天使が隣で眠る夜 3
机の上に広げた第一外科所属医達の勤務スケジュール表を軽く睨みながら、中川は小さく息を吐いた。やはり本日、片を付けてしまうしかなさそうだ。
患者本人の了解は既に取り付けてある。寧ろ、こちらが持ちかけた提案を喜んで受け入れようとしている節が無きにしも非ずで、それがどれだけ、己の胸中を軽くしてくれていることかと思う。
司馬が自分の配下へ戻ってきてから丸々十日を数えていた。
どの科も平均勤務時間が二割増になる年の瀬なのだ。戻ってきた司馬と新任の里村を迎え入れ、頭数だけはなんとか揃えたものの、第一外科の多忙さは極まるばかりだった。
基本的な勤務体系は日勤のみ、一日のオペ件数も制限せざるをえない石川へ外来および回診業務を割り振った分、他の外科医達は急患対応とそれに付随する緊急オペが中心の毎日になりつつあった。里村ですら、赴任してきた当日に二件の手術を執刀させられている。多い日で一外科医のオペ数が最高四件を数えることもあり、大多数の者は医局にて席を暖める間もない有様だった。
着任前日の夜更けに顔を合わせて以来、司馬と二人、話をする時間は一向に取れないままだ。
別に、中川がそれを不満だと感じている訳ではない。いったん担当医と治療方針が決まれば、後は個々の医師達に裁量を委ねるのが外科の方針であったし、自分の仕込んだ教え子のやり方を危ぶむ必要もないからである。
司馬に関しては殆ど連日手術室へ篭りきりになるような勤務体系となった。だが、中川は現在の業務配分についてそれなりに満足していた。とりあえず石川と司馬を離しておいて様子をみようという心積もりもあったし、診察業務よりオペを得意とする教え子には丁度良いだろうと考えていた。
神業と評されるメス捌きを錆び付かせないためには、数をこなすのが一番である。しかし、簡単な手術ばかりを何十回と手掛けていても然して有効な鍛錬にはならない。難易度や術式が異なる手術を度々繰り返して執刀することにより、その技術力は安定性を高め、また磨かれるのだ。殊に司馬という愛弟子に於いてはそれで間違いないことを中川自身よく心得ていた。
戻って来ても全く改めようとしない態度の悪さについては今更注意を与えるだけ無駄であり、中川もとうの昔に匙を投げた。だが、相も変わらず表立っている悪評は、それでも司馬の人格を問題視するだけに留まっている。外科医としての腕に対する評価は山川記念病院という他の大手総合医療施設を経て一回り大きくなった感すら、していた。
司馬がドクターとしての責務をきちんと果たす男であるのは判り切っていることだった。
例え、それがごくごく簡単なオペであったとしても基本的に下調べをして臨むのがメスを握る者として当然の心得である。これくらいの症状だから、と病巣を見くびるなど絶対にしてはならぬのだ。CT技術が目覚しい進歩を遂げているものの、人体の中が全て透視できるようになった訳ではない。いざ開腹してみたら予想外の症状と遭遇し術式変更を余儀なくされることも、引き続き多くある日常なのだから。
以前、ここにいた時もそうであったが、医局に一人残って医学書を読み耽り症例を確かめる司馬の姿が度々見られたという話を中川は山川記念病院の副院長である天野智子から聞いていた。
「人前では決してそういうところを見せなかったけど、やることはちゃんとやっていたわよ。さすが、中川君が仕込んだだけあるわね」
と大先輩は笑っていたが、医師免許を手にして四年弱、とかく『慣れ』が出てきて手抜き心の誘惑へ屈する連中が多くなる年齢にさしかかりながらも、初心を疎かにしない辺りがいかにも司馬らしい。自身の技術を過信したり溺れたりすることなく、天才と呼ばれるに相応しい事前準備を見えない部分でしているのは確かなようだ。
尤も、その地道な努力を知る者は現時点に於いて自分一人だけであろう。中川はそれをやや残念に思っているが、おそらく司馬本人は気にもかけていまい。
そしてまた、難易度の高い執刀内容であればあるほど強く掻き立てられる教え子の挑戦心を恩師はよく理解していた。件のオペ依頼についても、冠状動脈肺動脈起始症という困難な病であることが尚一層の闘志を燃やす結果に至ったのだ。
しかし、その件について司馬がどのように準備を進めているのか全く見えて来ない毎日が、中川に少なからぬ不安を与えていた。
