日 本 野 鯉 紀 行 1 1  

< 台 風 1 9 号 > 

『ビュ−ビュ−、ゴ−ゴ−、ザザ−ザザ−』

 風はますますその激しさを増し、時折激しく車が揺すられて、私は外を見た。

どうやら台風19号は、今、八郎潟を直撃しているようだ。外は、ようやく暗やみのベ−ルを少しずつ脱ぎ始め、傍若無人な所業の全貌を現し始めた。木々の枝は、千切れんばかりにはためき、湖面の波は、まさしく千切れて彼方へ飛んで行く。

 私は、昨夜の強風の中での撤収を、思い返していた。八郎潟へ来て、はや10日。日本を縦断して、その恐怖を各地に撒き散らして来た台風19号が、この八郎潟へも遂に遣ってきたのである。

 昨夜も八郎潟の東部承水路で竿を並べていた私は、天気予報と睨めっこしながら、撤収の時期を伺っていた。それというのも、荒れたときは大物が出る、という言葉を信じていたからだ。実際、私も過去に何度も経験している事だが、こういう時は警戒心の強い大物も、安心してエサを取る事が多い。超大物の宝庫として名高い八郎潟に来て、まだそのサイズを手にしていない私が、そんなチャンスにいつまでも引きずられ、中々竿を撤収できないでいたのである。

 しかし、遮る物の無い湖畔は、まさに風の通り道である。深夜に意を決して、車外に出た時は、竿はなぎ倒され、バケツの蓋は跡形もなく消え失せていた。まさしく逃げるように撤収した私は、何か風の遮蔽物はないかと車を走らせ、北部排水機場の影に車を停めていたのであった。

 ラジオでは、先程、秋田市内で風速51mを記録したと報じていた。屋根の瓦がめくり取られ、看板が吹き飛ばされ、何人もの死傷者が読み上げられている。気象台観測始まって以来最高の強風であると何度も繰り返されている。

 灰色にぼやけた機場の壁をふと見ると、何やら文字が書いてある。良く見ると、この壁は危険ですから近寄らないで下さい、となっている。何の事かと壁を見回すと、モルタル塗りの壁一面にひび割れが入っている。何の事はない、この強風の中、一番危険な所に避難していたのである。もちろん、直ぐにそこを離れたのだが、台風の被害は予想以上に凄かった。

 八郎潟の道路の周囲には、防風林が張り巡らされている所が多いが、それが軒並み倒れて道路を遮り、殆ど交通が麻痺しているのである。午後になり、少し風も弱くなった所で、大潟村の経営している温泉に出かけたところ、幹線道路は何とか片側車線だけは切り開いて確保してあるものの、それを少し離れると、どこも大木が道路を横切っているのである。僅か5km程の道程を1時間も掛けてようやく辿り着いた温泉は、停電で臨時休業だという。

 『鯉釣れず 大風騒ぐ 秋盛り』

 『湯も無くて 大風恨む 湖畔かな』

こんな心情を抱いて、仕方無く入浴を諦め、近くのス−パ−で買物をしようとすると、こちらも停電で休業である。結局、何も出来ずにウロウロしただけで、止む無くポイントに戻る事にした。その夜は、台風一過の大物の出る絶好のチャンスであったにも拘らず、訪れた獲物はどれも並以下のサイズばかりであった。

 そこで、午後より他のポイントを見て回ると、少し上流のポンプ場の横に、宮城ナンバ−の車が停まっていた。『もしや…?』と思い、堤防を駈け上ると、やはり仙台の笠岡氏である。湖畔に面した堤防の中段にテントを張り、夫人同伴で竿を出していた。同氏とも、淡水大魚研究会の時からのお付き合いであるが、現在は進藤氏の率いる秋田巨鯉釣り研究会に私同様お世話になっており、昨年の八郎潟釣行の時も御一緒させて戴いている。

 『笠岡さん、どうもお久しぶりです。一昨日は凄い風でしたね。』と、声を掛けると、横に並んだ奥さんから丁寧なお辞儀が返って来た。

『あっどうも始めまして奥さん、岐阜の高橋です。』

 こちらも、あわてて帽子を脱いでお辞儀を返し、

『ところで、調子は如何ですか。』と、改めて尋ねた。

『ええ、何とか昨夜、75cm程の良く肥えた鯉が1本上がり、ほっとしましたね。』

 笠岡氏は、昨年既に還暦を迎えたと言われていたが、髪にはまだ1本も白いものが混じらず、どう見ても10才は若く見える。

 『実は一昨日、台風の来た日にね。主人は、もう帰ろうと言い出したのですよ。』

笠岡氏の脇から、夫人が口をはさんだ。

 『さっぱりアタリも無いし、何かあったら大変だと言うのを、折角ここまで来たのだから旅館に泊まってやり過ごしましょ、と私が押し留めたのですよ。お蔭で昨夜、大きな鯉が釣れたじゃない。』

と言って、くりくりとした眼をいたずらっぽく輝かせて、氏の方を見た。

 『そうですか、それじゃあ笠岡さん、奥さんに感謝しなくちゃいけませんね。しかし、奥さん、テントで野宿というのは辛いんじゃないですか。』

『いいえ。実は、私、主人と一緒に旅行するのなんて始めてですのよ。まして、釣りになんて一度も誘ってくれなかったのが、どういうわけか今度ばかりは、一緒に行こうなんて言い出して。でも、とてもおもしろかったわ。また、次もついて来ようかしら。』

 おそらく50才を超えていると思われる年配の夫人が、子供のように無邪気に喜んでいる。笠岡氏は、脇で照れ笑いをしながら、夫人の裾を引っ張って、

 『ところで、高橋さんはいつまでやって行くの。』と声を掛けた。

『そうですね、こちらへ来て、そろそろ2週間になりますし、笠岡さんにも会えましたから、明日位にでも立とうかと思ってるんですよ。』

『そうか、それじゃあこちらの方が一足早いお別れだね。まあ、しばらくお茶でも飲んでゆっくりしていきなさいよ。』

 話し出すときりがないのが、私の悪い癖である。竿を放りっ離しにしたまま、座り込み、気が付いた時は3時を過ぎている。笠岡氏は、今夜立つという事で、釣り上げた鯉に別れを言ってリリ−スする。

 『大きくなって、又、会おうね。』

夫人の優しい声が背中を押し出したかのように、鯉はゆっくり身を翻すと、湖中に消えて行った。

 さて、いよいよ八郎潟と別れる時が来た。最後の夜も、結局、奇跡は起こらなかった。2週間にも亘る大釣行。私の持てる力では、噂の超大型を手にする事はできなかったが、八郎潟にたくましく生きる大鯉の片鱗は、感じ取る事ができた。

 大会の表彰式に、ずらっと並んだ巨鯉の群れも見た。台風の凄まじさも、身を以て感じた。鮮やかな、名人の技も見た。草魚もバラした。

 しかし、何よりの収穫は、八郎潟で出会った釣人達の暖かい友情であったと思う。

始めて出会う見知らぬよそ者に、何の疑いも無く、心からもてなしてくれた秋田の釣人達。大会を通して出会った、各地の釣友。遠く離れたみちのくで、再会した旧友達の変わらぬ友情。野鯉釣りを通して得た、私の最大の財産である。

 旅とは出会いと別れの積重ねであるが、人生もまた然りである。美しい自然と野鯉、それに気の合った友がいれば、もうそれで充分である。八郎潟には、それが全てあった。

 次のポイントには、どんな出会いが待っているのだろう。名残りは惜しいが、新たなる出会いを求め、八郎潟をあとにした。