チベットの国土


 このコーナーでは、チベット人自身によるチベットの国土区分の用例を紹介してゆきます。
 チベット地理用語もあわせてご覧ください。
デシー=サンギェギャムツォ、二十一条法典(1681)
「チベット三州」もしくは「チベット十三万戸・ドカム六高地」などのこの大地に、・・・
コンチョク=ジクメワンボ著、ジャムヤンシェパ一世の伝記(1758)
 いにしえの神なるツェンポ(=吐蕃王朝における君主の称号)たちの時代に、「人のドトェ(上ド)州」、「仏法のウィツァン州」、「馬のドメー(下ド)州」というチベット三州、あるいは「ポェ(チベット)」と「大ポェ(大チベット)」の二地区とよばれたそれらの後者で、ドの国の下手(=メ、すなわちドメー)の地方の、勝楽仏の宮殿が実際にまします聖地タクカルと非常に近い土地で、ゲンギャーティンリンという所に・・・
ドリン=テンジンペンジョル著、ガシ一族の歴史(1806)
 さて、この広大な雪のある娑羅樹の薬草の国の大抵の史書には、一般のチベット人民の口伝えとして「上手のガリ三域(トェ=ガリ=コルスムstod mnga' ris skor gsum)」、「下手のド・カムの六高地(メー=ドカム=カンドゥクsmad mdo khams sgang drug)」、「中央のウィツァン四翼(パル=ウィツァン=ルシbar dbus gtsang ru bzhi)」と呼ぶけれども、「下手のド・カムメー=ドカム」の六つの高地はこれとこれであると、正しい根拠をなんにも示すことなく上記のごとくいうのは、「三域(コルスムskor gsum)」と「四翼(ルシru bzhi)」など七地方に「六高地(カンドゥクsgang drug)」を加えれば十三になると思い「チベット十三万戸(ポェ=ティコル=チュクスムbod khri skor bcu gsum)」と数字が一致するためにいい加減なこじつけを述べたとしか考えられない。
 実際に「チベット十三万戸」を列挙する場合は、吉祥なるサキャパとセチェン=ハーン陛下が施主と福田の関係を結ばれた時代、戸口調査をなさった際の提示方法では、南北ラトェ、ガリ、チュミク、シャン、シャルなどツァンの六万戸と、ギャマ、ディクン、ツェルパ、バクモドゥ、ヤブサンなどにラ,チャ,ドゥクの三地方を一括したウィの六万戸と、ウィとツァンの中間にあるヤムドゥクの一万戸などが「チベット十三万戸」といわれるのであって、上述の言い方とは同じではない。チベットの公文書や教法史など過去の先哲の、多くの根拠ある主張の中にも、ルトクは雪に囲まれ(skor)、プランは森に囲まれ、グゲは岩山に囲まれているので「上手の三域トェ・キ・コルスム」、東のポムボルカン、西のロンポカン、北のツァワカンなど「下手の三カンメー・キ・カンスム」、左翼、右翼、中央翼、支翼等の「中央の四翼パル・キ・ルシ」等と明記されている。
 ※「吉祥なるサキャパ」
帝師パワ=ロドゥギェンツェン(1235-80, いわゆるパスパ)
 ※セチェン=ハーン
モンゴル帝国第五代ハーン・フビライ(位1260-94)

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