すべてがそこにありますように。 6 前編
20:24 石川 玄、司馬 江太郎
いつも通りに多忙な一日の勤務を終えた天真楼病院第一外科所属の外科医、司馬江太郎と石川玄がやっと二人きりになれたのは、午後も8時をまわってからのことだった。
常日頃、先に帰り着く割合が多いのは圧倒的に石川の方であるものの、復職直後に中川淳一外科部長から訓示された「なにがなんでも、定時で帰ってくださいよぉ」という勤務方針は一年弱しか遵守されず、単なる努力目標へと成り下がって久しい。それは石川自身の仕事熱心さに因るところも大きいのだが、そもそもが平穏無事とは無縁の外科病棟で諸々の加療行為へ従事している以上、定時で勤務を終えるなど、先ず不可能だった。
一方、無駄を嫌い常に合理的であろうとする司馬の方も、クランケを目前にすれば多少の心は動く。自分が手を貸せば助かる、と感じたなら尚更だ。そんなこんなで運び込まれてくる急患へ次々と対処せざるを得なくなり、結果として気づいた時には超過勤務となっているのが習いだった。という訳で、こちらも最早、定時退勤など望むだけ無駄と諦めるようになっていた。
それでも、共に日勤であれば『上がり』は必ずやってくる。
後から石川宅へ到着した司馬は、灯りの点いているリビングへ足を踏み入れた。テーブルへ無造作に載せられている複数の紙袋が目を惹く。天真楼病院の正式名称がプリントされた紙袋は大と小が一つづつ、有名なチョコレートブランドの綺麗な紙袋、そして、紫がかった茶色のコンパクトな紙袋―――
大きい方の病院名入り紙袋を覗き込むと、様々なチョコレート菓子が詰め込まれていた。
おそらく、院内の売店で取り扱っている『チョコを使った菓子』の全種類が、ここにあるだろう。誰か一人が行動を起こした途端、次々と追従してしまう日本人のありがちな性向は、こんなにも顕著に現われる。そんな集荷の結実を目にして、司馬は感心すべきか呆れるべきか少々悩んだ。
「随分、あるな・・・」
「あちこちで渡されちゃって、さ」
キッチンでコーヒーを淹れているらしい石川の声も、どことなく苦笑混じりだ。
小さい病院名入り紙袋の中身も一通り確認した後、疼いた好奇心に押されて、司馬が訊いた。
「全部、病棟から、か?」
「ううん、そっちの―――小さい方のは、食堂と事務から」
陰で『おばちゃんずファイブ』と呼ばれている社員食堂の調理・配膳スタッフや、事務長の下で各種書類を管理している女性達にも、石川の魅力は遍く認知されている。それもこれも誰彼構わず笑顔で接し、何かを訴えてきた相手には誠実に向き合う性格の良さが招いた成行きだといえよう。素直な感想としての一言が、司馬の口から漏れた。
「人気No.1ドクターもタイヘン、だな」
「お返し考えると、ちょっと、ね・・・間違わないように、しないと」
二つのマグカップを手にした部屋の主が、キッチンから出てきた。それらをテーブルの上に置いてから、先にソファへ落ち着いていた司馬の隣へ石川も腰を下ろした。
やがて退院してゆく患者達とは異なり、これからも同じ職場で働く仲間へはそれなりの心尽くしを必要とする。それは贈る方も同じらしく、小さめの病院名入り紙袋には、いずれもきっちりラッピングされたチョコレートの箱―――当事者がよく吟味して選んだ結果としての品々が入っていた。だから当然、贈り主一人一人に対してのお返しを要する訳だが、贈答理由はあくまで『日頃の謝意』であろうから、それをちゃんと受諾したと認識してもらう意味でも、適切な価格であまり見当違いでない返礼品を相手別に考えなければならない。実際に返すのは一ヶ月先とはいえ、うかうかしていると、あっと言う間にホワイト・デイが来てしまう。
カップの一つを司馬に手渡してから、石川は、銘柄の入っていない小ぶりの紙袋―――モーヴブラウンのそれを指し示した。
「それに、これ」
こちらへ顔を向けた司馬の眉間に、軽く皺が寄った。
「オットーからの、か」
「うん。外来入る前に見つかっちゃって・・・きみは?」
「午後イチのオペ、終わったとこで、捕まった。助手と麻酔医と―――あと、主任も」
うんざりした声音を隠しもせず、司馬は日中の出来事について語った。
手術室を後にした自分達が医局や各医事室のある階へ戻ってきたのとナースステーションを出てきた上役とがエレベーターホール前で一堂に会したタイミングを押さえられてしまい、まさに一網打尽だった。司馬だけでなく前野健次、神尾仁、里村正樹を四人まとめて仕留めた剛腕には脱帽せざるを得ない。伊達にオットー製薬の看板を背負っていない、という自負さえ感じさせられる。
