中央改札 悠久鉄道 掲示板 過去記事 概要

創作掲示板過去記事[161-180](CMNAC-CGI Ver.1.67.14)


[180][急げや急げ][心伝][2000/12/19(Tue) 01:04]
 
改めて心伝です。
卒論書いてて中々レスがうてませんでした。

さて、亜村さんのレスいきます。

正直、ここまで理論づけられると脱帽ものです。
レス打っていいんかいな〜(汗)とか思ってましたが
せっかく書いてくださったので、せめて自分の考えだけでも書きます。

川上さんの漢字一文字は擬音の亜種だと俺も思います。
ただし、これは読解力とかいろんなのがあってのものだと。
言えば亜村さんの擬音解釈回路のようなもので
『翔』という漢字のイメージから出てくるものを理解しなければ出ないですね
実際『翔』は本編では確か・・・香港か伯林2で書かれていたと思います。
どっちも飛ぶシーンがありますが。
ビューとかよりも直接的ですがイメージを膨らませるのはこっちの方が強いかと思います。


しかし、擬音なり全ては基礎の文がやはり出来てからですね。
後、俺が擬音ナシを書こうときっかけの二つ目は外国の擬音とか見た時です。
鶏の泣き声も似て非なるものなのですから読む人、幾とおりのものがあるんじゃないかと。
無論、擬音を使う人はいてそれでいて面白いものを書く人もいます。
俺は自分の中では「あんまり使いたくない」ので使っていません。

出来うる限り擬音無しで書けるか分かりませんがやってみます。
では、乱文になりましたがこれにて
[179][うきゅう][熾天使@Apostasy's minstrel][2000/12/18(Mon) 03:15]
 
魔法好きの私としては(なんだ、急に)
悠久世界の魔法を分析してみたいとか思っていて、
実際やった事があるんですけど。
是非皆さんにダメな所を指示していただきたいんですけど…。
時間があればどうか御願いします。

悠久世界における魔法について。

まず、あの世界における魔法がなんなのかを考えてみる。
マリアを筆頭に魔術師(?仮称)が唱える呪文は、共通語であったり、
おそらく魔法語(古代語)だと思われるものであったり様々で、
高度な物は触媒、というか誓約が必要だったりと、いちがんに世界観が定まってはいない。
禁呪、というものの存在から考えて、少なくとも古代において現代よりも発達した魔法技術の持ち主達がいただろうことは推測される。
当然、魔法その物の価値観は昔も大差なく、禁呪の数々は時代毎に魔法倫理の反対者が作り出した物とも考えられるが、魔法の開発や改造は極めて難しいらしく、あのマリアでさえ自分自身の魔法を作り出そうとしないのがいい例であろう(異例あり)。
古代におけるものだと思われる文献や書物は今では希少な物として保管されていたり、それを理解するのに現代において高い技術を必要とする所を見ても、
古代の魔法技術は高いものである説を取りたいと思う。

即ち、現在あの世界で使われている魔法は、昔の高い技術力から現代にあわせた、制御しやすい簡易版である事も推測される。
禁呪を一般に学ぶ事が出来ないのは、おそらく現代では手に余る物だからだろう。
魔術師ギルドの長が、ヴァニシングノヴァまでしか使えないのがその例だ。
ただ、多少無理をすれば才能ある者にとって禁呪といえども学べない事はないらしく、クラウド医師などが行おうとした「禁忌の魔法」や、その罰としてつけられた「誓約」も、一般には復旧していないが、特別な力を持ったものがそれを行使できるのは、禁呪…無許可では学べない魔法…が、決して手の届かぬ者ではない事がわかる。
コマかな便利魔法を覗けば(光など)、ステータス画面には表示されない魔法というのは、復旧していないかもしくは手を出す必要のない物なのだろう。(マリアの錬金術や、ヨーグルト増殖(笑)魔法等)

魔法の行使によって精神力を消費するのだが、その理由はわからない。
少なくとも、消費するという事実が、禁呪という物が遠いと人々が感じる
原因のひとつではあろう。

さらに、魔法しか効かない敵がいないことから、一般概念として、
よくある精神世界というものは薄いようだ。
もっとも、魔法と言う物がそれに強く影響を与える事が出来るのは事実だが。
(エルの邪竜、リオの獣など)

神の存在についても、また曖昧である。
神聖魔法というのが何処まで神の力なのかも定かではないし、
なにより、信仰が伴わなくても神聖魔法、つまり神の力を具現できる点において疑問を持たざるを得ない。
しかし、精霊など、異世界同士での干渉があるので、
いちがんに居ないともいい難い。

ここは穏便に、神というからには誰にでも平等で、即ち学ぼうと思えば神の力の具現である神聖魔法は誰にでも使え、神の慈愛は真に等しく万民に与えられる物である。
という説を推奨する。


