→青海湖

7月だというのに肌寒い小雨降る中出発。中型バスに乗客は20人前後。夏休みのためか北京や広州からの子供連れが多かった。海晏は中国初の核施設が建造された所。実際の実験は新疆の楼蘭周辺で行われたという。
金銀灘を過ぎたあたりから天気も好転。工事の関係で日月山に行かれなかったがその分時間もたっぷり。青海湖はチベット四大聖湖の一つ。照りつける日差しとともに時々刻々水面の色が変わる様子は見たら一生忘れられない。ここで初めてチベット語を使って子供と会話した。

青海湖チケット40元/人
向かいの料理屋 魚香鶏蛋 15元/皿
(このあたりの店はどれも値段が高すぎ!魚料理は100元以上取ります。これで環境保護に一役買ってるともいえるが)                           ↓つづく

ゴルムドで行く先を天に任せる

 

 

 西寧―(5702)―格尓木

青海湖からの帰りに駅で降ろしてもらい、切付購入。西寧始発のためか、前日に買っても間に合った。翌日、市内で塔尓寺などをひととおり見学、荷物を整え、夕方初の鈍行列車で西へと向かう。車内は軍関係者と旅行客、商人でにぎわっていた。私の周囲では広東語が飛び交っていた。独学で身につけた片言の広東語で交流。でもあの人たちにバカ受けだった冗談は標準語に直してもやはり??だった。
運命の時―最終目的地決定―が近づく中、鼓動が一層高鳴った、と思ったが、それが高原反応から来る酸欠だと気付くのにもそう時間はかからなかった。

高山病の薬「紅景天」は西寧では入手困難。
格尓木の薬局、バスターミナルで購入可能(30元/瓶)
↓つづく

ジープで一路西蔵を目指す

すでに完成した青蔵鉄道の鉄橋

 

 格尓木→崑崙山口→唐格拉山口→安多→那曲→ラサ

格尓木の空に投げた木の枝は南を指した!西蔵行き決定!!2番バス+徒歩でバスターミナルまで。売店では酸素袋や薬が並び、待合場ではバックパッカーたちがバスの到着を腕組みしながら待っている。青蔵公路が現在工事中でバスだと3日かかり、外国人は入蔵確認証(手続遅くしかも激高!)なるものが必要なことが判明。途方にくれていると、「乗り合いジープだったら1日半で着く」という情報が。まもなく私を含めた乗客が4人集まり出発。
格尓木を過ぎるとすぐに検査所が。外国人の私に緊張が走る。結局それはSARS対策で、パスポートのコピーをとられるだけで済んだ。車は常に改修中の道路わきを走行、激しい振動で車酔いすらできず。ドライバーはそんなことおかまいなしに昼夜黙々と運転。その姿勢に感服せずにはいられなかった。

↓つづく

青蔵線の最高地点「唐古拉山口」を越える

入蔵して最初に出会った遊牧の民

 

三日目の深夜にラサ到着。
60時間近くジープの中で飛び跳ねていた我々は感覚すら失っていた。「ここは本当にラサなのか?」ラサはすっかり中国の中核都市のような風貌だった。中心地で東北・吉林の人が経営する宿屋で1泊、翌日は昼過ぎから活動開始。高原反応に慣れることから始める。毎日の紅景天は欠かせない。宿を移ると、有名な市場・八角街、チベット仏教を代表する寺の一つ小昭寺を見学することに。宿のチェックイン時に日本人・長嶋氏と知り合う。一人自転車で唐格尓山口を越えに行くという(今だったら「自己責任」を問われるところか)。男のロマンを感じ意気投合。地図をプレゼント。八角街の露店では地元の人の泣きの入った交渉術に完敗。財布から毛主席がいなくなってしまった。

小昭寺拝観料60元/人(蔵民は無料)
新華書店に「標準日本語」チベット語版あり。
チベット語の教材としてはまずまず。
↓つづく

ラサの中心ジョカンこと小昭寺

施される茶を夢中で飲み干す子供たち

 

