試 乗 記 録 (特別編) 21世紀「大乗り鉄ツアー」
取材期間 2000年12月31日()〜2001年1月4日(木)

Pege 3 2日目(その1)


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大阪駅に入線して来た特急「白鳥」

大阪駅に入線して来た特急「白鳥」(2001年1月2日)

 

 さて夜が明け、旅も2日目に突入である。 今日は、日本最長距離を走る昼行特急である「白鳥」を、全区間乗車

する日である。 大阪〜青森間は1,040キロもあり、ざっと12時間以上も乗車する長旅になる。 いつかは全線

乗車をしたいと思っていた列車であるが、機会に恵まれず今回が最初で最後の乗車となってしまった。 それもこ

の伝統ある特急「白鳥」は、2001年3月2日で、とうとう廃止される事になったからである。

 

 白鳥が走る大阪〜青森間は通称「日本海縦貫線」呼ばれる路線である。 そんな日本海縦貫線のエースである

「白鳥」の最後の走りを、ゆっくりと堪能していきたいものである。 なお日本海縦貫線とは、概ね大阪〜青森間の

日本海側の幹線を総称した言い方で、それぞれ東海道本線の一部(大阪〜米原間)、北陸本線(米原〜直江津間

および、短絡線である湖西線の山科〜近江塩津間)、信越本線の一部(直江津〜新潟間)、白新線(新潟〜新発

田間)、羽越本線(新津〜秋田間)、奥羽本線の一部(秋田〜青森間)から成っている。

 

 当日は朝早く起きて、昨日に引き続き大阪駅で撮影を行ってから「白鳥」乗車に臨む予定であったが、昨日の疲

れを引きずっていた為、やはり寝坊をしてしまった。 その為、当初予定していたDD51重連+マイテ49(展望車)

のイベント列車の撮影は、泣く泣く諦める結果となった。 (但し、回送列車については撮影する事が出来た。)

 

 まあ折角の白鳥乗車中に、長時間に渡って寝てしまっては乗った意味が無いので、安全策として無理をしなかっ

たとも言えるのだが・・・。

 

旅程表 (1月2日)

泊 〜 徒歩 〜 大阪駅 (大阪駅にて撮影) → 「特急 白鳥」 (全線乗車) 青森駅 〜 徒歩 〜 泊

 

 大阪駅には、「白鳥」の発車1時間半前くらいに到着し、上記イベント列車の回送を始め、各種車両の撮影をして

過ごしていた。 11番線から先発する「スーパー雷鳥」が発車していった頃に、私は北陸特急が旅立つ11番線に

移動して「白鳥」の入線を待った。 余談だが「スーパー雷鳥」も、3月3日のダイヤ改正から「サンダーバード」に

変わるので、いよいよ見納めである。

 

  ところで大阪駅11番線は一番外れに位置し、基本的には北陸方面の優等列車が使用する、一種独特の雰囲

気のホームである。 国鉄時代は荷物列車専用のホームだった事があると、以前聞いた事がある。 やがて時計

の針が10時を指し、まもなく「白鳥」が入線してくる時間となった。 さすがに大阪発車時点で、指定席がほぼ売り

切れと言った状況なので、指定・自由席車の停車位置も多くの乗客が溢れていた。 乗客はさすがに新年早々な

のでビジネス客は少なく、一部にツアー観光客らしい一団も見られた。 多分加賀温泉あたりまで行くのだろうか?

 

白鳥に乗車する乗客 「白鳥」の方向幕  (左) 白鳥に乗車する乗客
     私が乗った6号車は
     ツアー客が多かった

 (右) 「白鳥」の方向幕。
     これが見られる時間も
     後僅か・・・

 

 10:05分頃。 神戸方から3つのヘッドライトを輝かせて、特急「白鳥」となる485系の編成が入線してきた。

今日はやはりボンネット編成(京都総合車両所 A04編成)であった。 個人的には、入る確立が低い「非ボンネッ

ト車」による白鳥を見てみたかったものであるが、この当ては外れた・・・。

 

 入線が完了しドアが開くと、多くの乗客が乗車口から車内に吸い込まれていった。 しかし特急形の485系などは

片側一箇所しか乗降口が無く、しかも狭いとあって、中々乗車するのに時間が掛かっていた。 とりあえず自分の

席に荷物を置いた後、京都方の先頭車前に行ってみた。 さすがに正月休みと言うだけあって、多くの鉄道ファン

が取り巻いており、もう既に「さよなら列車」と言った雰囲気になっていたのには少々驚いた。 なお約20人程の方

が、撮影されていた様である。

 

 さて出発時刻が迫ってきたので、私も自分の席に戻って発車を待つことにした。 10:12分。 「白鳥」は青森へ

向け、静かに大阪の地を羽ばたいて行った・・・。

 

