すべてがそこにありますように。 4
16:53 峰 春美
暦の上では立春を迎えたが、日中であっても寒さは少しも温まない。二月というのは一年で一番寒い月だともいう。だが節気が示す通り、春に繋がる時期ではあるのだ。そしてその入り口にバレンタイン・デイがやってくる。好きな相手がいれば、チョコレートを贈って愛を告白する日だ。
投薬伝票の入力を終えマグカップに手を伸ばした峰春美は少しく顔を捩ると、後方の席へ視線を向けた。出合った時から自分が想いを寄せ続けている同僚の石川玄は、何か調べものをしているようで、一心に医学誌の頁を繰っている。そしてその脇には、病院名入りの大きな紙袋と小さくて綺麗な紙袋が二つばかり。いずれも中身は、バレンタイン・チョコレートに違いなかった。
病棟回診中に「あ、石川先生。今日、バレンタインだから―――」と、患者の一人からチョコレート菓子を渡されたことが引き金となって、何人かの女性患者やその家族からのチョコが石川へ殺到した―――といっても、それは日頃世話になっている感謝の気持ちを、手近なところで調達したチョコ菓子にのせただけだったろう。しかし数が増えてくれば持ち歩きに難儀するということで、石川の腕の中で積み重なっていたチョコの類は、近くにいた看護婦の中井加世がナースステーションから取ってきた紙袋へと引き取られた。それをそのまま医局へ持ってきた加世は、石川当人が戻る前にその病院名入り大袋を彼の席へと置いていったのだった。
石川が患者から絶大な人気を誇るドクターだという事実は、峰にも誇らしいことであり、それ故に集中した大きな紙袋の中身にも一々思うことは無かった。だが、後二つの紙袋については、少々、複雑な心境にならざるを得ない。
一つは、有名ブランドのチョコレート。もう一つは主張のない上品な色合いの―――モーヴがかった茶色とでも形容すべきだろうか―――コンパクトな紙袋で、どこのチョコレートなのかは不明だ。
有名ブランドの方は、石川の担当している入院患者、齋藤麗亜からだろう。午前中、己の受持ち患者の大部屋へ顔を出した峰は、すぐ隣のベッドにいる彼女の入院者用キャビネットの上で、同じ柄の紙袋を目にした記憶があった。
今年、成人式を迎えた麗亜は名門女子大学の二回生で、誰もが認める美人だ。パーマを一度もあてたことがないという漆黒の髪は背中の半ばまであり、綺麗なアーモンド形の大きな瞳は幅広の二重と長い睫毛に縁取られ、その僅かにつり上がった目元が健康的な色香を醸していた。すっきりとした鼻梁と小ぶりな口元の形も完璧で、凡そ女性の顔としては文句のつけられない造形としか言いようがなく、体型に於いても、胸や腰のボリュームに対して充分にくびれた細いウエストと華奢な手足が、これまた多くを羨ましがらせた。唯一の欠点は病的な白さを思わせる肌色だが、顔色の悪さなどメイクでいくらでもカバーできるものだ。尤も、身だしなみ程度の化粧しか許されない入院中の今、当人は連日、スッピンで過ごしているようであるが。
小学生の頃から続く芸能界へのスカウトを断り倒しているという逸話は見舞い客の一人より漏れてきた情報だが、彼女を間近で見た者達は皆、あの美貌ならと納得した。名前の語感とも相俟り同室の誰かが言い出した『姫』という呼び名も、今や患者間のみならず、病院関係者にまで広く浸透しているほどだ。ただし、担当医の石川だけは、律義に『齋藤さん』で通している。
看護婦達は、ベッド脇に佇む石川と担当医を見上げる麗亜の姿が、一枚の絵のようだと噂した。峰も、病弱な姫君と白馬の騎士という見立て方へ意義を唱える気はないものの、白衣の裾に軽く手をかけた『姫』へ視線を合わせるように上体を屈めている石川のひどく優しい表情が視界を掠めた途端、抉られるほどに胸が痛む。そして、その時の二人の様子は、まるで何者も割り込めないような親密さとそれゆえの強い排他性を周囲へ伝播する。
別に、彼女が初めてという訳ではない。いわゆる美人クランケを石川が担当したことは今までにだって何度もあった。全ての患者へ分け隔てなく親身に接するのが石川の基本姿勢であり、だから『姫』に対してもそれ以外の何かがあろう筈はないと、当初は峰もそう信じていた。
ところが最近は、どうも、石川の方が率先して『姫』の許へ馳せ参じているようにしか、思えなくなった。
ナースステーションで聞いた限りでは、担当医が日に幾度も病室へ顔を出しているとのこと。更に、真剣そうな面持ちで何かを話し込む様もよく見受けられるらしい。
