すべてがそこにありますように。  3




12:45 星野 良子

「もおぉ、あれしきの理由で、呼びつけないで貰いたいわ。今日は年に一度のチャンス日なのに・・・」
腰を落ち着けたばかりの運転席で、オットー製薬の星野良子は大きく溜息を吐いた。
ここは自社の駐車場だが、今は自分の乗る車以外に一台も見当たらない。直行直帰が基本の営業職は、滅多なことでは会社へ立ち寄らないものだからだ。
しかし本日は、部長からの呼び出しを受け、午前中のクライアント回りを済ませた後で顔を出した。何事かと構えて上司の前へ出てみれば何ということはなく、先月の売り上げがトップだったから、と直々にお褒めの言葉をかけられただけのことだ。対面での労いが部下の意欲増進を引き出すと信奉する、頭の古い男達の神経を逆撫でしないよう機嫌を取っておくのも、楽なことではない。
今日は随分と気温が低い。予報ではこの冬一番の冷え込みで、夜半には降雪の可能性が高くなると示唆されている。
後部座席に積み込んだ品々を今一度確認してから、イグニッションキーを回す。午後からは、天真楼病院と他にも数箇所、出向くことにしている。今日は214日―――バレンタイン・デイだ。
医療業界はまだまだ男社会だ。各病院の重要ポストはほとんどが男性であるし、医師そのものも男性が多い。事務方に於いても男性職員の数が女性を上回っている現場が大半で、少なくとも自分の担当病院は圧倒的にそちらが多い。
となると、女の自分としては使える手が一つ増える―――つまりは『女性』という武器も使いようによっては生きてくるということだ。とはいえ、下手に色仕掛けをして変な泥沼に嵌まり込むのはまっぴら御免だし、後で恨みをかってもかなわない。嫌味にならない可愛らしさとギリギリのあざとさを狙い、その胸襟をいかに緩めさせられるかに今後がかかってくる訳だが、一歩間違うと舐められかねない。その点、告白イベントとして言い訳の利くバレンタイン・デイは、女として大っぴらに媚びることが可能な、実に、ありがたい記念日なのである。
さしあたっては男性ドクターをターゲットとしているが、病院への差し入れという名目で考えると、地位のある女性ドクターも大事な的(まと)だ。最終的に処方箋を書くのは医者一人一人の判断に拠るものの、科全体としてどの製薬会社のものを主力に扱うかといった基本方針は存外、上から下へと暗に浸透してゆくことも多い。だから性別に関係なく、管理職も兼ねる医師達の意向を疎かにはできない。それに、何事も購入に際しては事務方からの承認が必須で、事務長は当然のこと、それ以外にも購入権限へ影響を持っていそうな人材を心付けておくに越したことはない。
天真楼病院第一外科は、星野にとって大いなる得意先の一つだ。約二年前にNRD(中性子放射線照射装置)も含めた医療機器を一括納品できたことはまさに僥倖だった。その立役者ともいえる司馬江太郎医師は、その後すぐに同病院を辞してしまったが、これまた約一年前に元いた職場へ返り咲いていた。超一流のオペ技術をもつ天才外科医ゆえ、前の職場が彼を呼び戻したことは特段に奇妙だという訳でもないのだけれども、星野自身はなんとなく不自然な感触を抱いた。自分としては司馬が二度と戻ってこないのではないかと感じていたからだ。
一つには司馬と激しい敵対を繰り返した石川玄という外科医が、今だ其処へ在籍していることが理由だ。そして、あの当時、外科を束ねる中川淳一部長が見せた、妙にすっきりした表情―――司馬と袂を分かつ決心をしたゆえの様相に思えたのも一因だった。
しかし、その予想に反して、約八ヶ月のインターバルを経た後、司馬は天真楼病院へ帰ってきた。後に判ったことだったが、中川と司馬を指名してきた難易度の高いオペを手掛けさせるため、病院の一大事として理事長以下の経営陣がここぞとばかりに移籍人事を敢行したのだという。
尤も二年前と異なり、復帰した司馬に役職は付いていない。天真楼病院の場合、年度末に検討される購入委員会での票数が次年度の医療機器納品数へもそれなりの影響を与えるのだが、その会合では各科の部長以外にも票を有する者達が在り、それが参事という役職だった。そして今、第一外科の参事兼主任は、里村正樹という、司馬より少し遅れて赴任してきたカンザス大大学院帰りの外科医が務めている。
この、里村という男、容易く篭絡できるかと思いきや、なかなかの曲者だ。丸顔で人懐こそうな雰囲気と温厚な口調からはその嗜好をまるで把握することができず、何を持っていけば里村のお気に召すのか、未だ手探り状態なのだ。来月の購入委員会開催を前にして、星野自身のことはもちろんオットー製薬への覚えを良くしてもらう為にも、里村の懐柔は最重要課題だった。
それに、司馬の動向にも、引き続き注視する必要性を感じている。経営陣がわざわざ彼を再雇用したという事実は、病院上層部がその利用価値を評価しているからで、要は、司馬と理事長や院長との間に太いパイプがあるからに他ならない。勿論それは、彼の卓越したオペ技術があってこそだが、清濁併せ呑む割切りの良さも一役かっているであろう。つまりオットー製薬としては、まだ司馬には使い道かあるのではないかと様子を見ている訳だ。
そしてその司馬との関わりを考えると、石川という存在も押さえておかねばならない。
星野は、ある手応えを得ていた。以前は激しく反目していた司馬と石川だが、今の関係性はそうではない―――というより寧ろ、真逆であるという確信だ。
