日 本 野 鯉 紀 行 9  − 八 郎 潟 4 − 

『ギィ−…………………………………』アタリを知らせるリ−ルのクリック音は、休む事無く激しい悲鳴を上げ続けた。

 今年の八郎潟は、昨年とは打って変わって悪戦苦闘の連続である。八郎潟へ来てから既に5日も過ぎ、ポイントも今回で3ケ所目にもなるのに、未だアタリは只の1回しか無い。いくら大物釣りは釣れないのが当たり前とは言っても、巨鯉の宝庫で鳴る八郎潟である。1日1回のアタリ位出ても良いだろうにと、丸1日が過ぎて、このポイントに自信が持てなくなった所でのアタリであった。

 『大物は忘れた頃にやって来る。』

この言葉そのままに、愛しのハニ−は、まるで老獪なキャバレ−のホステスの如き手管を駆使して、私の心を翻弄する。追えば追うほど姿も見せず、諦め掛けた所でしなを見せる。 誰かが、野鯉釣りは女性を口説くのと似ていると言った。野鯉を釣るには、甘いエサを大量に打ち込んで関心を引き、エサに紛れて針を吸わせねばならない。針に掛けた後も、あせりは禁物だ。強引に引っ張ると、糸が切れるか口が切れるか、いずれにしてもサヨナラだ。竿を使って押したり引いたりせにゃならぬ。なるほど、似ているはずだ。そういえば、どちらも水商売である。

 しかし、針に掛かった野鯉は一途に抵抗する。そのひたむきな所は、女性に譬えれば未だ汚れを知らぬ処女のそれであって、それが野鯉の魅力である。

 針に掛かってから、引いたり押したり手練手管を見せるのは、草魚である。針掛かりしたその場でクネクネとしなを作ったり、中には観念したように白い腹を見せる奴もいる。それを知らない初心な釣師は、まるで赤子のように手もなく捻られ、泣きを見る。

 さて、忘れ掛けた頃に遣ってきたこのアタリは、馬場目川の時とは違い一直線に沖へ走った。それはまさしく勇猛な野武士の如きのファイトで、何のけれん味も無く只ひたすらに抵抗した。その抵抗が強ければ強いほど、野鯉師は喜びが大きくなる。やはり、男の心の底に流れる、太古から連綿と続いてきた野性の血が騒ぐのだろうか。

 冷たいアスファルトの護岸の上で、激しく息を吸い込もうとしている獲物は、そのファイトにふさわしく10kgに僅かに足りない大鯉であった。八郎潟特有の肩の所が盛り上がった、黒光りをした野武士のような面構えの奴である。

 野鯉には、その土地独特の姿形がある。水色、底土、エサ、水温等その環境に適応して、何世代となく生き続けてきた証がそこにはある。

 今まで、多くの場所で多くの野鯉達を見てきたが、それぞれに微妙に違った固有の色やスタイルが見られた。

 例えば、琵琶湖では、ゴンボと呼ばれる昔の掛け軸から抜け出たような細長い体型のものと、ヤマトと呼ばれる改良型の少し太めのものとの2種類が大勢を占めるが、その体色は住む場所によってかなり差があった。

 清流で知られる長良川の野鯉も、岐阜より下流に住むものは、雑排水の影響でチョコレ−ト色の体色と厚みのある体型のものが多かった。

 それぞれの土地に根付いて、その環境に適応して暮す野鯉達。初めての場所で、どんな顔の野鯉に出会えるか、それも旅の釣りの楽しみの一つである。そして、いつかは見果てぬ夢の大物を……。

 日が少し西に傾き掛けた頃、主催者の八郎潟町の役員が一人の釣人を送ってきた。

野鯉師には珍しく、上から下までバッチリと決めたスタイルの釣姿は、一見流行りのフライマンかとも思われたが、声を掛けて驚いた。

 千葉から飛行機で飛んで来たのは仲間の川島氏と同じだが、飛行場から50kmもの距離をタクシ−で遣ってきたと言うのである。タクシ−運賃2万円は飛行機代より高く就いたと言うので、更にビックリ。私もかなりの釣キチを自認しているが、世間は広い。改めて上には上がいるものだと痛感する。