昼休憩の時に、峰からもそれとなく石川へ訊ねてみたのだが、「退院後のことで、ちょっと相談されてて、ね」と、お茶を濁されてしまった。確かに『姫』の退院は翌週に迫っているけれども、彼のその言い回しからは、病院外でも付き合い続けてゆく意思を匂わせているのではないかと勘繰りたくなるようなニュアンスが伝わってきた。
少し前までは、業務外で麻酔科を訪ねているらしい石川の姿が確認される度、焦燥感へ駆られていたのだが―――
隔靴掻痒な言い回しでしか問えない峰の疑心をあっさりと見破った麻酔医の大槻沢子は、石川の訪問理由を『共通の友人に関して相談されているだけ』だと説明してくれた。だが、石川が沢子という存在を頼る現実そのものが、峰にとっては苦々しかった。
とはいえ、沢子が語った通り、石川との邂逅は時折、病院内で話をする以上のものではないらしかった。つまり、プライヴェートを共にするような間柄ではない、ということだ。そんなこんなで、二人のことは気にかけまいと心に決めたにも拘わらず、石川と沢子とが一緒にいるシーンを目にすれば、未だ平常心ではいられない。休憩コーナーで談笑しているところを見かけただけで、その日最大級の落ち込みに見舞われる始末だ。
しかし、今やその稚い嫉妬心など、可愛いものだと思える。石川の気持ちを捕えるのは、何も同業者に限ったことではないと―――自分の全く知らぬ処で、誰かに心奪われてしまう可能性は大いにあり、それが患者の一人であっても何ら、おかしくないのである。
見た目が美しいだけでなく利発さと気さくな雰囲気も持ち合わせている『姫』は、ナースからの評判も『良い』患者だ。約一年前に入院していた北別府の時と同じくらいの時間を石川がその病室で費やしているにも拘わらず、看護婦達の評定は真逆に近い。
そういえば先日、先輩医師の司馬江太郎が『姫』の病床を訪ねていた。何か書類らしきものを手渡してすぐに部屋を出ていった後ろ姿は相変わらず無愛想で素っ気なかったが、峰の知る限り、司馬が彼女と接したのはその一回だけだった。隣のベッドでの検温を終え、立ち去ろうとしていた峰は、軽い気持ちで「司馬先生、何か用だったの?」声をかけたのだが、
「石川先生に頼まれたからって、持ってきてくださったんです。急がなくていいって言ったのに―――石川先生ってば、せっかちなんだから・・・」
胸元で封筒を大事そうに抱いた『姫』の言葉と顔全体へ差してきた朱の彩(いろ)を目の当りにしてみて、なんて愛らしい娘(こ)なの・・・と、素直に感じたのも確かだった。
内心、司馬が石川の頼みを引き受けたことにも驚いたが、仲が良くない筈の同僚を使ってまで急いで書類を届けさせた担当医の入れ込み具合が、石川の真摯な想いとして伝わってきたような気が、した。
それでも私、やっぱり、石川先生のことが好き・・・
約二年前、初めて顔を合わせたあの夜―――自身の初当直日のことは、一生、忘れられそうにない。
「初めての当直の時は、誰でもそうなんですが―――ま、何かあっても極力、よその先生に助けを求めないこと・・・皆さん、オフなんだから。いいですか、できうる限り自分の力で解決する―――それが、一人前のドクターになる第一歩だと考えてください」
当時の主任、平賀友一の言葉に頷いて、自分なりに最大限の努力をしようと決意した矢先にやって来た石川は、笑顔が素敵なだけでなくハンサムという形容詞がピタリと当て嵌まる男前だった。その後の壮絶すぎる夜勤体験を経て、自分の中で石川への恋心が芽生えたのは、ごく自然なことだった。
あれ以来、峰は常に石川の背中を追いかけ、石川の姿を探して日々を過ごしている。もちろん仕事には真面目に取り組んでいるし、何事に於いても患者への対応が最優先ではあるのだが。
ゆえに勤務中に石川と交わす会話の内容はほとんどが業務絡みのあれこれで、休憩時でも口をついて出るのは、今まさに診ているクランケとその治療に関することばかりだ。石川の個人的な事情をもっと知りたいけれども、自分が異性だからか、例えば家族構成や学生時代の思い出話など、普通に雑談するようなことすら一向に聞き出せないでいる。
以前、参事兼主任の里村正樹やこちらも自分にとっては先輩である前野健次としていた雑談の延長で、医者への志望動機を訊ねてみたが、石川は、峰の欲しかった答えをくれなかった―――というより、ものの見事にはぐらかされた。それは単に、複数の耳へプライヴェートを曝したくなかっただけのことかもしれないが、石川という男は、自身が選んだ相手にしか個人的事情を開示しないのではないか、と本能的に感じた。だから峰と石川、二人だけの時を見計らって再び質問すればきっと、医学を志した理由も話してくれる―――が、それでも教えてもらえなかったら、と考えて怖くなってしまい、自分からは二度と訊けなくなった。