自分がそう感じたのは、司馬が天真楼病院へ復帰して、ひと月ほど経った頃だろうか。1994年の年明け早々、超が付くほどの難関手術を無事に成功させた快挙への称賛と慰労と司馬の再着任を歓迎する意味合いで、中川外科部長から暗に接待を要求された。カニ好きの中川に合わせた予算枠は当然、確保してあったし、外科部長だけでなく司馬と石川をまとめて接待できる機会など、そうそう巡ってはこない。あの二人の知られざる一面を知り、あわよくば発注数アップに繋がる『何か』が得られればしめたものだ―――こんなチャンスを逃す手は無いと、有名なカニ料理専門店の個室とフルコース四人前を予約した。
そうこうして始まった座敷での歓談だったが、並んで胡坐をかいていた司馬と石川、二人の様子から、随分と仲良くなったものだと驚かされた。そして、諸事情から予定より早く席を立った彼等の、それからの行動を目の当たりにした時、星野自身が半信半疑になった―――店の外でタクシーを捕まえようと腐心していた石川と、その彼に抱かれるようにして引き摺られていった司馬の様子が、今でもはっきりと記憶に残っている。
(アレって、デキてる・・・ってことよね?)
あくまでも自分がそういう印象を受けた、というだけなのだが、大いに頷けることでもあった。共に優秀な同い年の者達が激しく反目していたとしても、その強い感情の向く方向が絶対に逆転しないとは断言できない。しかし、星野が改めた認識を他の人間は受け容れられないであろうし、司馬と石川の間に変化が生じたこと自体も信じないだろう。
さて、図らずも嗅ぎ付けてしまったその秘密だが、何かに使えるかといえば微妙なところだ。精々、自分が勘付いたことを当人達へチラつかせる程度の用途しか思いつけぬ。こちらの仄めかしに怯んで、少しでも当社の薬を多く注文する気になってくれれば、儲け物といったところか。
とはいえ、司馬の方はびくともしない。
「そんな与太話、天下のオットー製薬サンの口から聞くなんて・・・思ってもみなかった、ぜ?」
と、鼻で笑われるだけだ。専ら、石川相手に圧力をかけ続けているものの、こちらもなかなかしぶとい。星野のからかいに困ったような顔はしてみせても、薬の追加注文には結びつかない。
「僕としては、必要な薬を必要な分だけしか、依頼できませんから・・・」
まったく―――どいつもこいつも、扱い辛い連中ばかりだ。尤も、それは天真楼病院の勤務医に限ったことでなく、担当する病院スタッフの大半がそうであるのだが。だからこそ、そういった連中相手に様々な手練手管を用い懐の奥深く入り込むことができた時には、動く金額も大きくなることが殆どだ。そして、その兆しを察知できた時の興奮は、一度でも経験すると、やみつきになる―――この、製薬会社営業という仕事が性に合っている、というだけでなく、己の天職だと信じられる瞬間だとも思う。
けれども、自社製品に対する愛着はさほど強くはない。もちろん、薬品としての効能や治験結果で明示された優位性についてはアピールするし、求められなくとも必要な資料は一式提示して、余念ない売り込みを心掛けている。だが、医療機器はともかく薬品の場合、同一製品を投与したとて患者毎に効果の出方が異なる方が普通であるし、そもそもが必ず効くと保証できるものでもない。よく、世間一般で声高に語られがちな、本当に良いものであれば自ずと売上げが追い付いてくる、などという論理は通用しないのだ。
それでも、他社と比べた自社製品の有用な価値を如何に売り込み先へ信じさせ、如何に長期の契約へと持ち込めるかが勝負処の一つであり、販売価格をよりよい値で決定するための交渉力は、そのまま星野個人の能力として評価される。様々なやり取りを積み重ねながら、想定通り若しくはそれ以上の価格帯で商談をまとめられた時の達成感は何物にも代えがたい歓びとなり、延いては更なる成果を望み、高まる自分の野心をも鼓舞してくれる。
正直なところ『恋愛』という寝呆けた単語など、星野の眼中には皆無だ。適齢期の女性が配偶者に求める職業ランキングで常に上位へ位置する『医者』達と数多く知り合える今の立場は、世の平均的女子からすれば羨まれるかもしれないが、自分が彼等を『男』として意識することは無い。そう、『医者』はただの商売相手でしかないのだ。
(ま、取引先は、多いに越したことはない・・・って、コト)
ゆえに、今日配るチョコレートは文字通り、『義理』でしかない。甘いものが苦手な人にも煩がられないよう、チョコレートの数と量は少なくして、それも国産の老舗メーカー製を選ぶ。ひょっとしたら幼少期に口にしているかもしれない、その製菓会社名のプリントされた包装紙が目に入れば、不得意な味への嫌悪感も下がるだろうと考えてのことだ。そして、ラッピングしたチョコレートを入れる紙袋には、無地やごくオーソドックスな柄物を何種類か取り揃える。主に男性に対してだが、鞄と一緒に持っても違和感のないように、といった配慮も忘れてはならない。
寧ろ大事なのは、そのチョコレートに添えて手渡す、相手の嗜好やウィークポイントをついた様々な御品の方で、平たく言えば『袖の下』だ。付き合いの密な医者の中には、司馬のように正面切って現金を要求してくる者も何人かいるが、所詮、今日はバレンタイン・デイに過ぎない。変な誤解の元とならぬよう、あくまでもちょっとしたプレゼントとして通るようにしておく必要があるのだ。
大体、この程度でなびく医者など、いるとは思っていない。しかし、人の縁とは、どこでどう繋がるか判らぬものだ。その為の投資だと思えばこその『種蒔き』ともいえよう。第一、撒かぬ種は生えぬ。けれども撒いた種から何かが生え、時として予想外の収穫を得られる奇跡が起こり得ないと断じることは、決して出来ないのである。
「さあ、そろそろ出かけなくっちゃ、ね」
ゆっくりとアクセルを踏み込んで、漸く、星野は車を発進させた。