これ以上魔法その物についての推測は、完全な憶測となってしまうため控えたい。
少し、具体的な話に戻ろう。
(実際にはこの前に、精霊と神についても述べていますが、ここではカット)

どうやら、あの世界の魔法は大別して五つほどに分かれるようだ。
『物理魔法』…因果関係などに干渉、もしくは物理法則の行使によって、物質的に破壊の影響がある魔法(魔法効果)を作り出す。
かなり大げさな事も出来るようで、禁呪があるとはいえ規制はかなり薄いようだ。
『神聖魔法』…神の力、またはそれに近い神聖なものの存在から借りた力を行使、主に人間の治癒代謝能力に深く関係し、傷を癒す事を主とする。
病気、毒の治療なども出来るようだが、かなり高レベルであるらしい。
傷がいえるのは、単純に人間の治癒能力を向上させる物もあれば、傷を魔法的な力で治すものもあると思われる。
『精霊魔法』…精霊の力を行使、主に精霊が最も強く関与できるであろう身体能力を向上させる。物理影響なのか精神影響なのか定かではないが、イフリータの力を受けても攻撃が炎属性を帯びたりはしないことから、精霊の力は純粋に能力の底上げのみのようだ。ただ、筋力や敏捷性はまだしも、治癒力と防御力については考察の余地がありそうだ。
『錬金魔法』…一番謎の多い分野。錬金魔法というからには鉱物生成が原義なのだろうが…。内容は要するに障害魔法で、アクアレフューズ、ソニックブレイクに関しては、鉱物(鉄)などに影響して、一時的にだが法則のねじまげを行っているようだ。
『その他、生活魔法、召喚魔法などに代表される禁術』…ゲーム中、任意に行使できない物。あまりに多種多様である為、更に分別して考察する必要がある。


…長いのでここらへんでストップ(^^;
えっと、この時点での問題点と、後続きがもし読みたければその内容を言ってみてください。書きこみます(^^;

今日はこの辺で。
ではまた。
[178][どうも][熾天使@Apostasy's minstrel][2000/12/18(Mon) 02:30]
 
ここ最近SSかいていないのでちょっと禁断症状気味です(^^;;;;;;

閑話休題。

亜村さんの意見を呼んでいて、私は『はぁ』と頷く事しか出来ないですが(苦笑

先に述べた、『さらっと読み飛ばされてしまう擬音』というように、
私は擬音、擬態語に関して、私は読みての想像力に対して一切働きかけを行っていません。
悪く言えば自分勝手ですが。
読み手がここでどう思ってくれるのが一番なのか、ではなく、
私の頭の中でのその場面において、どういう音がしているか、を念頭においてます。
何が違うのか、と聞かれれば…。
前者においては、作品の雰囲気や盛り上げる為のテンポなど、
その音を使って、なにか今までとは違った事を表現しようとする物で、
それを私はその前後の『間』と、『説明文』でしております。
後者においては、私がそういう風に聞こえたんだからそれで良いだろという、
なんともはや、堕落した物であります。

でも、その埋もれた擬音によって、
『音が聞こえて』⇒『状況把握』という、普段人間がやっている事(多分)を
そのまま表現しようとしている訳ですね。
普通、どんなに注意深くその場面を眺めていたとしても、耳に入ってくる音よりも先に頭の中で状況整理は普通出来ませんよね(これも多分)。
(音と行動が同時に起こる場合にのみ。たとえば、ドッヂボールなどで、音のほうが先に聞こえてから球を止めるなんていう事はありえませんし、
サッカーのボールがゴールポストにぎりぎりで弾かれた時、『ごん』という音の後に外れたという事が視界として認識されてます。私は(笑))
ただ、場面があってはじめて音というものが生きてくるのかも?
とか思い始めて、非常に迷う事もありますが。
っていうか、そんなに大きい事普段考えませんけど(苦笑

あぁ、なんか文章がまとまらない〜です。
ごめんなさい。何がいいたいのかわからなくなり始めているのでちょっと一息。
[177][(7)なんとかまとめ…][亜村有間 (mail)][2000/12/11(Mon) 02:55]
 
