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 red_web HOME>>中国を旅する>>思い出アルバム「シャングリラ・濾沽湖編」

 

眠らせておくのは勿体ないのでつくっちゃいました!
思い出アルバム「シャングリラ・濾沽湖編」
 



4年ぶりの昆明。
1月12日 鄭州経由昆明行きのCZ6427で旅立つ。正直数時間で目的地に着いてしまう感覚が恐ろしく、だらだら思索を巡らせる列車の旅を恋しく思ったりするが、この大移動の時期にそれを敢えてやるわけには行かず、即断即決の自己の判断力を磨き、この欠けた心を埋めるのに必要な精神的栄養を摂取すべき、こうして苛酷な絶景の旅へと足を向けるものである。同時に今回の旅が何らかの転機となるものと強く期待している。10時30分鄭州空港着。一息つくもなく再び離陸す。14時08分昆明空港着、一回到着二階出発に統一されて、一階の入り口からは中に入れなくなった。14時50分昆明駅。ひどい渋滞で国貿中心からだらだら運転。67番この目的地を示す電光ボードがエンジン駆動に対応していて、アクセル踏むと、オレンジに輝いたのが印象的、前よりここの人の言葉が聞き取れるようになってた。アクセントは四川重慶と同じ系列だということが分かった。 →つづく 



 「僕たちって旅人だよね」
1月14日 朝8時20分のバスで、雲南北西部、チベットへ通じる最後の宿場町、徳欽へと向かうことになっていた。バスターミナルで待機していたところ、大きなリュックを揺らして忙しなく一人行ったり来たりしている欧米人の姿が。普段は感じないけれど、自分が外国人だということを意識する瞬間だ。私は、ここ中国にいるとき、中国人には日本人だと悟られたくないし、日本人には自分が日本人であることを極力教えたくないが、他の国の人には自分も外国人だと積極的にアピールしようという考えが働いている。彼らから見ればたいした差はないんだろうが。まあそんなわけで機会があればこの人と話してみたいもんだと思っていたら、乗車後まもなくそのチャンスは突然転がり込んできたから話はうまくできているもんだ。私の前に座っていたその青年のところに他の乗客が来て、そこは俺の席だ、座席番号見ろというジェスチャー。
つづく

昆明のバスターミナル

世界遺産・麗江の川縁

シャングリラ県の中心広場

立ち往生するバス

「さっき背の高い西洋人が来ませんでした?」「ああ来た来た。まあ泊まるかどうか部屋を見ていきなさい」ということでこの蔵式客桟に泊まることに。「夏場は常に満室になっちゃって、どうしても泊めてっていうお客さんのために屋上で寝袋をひいて寝かせたりもしたのよ」というお姉さんの話どおり、茶器から天井の細部にわたるまで、蔵族っぽさがよく感じられたけれども暖房はなし。「冬にわざわざ遠いところから来たんだから」」と本来1泊80元のツインルームを半額にしてもらった。寒そうな演技が効果あったか。荷物を置いてぶらぶらしてみる。維西へ続く道は工事中で時速10kmの速度規制。ということはやはり今日来た道を中甸にもどるか、茫康経由で西蔵入りするかしかないということになった。それより心配なのは明日の車の手配。デンマーくんにももう言っちゃったし何とかルートだけでも調べなくては。 つづく

徳欽県全景

 