冠状動脈肺動脈起始症の手術依頼が中川と司馬宛てに届いた旨は、天真楼病院の一大事として理事長の口より正式に発表されていた。手術の日取りと患者の搬送日も既に決定している。
周囲からは多くの期待と僅かな不安の入り混じった声を寄せられたりしたが、当人達はいたって涼しい顔を装っていた。
もちろん、中川も司馬も直前まで執刀医及び第一助手の変更を明かさないつもりだった。司馬が中川と、石川が司馬と、それぞれ交替することが早々に漏れたなら、その理由を怪しむ者が出てこないとも限らないからだ。
過去、体外肝切除という大手術に於いて執刀医のリーダーを司馬に命じた外科部長の采配は、この天真楼内に於いても当時それなりに問題視され、訝しまれた。手術自体の成功と施術時間の新記録達成ということで若きホープの起用理由はうやむやになったものの、再び似たようなことがあれば深く勘繰られるに違いなく、痛い腹を弄られる可能性が高かった。
また、術者の交替が下手に東都医科大学学長の耳にでも入ったら、どんな悪意ある邪魔が入らないとも限らない。
そもそも、この手術に対する母校の視線はあまり好意的なものではなかった。いくら相手国側の医師連盟から指名されたとはいえ、医学府では最高峰といわれる東都ドクター陣営を差し置いてのオペ依頼ということが、大学側のプライドを逆撫でしていたのだ。それゆえ、たかだか民間病院の外科医二人にこの大手術がやり遂げられるのかという冷ややかな目を向けられている感があった。
そして、それとはまた別の次元で、学長の脇坂がこの件について面白くないと感じているらしいことを中川は薄々気づいていた。司馬が刃向かったことで、不快度に拍車がかかったらしい。理由の方はともかく、そうと判れば用心するに越したことはない。あの老獪な男なら何をたくらんだところで不思議はあるまいというのが、東都医科大学から放逐された過去を共有する天才師弟コンビに共通した見解だった。
斯様な思惑もあり、中川と司馬は病院内に於いて、あからさまに冠状動脈肺動脈起始症手術依頼へ言及するのを憚るようになっていた。
更に、石川との間でその話題を持ち出したりすることのないよう、司馬が中川へ釘をさした。
「執刀医と第一助手の交替は、僕が独断で考えたことです。石川先生の技術力なら第一助手が務まると思ったからこそ、僕は中川先生のパートへ挑戦してみたくなった。先生は僕達若手の熱意に耳を貸し、天真楼病院外科部長として、執刀医および第一助手交替という大英断を下されたに過ぎません」
外科部長が業務命令として石川へオペを手伝わせたのではなく、あくまで司馬と石川が自発的に申し出たという経緯で済ませようとする教え子の言い分は、中川の心をひどく打ち震えさせた。術者が入れ替わったことへの責任を自身に帰そうとする司馬の気持ちが、何よりも嬉しかった。
もちろん、手術が成功すればそれで構わない。だが、もしも失敗したなら、その責は自分一人が負うべきだ。司馬と石川が何を言おうとも、これだけは譲るまい―――中川はそう固く決意していた。
脇坂に抗ったのも石川の助力を取り付けたのも、司馬が一人でしたことだった。尤も、仮に彼がそうする前に相談を受けたところで、中川に出来たことなどありはしなかったのだが。
だがそれは、自分を救おうとしてのことなのだ。本来なら見捨てられても仕方のない己を司馬はまだ慕ってくれている。だから、中川も出来る協力は惜しまないつもりでいた。
山川記念病院の副院長室で久方ぶりに顔を合わせたあの時、司馬は確かに石川を特訓すると言っていた。症例研究や術式を口頭で説明するだけでは済まないオペなのだから、当然である。しかし今は、その二人が接触する時間すら与えられていないのが現状だった。
いくら、手術準備については司馬へ任せてあるといえ、それを全く気にしないでいられるほど中川もお目出度くはなかった。
時間的に余裕が無いのは明々白々なのだ。ならば、それをなんとか作ってやらねばならないし、少なくとも司馬と石川が二人でいても文句を言われない『大義名分』を用意する必要があろう。
そう―――やってしまうなら、司馬が公休で不在の今日しかない。