 結局、まず、通常の文章というものを基準として一つ置くと、
それに対して、
(1)「優れた説明による表現」という進化がある。
それと同等の効果を持つ、しかし(1)と違い翻訳不可能なものとして、
(2)「語・字の聴覚的・視覚的な効果の利用」があるのですが、
それが、
(2-1)「片仮名・平仮名のみを用いた表現」(通常の擬音語)
(2-2)「漢字を用いた表現」
 (音の他に意味も用いるが意味はずらす場合もある)(川上さんの表現)
に分けられるのだと思います。
 (2-1)と(2-2)のどちらを好むかについては、趣味と訓練の違いが大きくありそうです。
「擬音は安っぽくて軽くて嫌」という人がいるのは当然でしょうし、
「変に漢字に変える方が不自然で嫌」という人もいるでしょう。
 しかし、いずれにせよ、(1)だけで勝負している人がいることも、
(2)が(2-1)(2-2)含めて通常文章からはイレギュラーであり、
解釈可能な人や領域や解釈法を限定してしまっていることも、
それでもやはり、文章表現を豊かにしていることも確かでしょう。
 そして、(1)と(2-2)は似て異なるものであることを意識すると、
なかなか面白いのではないかと思います。
[176][(6)想像力の限定?][亜村有間 (mail)][2000/12/11(Mon) 02:55]
 
 また、擬音が「想像力を限定する表現」だという点についてですが、
これは一般にはその通りです。
ただし、前にも書いたように、訓練を積んでしまうと、擬音は擬態語の
ように感じられるようになり、抽象的な語として、自分なりに
解釈できるようになってしまうのです。
 実は、私にとっては川上さんの文体の方が遥かに「想像力を限定する表現」
なのです。いや、この表現は不適当かもしれません。
「作者の感じさせようとしたものをそのまま意図通りに感じさせられる」
というべきでしょうか。
「風の音がした」→「ビューと音がした」→「轟と音がした」
の順で、イメージが限定・特殊化され、明確になっていくのです。
擬音の役割が、「ここではこの音(に近い何か)を感じて欲しい」
という限定効果にあるとすれば、川上さんの文体はそれを
更に先鋭化させたものではないでしょうか。
 そういった意味で私は、川上さんを「擬音マスター」と感じるのです。
つまり、私は「擬音」という語を拡大解釈してしまっているのです。
「説明」を「基本的・抽象的な語の組み合わせの純粋概念による表現」、
「擬音」を「聴覚的・視覚的な効果の利用(の一つ)」と解釈してしまっているのです。
 なお、「ビューと音がした」は無自覚な平文ですが、
「轟と音がした」というのは、ある意味気取った文です。
これでギャグが書けないわけではないですが、その場合は、
「格好をつけた文だからこそのギャグ効果」となります。
 
[175][(5)普通の文からのずれ][亜村有間 (mail)][2000/12/11(Mon) 02:55]
 
 ただし、「不自然」「違和感」「正常な文章からのずれ」という意味では、
むしろ、川上さんの文体の方が遥かに異様で、
そこが川上さんの魅力ではないかと思います。
 まず、ライトノベル界からのずれ。これは言うまでもないですね。
私だけではないと思うのですが、私は、風の音を「ビュー」と書いてあると、
ほぼ擬態語的に解釈して自然に読み飛ばします。
こちらの方が(ライトノベル界の)一般的な共通語で、
(ライトノベルのファンの)万人がそのまま理解できる言葉(のはず)です。
「轟」と書いてあると、違和感を感じ、ひっかかります。
(それこそが新鮮さ、魅力に繋がるのですが。)
 次に、通常文学からのずれ。これは、川上さんの地の文の方が少なそうです。
確かに、一般の人が「ちゅどーん」などの多用を見ればたじろぐでしょう。
 しかし、実は、川上さんは科白に「軽さ」を押し込めているのです。
科白の中には「!」「…」「?」等の記号が多用され、
「ホント」「キミ」「マシだな」等の部分的な片仮名への置き換えが行われ、
「ああああああああっ!!」等の大げさな表現も使われる。
 …むろん、題材・イラストも影響していますが、正直に言って、一般の人が
自然に読める代物ではありません(笑)。
それどころか、地と科白の差異にいっそうの違和感を感じるでしょう。
明らかに、「電撃」向きな文体です。
 これは、夏目漱石あたり、とまではいかなくても、キオスクにあるような
一般向けの小説と比較をすればすぐに違いがわかります。
更にファン層の狭い海外SFの翻訳等の方が遥かに一般的な文章です。
しかし、それゆえにこそ、電撃の読者層も楽しんで読めるのです。
 最後に、究極の一般文書と比べます。それは、論文や翻訳物です。
この一般性は、翻訳してもしっかり意味が伝わることで証明できます。
シドニー・シェルダン等が日本でも人気があるのは、その構成力・文章表現が
すぐれているためであり、当然、擬音などに頼っているはずもないでしょう。
「英訳」を基準に考えると、川上さんの文を英訳すると台無しになることは
すぐにわかるでしょう。
(ストーリーとしては、むろん、通る可能性はあるわけですが。)
…すでに、擬音の話からは大きくずれてきた気もしますが、
擬音を使うことが、「一般性」から離れることだと考えると、
それは、川上さんの文の方が遥かに遠く離れているのです。
 しかし、それこそが魅力なのです。
 