Q.徳欽での車のチャーターのしかた

@運ちゃんたちの溜まり場に行って尋ね、何人かに聞いて一番安くて良い車を選ぶ。
 ※このとき
携帯の番号を忘れずに聞く。

A当日電話で呼び出し、迎えに来てもらい出発。

B約束の
行程を全部終えてからお金を払うこと。

C途中食事や
タバコを勧めると親しくなれる。

D一番は同行者を3〜4人見つけて一緒に交渉すること(というか必ず交渉好きが一人はいるので、その人にやってもらう)。



 1月15日 雪のためバスが出ず、タクシーも見つからなかったので、歩いて飛来寺を目指すことになった。が、麓のマニ塔から寺までのルートがどうしても見つからない。「これ以上先は危険」の境界線も越え、山の中を彷徨った。食料も尽きて、やむなく6時間かけて歩いてきた旧路を引き返そうとした時、下からチベット族の一家が足取りも軽く登って来た。私の手に持っていたお香を見て「飛来寺から来たの?」と唯一漢語が分かる女の子が話しかけてきた。「道に迷ってもう半日も山の中にいる」と説明したら「あたし達も今から飛来寺にいくんだけど」と有難いお言葉。助かったー!というか救われました。寺へはわずか15分で到着。半日歩き回った俺って…巡礼初心者の方には判りにくいと思いますが、竹の水道が下ってくるその右側にありますので。(この情報は本邦初では?)その後彼女らの巡礼に同行させてもらったのだが、きつい山道を進んで行くにもかかわらず、みなの表情は至って明るく、小学生の子供達も文句一つ言わずにふざけあったり、つららをもいで食べたりして行程そのものを楽しんでいた。
つづく

山道を歩く

 石膏で出来た柱

境界線の表示

神秘的な山々

天然のハダ

午後3時過ぎ 飛来寺に到着。本格的なお参りは去年の四川・康定以来だが、チベット族の人たちとお参りするといつも楽しい感覚がある。彼らがすぐに打ち解ける性格の持ち主だというのもあるが、この伝統的な儀式の数々がその形式を通り越して、精神的に受け入れやすいというのもあるかもしれない。日本人が神社に行く時に感じる厳かな雰囲気に近いかもしれないが、祈りを具体的行動―マニ経筒を回す、五体投地、歌うなど―で表す点がより神秘的であり、引き付けられる部分でもあるのだ。今回も、彼女達一家と一緒に「オンマニベメホン」の歌を唱えながら巨大な経筒を百回転以上繰り返したが、その時の清々しさといったら、これまでの疲れが飛んでしまうほど心地よいものであった。巡礼の友ができた。もっと驚いたことは、その寺を出たときにあのデンマークの彼とばったり出会ったことだった。彼も車が見つからず、上の道路を歩いてここまで来たらしい。目的の太子峰とランツァン川が見られてうれしそうだった。帰り道はみんなで歌ったりおしゃべりしたりしながら町まで歩いた。こうして忘れられない一日が過ぎた。つづく

チベット族の巡礼者に助けられる

風に翻る飛来寺の経文布

1月16日 中甸に帰るバスがない!厚さ1mほどの雪が山道を覆っているらしい。 来るときに予想はしていたけれど現実のものになるとは。 ベンツ君のサポートが必要と考えた私は三菱パジェロに一緒に乗って帰ることにした。 昼35元、ジープ100元、土産90+36、宿60

1月17日 ゆっくり起きて松賛林寺に行く。 塔を回ったら免費になった。 16元でお祈りしてもらう。 食事は朝作ったザムパ、バス代2元。 日本人3人乗っていたがかかわらないことに。 大亀山3元、超巨大転経は5人で回せるらしい。 外国人旅行客の意外と多いことに気づく。 長征路の先にハングルまで書いているのには驚いた。 15元で夕食。

世界遺産・麗江で考えたこと

1月18日 二時ごろ麗江到着。人々はいつにも増して活気に満ちてた。帯30元 地図6元 米線2.5元 湯円1元白馬龍潭 からの泉の水はやはり澄んでいたが、そこに暮す人々の水の使い方を改善しなければ下水道の町になりかねないと痛感した。 栄養物に満ちた川からは蚊が大量発生。 それを食べる生き物などもともと居なかったのだから、殺虫剤に頼らざるを得なくなるだろう。そうすれば有益な生物も根絶やしにすることになり、麗江はただの汚水の垂れ流しスポットと化してしまうだろう。そのようなところに誰が来たいと思うだろうか。 恐ろしい速度で進む商業地域化も、この古城の今後にプラスに働くとは思えない。ちなみに天珠は全て安いニセモノだった。 質では中甸のほうが100倍いいと思う。

1月19日 無残な麗江の姿を目の当たりにして哀しみの中昆明へ戻ってきた私であったが、次の目的地、景洪のことを思うとただただ楽しみでならなかった。熱帯の楽園生活。春節を迎えるタイ族の姿を思い浮かべるとそれだけで心躍った。さぞかし楽しいだろうなー。