路線図   発車後、大阪駅構内を抜けたあたりで、

 車内放送が始まったが、放送が終わった

 と思った頃には、淀川の橋梁を渡り切り

 次の停車駅の新大阪に到着していた。

 

  新大阪駅では、新幹線乗り継ぎ客が乗

 車した為、空いていた席もほぼ埋まってし

 まった様である。 この新大阪を出たとこ

 ろで懐かしい「鉄道唱歌」のオルゴールが

 流れ、再度車内放送が始まった。

 放送では、新潟までの停車駅と到着時刻

 がアナウンスされていた。 なお新潟まで

 はJR東日本新潟車掌区の乗務員が乗務

 している。

 

 車窓は、全国屈指とも言える過密路線区、アーバンネットワーク区間を走行するだけあって、223・221系と言っ

た俊足を誇る近郊・通勤形電車が、ひっきりなしに往来を繰り返し、全くもって飽きさせない。 また沿線に鉄道ファ

ンが多く見られた様でもあるが、今日はDD51重連+マイテ49のイベント列車が走った関係であろう。 特に有名

撮影地である山崎付近には、20人以上の人だかりがあった様である。 また後で知った話であるが、山崎で見か

けた人だかりの中に、どうやら知り合いが居たそうである。

 

 こんな山崎付近を越えると、京都府内に入っていた。 「白鳥」「雷鳥」に運用される485系の寝床である京都総

合車両所(旧向日町電車区)を横目に、白鳥は一路京都を目指していた・・・。 京都には10:39の到着である。

やはりここもファンの姿が多かった様である。 京都でもに若干の乗車があり、これでこの列車のピークである乗車

率に達した様であった。

 

アーバンネットワーク区間を走り抜ける 車窓に広がる琵琶湖  (左) アーバンネットワーク
     区間を走り抜ける・・・


 (右) 湖西線に入ると車窓に
     琵琶湖が広がってきた

 

 京都を発車しトンネルを抜けると、湖西線の分岐点である山科付近を通過していた。 また長いトンネルに入り、

それを抜け出ると、滋賀県内に入ったことになる。 これから日本最大の湖である琵琶湖の西岸を、北陸に向けて

北上することになる。 天気は大阪発車時点で曇り空だったものが、時折日が差す天気になっていた。 これが今

回の「白鳥」乗車の中で唯一、晴れ間が見えた瞬間であった。

 

 確かに、どんどん北上して行く内に、天気がまた曇り空に戻ってくると共に、車窓に積雪が見られる様になってき

た。 もう日本海側が近くなって来た様で、既に列車は直流電化区間北限の永原を通過していた。 永原〜近江塩

津間には、直流電化区間と交流電化区間を隔てるデットセクションが存在する。 この話中では、デットセクション

や交流電化・直流電化と言った言葉が、頻繁に出てくるので以下に簡単な説明をしておこう。

 

 鉄道の電化方式には大きく分けて、直流方式と交流方式の2つがある。 直流方式は乾電池などと同じ+−の電

極がある電源で、抵抗器と組み合わせて、直接モーターを容易に制御できる電源である。 日本国内では古くから

電化されているJR線や、民営鉄道等(阿武隈急行など一部に例外あり)にこの方式を採られている。 (概ね、路

面電車や中小鉄道の一部等は、大体600〜750ボルトの電圧。 JR線やその他路線では1,500ボルトの電圧

で電化されている。) 一方交流方式は、電灯線(一般のコンセント)を流れる電気と同じ電源である。 よって家庭

用電源と同じく、西日本では60Hz、東日本では50Hzと言う違いが存在する。 (在来線が2万ボルト、新幹線が2

万5千ボルト)

 

 昭和30年代。 当時の国鉄では、本格的に蒸気機関車による運転から、電気運転に切り替えが検討される事と

なった。 この際に設備の構造が簡単で且つ、高出力が期待できる交流電化が有利と判断され、国鉄仙山線での

試験が好成績を収めた事もあってか、東北・北海道・北陸・九州での電化は、交流方式で行く事になった。 もちろ

ん最初から新線建設とされ、高出力が必要となる新幹線にも、交流方式が採用されている。 この結果、2つの電

化方式が接続する個所が、全国に存在する事になった。 この接続方法の一つが、デットセクションを用いた車上

切替である。

 