[174][(4)私のちょっと変わった擬音の解釈][亜村有間 (mail)][2000/12/11(Mon) 02:55]
 
 …ここまで書いてきて、どうも、「擬音語」に関する自分の捉え方に
偏りがあるような気がしてきました。
私にとって、擬音語・擬態語はほぼ同意で、更に、
「日常では使われない語・補助的な語・語の新たな解釈・聴覚、視覚的な語」
も親戚であり、対立概念としては、
「基本的な単語のみによる『説明』」
「聴覚・視覚を伴わない純粋概念的な語」
があるようです。
 
 川上さんのページを読んで思ったのですが、心伝さんにとって、
擬音語は「音そのままの表現」であって、
それは「軽さを伴う表現」「想像力を限定する表現」と感じられる
のではないでしょうか。
 実はそちらの方が通常の解釈だと思います。

 そう考えると、実は私は、擬音語をも、擬態語ととらえている気がします。
「ガキン」という言葉を口に出して「が・き・ん」と言うと確かに恥ずかしい。
それは本来の音の矮小な近似という貧しい表現に過ぎません。
読者の想像力を悪い歪んだ方向に限定してしまっています。
 しかし、私の頭の中には、「が・き・ん」という発音としての音ではなく、
音声では発生しえない、金属の音の響きとして受け取られ、
金属がぶつかって静止した様子、鉄の匂いまでが感じられるのです。
(当然、文脈によって受け取り方もいろいろ変化します。)
 ここが、川上さんと私の大きく違うところで、私の方はライトノベルを
読み過ぎて、訓練の結果、頭の中に勝手に自分専用の「擬音解釈回路」が
できてしまった(笑)。そんな訓練をしない場合、擬音に違和感を感じるのは
当然で、そういった状況では川上さんのように擬音に疑問を持つのが
正しい反応だと思います。
 また、「軽さを伴う表現」であることは間違いないと思います。
[173][(3)川上さんの「擬音」?(翔)][亜村有間 (mail)][2000/12/11(Mon) 02:55]
 
 次に、「翔」について、これは更にたちが悪いのです。
#ここでいうたちが悪いというのは、「優れた独創的な表現」という
#意味でもあります。一見普通の語に見えるところがたちが悪いのです。
 
 「翔」そのものは、「飛びめぐる」という確かな「意味」を
持った漢字で、擬音ではありません。しかし、ここでは、その漢字を、
擬音語のようにして使っているのです(正確には擬態語?)!
更に、元の意味を破壊し、新たな意味を与えてしまっているのです!
 擬音語は、近似的に似た音を探して、意味のない語の羅列に
新たな意味を与えるものですが、本来ある意味を持っている語に、
ずれた別の意味を与えるのですから、擬音語以上の言語破壊です。
(念のためですが、ここも見事な効果を表していることへの褒め言葉です。
擬音語以上の言語創造、と言ってもいいでしょう。)
 
 実は、ここのところは、心伝さんに確認しておきたいところで、
ここが間違っていたらこの論はかなり修正しなければならないのですが、
「翔」は「飛び立つ」(もしくは「飛んで現れる」)ところで
使われていますよね? 「飛びめぐる」ところではなく。
 私は本来の意味ではなく(近くはありますが)、
「しょう」という音を擬音語(擬態語?)と捉えて、そう感じたのですが、
果たしてどうでしょうか?
 むろん、これはただの作った擬音語ではなく、「翔」という漢字は、
本来から「しょう」という音を持っています。
しかし、先ほどの「凛」と同じく、この音を持っていなければ、この語は
使われなかったのではないでしょうか?
 例えば、

 飛。
 
 これは情けなさすぎます(笑)。「ひ」なんて音を立てながら飛び立てる
はずはありません。「しょう」という音なら聞こえそうな気がします。
漢字の形状の美しさについても「凛」と同様です。
 あきらかに、「意味」(だけ)ではなく、
「音」「視覚」を利用しているのです。
 
 ここで補足。「翔」の使われている場面が一つ見つかりました。
風の吹いている情景ですね。「轟」もともに使われています。
私の想像と少し違いましたが、むしろ両方とも擬音的な効果の強い語だと思います。
 
[172][(2)川上さんの「擬音」?(凛)][亜村有間 (mail)][2000/12/11(Mon) 02:55]
 
>「翔」とか「凛」とか漢字一文字で
>音を現している時もありますが。
 かなり余談が入りました。本論に戻ります。
私にとって、これは擬音だったのです。
 いや、それ以上。
通常の擬音よりもはるかに強烈な擬音だったのです。
 実は、私にとって、川上稔さんは、擬音を使わない作家どころか、
「かなりハイレベルな擬音語マスター」
だったのです!
 