わたしが濾沽湖に行くことになったわけ

昆明のバスターミナルでs切符を買ったあと、街角の米線屋で券を買って小鍋ものをすすった。19:45の発車まで半日もあるわけだから、あれこれと手を尽くして時間を消費せねばならなかった。 米線屋の次は豆乳屋で半時間、その後昆明のメインストリートを歩き、家楽福で半袖シャツとトランクを買うことにした。 ただ余にも早く買いすぎるとそれを引きずってバスターミナルに行くまでの時間をすごさねばならない。 ということで、まずマックのお世話になって、5時ごろまで家楽福の無料ロッカーに一式を入れ、出発前を見計らって買い物、いざ南へ向かうぞ!という気持ちだった。そのときまでは。

 マックに入って3番セットを注文、貪るように食べているときバックで各種ラブソングが流れていた。「唯一」「至少還有Ni」「命中注定」など名曲ばかり、これは明らかに店内のカップルを狙ったものであったが、あろうことか僕の気持ちにも変化が生じた。一昨年、昨年、僕が嫌った人たち、僕が好きになって離れていった人たち、そのとき感じた罪の意識、苦しみといった気持ちをどうにかしたい。 人を心から愛せなくなっている自分に癒しの機会を与えてあげたい。 これからの自分が生きる力、生きる意義を見つけたい。それがこの旅の待つ目的であるなら、残りの一週間で行くべきところは明らかであった。 必要なものだけ買うとバスに飛び乗りバスタで再び麗江行きの切符を手に入れた。向かうは濾湖である。 湖岸で《誕生》を歌いながら号泣してすっきりして帰ってきてやるー。 何かを悟って二月以降それを信じて生きていくのだ。

1月20日 終点の寧浪はィ族自治県らしくいたるところでひし形の日よけ板を頭にセットした女の人たちを見かけた。他にもいろいろな形があるらしい。大年29の雰囲気が感じられ、市場では足を縛られた鳥たちが買われるのを静かに待っていた。明日にはみんな殺されて正月料理とささげものに供されるのであろう。韓国やら東南アジアでは食べられずに処理されていく兄弟たちがこの時期話題になっているが、彼らに比べればいくらか自分の生命の価値を感じて天に上っていくことができるかもしれない。さて困ったのがここ寧浪から湖までの足である。予定より早く、5時前にはついたが、みんなが各家庭に散っていく中、四方を見渡しても湖行きの乗り物らしい乗り物を見つけられなかった。目の前を通り過ぎていくのは「乗車1元」プレートをフロントに掲げて走る地元の面包車ばかり。(後で気づいたのだが、このプレートの裏側には寧浪ー湖―永寧と書いてあり、運ちゃんたちは季節と客数に応じて使い分けているのだった。頭いい。)こりゃあ今夜は寧浪泊決定か、というところで、後方を追いかけてきたもう一台のバスが到着。 遠くから眺めると明らかに旅行目的で来たと思われる乗客の姿が。 ラッキー!「湖に行く人でしょ」「そうです」「みんなで車拾っていけばいいらしいけど、その車がね」「今一人が探しに行ってるから」テンガロンハットのおっさんが答えた。残ってる後ろの二人は広州あたりから連れ立ってやってきた学生旅行者のようだった。ときおりぼそぼそと広東話で談笑している。走行しているうちに一台のジープが坂を上ってきて中から運転手のおっさんが顔を出して「湖へ行くなら乗せていくよ」そこに車を探しに行ってたおっさんが戻ってきて、二人は会うなりがっちり握手。「知り合いだったのか」こうなると話はまとまらないものもまとまるもので、車内にいた女の人が買い物から戻ってくるのを真って、いざ湖へGO!ということになった。 その車内では何を話したのか覚えていないが、隣に座っていたテンガロンのおっさんと前席の女の人が知り合いで大年30はこの女の人が試営業を始めたばかりという客桟で大いに騒ごうということになった。   つづく