中川はおもむろに受話器を取り上げ、内線番号を回した。翌日、出勤してきた司馬はその足で外科部長室に向かった。ノックの音ももどかしく、室内へ踏み込む。恩師は自分が訪れるのを予想していたとみえ、「来ましたね」というような表情で見返してきた。
「―――どういうことですか」
朝の挨拶も抜きで、司馬は中川に詰め寄った。
「どう・・・って、だからそういうことですよ。メッセージ、聞いたでしょ?」
それが納得いかないからこそ、こうしてやって来たのである。司馬は中川を軽く睨んだ。
昨日、たまった家事を片付けている最中に電話が鳴ったが、手が離せなかったので伝言が吹き込まれるに任せておいた。一段落ついてから留守電を解除した途端、中川からの業務命令が聞こえてきたのだ。患者の担当替えを行うので一人引受けるようにという内容には然して注意を払わなかったものの、受け持たされるクランケの名前を聞いた途端、己の耳を疑った。
「今日から君が石川先生の担当医ね。一つ、よろしく頼みますよぉ」
「なぜ、僕、なんですか」
「だって彼を執刀したの、君でしょう」
それは確かに動かしようのない事実であったが―――そんな理由で替えられたというのは釈然としない。
奇妙な緊張感が室内にピンと張り詰めた。
言葉で問うてこなくても、司馬の瞳がその答えでは納得しないと訴えている。さて、どう説明したものかと思いながら、中川は再び口を開いた。
「ま、現実には石川先生もここで勤務についている医者な訳ですから、その彼に担当医なんていうのは無くてもいいようなもんなんですけどね」
「それなら、なぜ」
「峰先生の評判がね・・・ちょっと、よくないんですよ」
そう言って、外科部長は自分に向けられている鋭い眼光から目を逸らした。
司馬が天真楼を去った当時、適当な人材がいなかったこともあって第一外科は峰を石川の担当に据えた。しかしそれがここへ来て思わぬ軋轢を生み出す結果となっていたのだ。
彼女が石川に想いを寄せていることは、第一外科の者はもちろん外科担当の看護婦達にも概ね知られていることだった。担当医として患者の体調を気遣うのは職務の一部であるし、恋する男の容態が人一倍気になるのも然りだろう。しかし、定期検診日ともなると石川へ付きっきりになりがちなことや、時として優先的に検査を受けさせようとして他の科から度々顰蹙をかった事実は、いずれ問題視される事柄として蓄積されていった。
人間ドック等検診業務を統括している内科の担当者から「いくら天真楼に勤務している医者の検診だからといって、検査順番を繰り上げさせようとしたり割込みを平然と頼んでくるのは困る」という文句が出たのは最近のことだった。
とはいえ、今までにもそういう声が聞かれなかった訳ではない。その都度、申し入れがあったものの、多忙な日常に於ける内部の陳情―――それも月一回の検診日にしか派生しないことなので、軽んじられていたのだ。
しかしそれが遂に正式な苦情として、内科部長より文書提示されるまでに至ってしまったのである。そうなった以上、外科としても何某かの手を打たねばならない。とにかく峰を石川の担当から外し、患者としての彼にきちんと接することの出来る者へその役を引継がせることにした。
それ故の人選だと説明したが、司馬は依然として仏頂面を崩さぬままである。
やはり、表向きの理由で納得してもらうのは無理そうですねぇ―――
中川は不機嫌の固まりとなっている部下へ気づかれないよう、小さく肩を竦めた。尤も、所詮言い訳に過ぎない理屈で司馬を懐柔できると本気で考えていた訳ではないのだが。
一呼吸置いてから、己の本心を明かした。
「担当医ならね、石川先生と一緒に行動していてもおかしくないでしょう? その方が何かと都合のいいこともあるかと思いましてね」
外科部長の口から出た言葉は予想外のものだった。だが、司馬はその真意を速やかに理解した。
なんだ、そういうことか―――心の中だけで苦笑する。
今の勤務状況では石川と話すどころか顔を合わせることも殆ど無い。ゆえに衝突しようもなく、それはそれで平和だと陰で囁かれているくらいである。
しかし、控えているオペの手筈を考えればそのままでいい訳がない。とりあえず自分一人で出来る準備―――患者の病状確認や術式についての検討などを司馬は僅かな時間で推し進めていたが、今やそれらを石川へ直接伝授しなくてはならなくなりつつあった。中川は中川で手術準備の進捗状況を心配し、このような便宜を図ろうと思い立ったのだろう。司馬にはそれが手に取るように判った。
