日本野鯉紀行14

−佐屋川−

 北日本の釣行から岐阜の我が家に約一ケ月振りに帰宅した私は、留守の間にたまった所要の整理にしばらく追われたが、それが片付き週末を迎えると、地元のポイントの事が気になりだした。

 濃尾野鯉会の九月例会は、佐屋川で行われる筈であったが、私の不手際の為にお流れとなっていた。私の留守の間、仲間達はどうしていただろう。大物は上がっているだろうか。そんな思いが胸の底から沸き上がってくると、もう矢も楯もたまらず、午後からなつかしのポイントへと車を走らせた。

 庄内川へ到着すると、前日の雨で増水し、流れは矢のように速く、釣りができる状態では無かった。戸田川は早目に排水したのか、いつもより水位が低く、釣人の姿は見られない。市江川も、やはり流れは止まり、フナの群れが水面で空気を吸っているだけである。 佐屋川だけは満々と水をたたえ、ゆっくりと流れている。ここまで気の付いたポイントを軒並み廻ったが、残念ながら何処の釣り場にも仲間の姿は見られず、止む無くここで竿を出す事にした。

 対岸と下流の草の際を狙い、パンを付けた仕掛けを放り込むと、既に日は西に傾きかけていた。

 さて、濃尾平野は、木曽三川と呼ばれる木曽・長良・揖斐の三本の大河が作り出した典型的な扇状地で、下流部一帯は海抜0m地帯の低地が多い。その為、この辺りに位置する川の多くは、自然排水が出来ず、ポンプにより機械的に掻い出す所が多い。

 特に、愛知県南西部の海部郡に広がる一帯はこうした小河川が多く、海部水郷と呼ばれ、それ等の川を総称して地元では内川と呼ぶ。

 内川の由来ははっきりしないが、昔から低地のこの一帯は、洪水から地域を守るため輪中と呼ばれる堤防に囲まれた部落を形成し、その内側にある川の事を内川と呼んだのではないかと思われる。その名残で、現在でも、大川の両側に築かれている堤防の川側を堤外と呼び、町側を堤内と呼ぶ。

 佐屋川は、そんな内川の一つで、古くからボラやヘラブナ釣りのメッカとして、名古屋周辺の釣人に親しまれてきた川である。その大部分が、『寄せ場と』いうこの地方独特の釣堀として網で仕切られているが、近鉄線より上流は解放されている。

 この佐屋川も以前は水郷情緒を残した自然の風情を残していたが、現在はその殆どがコンクリ−トで護岸され、自然の状態を残しているのはJR上流から名阪高速迄の僅かしかない。そこも、既に公園化が決定し、風前の灯である。一体、今の河川行政は何を考えているのだろう。親水権とかいう不思議な呼び方で、川や海をコンクリ−トで覆い、階段や桟橋を造って、それが自然と親しむ事だという。川にコンクリ−トの蓋をするよりは、少しはましかも知れないが、そんな事で自然に親しむと言えるだろうか。公園の噴水と同じレベルで、河川を考えているとしか思えないのである。

 仕掛けをセットして15分程して、車内から竿に眼を転じると、一番上流の竿の道糸が弛んでいるのに気が付いた。慌てて仕掛けを巻き上げたが、一瞬の重い手応えと水面に広がる波紋だけを残して、獲物は逃げ去った。
 しかし、次のアタリが来るのに、それ程時間は掛からなかった。エサを同じ所に打ち返し、5分もしない内に同じ竿先が揺れた。今度は、アタリを見逃さなかった。トントンと竿先が揺れた後、フッと道糸が弛んだ所でアワセをすると、ズシッという重い手応えが両腕に響いてきた。と思うまにまに水面が大きく割れた。激しい水しぶきが、沈み行く夕日に赤く飛び散った。銀色の魚影が、赤い糸を引いて水中に消えた。草魚である。八郎潟の戦慄が、胸を貫いた。

 「慎重に…、慎重に…。」

 胸の中で、いつもの呪文を繰り返し、こわばる筋肉を解きほぐそうとする。久し振りの大物の手応えである。気持ちとは裏腹に、身体が自然に動かない。獲物は、意外におとなしく、ゆったりとした動きで重い手応えを伝えてくる。右へ左へと、数回往復した後、獲物が浮いた。

 『でかい!!』

 1mは、優に超えている。ここで慌てると、草魚の思う壺である。草魚は、鯉と違い、水面に姿を現したからといって、力が弱った訳では無い。中層魚特有の動きで、これからが本番なのである。何度も波のように寄せたり引いたりを繰り返し、釣人の油断を見澄まして仕掛けを切る名人なのである。

 私は、恐る恐る岸へ寄せると、ドラッグを弛め、ネットを逆様にして柄の方で草魚の頭を小突いた。するとやはり、思っていたとおり、草魚は身を翻すと凄い力で対岸迄、一気に突っ走ったのである。しかし、意外にその後の抵抗は少なかった。3回目に寄せた時には、もう幾ら小突いても身を翻すだけの元気は残っていなかった。おとなしく、ネットに収まった獲物を持ち上げようとすると、さすがに重く片手では持ち上がらない。竿を地面に放り出すと、両腕で引きずるように安全な所まで運び込んだ。スケ−ルを当てると112cmで16.8kgもある大物である。水面に出た獲物を見た時も大きいと思えたが、地面に横たえると更に大きさが迫ってくる。八郎潟の大会では、1mを超える大鯉を2匹並べて見せてもらったが、それより草魚は一回り以上大きいのだから、無理も無い。

