霊に関する総合知識サイト  霊をさぐる

真のスピリチュアルメッセージ
高級霊魂からのメッセージ

一の章
一、霊的に生きるとは

二、霊的生命体としての人生について
三、霊的生命体としての人生の意義
四、霊的生命体としての生きる目的 1

五、霊的生命体としての生きる目的 2

一の章  一、霊的に生きるとは (13.05.07)

Q

霊的な人生について教えてください。

A

霊的な事を信じるのであれば、「ああしなさい」、「こうしなさい」、という教えは必要ありません。それぞれに自分で考えて自由に生きればよいだけです。

では、教えは何もなくても良いのですか?

人間も霊魂も自由です。他者に強制される事は嫌いです。教えは規範というよりも、実質的には強制になってしまいます。

では、どんな風に生きても良いのですか?

霊的生命体* は本質的には自由なのです。ですが、物質の世界(この世)に生きている人達はそうも行きません。
  
霊魂と違って食べなければ生きられません。そうなると、働かねばならなくなります。さらには出産して子育てをしなくてはなりません。
  
つまり、家族や社会を作って生きています。そのために、どうしても一定のルールが必要になるのです。周囲の人達が人殺しばかりでは、皆、安心して暮らせません。それため、社会にはルールは必要ですが、生き方はそれぞれで良いのです。

ですが、宗教家は皆、ルールの範囲を超えるたくさんの教えを説いています。それらは不要なのですか?

そうではありません。人間は自由だと言われると、どうして良いのか分からなくなるのです。より進歩した人の、より良い生き方を教えて欲しくなるのです。

難しい事を考える事は苦手だ、という人もいます。また、どうしたら幸せになるのか、と悩む人もいます。いえ、それ以前に、今の苦しみから抜け出したい、と真剣に悩んでいる人もいます。そのような人達は誰かに助けてほしいし、導いてもらいたいのです。

歴史上、立派な宗教家達は、悩める人が救われるような教えを説こうと努力してきたのです。その努力は称賛に値します。

ですが、その事と、霊的生命体としての生き方の自由とはまた別なのです。


次は、霊的生命体としての人生について教えてください。

*霊的生命体 … 死後の世界(霊魂の世界)でも生き続ける霊的な生き物の意。

一の章  二、霊的生命体としての人生について (13.05.11)

霊的生命体は自由だとしても、霊的生命体としての理想の人生はあるのでしょうか?

理想というのであれば、あります。

人間という霊的生命体が生きている以上は、その理由もあれば意義もあります。ですから、仮に不幸になったとしても、それが霊的生命体としての生きる価値を高める事であれば悪い事ではないのです。

逆に幸福になったとしても、霊的生命体としての存在意義をなくす事であれば、それは正しい人生とは言えません。

では、幸福になったから良いとか、不幸だから悪いとか、そうした事は一概には言えない、という事ですか?

はい、そうです。

人間の感じる幸福はその人の感じ方によります。

貧乏でも日々の安心を得られれば満足する人もいれば、大金持ちになっても、二番だというだけで不幸を感じている人もいます。

幸福はそれぞれの人達の欲望の満足感なのです。欲しいものが得られるまで幸福を感じられないのです。

では、幸不幸は霊的生命体の理想の人生とは関係ないのですか?

幸不幸は主観の問題なのです。

地獄の入り口にいても幸福感を感じる事ができるのであれば幸福なのです。 

霊的生命体の理想の人生と、幸福、不幸の思いは一致するものではないのです。

分かりました。



一の章  三、霊的生命体としての人生の意義 (13.05.12)

霊的生命体として理想の人生を知るには、その前に人生の意義や目的について知るべきだと思うのですが…。

人間という霊的生命体は元々は幽質の世界に生きていたのです。ところが、ある理由で地上に生まれたきたのです。

『ムーの大神人』にあるとおりですね?