「・・・やられたね」
溜め息をひとつ吐いてから呆れ声を返してきた石川が、紙袋の中を検めた。国内老舗チョコレートメーカーの包装紙で無駄なくラッピングされた小箱が、慎ましやか乍らもその存在を主張していた。
「一応、有名なところのチョコレートみたいだけど・・・」
隣で呟かれた科白に触発され、司馬は商品が選ばれた背景を考えてみた。
そもそもバレンタイン・デイとは、"女性から男性へ贈る"ことが大前提である。だからこそ、その行為へかこつけて何某かの袖の下を正々堂々と渡せる恰好のチャンス到来だと捉えるのは、営業職とすれば割と自然な発想だが、それにはあくまでも「バレンタインなので」と言い訳する為のチョコ配布が必須条件となる。
とはいえ、甘味を好まぬ者もいるから、菓子方面へは然程力を入れたくないのが本音だろう。そうして、できるだけの万人受けを狙った結果、国産の、日本人ならまず間違いなく耳にしたことのある製菓会社のものを採用するに至ったあたりか、と贈り手の思考をトレースし終えたところで、チラリと石川の方を見遣る。
「ま、あの女にとっちゃ、今日は態のいいイベント日だろーし、な・・・他にもなんか、貰ったんだろ?」
「―――精力剤、半ダース。司馬先生とご一緒にどうぞ、だってさ」
彼にしては珍しい、苦虫を噛み潰したような表情が視界をよぎった。司馬は心の中だけで独りごちた。
(相変わらずツラの皮の厚い女、だ)
自分達の間柄を正しく把握しているのは現在、二名のみ―――うち、一人は麻酔医の大槻沢子で、もう一人がオットー製薬営業の星野良子だ。その星野からは時折、司馬と石川との関係を周囲にバラす、とでも言いたげな圧を感じさせられることがある。
尤も、あちらとて馬鹿ではない。今だ大勢が『天敵同士』と見做している外科医二人の親密ぶりを暴露してみても、それに同意できる者がいるとは微塵も思っていなかろう。寧ろ、過去にあった様々な諍いの記憶を持つ人々にとって司馬と石川との間に敵意以外の感情が存在するという真実は、悪趣味な冗談を通り越し世にも奇妙な法螺話としか感じられない筈だ。下手をうてば、話し手の正気を疑われることにもなりかねない。
だからこそ星野は、司馬や石川個人に対してだけ、冷やかし目的であれこれちょっかいを出してくる―――要するに、遊ばれているのだ。こちらが焦るような素振りを見せたなら付け込まれるのは目に見えているので極力、知らぬ存ぜぬという姿勢を貫いているものの煩わしいこと甚だしい、という訳である。
「で、きみの方は? 何、だったの?」
自分の方へと矛先を向けられた司馬は、無造作に手を突っ込んだジャケットの内ポケットからそれをつまみ上げた。
小さな紺色のケースが石川の前へ投げ出される。深い色合いはベロアか何かのように思えたが、手に取ってみると意外に重みがあった。合皮製のそのフラップを上げた途端、銀色に輝く何かが視野へ飛び込んできた。
「なに、これ・・・耳かき? なんで、また?」
「知るか、そんなん」
抱(いだ)いて当然の疑問を口にした石川へ間髪入れず返してきた司馬の表情に変化は無かったが、声は不機嫌の塊りだった。実は品物を手渡された時、自分にだけ聞こえるような小声で「膝枕してもらった時に、使ってくださいね―――あ、先生がしてあげる方、かしら」と囁かれたのだ。
「へえ、純銀製、だ・・・珍しいな。それに、ここ―――綺麗な模様が入ってる・・・」
付属の説明書を読んでいた石川が、ケースから出した耳かきを司馬の目前へ差し出してきた。持ってみてよ、と促されて、司馬はそれを利き手で筆記具を持つ如くに取り上げてみた。
「きみの指に、よく、映えるね・・・星野さん、いいセンス、してるなあ」
感心するような声音が、司馬の耳を擽った。静かな輝きを放つ細長いシルバー製品と浅黒い肌色とは程よく調和して、意外にもそれぞれを美しく引き立て合っている。
手許をしげしげと見直した司馬は、繊細な掘り込みが成されている柄(え)の部分へ目をやった。羽根のようにも波頭のようにも見えるそれは何を模したものなのか不明だったが、そのフォルムと自分のやや骨張った指とは不思議に馴染んでいるような感触を受けた。
持つ角度を変え耳かきに施された彫り込み模様を確認している司馬の様子を見守っていた石川が、ふと、思いついたように言葉を続けた。