 これが、千葉の山本氏との初めての出会いだった。

さて、この夜は大会の前夜祭として、検量所横の温泉でレセプションが開かれた。山本氏と一緒に参加すると、既に懐かしい顔々々が並んでいる。昨年は遠方から参加したのは私と仲間の川島夫妻、それに多摩の橋本氏の4人だけだったのが、今年は関東からズラ−と10数人が参加している。

 『友あり、遠方より来たる。』

この言葉そのままに、東北の遥か彼方の湖に友が集まる。野鯉釣りという共通の趣味があるだけで、老いも若きも職業も関係なく、一つに解け合う。どの顔も皆、笑いと喜びに溢れている。そこには、共通の喜びを分かち合う者の、安らぎが感じられた。

 席の後ろのほうに仲間の川島夫妻を見付け横に座ると、一緒に来ている筈の坪内氏の姿が見当たらない。いぶかしげに尋ねると、折角荷物まで送ったのに不都合が出来て来れなくなったと、顔が曇る。初めての八郎潟にあれ程楽しみにしていた事を思うと、こちらも胸が痛む。1ケ月も前から飛行機を予約し、仕事のやり繰りをして、釣り具を選び抜いて秋田迄発送したというのに、土壇場になって来れなくなるとは、坪内氏の無念が偲ばれる。 そこで、話を換えてポイントを尋ねると、既に昼から本湖よりの河口で竿を出しているとの事で、私が案ずる迄の事は無く、やはり皆、胸に期すポイントがあるようだ。

 大会は、22日の午前4時から始まった。先週の台風の時と違って穏やかな天候で、静かに夜が明けた。辺りを見回すと何処もずらっと釣人が並んでいる。私の前の桟橋は、案の定、鮒釣りの人が隙間無く上に乗り、じっとウキを見詰めている。昨夜は温泉に宿泊した山本氏も、テントを張って、定置網の右側で竿を並べている。

 私の左側では、若者のグル−プがテントを張り、湖岸は急拠テント村に変貌した。

それにしても、秋田の人は釣り好きだ。21日の午前4時から22日の午前12時迄、32時間もの長き大会に280余名もの参加者がある。その中には、マブナの部門の参加者も含まれているが、大半は野鯉釣りの参加者である。大会に参加していない釣人も入れると、この倍は入っている筈であるから、周囲60kmを誇る八郎潟と雖も狭く感じられる。 秋田の冬は早い。10月末になれば木枯らしが吹き始め、12月ともなれば暗い鉛色の空に覆われる日が続き、湖岸はそろそろ氷が張り始める。真冬ともなれば、八郎潟は一面厚い氷に覆われて、野鯉は暗い氷の下で、暖かい春が訪れるるのを、息をひそめて待ち続ける。秋田の野鯉師は、それまでの短い季節を満喫するべく、八郎潟に押し寄せるのだ。 私の暮している濃尾平野では、1年中、野鯉が釣れる。一番釣れない季節は夏である。一般に最も釣れないとされる冬は、逆に大型が良く釣れる。その為か、オフシ−ズンの無い釣りをだらだらと続けていると、中々ここぞという時に集中力を発揮出来なくなってくる。その一瞬々々を、精一杯燃やし尽くす事が出来なくなるのである。岐阜を離れて既に2週間が過ぎた。その間、毎日が野鯉釣りである。あれ程、夢にまで見たフルタイム、釣りタイムである。なのに、却って燃えるような意欲が湧いてこないのは、この辺りに原因があるのだろう。人間の心というものは勝手なものである。無い時は、あれ程熱望したものが、手にいれた途端に色褪せて見える。夢は、やはり夢の儘の方が良いのかもしれない。

