すべてがそこにありますように。  5




18:12 稲村 ェ

世間では今日、214日がバレンタイン・デイと言われるようになって久しい。一年で一番、チョコレートが幅を利かせる日だ。天真楼病院のケースワーカー室を根城として足かけ七年、院内で起きた様々な色恋沙汰を思い出しながら、稲村寛は湯呑みに注いだ番茶を啜っていた。
病院に限らず男女が一定数存在する場所では、様々な人間関係が存在し、その中には職場恋愛も含まれる。独身者でも世帯持ちであっても横恋慕や不倫など、後ろ指をさされようが人の道に外れようが、募る想いを遂げようとする輩もいたりするものだ。更には、医者や看護婦が、治療を受ける目的で病院と関わっているだけの患者より一途な熱情を向けられ、ちょっとした騒動へ発展してしまったこともあった。
恋愛感情とは、自身で制御することが難しい情動だ。気がついた時には相手を好きになっていて、その言動に一喜一憂し、彼や彼女からどう思われているかを推し測ろうと足掻く日々が訪れる。多くは、その個人的な気持ちを晒け出したりしないものだが、『しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで』と昔の歌人が詠んだ如くに、堪えきれぬ思慕をダダ漏れさせたままの者もいる。とはいえ、救急指定されているこの職場は他に類を見ない多忙が常で、よほどの空き時間が生じなければ、その辺りを突っ込んだり揶揄ったりする暇人も湧いてこない。
医者同士や看護婦の関係性を踏まえた上で周囲を見渡すと、いわゆる交際宣言はなくとも、なんとはなしに『相思相愛の二人』というのは何組か存在している。例えば、第一外科の外科医同士―――石川玄と峰春美、とか。
(そういや、峰先生も石川先生も、ほとんど同時期の着任だったんだよなあ・・・)
稲村が二人を初めてこの部屋へ連れてきたのは、松の内が過ぎて間もない頃だった。ややへたり気味な応接用ソファへ並んで腰かけた彼等は少し前に顔を合わせたばかりで、その後、急患対応せざるを得なくなった石川が、結果として同夜オフだった別の外科医・司馬江太郎と大衝突するに至り、そうして烈しい闘いの火蓋が切って落とされたのだ。
今、振り返ってみても、あの頃起きた事件の数々はとにかく凄まじかった。同年三月に司馬が病院を去るまで、石川との間に繰り返された反目と対立は、何れも『壮絶な闘い』と形容されるに相応しく、皆があの二人を生涯の敵(かたき)同士だと認識するに至った。
あれから約二年―――いったん天真楼病院を出た司馬が戻ってきてからだと一年と少し、過ぎた年月は驚くほどの勢いで昔日の記憶を埋め立てた。今でも時折、角を突き合わせている外科医二人を目にはするが、そこに以前のような凄惨さは感じられなくなり、揉め事の内容が問題視されることも滅多に無くなった。一時期、司馬の医師免許剥奪まで目標に掲げていた石川の狂暴な悪感情は、単に『気に喰わない同僚』程度にまで落ち着いてきたようだ―――尤も、本当にそうなったかどうか、本人以外には判らぬことなのだが。
少なくとも、司馬を倒すことだけに全身全霊を注ぎ込んでいた石川の意識は、彼自身の手術―――皮肉にもその、ボールマンW型アドバンステージのスキルス切除術を執刀したのは、司馬だった―――が成功し、死の淵から生還できたことで、解放された筈だ。そこから約八ヶ月間、司馬が山川記念病院へ籍を置いたことにより、二人の距離も物理的に空けられた。つまりそれは、石川が司馬の存在を気にしなくてよかった時期だ。彼の一番近くでその力になりたいと、ひたむきに想い続けている可憐な女性の存在へ目を向けるのには、ちょうど良い頃合いでもあった筈なのだが・・・
どうも、石川と峰との間が進展しているようには、感じられない。
まあ、第一外科のみならず天真楼病院全体でみても人気No.1ドクターとして始終クランケから引っ張りだこの石川と、三年目に入ったとはいえ今だ学ぶ側であることも多い峰、という組み合わせだ。おちおち恋愛している場合でもなかろうが、反面、それぞれに別の色恋話が持ち上がったり立ち消えたりすることは屡々、起きていた。直近でいえば、石川とその担当患者の齋藤麗亜との噂もその一つだった。