 朝食はツァムパ初体験。連れの二人(漢族)は半分も食べずギブアップ。私はこれにハマる。「ポタラ宮には朝早く行かないと入れない」という他の人の忠告を受け、早めに出るも、郵便局で思わぬ苦戦、10時過ぎに到着。ポタラ宮西のチケット売り場では午後1時からの入場券のみが売り出されていた。空いた時間でラサ北部の色拉寺を訪れる。郊外にあるためか比較的静かな境内。山の上には天葬台らしきものが。ポタラ宮では他の旅行客に紛れてガイドの説明を聞きながら赤の宮殿→白の宮殿と上っていく。仏教建築の素晴らしいのは言うまでもなかったが、ガイドが近代の歴史について多くを語らないのは漢族蔵族の双方に気を使ってのことだったのか。赤の宮殿屋上でようやく写真撮影が許されるが、デジカメで撮った画像はどれも謎の線が入っていた。電波か何かのせいかも。夕方昨日の長嶋氏と食事し、熱く語り合う。同旅館に宿泊する山口さんたちとも知り合い、情報交換。ラサ滞在2日目にしてラサビールとご対面。その美味さに感激し、ほろ酔い気分で部屋にもどった↓つづく

蔵式旅館の寝床

チベット族長年の主食ツァムパとバター茶

 

 郵便局→ラサバスターミナル→西蔵博物館→
外事事務所→西蔵大学→旅館

昨夜の日本人団結集会から、漢族の連れとの間に距離感が。個人で行動し始める私。自他共に認める「徒歩好き」としてはラサも攻略しないわけにはいかない。バスターミナルで山南、シガツェなど各都市への出発時刻を調べる。博物館では壁画を模写したり、歴史を学んだりとかなり楽しめた。一方外事事務所はもぬけの殻。西蔵大学はキャンパスもかなり広く、周囲にはネットバーも林立、立派な体育館が一番印象に残った。帰り際スーパーでラサビールを購入、部屋で至福のひと時を味わうのだった。

ラサから各地へ:格尓木(一日三本)210元(寝台)
シガツェ(一時間に一本)38元(ミニバス)
山南(同上)30元(中型バス)
チャムド(五日毎に一本)280元(座席)
←つづく

ポタラ宮前で一休み

赤の宮殿を守護する神獣

 

ラサ→山南(澤当)

結局、翌日の早朝、漢族の連れ達とはラサで別れ、個人で突っ走ることにした。私が最初に向かったのはラサの南東にある山南地区、その中心、澤当という町だった。

ラサを離れるとたちまち回りの風景が変わる。まさに絵に描いたような大自然の風景の中を進んでいくような。こういうところでサイクリングしたら最高だろう。中国で四番目の大河、ヤルツァンポ川に沿ってバスは東へと向かい、昼過ぎに澤当到着。一人だから歩きたい放題。大体の地理を把握したあと、「古城」ユムブラカンに歩いて向かう。新築のチベット式住宅が目立つ一本道をひたすら歩いていくが先に見えるのはツァムパの原料の麦畑のみ。そこに来た乗り合いバスに拾われて終点まで。そこが古城の入口だった。急な坂を上り、拝観料15元を払い内部へ。とそこにどこかのテレビ局のスタッフたちがどっと押し寄せると、→つづく

ラマ僧を半ば強引に説得し、ビデオ撮影、解説までやらせていた。どっちが野蛮なんだか。私はそういう俗世間の軋轢を目にしつつ、自分の出来ることをやろうということで、「澤当清掃大作戦」を敢行、ビニール袋片手に山頂に捨てられていた分解不能なゴミを回収して歩いた。それを持ってふもとの店主に見せたら不思議そうな顔をしていた。

その晩は湖南の人が経営する旅館で一泊。日暮れ前にヤルツァンポ川の畔でもう一度一人きりの清掃作業。どこからか流れ着いた牛のしかばねが静かに横たわっていた。いままで生きてきた中でも五本の指に入るほど美しい夕日をここで見た。

澤当はラサに比べて治安がいいためか、外国人であっても基本的に宿が空いていればどこでも泊まることができるようだった。
翌日早朝のバスでラサにもどり、次の遠出に備えた
↓つづく