 昼頃、私の右で、定置網に添って遠投していた、山本氏の竿が大きく曲がった。すかさず山本氏が竿を立てたが、大物らしく竿が弧を描いたまま動かない。

 『大物ですか?慌てず、じっくりやった方が良いですよ。』

私はタモを手にして駆け寄ると、糸の突き刺さる方を見た。

 『大丈夫です。走るのは何とか止まりましたから、その内弱るでしょう。』

山本氏は、はやる気持ちを抑えるように言うと、ゆっくりリ−ルを巻き出した。私が案ずる迄も無く、山本氏の竿捌きは慎重だった。獲物は、沖合をゆったりと右へ左へと抵抗していたが、岸辺に引き寄せられた時には、もうその力を残していなかった。

 『やったね。』

待ち構えた私がタモで掬うと、いつのまにか後ろに、昨日ルア−を振っていた若者が立っていた。

 『75cmは超えてるね。ひょっとしたら、80cm較いあるかも?』

若者特有の人なつこさで、矢継き早に話し掛けてくる。

 『オメデトウ!』

安全な所まで獲物を運びこむと、私も山本氏と握手を交わす。

 『どうも有り難う御座います。おかげで八郎潟の第1号が上がりました。』

山本氏はすっかり相好を崩して針を外すと

 『あれっ、これはトウモロコシに来てますよ。』と叫んだ。

ダブル仕掛けの食わせの針に、トウモロコシの実を付けたのがまんまと成功したのである。 その夜は、私のテントの中で山本氏と私と畠山君(ルア−の若者)の3人で、例の如く鍋を囲んでの宴会となった。昨日まで全く知らなかった、住まいも年齢も職業も全く違う3人が、いつのまにか旧年来の友のように打ち解けてはしゃいでいた。野鯉釣りは一人でもできるが、喜びを分けあう仲間がいれば、喜びは比例して倍加する。

 『釣れなくとも楽しめる釣り。釣れればなお楽し。』と言った淡水大魚研究会の小西会長の言葉も、仲間がいれば容易に実感できるのだ。

 結局、私の大会は、アタリの無いままに時間切れとなった。山本氏と検量所に赴くと、既に続々と大鯉が持ち込まれ、多くの人だかりが出来ていた。検量が済んで、水槽に泳がせてあるのは、どれも眼を見張るばかりの大物である。特に、大勢の人に囲まれた水槽の獲物は、一段と迫力を備え、1mもあるという。てっきりこれが優勝だと思い込んでいたが、表彰式の発表を聞いて驚いた。1mの上に、もう1匹1m1cmというサイズがいたのである。

 野鯉師の夢を聞くと、多くの者が、1mの大鯉を釣る事だと言う。中には、1mが釣れたら、鯉釣りを辞めても良い、と言う者もいる。

 それなのに、1mの大鯉を釣っても、2位なのだ。八郎潟の魚影の濃さと、スケ−ルの大きさには、只々圧倒されるばかりである。                   

 結局、5位迄が90cmオ−バ−。10位で85cmと、まさしく大鯉ラッシュである。しかし、そうそうたるその中に、小学生が入っていたのである。それも、91.6cmを釣り上げ、堂々と第5位の入賞である。そして、彼、沢木晋哉君は、同時に行われた進藤氏率いる秋田巨鯉釣り研究会の部門でも、並み居る大人をあとにして優勝に輝いた。

 また、第3位には、群馬県から参加の竹沼野鯉会の関口氏も入賞。この大会が、全国大会として各地から多くの参加者を集めた事を証明した1匹であった。

 さて、表彰式の最後を飾るのは、入賞者の大鯉を抱えての記念撮影である。メ−タ−オ−バ−2匹を交え、大鯉10匹がズラ−と並んだ様は、まさしく壮観としか言い様がない。これを見ただけでも、八郎潟に来た甲斐があると言うものである。皆、只々溜め息をつき、八郎潟をあとにした。