医師が自分の受持ち患者を気遣い、また患者が主治医を頼るのは、当然の理(ことわり)だ。そもそも臨床に於いて、加療する側とされる側との間に一定の信頼関係が築かれなければ闘病自体へも影響が出かねない。つまり、人としての『情』が及ぼす効果により、患者が己の担当医を疑似恋愛対象としてしまうケースも少なからず生じる。
しかし今回、周囲からの情報を総合した限りでは、熱を上げているのは医者の方だという。
確かに、麗亜は魅力的な娘だ。入院当初から衆目を集めた美貌は誰の目にも明らかであるし、性格的な問題も無さそうで、人を惹き付ける要素をたんと持ったクランケなのだ。とはいえ、あの、"担当外の患者にも優しい笑顔で声をかけるのが常態"な石川医師がたった一人の患者に入れ込む様相は、何だか腑に落ちない。病状も特別に目をかける必要があるわけではないらしいから、尚更である。
だが、人の気持ちとは、その当人にも思い通りにならぬものだ。何人かの看護婦が神妙な面持ちで肯定し、同部屋の患者が訳知り顔で語ったように、多くの証言で裏付けられた結果が、彼女の病床で石川の姿を必要以上に見かけるという実態なのである。峰にとっては、ただただ悩ましい限りであろう。
(まっ、他人の恋路に口挟んでるヒマあったら、自分を何とかしろ、って言われそう・・・だけど、さ)
稲村が今も独身でいるのは、何も主義だからではない。過去には何人かの女性と交際してきたし、当然、結婚を視野に入れていたこともある。ただ、それらが何れも、ゴールインへ至らなかったというだけのことである。
今、改めて顧みると不思議なもので、付き合っていた筈のどの女性のことも然程、はっきりとは思い出せない。しかし反対に一人だけ、閉じた瞼の裏へその姿がくっきりと映し出されるひとがいる。
その恋は、最初から最後まで片想いだった。大学時代、同じアパートに住んでいた先輩が、或るフィルムコンペに出す 8ミリの主役に、と連れてきた女性を見た途端、全身に電流が走り一目惚れした。だが次の瞬間には、失恋―――なぜなら、そのひとは先輩の恋人だったからだ。
彼女は非常に美しい人だった。明るい色のロングヘアが印象的で、長い睫毛に縁どられた瞳の黒目は大きく、ふっくらした唇も愛らしかった。そして白い肌の透明度には儚さと強さとが相俟り、独特の存在感を醸し出していた。
先輩が考えた絵コンテは、撮影舞台となった川沿いに一本、ポツンと立つ桜の一生を擬人化したものだった。実際にはもっと細かいストーリーがあったようにも思うが、稲村の記憶に残っているのは、淡雪のような花びらばかりの大木の下で彼女がたおやかに微笑む姿―――まさに桜の精と見紛うほどの、光輝く立ち姿だけだ。レフ板を持たされた撮影シーンへ思いを馳せる度、心は軽々と時空を巻き戻し、あの日あの時の感動を呼び起こす。
その後、先輩と彼女が別れたという情報は、稲村の耳にも入った。けれども、それを知ったからといって、自分が先輩にとって代わりたいとは露ほども考えなかった。彼女は先輩の隣にいてこその『彼女』だとしか思えなかったからだ。要するに自分にとって、あのひとは一種の女神(ミューズ)だったのだ。
今、先輩や彼女がどうしているかも、あまり知りたいとは思わない。尤も先輩の方の事情は友人経由で漏れ聞こえてくることがあり、別の女性と結婚したものの離婚した、という近況を得ていた。だが、彼女の現在についてはまるで判らなかった。仮にあのひとが独身だとしても、大学時代に自分が抱いていた感情はあの頃のままで、おそらく何も変わらない。手の届かない相手だと、端から諦めていたのかもしれなかった。
かといって、そんな青臭い恋の思い出が、社会人になってからの恋愛経験へ水を差したとは考えていない。結局、人の出会いとは巡り合わせで、双方が望む関係性をうまく擦り合わせられるかどうかに左右されるものだ。心底、愛し合った者同士でもタイミングが僅かにズレただけで、別々の人生を歩む羽目になったりするのだから。
大体、今の今まで忘れていた記憶が甦ってきたことに、稲村自身が驚いている。しかし実は、心当たりがすぐ目前に存在していた。応接テーブルの上に載っている、少し場違いな感のある紙袋の所為(せい)だ。