 まず、「凛」の方は確かに擬音語ではなく擬態語ですね。
しかし、「説明による」情景描写ではないのは同じです。
「どのような様子であったか」と説明するのではなく、
短い一語で代用してしまっている。
 ただし、これが、描写をさぼっている等の、悪い状態というわけでは
ありません。こちらの方が説明より遥かに効果的だと思います。
通常の、「『説明』か『擬音』か」の選択のところで、
「説明」を選んでいないところが擬音の使用と同等だというわけなのです。
 例えば、「凛」の意味として、「身がひきしまる」と辞書に書いて
ありましたが、
 
「身がひきしまる」
 
 などとそのまま説明すれば雰囲気が台無しなのはよくわかるでしょう。
 もちろん、もっと優れた「説明」はありえるでしょうが、
ここでは「説明」はしていないということは確かです。
 また、漢字のため誤解しやすいのですが、強く「音」に頼っていると
いう意味でも、通常の「説明」ではありません。私は、この言葉を見た
瞬間、頭の中に「りん」という音が響きました。
もし、この漢字の読みが、「りゅん」だったならば、絶対に
選ばれなかったと思います(笑)。
 つまり、相手の脳裏で再生される音の効果を計算するという意味で
擬音、というほどではなく擬態語であるにせよ、「説明」ではないのです。
 さらには、漢字の持つ視覚効果もあります。
「りん」とは書かずに「凛」と書いたというのは、意味だけではなく、
漢字形状の美しさ、視覚的効果を計算しているということだと思います。
 
[171][(1)川上さんにやられた][亜村有間 (mail)][2000/12/11(Mon) 02:55]
 
心伝さん>
 ある程度意見をいいつくしたゆえと、当時忙しくて機を逃してしまった
ゆえとがあって、今更のレスですが、まあ、次に何か他の話題が
出たときにでも読み流して下さい(笑)。
 
>最初は川上さんのHPに「擬音語ナシ」についての事が書かれていて
>擬音ナシにチャレンジしようかと。
 いやー、実はこれについては全く反対の印象を持っていて。
それについて簡単に書こうと思って、簡単に川上さんのページを
斜め読みしようと探してみたのですが、
これが見つけてみると面白いのなんの。
ああー、したいと思っていたことや(爆)、
しなければならないこと(核爆)があったのに、ついつい読みふけって
しまいました(笑)。
 本を読んでそれなりにこだわりのある方だろうとは思っていましたが、
あそこまでこだわりのある方だとは思わなかった。
深く共感するところも、強く疑問を抱くところもあったのですが、
むしろ後者があるゆえにそれだけ面白かった気がする。
 とくに、評論に関する意見としては、私と美しいぐらいに正反対の
意見が含まれていて実に面白かったです。
川上さんの方が、これこそが、「従来の」王道だよ、という感じの意見なんですが。
(実は、この部分は、奇異なことに、私が近々公開するある計画に
強く関連する部分になるのですが、これは余談。)
 
[170][夜中の文章は・・・][心伝][2000/11/9(Thu) 02:51]
 
心伝です。
よく考えればこれも夜中の文章(笑)

熾天使さん
>朝とかに見ると、『なぁんじゃこりゃああああ!!』
>とかって思う事ありませんか?
・・・あります(汗)
「うわ、何俺こんな臭い台詞を書いてんだー!!」と思う事が
テンション高いときとかは特に・・・。
高校時代、国語の先生に
「夜書いた手紙、とーくーに、ラブレターとか書いた時は朝確認する事!
変になっている事が多々あるからな。」
と、言われた事が(笑)やっぱり夜はテンション狂うのでしょうか?

結論的には
「夜テンション高い時に勢いで書く」→「朝、冷静に確認する」といった感じ
では?亜村さんに近い考えですね。

>(私はkan○nや○neを夜中の三時ごろにやってかなりぼろぼろになっ>た事があります(苦笑))
・・・同じです。夜明けまでやって感極まった事が・・・。
この前A○Rもそーだった気が。

亜村さん
>最初は田中芳樹さんの影響を受けて「擬音語なし」を
>試みたということかな。
いえ、最初は川上さんのHPに「擬音語ナシ」についての事が書かれていて
擬音ナシにチャレンジしようかと。
川上さんの作品も擬音が無いですね。「翔」とか「凛」とか漢字一文字で
音を現している時もありますが。

では、これにてー。
[169][夜中の創作][亜村有間 (mail)][2000/11/8(Wed) 03:14]
 
心伝さん>神坂一さん、田中芳樹さん、川上稔さんの順番で。
 神坂さんは擬音ばりばりですよね。
田中芳樹さんは確かに少し堅い文体かな。
最初は田中芳樹さんの影響を受けて「擬音語なし」を
試みたということかな。
川上稔さんはその中間ぐらいでしょうか。
かなりけれん味強い文体なので、
うまく真似るのはなかなか難しそうですね。
 