「けど、それってさ・・・自分で使う時には、見えないね。それに―――」
少しく押し黙ったその様子から司馬は、耳かきが使われている時の一般的な情景に石川が思い至ったことを確信した。そう、自分で使うか、誰かにやってもらうか―――この道具を利用する際のシチュエーションは大概、そのどちらかでしかなく、後者の場合はかなりの確率で膝枕される態勢となる。
それでも暫くすると、言い澱んでいた科白が紡がれた。
「・・・してもらう時でも、さ・・・きみが使ってるところ、僕には見られない、よね・・・」
逆も然り、だ。膝枕をされているのが自分の方だったとしても、繊細な手つきで銀の耳かきを操る石川の姿を司馬が見ることはできない。つまり、相手が自分にしてくれている様子を目にすることが叶わない行為なのだ。
贈り手がそこまで計算した上で此の品を選んだのかどうかまでは判らないものの、ほくそ笑んでいるあの女の顔なら容易く想像できる。あからさまな溜息が、司馬の口から漏れた。
「・・・嫌がらせのつもり、だろ」
「うん・・・間違いなく、嫌がらせ、だね」
司馬が返してきた銀製の耳かきを受け取って、石川はそれを元のケースへきちんと収めた。そして、
「あれ? そういや、チョコ―――どうしたの?」
と訊ねたのだが、
「ケースワーカー室」
「ええ?!」
予想外の答えが返ってきて、石川は混乱した。極めて素っ気ない口調がその後に続けた言葉は屁理屈でしかなかったが、一理無いとも言い切れない。
「大体な、義理チョコなんだ。受け取らされた時点で、役目は終わる―――後は、誰が食ったって、いいハズだろ」
「そりゃあ、そうだけど・・・稲村さんには、それ、ちゃんと言ったの?」
「・・・いなかったから、袋ごと、置いてきた」
「もう―――きっと、誰からきたチョコレートだろう、って困ってるよ。カードとか付いてないし・・・食べていいかどうか、気にしてるんじゃないかな」
きみはいつだって説明が足りないんだから、と、たしなめるような石川の科白を司馬は無視した。自分が行った時にケースワーカー室が無人だったんだからしょうがなかった、という事実を述べたところで、何かしら小言をくらうのは目に見えていたからだ。
やれやれ、といった風情で司馬を見返した石川が、肩を竦める。
「明日、そっちの大袋の分、稲村さんのとこへ持っていくから、その時、一緒に説明しとくよ。オットー製薬からの分だ、ってこと」
昨年もそうだったが、然程、甘党でもないこの男は、贈る側が石川本人をきちんと思い浮かべて選んだような品物以外―――主に患者やその家族からの分で、大概が院内売店やコンビニで購入したに違いないチョコ菓子の類いを全て、病院付きケースワーカーである稲村寛に引き取ってもらっていた。稲村が菓子類を溜め込んでいることは皆に知られていて、小腹が空くとケースワーカー室を訪ねる者も多い。一人では食べきれない量のチョコレートも稲村のところへ持っていけば、適材適所でいい按配に消費先を見つけてくれ、無駄にはならないというからくりだ。
モーヴブラウンの紙袋を小さく指し示した石川が訊いてくる。
「きみのも、こんな色の?」
「いや・・・黒っぽいやつ、だった」
持ち手に薄いピンク色のリボンが付いてたような気がする、と続けた司馬は、自分以外にもチョコレートを押し付けられた銘々の紙袋に一つとして同じものが無かったことを思い出した。どれもこれも地味で煩くない印象を受けたそれらは案外、あの女なりの気配りなのかもしれない。
少し表情を緩めた石川が、再び口を開いた。
「まあ、チョコレートは横流ししちゃうけど、星野さんにはお返ししなくてもいい、か・・・」
「トーゼンだろ。アッチが返してもらいたいのは、注文伝票だ。特に―――主任からは、欲しいだろーな」
司馬は応えてから、軽く天井を振り仰いだ。
月か変われば年度末に突入する。毎年、その時期に検討される来年度医療機器購入員会が目前に迫っていて、自分達へはともかく、その購入委員会に一席を持っている参事兼主任の里村へは何としてもアピールしたいのが、星野の偽らざる本心の筈だ。まあ、その気持ちに限っては、解らないでもない。
あと一つ、有名ブランドのチョコレートが入っている袋を一瞥した司馬が、
「で・・・ソッチは? 齋藤さんから、か?」
贈り主の名前を正確に言い当てると、石川は、少し困ったような面持ちで答えた。
「うん、そう―――そんな気、遣わなくていいよ、って言ったんだけど・・・」