To Be Continued・・・・・

(2023/7/1)



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−第3話に対する言い訳−
事実上の初書き星野女史です。三十年前と今とでは製薬会社の事情も変わっているとは思いますが、
1993年頃はこんな感じだったんじゃないかな〜と。というのは、バブル崩壊したけれど、当時の製薬業界ってまだまだ安泰だったんです。これは食品業界もそうだったと思いますが、薬や食料といった生活必需品には一定需要があるため、経済的には回っていたんですね。
だから、「経費削減しろ」とか、あまり言われていなくて、接待費もフツーに精算できたようです。ただし、この話で諸々書いていることは完全なる妄想の産物ですので、できるだけ読み流してくださると嬉しかったりして←オイコラ
文中で言及した、星野が"中川外科部長から暗に接待を要求された"話とは、とーぜんカニネタです(大笑) "カニ好き中年"のキャッチに違わないウチの中川ですが、案外、司馬(もしかしたら沢子も)は大学時代にお伴させられているかも。
本放送第一回を見ると、中川と星野が向かい合って座っていますが、当方のカニネタでは、中川の隣に星野が座り、司馬と石川がその向かいに座って胡坐をかいたことになっています。そうすると、星野からは司馬と石川の動きが丸見えになる訳で、さぞかしツッコミ甲斐があったんじゃないでしょうか(笑)