湖に浮かぶ里格村

網を引くモソ族の女性

さてこのテンガロンおじさんは名をpeterという。 広州時代に授かったchristian nameらしい。 彼がこの湖に 初めて来たのは95年ごろというから、10年近くこのあたりを訪れていることになる。 それだけ魅力があることなのだろうが、彼は同時にこの土地を投資の対象としてみているらしく、今年中に里格のzhaxiという老客桟を買い取って自分なりの味付けをし、事業として軌道に乗せようという考えであった。 そんな彼の口を付いて出た言葉は「文化」、いまの落水を中心としたバーやら客桟やらには地元の文化を取り込んだものは少なくないが本当にモソ人の側からそれらを理解、吸収し生かしたものはないという。 そんな中で彼の採った方法というのは写真を通じた交流。高性能デジカメを用いて一家の全家福やら老人子供やらの姿や住居などを記録として残し、次回訪問時のみやげ物としても利用、言葉の壁を超えて複数の家族とこのように付き合っているのであった。 ここまで考えてなんか5年前のY氏が思いだされた。 Yさん元気かな。  つづく→



客桟を出て里格村に向かう。 宿代は彼が持っていた写真が気に入られタダに。 こう言うことはよくあるらしい。 里格の新築客桟につくが、昨日話で聞いたのとは似ても似つかぬ完成度、外観こそさまになっているが、内部は住めそうな部屋が一つしかなく、その部屋はオーナーが使っているという始末であった。それでも約束しちゃったということで荷物をそこにおいて島の先にある一軒のモソ人宅に向かった。 年夜飯を食べていきなさいという勧めを断って翌日のスカートを穿く儀式のアポイントをとって「光陰」に向かう。 お茶一杯で昼過ぎまで。 最初の客船に戻ってからはただひたすら掃除に精を出した。 俺の担当は発泡スチロール係。 門前にばら撒かれた粒粒を一つ一つ拾ってはビニール袋に入れていく。 これが俺の観点から見てもっとも必要なことだと思ったし、事の重大さに気づいている人も他にいなさそうだった、というのも俺をこう言う行動に駆り立てた原因の一つであった。  つづく↓

散乱する廃材

この日の収穫

 その夜焚火晩会が有るというので、peterに連れられて行ってみた。モソ人の男女が半分と全国各地からやってきた旅行客が半分といった所か。式次第としては@ディスコAモソ人たちの民族舞踊Bみんなで手をつないで踊るC対歌 このとき初めてモソ人の女の人の手のひらに触れたが、とても硬く日焼けした手は彼女たちの苦労を物語ると同時に、母系社会の中でたくましく生きる女性の姿を表してもいると感じた。

 暗闇の中で歌いながら踊る光景は盆踊りのそれと重なって見られた。原始社会から受け継がれてきたこうした闇夜の集まり。ここでは旧暦7月24日がもっとも賑やかなものとなる。そのとき意中の相手を探し「走婚」を始めるということだが、考えてみるとムラ社会ではそうして祭りこそが若者の集まる場であり、自分のケースを考えてみても、夏祭り、盆踊りともなれば子供から年寄りまで、おぼっちゃまから不良連中までだれかれ構わず集まり、集まってはそれぞれに「何か」をしていたような。つづく←

焚火を囲み歌って踊る

 


成人の儀式


 お姉さんと
 

カメラマンたちは挙って撮影

希望小学に通っていた

 翌日、昨日の家に行ってceさん(13)の儀式に参加。Peterに連れられて居間に入るとそこには20人以上のカメラマン、観光客たちが儀式を今か今か止まっていた。 ceさんが入ってくると、外交部新聞記者招待会を超える頻度で絶えずカメラのフラッシュがたかれ、母子共に緊張した面持ちであったが、スカート、上着、髪飾り、腕輪とドレスアップしていくと立派なレディーに変身。 宿代はまた彼に頼ってただ。 最後に正体を明かしたらやや驚いたようだったが「バイバイ」と一言。

小落水村へ 途中で香港の二人と再会。 その手前の半島で一休みしたとき、神木ともいえる木と女神山の写真を撮ることができた。 その半島に何か建てていたが、誰かの記念館らしい。 住民に酒を手渡し、また来ると約束した。