 しかし、その余韻をゆっくり味わう間も無く、次のアタリがきた。下流のアシの根元に向けて、投げ込んだ仕掛けであった。これは、大きく竿先を引き込むと、大きな渦を巻き起こして、一気に下流へ突っ走った。今度は、私も慌てなかった。先程の手応えが、まだ両腕に確かな感触として張り付いている。竿を持つと、これも先程と同じ重い手応えが両腕に伸し掛かってきた。同時に、50m程下流で水面に大きな波紋が広がる。これも、草魚である。岸寄りに古い杭が何本か残っているのを思い出し、下流へ移動する。この草魚も、意外におとなしいファイトである。市街地の狭い場所で育った魚は、暴れ方も野性味を失ってしまうのであろうか。八郎潟の暗やみを引き裂いた水しぶきは、佐屋川ではもう見られないのであろうか。

 5分程のやり取りでおとなしくネットに収まった獲物は、先程の草魚と似たような大きさで、車の際迄運ぶにはかなりの汗をかかされた。スケ−ルを当てると、110cmで16kgと、やはり迫力のある身体をしている。

 それにしても、草魚とはいえ110cm台の大物が、竿を出して1時間もしない内に、立て続けに2匹も釣れるなんて、狐に鼻を抓まれたような不思議な感触である。大物を求め、北日本を一ケ月も釣り歩いても出会えなかった大物が、今ここに2匹もいる。それも僅か1時間も立た無い内にである。

 夢のような一時を過ごし、車内で夕食を取ると、心地好い疲れが私の全身を包み込み、何時の間にか楽しい夢の世界へと落ち込んで行った。

 翌朝、また一匹釣れた。今度も草魚である。大きさは、110cmで16.8kgと、昨日と殆ど同じ型である。これも、仕掛けを投入して僅か10分でアタリが来た。続けて、60cm弱の野鯉が来た。普通なら、少し小さいなと思う程度のサイズであるが、110cmクラスの草魚を3匹も見ると、全くメダカに見える。人間の感覚とは恐ろしい。

 3匹の草魚と小型の野鯉を並べて記念撮影を済ませ、水辺に降りてリリ−スした後、何時の間にかアシの尖端にススキに似た穂が揺れているのに気が付いた。季節の移り変わりは早いものである。一ケ月前には、琵琶湖湖畔で暑苦しくて眠れ無かったのが、もう秋冷の候である。人の人生も、同じように過ぎて行くのであろうか。

 それにしても、濃尾の内川には草魚が多い。藻の生えていない川には、必ず草魚が棲息している。これは、年々進む郡部の都市化が影響している。人口が増加し、便利になればなるほど、水が汚れ川が汚れる。水が汚れれば、藻が異常繁殖し、川の流れを疎外する。そこで、草魚の登場となる。草魚は日本の狭い川では、まず繁殖する心配は無いし、ブラックバスのように他の稚魚や小魚を食べる心配も無い。一度放流すれば、十数年は放って置いても、日夜休み無く藻を掃除してくれる。この上無い便利な魚である。

 しかし、自然はそう甘くない。元兇の水の汚れをそのまま垂れ流し、水の浄化の役目をしていた藻を取り除けば、更に水が汚れる事となる。自然に親しむという事は、川の側に公園を造る事では無い。まず、水を美しくする事である。美しい川を湖沼を取り戻す事である。そうすれば、自然に人は自然と親しむようになる。

 河口堰で問題の長良川も、現在の河川行政の矛盾を現している。高度経済成長の頃は、利水・治水・塩害防止と一石三鳥の優れた計画と信憑されたかもしれないが、治山を怠り、うずたかく積み上げられた堤防とコンクリ−トで固められた護岸、浚泄と直線化された川の姿はもはや清流と呼ぶには悲しすぎる。

 高度経済成長の夢は破れ、利水は意味を無くし、莫大な水利権の負担金を巡って下流の自治体は押し合いをする始末。塩害も実態は僅かなもので、その為に何万倍もの費用を掛けるには根拠が薄すぎる。治水もあまり根拠が無い。はっきりしているのは、もし堤防が決壊した場合、山のように高くなった分だけ、被害も大きくなるという事である。おそらく、その場合の当事者はこう言うだろう。

 『この決壊は、予想を上回る異常な降水量の為で、計画流量を遥かに上回る水量が川に押し寄せた為で、これは致し方の無い事です』と…

 しかし、最近の地球は、何処も異常気象続きである。これは、単に地球が変動期にあるからという訳では無い。人間が広大な自然を無限の物であると錯覚して、無計画な開発を世界各地で行ってきたツケが回ってきた証である。欧米では、ようやくこれに気付いて、各種規制を始めたが、発展途上の貧しい国々では、生活に追われてそこまで手が回らないでいる。

 しかし、日本はもはや貧しい国では無い。それどころか、世界一の黒字国である。貧しいのは、心である。快楽を求めるあまり、大切な多くの心を失っているとしか思えない。 日本人は古来、自然の中で、自然に従い、自然を友として生きるのが上手い民族でした。自然は征服するものでは無く、従うものでした。

 それが、明治以来の近代化政策により、富国強兵を軸とした開発主義が至上のものとなり、行き着く所が拡張主義となってあの悲惨な戦争となった訳です。

 戦後、軍国主義は姿を消しましたが、生活向上の名の下に、経済開発が至上のものとなり、加工貿易を軸として、急激な経済成長を為し遂げたのは皆さん御存じの通りです。

 今、バブルが弾け、エコロジ−がブ−ムとなっていますが、これを単なるブ−ムとして終わらせるのでは無く、しっかりと大地に足を付けて自然を感じ取って欲しいものです。一人一人が自分も自然の一部なのだという事を、肌で感じるようになった時、自然は人間にとって無くてはならないものだと感じる筈です。

 なぜなら、人間が酸素を呼吸し、食物を取る限り、自然無くしては片時も生きる事ができないからなのです。