熾天使さん>
>朝とかに見ると、『なぁんじゃこりゃああああ!!』
>とかって思う事ありませんか?
 あるあるある(笑)。
 
>感情的であろう夜中と、冷静であろう朝と。
>作品創造にはどっちが良いのでしょうか??
 夜書いたものを朝直すのがいいのではないでしょうか。
夜とは限りませんが、まずは勢いのままに書いて、
後から丹念に直すことが多いです。
 …最も、基本的にはそんなに神経質に文にこだわりたい方では
なくて、文字数に制限があるときとか、ぎりぎりまで
ダイエットさせるなどの場合が多いのですが(笑)。
[168][夜中と朝?][熾天使][2000/11/7(Tue) 23:44]
 
この掲示板って、波がありますね…。
まぁ、それはともかく…。

夜中書いて、『まぁこんなもんかな』とか思って投稿した物を昼間とか、
もっと極端に朝とかに見ると、『なぁんじゃこりゃああああ!!』
とかって思う事ありませんか?
かといって、朝、もしくは昼間書いた文章を夜中見てみるとつまらなく思えてしまったり…。
私だけかもしれませんが…(汗

作品的にも出来がずいぶんと違ってしまって、
同じ話を何度かに分けて書くともうだめっす(^^;;;

感情的であろう夜中と、冷静であろう朝と。
作品創造にはどっちが良いのでしょうか??

(私はkan○nや○neを夜中の三時ごろにやってかなりぼろぼろになった事があります(苦笑))
[167][なるほどぉ・・・][心伝][2000/11/7(Tue) 22:31]
 
読んでみて驚き(汗)です。
こんなに書かれるとは思っていませんでした・・・。

一つ一つ読んでみて考える事とか知らなかった事
(特に亜村さんの「ちゅどん」の事や分析の事。
熾天使さんの間の事等スクロール)で大変興味深いものがありました。

結論を言えば俺は「擬音使用は作者次第」と考えてます。
初めの方は「擬音語ナシ」の小説等を読んで影響されて
「じゃ、擬音語ナシで書いてみるか」と思い四苦八苦。

ちなみに影響されたのを言うと・・・神坂一さん、田中芳樹さん、川上稔さんの順番で。近ごろになってやっと「自分の文章」がマトモに書けるようになったと思っています。その中で「できる限り擬音語ナシ」を書いてみたいと思います。

レスをくださった方ありがとうございました。
では、これにて
[166][間と言語の違いと不条理表現][亜村有間 (mail)][2000/11/4(Sat) 13:57]
 
(※1:一つ前の投稿の補足です)
 何を隠そう、HNの「あるま」に「有間」の漢字を当てたのは、
「『間』が『有』る」という意味で当てたんですよね。
#嘘のような本当の話(笑)。
#ちなみに、「間」というのは存在しないものなので、それが「有る」とは
#どういうことか? という命題に絡んでいます。(※1)

 折に触れ、「日本独特のリミッテッドアニメーション」とか「歌舞伎」とかいう
言葉が私の口から出てくるのは、そのためです。

 さらに蛇足ですが、「不思議の国のアリス」で「『誰もいない』が来る」などと
いった感じの描写があるのですが、あれはきっと「Nobody comes.」の訳ですね。
こういう不条理をつつくアイディアってすごく好きです。
我々日本人ならむしろ、最初に習ったときに戸惑ったりして、
その表現の奇妙性に気付くのですが、その表現を当然として刷り込まれている
英国人が気付くのにはかなりの客観性とか閃きが必要でしょうね。
我々が普段は気付かない日本語の表現の奇妙性がどれだけあるか…。
考えてみるのも面白そうです。
 ちなみに、ちょっとクイズですが、「クマのプーさん」に、
「おはようございます」
「おはやいならばさ」
 というちょっとひねくれ者の返答があるのですが、
さて、これの原文はどんなものでしょう?(笑)
子供の頃日本語で読んだときは意味がわからず、首をひねっていたのですが、
これに関しては原文を読む機会があって、なるほど…と思いました。
 言語の違いというのも面白いです。
[165][間][亜村有間 (mail)][2000/11/4(Sat) 13:57]
 
熾天使さん>
>私のあの文章の場合、行間を広く保ち文章表現でなく
>視覚的に「間」と言うものを計っています。
 
 これすごく難しいところであると同時に、すごく面白いところでもありますよね。
 私は「間」というものにもの凄く興味を持っています。(※1:次の投稿)
 