つづく↓

 

小さなモソ族




路上通りかかったトラックに美女複数が。 「過来a」「一起走ba」など声をかけられたが、トラックは無情にも止まることなく、3回もすれ違っていながらついに乗ることはなかった。 雲南と四川の境界を越えて、四人組の後を追っていくと、ムラが。 男どもはみなビリヤードに興じていて、他の老人、子供は道端でおしゃべりしながらこちらをちらりと見る。 このときすでに湖を回ることを決心していた私には立ち止まる余裕はなかった。
四川省側へ 雲南側と大体同じ。地図を見て分岐となっていそうなところを見つけて入っていった。畑のあぜ道を湖のほうに上がって、山を一つ越えた。 今思い返してみれば、この辺に留まっていたら、全体もかなり変化していたと思う。
半島横断  隠れ里みたいなところにでる。 所々2mに満たない囲いで囲まれた農地を持つ農家が。 土質はあまり良くないらしい。 広い道路に出て、そこを高いほうの道に沿って上っていくと、港に。 そこを更に「道」と信じる道を選んで進んでいくと、半島の3分の2くらいのところで開けた丘に出る。


山を下ると民家が数件有る。 特に最後部のうちはかなりの規模で、敷地内に寺院とも呼べるような建物まで立てて何かを祭っているよう。 王妃島の所有者だろうか。 そこを上っていくと村が現れてくる。 今回はここでつかまって隣村の客で夜を明かすこととなった。 食べきれないほどの料理が出てきていくら取られるのかはらはらしたが(結局15元だった)、その後の晩会といい、満天の星といい、離れがたくなるところ、最も特色があるところであった。 「カッコいいおにいさん」と呼ばれつづけたのもその理由?
その先の村では子供たちに地図をプレゼントした。

湖東岸 観光とはまるで無関係といった様子。 完全に四川的農村と化していて、「神秘の〜」といったキャッチコピーをつけようにもつけられない、というのも、目の前に広がっているのは湖の草海を開墾して造成したわずかばかりの耕地、そこにロマンを感じろといわれても無理な話かもしれない。
草海 船と馬でわたることができる。 近道はその草海と農地の間にあり、素人目にはどこにあるか分からない。 ちなみに左の道を行くと山南村という農村そのものの農村につく。

 小落水手前の丘の上で

 風に波打つ湖面

落水村への道 何でああいう流れになったのか…早足で村を通り過ぎようとする私と歩を合わせようとする男が。 「飲んでけ」と言われて顔を見ると、もう完全に出来上がっている酒飲みであった。 彼は自分から自己紹介をし、家で一休みしていけと言う。 こちらも酒を勧められては断れなくなってきたので、「これ飲み終わったら行く」といってガラスビンに入っていた白酒を半分以上一気飲みして見せたら、「兄弟!」ということになり、その男は私がいくら止めても見送るといって聞かず、その兄弟と一緒に途中また酒を買っては一口ずつ三人で回し飲み、湖のほとりで記念撮影をし、熱い抱擁を交わし、また一人で歩き始めた、というところで私の記憶は完全に途切れ、次に覚えているのは眼鏡の長髪兄さんとそのスタッフらしい人たちに救助され、車で落水の客桟の一室に担ぎ込まれて宿代も代わりに払ってもらい、その後一回だけその人たちは戻ってきて目を覚ましたようだったが、後はその部屋のベッドの上で昏睡状態、翌日の7時にようやく目を開けられるようになったが、まだ魂が湖を彷徨っているような感覚であった…

おわりに

今回旅した二箇所は各旅行サイトでも紹介されているし、行こうと思えば行けるところなので、時間に余裕の有る方はぜひ足を運んでいただきたいと思います。
旅の途中で起こる出来事をどう受け取るか。
今回は旅先での素晴らしい「出会い」とともに、「自律」ということが最終的に課題として出てきました。自分の能力を過信して飲みすぎ、危うく湖に転落しそうになっていた私。もしも落ちていたらどれだけの人に迷惑をかけていたか…今思い返しても恥ずかしくなります。

最後に
無事に帰還できたことに感謝しつつ、この章を終えたいと思います。

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