見る者に上品な印象を与える艶消しのチャコールグレイが高級そうな紙質と、蝶結びでなく持ち手に巻きつけられただけの、どことなくスタイリッシュな薄紅色のリボン。遠目には一色に見える幅広な布目へ施された、ほんのりと浮き上がってみえるような花びらの形が、桜の気配を匂い立たせ、そして―――自分は、懐かしくも切ない心覚えを取り戻させられたのに違いなかった。
ところで、この袋が、なぜ此処にあるかについては、稲村にも謎だった。先刻、打合せのため内科へ出向いて戻ってきたら、既にこの紙袋が置かれていたのだ。ケースワーカー室を空ける際に一々施錠はしないから、自分が外していた間に誰かがこれを持ってきたとしか考えられなかった。
大きさとしてはA5の学術誌がちょうど収まるくらいの、その袋の封はされてなかったので中を覗き込んでみると、見知ったロゴマークの包装紙―――有名な国産老舗チョコレートメーカーの名前が見えた。ならば、バレンタイン・デイの贈り物と捉えるのが一番、自然なのだが。
「いやいや、俺に、こーいうのが来るワケ、ないでしょ」
口をついた科白に何やら虚しさも感じるが、稲村にしてみれば極めて現実的な見解だった。
病院付きケースワーカーという職に就いて以来、多くの患者やその家族と関わってきたものの、それは彼等の入院中や通院期間だけのことだ。時として患者側から、相談事への対応をいたく感謝されたとしても、治療が終わり患者サイドと天真楼病院との関わり自体が無くなってしまえば、こちらのことなど少しも思い出しはしない。だから、患者の誰かからチョコレートが届けられる可能性は、限りなくゼロに近い。
では、院内の誰かからかというと、それもまた、有りそうにない。この職場で自分と接点のある女性といえば女医に看護婦に食堂や事務の女性スタッフといったところだが、貰うとしても義理チョコの類だろうし、こんな洒落たパッケージを用意される謂れはない。
残るは、悪戯か間違いか―――中年の男相手にドッキリを仕掛ける物好きもいないだろうから、間違って置いていかれた、と考えるのが最も正解に近いような気がする。
(せめて、カードくらい付けといてほしかったなあ・・・)
バレンタイン・カードに贈り手の名前でもあれば、うっかり置いていったに違いない粗忽な女性の元へこの忘れ物を戻してあげられたかもしれないのに。何にしても、誰から誰へ受け渡されるべきものなのか不明、というのは厄介だ。
「賞味期限内のうちは、ココで預かっておいてあげよっか、ね」
折しも一年で一番寒い時季である。ヒーターから最も離れた、出入り口に近い事務机の辺りなら、暖房による品質劣化も避けられるだろう。忘れた本人が再びこの部屋へ足を運んだ時のことを考慮すれば、ドアを開けた人の目にもつき易く位置的にも近い事務机の上は、新たな置き場所として最適だと思われた。
空になった湯呑み茶碗を応接テーブルの上へ置く。桜色のリボンへ今一度、目をやってから、稲村はくだんの紙袋をそっと持ち上げた。

To Be Continued・・・・・

(2023/8/28)



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−第5話に対する言い訳−
思ったよりも謎感(?)が出せていない、稲村さん話になってしまいました。当初の計画では『謎のチョコレートが一箱』だったのですが、他のエピソードとの兼ね合いにより『謎の紙袋(の中にあるチョコレート)』へ変更したためか、お手軽感の方が強くなったかもしれません。この、チャコールグレイの紙袋に関する真実も、後ほど明らかになります。
尚、既にお気付きだと思いますが、学生時代の恋バナは超有名な
MVが元ネタです。これも当初は、男性役をまんま稲村さんへ割り振る予定だったのですが、一部の方々から激しい拒否反応を示されてしまい、頓挫(爆) まあ、一つの完璧な物語世界として既に閉じられている作品ですので、其処へ別人物を当て嵌めようという発想自体、イケてなかったのですけれどね。それで、"二人を外から眺めていた人物"という立ち位置へ変更しました。
MV(当然、2005年オリジナル版の方)ファンの皆様は目を瞑るかスルーしていただけると、大変、ありがたいです…(泣)