>意見をお聞かせ願えれば幸いです。
 なかなか難しいですね…。
少なくとも、元の文のままで間を詰めたら、かなり雰囲気が変わってしまうと
いうのは納得できます。
 ただ、慣れたら気にならなくなるかもしれないとか、空行は一行だけでも
効果があるかもしれないという可能性もあるような気もします。
…あまり自信はありませんが。
 
>あれを文章表現のみで現せる事ができれば良いんでしょうけど…。
 
 これも面白そうですね。難しいでしょうが、やりがいはありそうです。
 
 一つ言えるのは、同じ表現でも、印刷物として読むときとは、かなり
雰囲気が違うのではないかと思います。どちらがいいかは別として。
 本当の紙だと、スペースの無駄なので多用はできませんが、逆に、
貴重な空間を無駄にしているという緊張感も生まれる気がします。
 また、紙をめくるのとスクロールさせるのとの、体感的な違いも出てくる
気がします。
 webなら、例えば、オートジャンプにするというのも面白そうです。
でも、読み終わる前に次々別のページに飛んで行かれるのも、
一定時間待たされるのも、もの凄い苦痛なんですよね(苦笑)。
ときどきそういうページもありますけど。
やはり、あれは、せいぜい数頁につかうのが良さそうです。
 
[164][分析の意味?][亜村有間 (mail)][2000/11/4(Sat) 13:57]
 
 しかし、自分が普段何を狙って書いているのかなんて、
改めて考えてみて初めてわかりました(笑)。
#…間違っているかもしれませんが(爆)。
 まあ、基本的には、本能で書けたらよくて、理論はお遊びで楽しめば
いいんですけどね。私はそういうスタンスです。
私はやたらといろいろ考えて書きますが、それは、
それが必要だとか正しいとか思うからよりは、面白いからです。
 ただ、例えば、次のような意見もあります。
「現代では、自分の表現の理由・意味を理解することが優れた創作に繋がる」
(※1)(原文は長いので要約。最後に全文引用します。)
これは、現代のクリエイターの強さと弱さと両方を表してる気がします。
ただ、必要条件ではなく、手段の一つに過ぎないとは思っていますが。
無自覚に書けるというのには、尊敬と憧れを感じますし、自分自身でも、
書いているときには無意識で書くことがほとんどです。
 むしろ、理論に走って考えすぎると、勢いや個性が削がれる危険があるという
のは意識しますね。えてして、新人の稚拙だった時代の頃の方が
好きだった作家さんとか漫画家さんとか結構いますからね…。
「ムカデは幸せだった。『どうやって歩いているの?』と聞かれるまでは」
なんて外国の童謡もありますからね。
(その後足が絡まって歩けなくなるというオチ(笑))
 しかし、「アダムのリンゴ」にも象徴される通り、文明自体がそんなものな
気もします。少なくとも、「己を知る」ことが無駄だとは絶対に思いません。
 いろいろ考えた結果が、無意識領域に昇華されていけば理想なのですけどね。
 

 
<参考文献>
(※1)
「少なくとも、近代以前の、神様がいた時代ならともかく、
ものを作るとか表現する事はさ、
自分のやってる事を理解してないってことと一致しないはずなんだよ。
職人は自分がやってる事の本質を理解しなくてもいいものが作れたけどさ。
今は映画だろうが小説だろうが写真だろうが音楽だろうが、
自分が表現してる事の意味をさあ、自分で語れなければね、
ものを作ってる事にならないと思っているから。」
(押井守(取材:小黒祐一郎)、”押井守のアニメスタイル”、
美術出版社、BT/美術手帳9月号増刊アニメスタイル第二号、
Vol. 52, No. 793, pp. 60-84, Sep. 2000)
(※ただし、「本能だけで作ってる作品の良さ」(宮崎駿さん等)などに
触れている箇所もある)
[163][擬音語の効果比較][亜村有間 (mail)][2000/11/4(Sat) 13:57]
 
熾天使さん>
>文章のリズムを止める、という点だけにおいては私も擬音を使ってます。
>第二話の方ですね〜。
 あ、これは具体的に使用箇所を引用してもらった方が…。そういえば、
投稿時に本編タイトルに何話目かが記載してあると助かるかも。
場合によってはどのファイルかさえわからない可能性が(汗)。
 
>ただ、お二方の意見と違うのは、
>私はその後に擬音の説明を入れているという事でしょうか。

 ええと、

(1)ANOTHER STORY 第二話(熾天使さん)> 
>ふっ
>二色の正反対の光が消える。
>ぎいいいいっ!!
>一瞬の後、その光は違いに交差するように現れた。
(※空行省略)
 