幾分古い考えなのだろうが、女の方から殿方へアプローチするなんてはしたない、という意識がずっと峰の心を縛りつけている。過去に一度だけ石川をキャンプへ誘ってみたが、それだって随分と勇気を振り絞った行為だった。尤もあれは、トータルのオペ数が五件を数えたとんでもない夜のことで、やっと全業務を終えられたという安堵とその解放感から来たハイ状態に因ったところも多分にあったからこそできた"お誘い"だったのだが。
恋愛全般に於いて積極的に行動することが、どうにも苦手だ。それはやはり"彼に可愛く思われたい"という心理が働くからであろう。高身長ゆえに何かと目立つ我が身を少しでも可憐に見せられるよう、華美になり過ぎないメイクやファッションを意識している反面、密かに自信のある"スタイルの良さ"をアピールしないのも勿体なくて、細長い脚が際立つミニスカートをワードローブの中心的アイテムに据えたりするのは、やや慎ましさに欠けるかもしれないが。
結局、峰の理想は、しっかりした頼り甲斐のある男性の後ろをおしとやかで可愛らしい女性としてついてゆくことなのだ。だから、女性からの働きかけが前提であるバレンタイン・デイという今日は、何とも居心地が悪い。チョコレートを贈る事イコール愛の告白と認識される以上、女の方から"好き"という気持ちを表明する姿勢が、石川からの告白を望む自分のスタンスとは相容れないからだ。
だが、"告白は男性から"といった拘りなど『姫』には無いかもしれず、既に彼女の側から石川へ気持ちを伝えたかもしれない。とはいえ、石川と『姫』の組み合わせであれば、告白は石川がしているような気がした。『姫』の病室に石川があれだけ通っているという実状は、担当医と担当患者という枠をとっくに飛び越え、互いを特別な存在として認め合った可能性を大いに示唆していた。
尤も、交際しはじめた男女の間が上手くゆくかどうかは判らない。結婚まで至れるか破局するか、未来がどちらへ転ぶかは不確定なのだ。二人の婚姻届が受理されて初めて、峰の失恋も決定的になるのではなかろうか。
ならば、まだ自分は石川を諦めなくてよいかもしれない。
(って、私、未練がましい、かな・・・)
まあ、理屈を総動員し頭で納得しようとしても制御できないのが恋心というもので、気持ちはそんな簡単に変えられやしないのだ。何にせよ、患者だけでなく周囲の多くに慕われ頼られている石川へ自分が抱き続けている想いは、今以って揺るがない。来週になり『姫』が退院してしまえば、美麗なタブローの如き二人の姿を病室では見なくて済むようになる筈で、峰の日常へも幾許かの平安が戻ってくるだろう。
さて、残る一つの紙袋―――モーヴブラウンのそれが、誰から贈られたのかも気になるところなのだが・・・
(いずれ、いろいろ、ハッキリしてくるわよね・・・)
背中合わせの席からは、相変わらず頁を捲る音だけが聞こえてきていた。手許の伝票類をきちんと重ねて揃えた後、峰は静かな動作で席を立ち、恋しい男の後ろ姿から目を逸らした。To Be Continued・・・・・
(2023/8/6)
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−第4話に対する言い訳−
峰目線の第四弾ですが、今回はちょっと可哀相かも………石川の担当患者・齋藤麗亜とモーヴブラウンの紙袋に関する真実は、後ほど明らかになります。尤も、峰がそう思い込んでいただけで、真相はいわゆる『勘違い』なのですが(笑)
人の気持ちは思い通りにならないのが、世の常というもの。積極的なオンナ(爆)と思われたくなくて自分からの告白を躊躇っていたら、想い人が別の相手とくっつきそうになっていた、なんてベタなシチュエーションですが、果たして告白していたなら想いが実ったかというと、それはどうでしょうかね。肝心なのは、石川当人が誰を好きなのか?ですし←ナニが言いたい
元々、男性側から口説いてほしい女性心理を深掘りするつもりで書き始めた話でしたが、峰というキャラで見ると のえ ちゃんとはまた反対で、大胆な性格も持ち合わせているように感じます。控え目そうな割には、短いボトムスしか履いていなかったりしますしね。まあ、その部分は、女優としてのイメージ戦略が影響していたのかもしれませんが。
それにしても、今回、いつも以上に取っ散らかってる感がヒドいわ…(泣)
実は、この話でやっと、平賀を書くことが叶いましたっ! あああ、嬉しい〜〜〜!!! 話の出来はともかくとして、個人的には平賀(の科白・笑)が書けたというだけで大・大・大満足だったりします<ばき