 デットセクションとは、架線(電線)に電力が流れていない区間の事であり、この区間の前後まで交・直流の電気

が流れている。 この区間を交・直流両用機器が搭載された車両が、惰行(無動力)で通過する最中に、運転手が

交流・直流回路切り替えスイッチを操作し、交流・直流の切り替えを行っている。 (現在は、自動切替が出来る車

両も登場している。) 交・直流切り替えの手段としては、他に駅に停車した際に、架線の電流を切り替える地上切

替方式や、セクションのある区間だけ、蒸気・ディーゼル機関車が牽引して接続する間接式があるが、このデットセ

クションを使った走行途中の切替え(車上切替と言う)が、時間的・人員的ロスも無く、運転扱い上も有利である。

この為、日本ではこの方式が主力となっている。 ちなみに今回乗車の「白鳥」は、485系と言う、直流1,500V・

交流20,000V(50Hz)・交流20,000V(60Hz)の区間を走行する事が出来る「三電源方式車」と呼ばれる車

両で運転されている。 まさに「白鳥」と言う列車は、485系電車のフル性能を発揮できる列車だと言えるだろう。

 

 話が横道にそれたが、この最初のデットセクションを通過する頃には、先日降った雪が残る中を走っており、いよ

いよ北陸が近づいて来た事を教えてくれていた。 やがてデットセクションに入り、一旦室内灯が非常灯を除き全て

消え、暫く間を置いて室内灯が再点灯した。 これで交流電化区間に入った事になる。 やがて右手から、米原方

面からの北陸本線が合流してくると、近江塩津である。 この辺りから新疋田〜敦賀にかけては、有名な「新疋田

ループ線」など撮影地が多く点在するところである、また京阪神方面から近いとあってか、ここに来て沿線で撮影に

興じるファンが急激に増えてきた。 ファンが大勢駆けつけている新疋田駅を過ぎると、ループ線となる上り線と分

かれ、単線急勾配の下り線をひたすらに敦賀に向けて下っていく・・・。

 

 やがて、上下線と小浜線が併走するようになると、北陸の玄関口でもある敦賀に到着となる。 敦賀は、先程まで

の晴れ間が見える空とは打って変わって、時雨模様の天候であった。 この敦賀を出ると、木の芽峠を北陸・今庄

トンネルを介して越えていく事になる。 北陸トンネルと言えば、同トンネル開業記念郵便切手に、キハ80系時代の

「白鳥」が登場するなど、「白鳥」とゆかりのあるトンネルである。 (この切手については、絵柄にさまざまな疑問が

あり、ファンの間で物議をかましたが、この話題に付いては、ここでは省略する。)

 

 そんな北陸トンネルを485系は、快適な快適な速度で走り抜けていく・・・。 私はトンネル走行中の吸い込まれる

様なサウンドに、やがてウトウトと眠くなってしまった・・・。 暫く寝ていたのだろうか、気が付くと今庄を既に過ぎ、ど

んどん福井平野の真っ只中へと、快調な足取りで走りつづけていた。

 

福井駅の駅弁「かにめし」 福井駅に到着  (左) 福井駅の駅弁
     「かにめし」


 (右) 福井駅に到着
     419系や京福電鉄の
     車両が見られた・・・

 

 さて、ここで車販のワゴンサービスが回ってきたので、福井駅の「かにめし」を一つ頼んだ。 私につられたのか、

隣りの乗客も同じ物を頼んでいた。 さて「かにめし」の中身であるが、蟹の身がご飯の上に乗っており、見た目か

ら美味しそうな駅弁であった。 さて食べてみるが、ご飯にも蟹の美味しさが染み込んでおり、非常に美味しい駅弁

であった。 なおケースが立派な物だったので、食した後はそのまま持ち帰る事にした、丁度いい物入れになりそう

だ。

 

 さて、今日の福井地方は、雪こそ降っていないものの雨風が酷く、走る列車を直撃していた。 これから北に向か

う者としては、この先の天候が非常に心配になる様な天気模様である。 さて、敦賀の次は武生に停車である。

この武生を出ると、いよいよ福井平野の真っ只中である。 次は福井に停車するが、福井では419系のローカル

電車や、京福電鉄の車両の姿があった。 ここ福井では、乗客の変動が思った程なく、あっさりと発車してしまっ

た。 福井の次は芦原温泉に停車である。 この芦原温泉を過ぎると、県境の峠越え区間に入っていくのだが、相

変わらず外の天候は、厳しい冬の日本海側らしい天候であった。

 

 その峠を越えると、いくつかの温泉街へのアクセス拠点である、加賀温泉に停車である。 ここでは大阪から乗車

していたツアー客を含めて、かなりの下車があったようである。  この加賀温泉を発車すると、次の停車駅は小松

である。 この小松を出ると、いよいよ加賀百万石の城下町である金沢である。 その金沢に向けて、金沢平野を

特急「白鳥」が快調に走り抜けていく・・・。 この辺もやはり「特急街道」とあって、485・681系の特急電車が、ひっ

きりなしに通り過ぎていくので、非常に車窓を飽きさせない。 今となっては新幹線が無い北陸本線が、全国有数の

「特急街道」である事は、否めようの無い事実であろう。

 


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