 などというところですかね。
確かにこれは納得です。

心伝さんの
(2)
>毒づきながらアシュレーはグローブの甲で受け止める。
>ガキン!
>金属のぶつかりあう音が響く。

 私の
(3)
> その勢いのまま、剣と剣がうち合わされた。
> ぽき♪
>「…のぉぉぉぉぉぉーっ!? こ、この安もんがぁぁーっ!」
 
 と比較してみると、
(1)実際に表現したいのは擬態語。しかし、補足説明が必要不可欠。
(2)文章が主。擬音語はなくても理解可能だが、強調表現として挿入。
(3)文章説明の代替手段として擬音語を使用。代替は可能だが省略は不能。
 
 それぞれのもたらす効果としては、
(1)散文的に説明するのではなく、感覚的なリズムに読者を引き込む。
また、最初の一文では意味がわからないため、「何だろう?」と
読者に興味を抱かせる効果がある。
(2)強調表現として場面を盛り上げる。リズムを止めてしまうという
欠点があるかもしれないが、リズムが止まること自体が場を引き締める
効果をもたらす可能性あり?
(3)わかりにくくなる危険性はあるが、平易な描写を避け隠喩的表現を
用いることにより、読者を飽きさせない効果を狙う、やや変則的表現。
 
 という感じになるのではないでしょうか。
 
[162][擬音語…][熾天使][2000/11/2(Thu) 23:45]
 
擬音語に擬態語…ですか。
私には亜村さんのように考察なんてできませんが…(尊敬っす。まぢで)

文章のリズムを止める、という点だけにおいては私も擬音を使ってます。
第二話の方ですね〜。
文章的に考えて浮いてはいるんですが、それでもあれ、書かなかったらきっとさらっと飛ばされてしまうですよ、さらっと(苦笑

ただ、お二方の意見と違うのは、私はその後に擬音の説明を入れているという事でしょうか。
場面ののりやそれこそ世界観にも相当左右されてしまうのですが、あの二話の擬音の後に説明がないと、あまりにも今までの世界と異質過ぎて、
『音に似せて文章上に表現する』という本来の目的を全く果たし得ないわけですね。

ただもう一個逆説で繋ぐとすれば、
私のあの文章の場合、行間を広く保ち文章表現でなく視覚的に「間」と言うものを計っています。
あれを文章表現のみで現せる事ができれば良いんでしょうけど…。
っと。話がずれました。
二話の最初の方、あそこらへんをつめて書くと、非常に変です。
お暇があればやってみてください。変ですから(苦笑
何故変なのか?
それは多分、擬音語や擬態語は、文章であって文章でない物だからなのでしょう。
何を言ってるかわたにも説明できませんが(^^;
言葉、では無く、言葉に置き換えた物。
だから普通の言葉の群れの中にそのまま放置すればそれは浮いて見えてしまう。
上手く使えばそんな事もないのでしょうけど。
部落差別…ではありませんが、その場所だけ何か普通とは違う方法で表現してあげれば、多少違和感も押さえられるのではないかと。

私が行間開けを使っているのって、それもひとつの理由だったりしたりして。

<例文

「これで…」*
ちゃり…*
「終わりにしてやる!!」
だっ!!
「終わって…」*
「たまるかぁぁぁぁぁ!!!」
*
きぃん*
*
…*
「ぐはっ…」*
「貴様の…」*
「勝ちだ…」*
どさっ


べたべたですね(苦笑
お暇があれば、「*」の後をワードなりメモ帳なりで10〜行開けてみてください。
どんな風に違うか…。上の状態のままと見比べてください。
多分よくなると思うんですけど…意見をお聞かせ願えれば幸いです。
会話と擬音語のみの文章!!!
いや〜、恐ろしい(^;
[161][「ちゅ」+「どん」][亜村有間 (mail)][2000/11/1(Wed) 23:09]
 
心伝さん>悠久ならばマリアの「ちゅど〜ん☆」とかありますね。
 もう一つだけ余談(笑)。
これは、高橋留美子さんあたりが開発した擬音語だと思われるのですが、
以前とあるアニメ評論誌に面白い説が書かれていました。
これは、「ちゅ」が爆発の閃光もしくは爆発直前の静寂を表していて、
「どん」が爆音を表すのではないかという説です。
 もともと、「どかん」等よりも規模の大きい爆発を表そうとする表現なの
でしょうが、そういった爆発を遠方から観察すると、まず、光が先に伝わり、
続いて音波が伝わってくる。そういった情景を意味しているのではないかと
いうことです。
(ちょっとおふざけでは使えない言葉ですが、広島に投下された原子爆弾が
「ピカドン」と表現されたのは、まさしくこれでしょう。)
 こういった光と音のずれという表現自体が、リアル指向が起こって
SFアニメが流行る前までは用いられていなかったのではないでしょうか。
 そう考えると、「ちゅど〜ん」は、擬態語+擬音語という変わった組成を
持った言葉だと言えるかもしれません。

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