水が豊富な山南地区へ

 

 

「最古の王城」ユムブラカン全景

同本殿上部

同山頂のマニ(祈願)塔

チベット関連サイト

中国西蔵消息中心

●西蔵の地理、宗教、風習、医学など幅広くカバーする情報サイト。漢語のほか、チベット語版、英語版があるのがうれしい。


 

ヤルツァンポ川に横たわる牛のなきがら

ゴミ拾いに精を出したくなるわたし

 

西部の町シガツェへ

最大の寺院でラマ僧と交流

ツァンパをゴチになる

ラサ―シガツェ

朝10時のバスで一路西へ。ヘビースモーカーの真後ろの席だったため、燻されながらの8時間だった。
夕方にはシガツェ到着。都市建設大工事の真っ只中だからか、風が吹くたびに砂ぼこりが舞い上がり、視界もほとんど遮られてしまうほどだった。旅館に駆け込み一泊。フロントのお姉さんに「ラサとシガツェは使っている言葉が違うよ」と言われショック。日常用語をいくつか教えてもらった。
翌日はバスターミナルで各地へのバスをチェック。切符売ってるおっさんの形相が怖かったけど心はきっとやさしいのでしょう。「ラサに帰るなら前日に買いなさい」と教えてくれた。お腹がすいたので蔵餐館に入ったが、なんと漢語が通じない!困っていたらオーナーらしきおじさんは漢語が達者で、座りながらしばし雑談。「私の友達がポタラ宮そばの民航局にいて私もよく行くから、飛行機乗るときは寄りなさい」と教えてくれた。皆優しいじゃん。 →つづく

お勘定も済ませた私は、後蔵最大の寺院、パンチェンラマが治めるタシルンポ寺を見学することに。後継者11世がどうなったのか知る由もないが、主のいない寺はひっそりとしていた。各学院の窓際に掛かった風鈴と暖簾のような布が風にはためいて実に心地よい音。時のたつのも忘れてしまう。とそこへ昼休み中の若いラマ僧が三人やってきた。ラサから買ってきた本で交流を試みると、そのうちの兄弟子のほうが、本に書かれた英語に興味を示した様子、「うちによっていきな」と彼らの住居に案内してもらった。かれらは密宗院という学院に属し、寺からは月に40元(少ない!)もらい生活、その他はお布施に頼っているらしく、信者らしき人たちがやってきて食べ物を置いていったりしていた。よく分からないうちにすっかり打ち解けて、ツァムパの最高傑作、干し葡萄入りのをご馳走になり、こちらは英語と漢字を弟弟子に教え、手持ちの本を何冊かプレゼントしてから写真を撮って、また来ることを約束して寺を下りた。そこでなんと!ラサで別れた連れ達と再会、ラサビールで乾杯、近況を語り、また散っていった。↓つづく

北東の町チャムドに向かうバスに乗る

 

 

ラサ→チャムド(昌都)

その後私は4日間かけてチベット東の町・チャムドへと移動することになる。そこにいくまでの道のりはまさに想像を絶する出来事の連続であった。崖の道をひたすら登ったり、乗客皆で壊れた橋を直したり、車を引き上げたり。と同時に友人も出来た。重慶出身の李星馳という学生とは道中タッグを組み、いろいろ助けられたり助けたりして今回の旅の終点、四川・成都まで愉快に旅が出来た。その中で最も心引かれたのは波密という小さな町。遠くに7000m級の山々を望みながら、目の前を清流が流れ、植物が青々と茂る豊かな森を持つこの町の美しさと言ったら!長期滞在するには絶好の場所ではないかと思った。逆にいただけないと思ったのは、この道路沿線のゴミ問題。コマツのショベルカーが大活躍しているのを見るにつけ、環境の面でも日本から参入していったらどうかと思うのだった。
この夏、もう一度足を踏み入れてみようと思う。
今度一緒に行ってみませんか?

 

「アジアのスイス」波密の風景

同町東側の様子

道路開発で潤う沿線の町の一角

チャムドに向かう最後の峠
怒江沿いのがけに住む人々

最高海抜の幇達飛行場

 

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