今日、渡された時に「相談のお礼も込みなんですから、ね?」と、あでやかな笑顔で押し切られてしまい、受け取らざるを得なかったのだ。
齋藤麗亜は石川が担当している入院患者だ。先月、二十歳の誕生日を迎えた直後に腹痛を訴え、救急車で天真楼病院へ搬送されてきた彼女の症状は、神経性胃炎を悪化させたゆえの胃潰瘍だった。
少々複雑な家庭環境下におかれているこの美人女子大生は、義理の父親―――実父は麗亜が小学生の頃に病気で他界しており、母親は五つ違いの兄と麗亜を連れて数年前に今の父顔と再婚したそうだ―――から来期の授業料支払いについて難色を示されていて、それが心痛の一翼を担ったからか、症状を著しく悪化させてしまっていた。既に来年度参加の一人として選ばれている交換留学プログラムへの応募を内緒で決めたことがいたく気に障ったようで、留学するならこれ以上の学費を出さない、と義父より言われたという。尤も、留学費は主催の財団法人が全額負担することになっていて、学生側の費用的負荷は皆無に近いにも拘らず、聞く耳を持たないらしい。母や今は離れて暮らす兄もとりなそうと間に入ってくれているものの、交渉は頓挫したままである。
それで、今後の学費を義父に頼らない方法、つまり奨学金のあれこれについて、石川が相談に乗ってやっていたのだ。
とはいえ、石川自身は全ての教育費を両親より用立ててもらったため、その辺りの事情には明るくない。奨学金に関する経験値は、寧ろ、司馬の方が持っていた。中川が都合した分は恩師当人より返さなくていいと言われているものの、それ以前に受けていた奨学金の一部には返済義務があって、今だ給与より細々と天引きされているからだ。
奨学金受給のあれこれについて石川から質問された司馬は手早く申込み書類を揃え、自分の知る範囲での知識を伝授した。麗亜が実の父親を病で失っていると知って、他人事とは思えなかったからだ。
実態はどうあれ二親揃っている以上、所得制限のない奨学制度へ申し込むしかない。将来を鑑みて返済不要な給付型を受けられるのが望ましいが、そちらは当然、競争率が高いだろう。また、原則として学校経由での申込みが前提といえども怪しげな『奨学金』も存在していて、その実は貸与型奨学金の名前だけを騙った学生ローンだったりする場合もある。だから悪質な『奨学金商法』に引っかからないよう、見分ける時の注意点等も教えた。
それらを石川は、有識者の意見として麗亜へ伝えた。本当は、司馬から直接、話してもらいたかったのだが、
「おまえの患者の病床で説明なんか、してみろ―――噂になる。メンドーに巻き込まれるのはゴメンだ」
と、嫌な顔をされた。集めた書類は渡しといてやる、と言ってくれたのでそれは任せたものの、結局、諸々の説明は石川がしたのだった。
更に彼女自身と血の繋がっている親類縁者へも打診するよう勧めたところ(司馬から「祖父母は、頼れないのか?」と言われて、石川もそれに気付いた)、亡くなった父方の祖父母が動いた。さすがに全額は難しかったようだが、かなりの額を援助してもらえることになったと、石川経由で司馬も報告を受けた。そうなれば、後は不足分を見繕って、比較的ハードルの低い奨学制度へ申し込めばよいだけだ。
ともあれ、将来展望に不安を抱えながら治療を受けていた麗亜にとって、退院前に学業が続けられる目途がついたことは喜ばしいことだ。治療方針だけでなく、患者当人が抱える諸々の悩みや懸念についてもできる限り対峙して真摯に耳を傾ける石川が担当だったからこそ、麗亜も相談する気になったのだろう。その誠実さと優しさへの感謝を込め、チョコレートを渡したくなるのは、ごく自然な気持ちの流れに違いなかった。
きまり悪げな表情をしている目前の男に対し、司馬はごく普通の見解を述べた。
「ま―――礼として、素直に受け取っときゃ、いんじゃねーか?」
「・・・でも―――本当に大したこと、してないのに・・・僕がやったのって、きみが話してくれたことを右から左へ、伝えただけだ・・・」
返ってきた言葉は、石川の、律儀で融通の利かない性質をよく表している。思わず苦笑しそうになり、司馬は下唇を強く噛んで耐えた。
(2023/11/20)
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すいません、書き上がったら例によってページを分けないと読み辛い字数になっていました(泣)
ということで今回もヘンなところで切っていますが、どうか続きを読んでください…