そうです。

人は、とにかく物質の世界に生まれたために、食事をし、生み育てる生命体になったのです。霊魂の世界は食事の必要がない上に、思えば何でも手に入るような世界なので、働く必要がありません。*死後の世界への入り口参照

そうした霊魂達が物質の世界に生まれたために様々な苦しみを背負ったのです。
たとえば、食べなければなりませんが、食べ物は皆、生きています。植物といえども生きているのです。ですから、人は生きていくためには他の生命を殺さねばなりません。これは、とても残酷な事です。できれば、殺したくないものです。ですが、殺すしか生きる道がないのです。

人は知性が発達しています。他の動物であれば腹が減れば他の動物を襲って食べるだけです。そこに善も悪も感じません。ですが、人間は違います。ペットを食べたいとは思いません。ところが、考えてみれば、牛も鶏もペットになり得るのです。誰かには食物でも、他の誰かにはペットなのです。ということは、飢えた人が誰かのペットを食べたい、という事もあり得るのです。

つまり、人がこの世に生まれるという事は残酷な事なのです。

植物でも同じなのですか?

もちろんです。植物も霊的な生命体として生きているのです。
死後は幽質の世界に入ります。食べるのは残酷です。


では、この世で人が生きる事自体が罪なのではないですか?

そうです。

ですから、キリスト教は言っています。アダムとエバが神様の教えに従わずに楽園を追放されてしまい、労働の苦しみ、産みの苦しみを背負いました。キリスト教では、それを原罪と言っています。

これを霊的に解釈すれば、人間という霊的生命体が物質の世界に降りたために、労働や産みの苦しみを背負う事になり、他の生命を殺すことになったという事なのです。

霊的な生命体は動物の進化としての物質の身体に侵入し得えたのです。ですから、動物の身体が今の人間に進化したという『進化論』と「霊的な真実」とは矛盾しないのです。

聖書は正しいのですか?

正しいと言うわけではありません。ただ、霊的な部分もあるという事です。

では、人間という霊的生命体がこの世で生きる意義などないのではないですか?

そうとも言えます。

と、言うよりも、一旦、霊的生命体が物質の世界に下りてしまったために、たくさんの苦しみを背負わざるを得なくなった、その為にどうしたら良いのか、という事が生きる意味や目的になってしまったという事なのです。

そのため、イエスは神を愛する事を説き、哀れな罪人である人類が救われる事を夢見たのです。


人を救いたいという思いは仏陀も同じですね?

当時のインドで、どうしようもなく苦しむ人達を思えば、何とかして苦しみを軽減させてあげたかったのでしょう。
イエスもシャカ(=仏陀)も、あまりにも偉大な魂だと言えます。


スピリチュアルな教えの中には、この世には心の修行に来た、と言う人達がいますが…。

高級な霊魂方の世界にはそうした主張はありません。

たとえば、この世に心の修行に来てもあまり意味はありません。心は物質の肉体の脳に支配されてしまうからです。人は疲労すれば積極的ではなくなりますし、飲酒すれば心が開放されますが理性を失います。老いれば記憶も曖昧になります。脳の機能によって性格も変わってしまいます。
  
それよりも、「幽質」の世界で、「幽体」の脳を使用していれば、理性はいつでも保てますし、愛の心を持ちたいと思えば、妨げるものはありません。「幽質」の世界の方が愛の心を育てやすいのです。霊魂の世界は自由な上に、何でも手に入りますから、他と争う必要がないのです。ただし、下の方の世界は別ですが…。


心の修行は幽質の世界でも充分に可能です。わざわざ物質の世界に生まれて動物や植物を殺す必要はないのです。食べられるのはどんな生命体でも辛い事です。

この世で心の修行をしても意味がないのですね?

社会人としては、心の修行は良い事でしょう。ですがそれは、霊的生命体として物質の世界に生きる目的ではありません。

第一、心のどんな状態を良い状態と言うのでしょうか。一度も怒らない人が尊いとでも言うのでしょうか。

高級霊魂の中には真剣に怒る方もいらっしゃいます。泣いてばかりの方もいらっしゃいます。下の世界で苦しんでいる霊魂達の事を思えば、怒りが止められなかったり、泣かずにいられなかったりするのです。それは、物質の世界の人達に対しても同じです。そうして泣いてくださる方々が、わざわざ辛い思いをしてでも、この世に降りて来られるのです。

楽をしたければ、誰もこの世の事を気にはしません。高級霊魂の世界はこの世に比べれば楽園なのですから。高級霊魂が物質界に降りられるということは、自らの霊的な力が落ちてしまう事を意味します。それでも、苦悩する人々の姿に涙が止まらないからこそ、自らの霊的な力を落としても、この世に指導に降りられるのです。

この世の方々は、そんな霊魂方に対して、泣き虫だの、マイナス思考だのと説教なさるのでしょうか。

心が成長することは良い事です。立派な人になれれば良いでしょう。ですが、それは霊的生命体としての生きる目的や意義ではないという事です。


一の章  四、霊的生命体としての生きる目的 1  (13.05.14)

では、結果として、この世に生きる上で、生きる目的は何でしょうか?

生きる目的というものはありません。人は生まれてから死ぬまで他人と競争して、少しでも幸福になりたい、そう願って生きています。それは、自由ですし、霊的に悪い事ではありません。ですが、別に霊的生命体としての生きる目的でもありません。

人はこの世に生まれても、誰かを傷つけ、誰かをひきずり下ろして、幸福を掴もうとしています。
人はどのように生きても自分や家族が食べて行くためには必ず誰かと競い、誰かをひきずり下ろしているのです。誰かの犠牲の上に自分の幸福を得ています。それ以前に、大勢の動物や植物を殺し、道路を造ると言っては山のように小動物を殺しています。この世に生きる事、それは他を犠牲にする事そのものです。そこに生きる目的などあろうはずがありません。

分かりやすく言いますと、人間が物質の世界に下りた事自体がキリスト教で言う罪なのです。ですから、生きる事自体が罪ということなので、そこに生きる目的などありえないのです。

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一の章  五、霊的生命体としての生きる目的 2  (13.05.15)

もう誰も生まれず、誰も生きなければ、良いのでしょうか?

そうした考えを持つ霊魂も大勢います。

ですが、それも簡単ではありません。

動物の進化である肉体を所持する人間は、肉体の持つ本能に支配されています。そのために、食欲や性欲は動物の身体の本能となっています。子孫繁栄、子供の成長を願って生きるのが本能です。ですから、そのようにはなりません。

また、人間は何度も生まれ変わっています。ただし、普通に考える生まれ変わりではありません。非常に難しいプロセスを経て、自分自身の幽的な身体の一部が生まれるという難しい仕組みになっています。

話がとても難しいので、ここでは説明は省略します。

いずれにしましても、人が再生を繰り返しているため、この世に生きる意味が大変複雑で説明しにくくなっています。

それでは、もうこの世に再生しなくても良い状態になることが理想ではありませんか?

そうなれば、良いのですが、それは簡単ではありません。

なぜならば、意識の奥の深い部分まで変化させ、魂全体の霊的進歩を得なければならないからです。

普通に生きて良い事をしていても、意識の奥は変化することはありません。


霊的な進歩と心の進歩は別なのですね?

はい、そうです。

心は魂(たましい)のほんの一部です。物質の世界で生きるうちは、心は魂の全てを表現することができません。

心理学でも、潜在意識がある、と言っているように、心はもっともっと大きいのです。魂を真に進歩させようとしたら、普通に生きていてはどうにもなりません。霊的トレーニングの専門家に弟子入りしなければとても無理なのです。

霊的な進歩とは魂としての進歩の事です。ですから、物質的な心のみを扱っていても、進歩と言えるまでにはとうてい至りません。

では、特殊な霊的トレーニングを行なって「霊的な進歩=魂としての進歩」を得ることができれば、生きる目的を達成したと言うことはできますか?

人生の目的と言うから難しくなるのです。人生の目的であるのか否かは別として、人間という霊的な生命体は、霊魂の世界では霊魂としての進歩を目指して生きています。もちろん、上の方の霊魂だけですが…。

人間は霊魂の世界にいても、物質の世界(この世)にいても、霊的生命体としての進歩を目指すのは良い事なのです。ですが、それは強制できることではありません。

そして、物質の世界で霊的に進歩するためには、特別なトレーニングでもしなければ難しい状態になってしまったということなのです。

ですから、普通に瞑想していては、どうにもなりません。

まず大事な事は、自分達の置かれている状況の自覚だと言えるでしょう。


このページはずいぶんと大きなテーマを扱っています。
更に専門的な事を知りたい方もいらっしゃるかもしれません。
ですが、お一人お一人に専門的なお返事をすることは
時間的に無理があります。

更に詳しい事は、霊魂学を学ぶ会である「契山館」の霊的集会などで発表しています。


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