父たる恩師の心遣いをありがたいと感じたが、謝意を素直に表へ出すのは面映ゆかった。司馬は引き続き憮然とした態を装った。
その表情に気をくじかれそうになりながらも、中川は暫し教え子の様子を窺った。不貞腐れた顔をしているが何か文句をつけてくる気配は感じられない。挙句、こちらの配慮をそれなりに汲み取ったと考えてよかろう、という結論に達した。
しかしまだ安心は出来ない。喘ぐ心を気取られないよう、中川は殊更に事務的な口調で告げた。
「ということで、峰先生から今週中に引継ぎ、受けてくださいね。まあ、カルテを貰うくらいだと思いますけど―――今までのは写し、持ってるでしょ?」
「・・・判りました」
渋々ながらではあるものの、司馬当人の口からやっと了承を聞くことができた。漸く、普通に息をすることが可能になったような気がする。一日は始まったばかりだというのに、どっと疲れが押し寄せてきた。
やはり、司馬がいない時を狙い、話を進めて正解だった。時後承諾だからこそ、この程度の問答で済んだといえよう。
昨日は昨日で、中川は峰を説得するのにひどく手子摺っていた。今だ司馬に対して根強い不信感を抱いている彼女は、自分が外されることよりも己の後任が司馬となることへ激しい抵抗を見せ、石川を任せるのは絶対に嫌だと言い募ったのだ。
「執刀したのは司馬先生ですから―――あの当時、彼が天真楼に残っていれば、当然そうなる筈だったんですよ」
内科からの苦情へは触れずに済ませたかったので、執刀医がそのまま担当医へとスライドする外科ならではの一般論を楯にしたのが却って仇となった。司馬という名前を聞いた途端、彼女は首を横にしか振らなくなってしまった。
いっそ、患者本人が司馬に担当してもらいたがっている、という事実を曝露してやろうかと思ったほどである。
周囲の過剰なガードに阻まれて司馬とろくに話せないでいる石川は、担当替えが何を意味するか即座に感じ取ったらしい。いざとなったら外科部長命令ということにするつもりだったが、その必要もなかった。勘の良い彼は、中川がこの話を持ちかけた途端、二つ返事で承諾したのだ。
だがそれを告げたところで、峰は納得などしないだろう。石川が司馬との時間を持ちたがっているということ自体、彼女にしてみればあり得ない現実なのだから。
中川は何処からか聞こえてくる耳鳴りと闘いながら、研修医の説得に当たった。
本音と建前を使い分け、なんとか宥めすかして、やっとこちらの言い分を通した時には午後もだいぶ遅くなっていた。半ばへとへとになりつつ、その後、司馬の自宅へ電話を入れメッセージを吹き込んだという次第である。
これがもし、司馬が出勤している日のことだったら―――と思うとゾッとする。この話が今はやや天邪鬼なきらいもある司馬当人の耳にでも入ったりしたなら話は更に拗れ、ひとかたならぬ騒動が持ち上がっていたに違いない。
とにもかくにも、こうして司馬と石川は担当医と担当患者という関係に落ち着いた。
この時、中川は何もしないよりはマシだろうと思って取り計らったに過ぎなかった。しかしこれは後々彼等二人の関係が変化を遂げるその瞬間に於いて、ある決定を促す要素の一因となるのだが。
「あ、この件については、石川先生自身も了解してますから―――医局でモメたりしないでくださいねぇ」
一礼して部屋を出て行こうとする後姿に向かって、中川はからかうような科白を投げたが、司馬はそれをスッパリ無視して立ち去った。石川はリビングの壁に掛かっている時計へ目をやった。そろそろ午後8時になろうというところだろうか。つい先程、司馬より「今から天真楼を出る」と連絡があったばかりだった。
冠状動脈肺動脈起始症のオペに於ける指導を同僚から受けるようになって、まだ四日しか経っていない。
今日も定時に勤務を終えさせられた石川は、時間通りにこの部屋へ戻り、簡単な食事を済ませた後、ずっと司馬からの電話を待っていた。指導医の方は本日通常勤務だったにも拘わらず、終業間際に緊急手術へと駆り出されたからだ。
明日は僕が夜勤なんでね―――と断りを入れた上で、司馬は手術準備へかかる間際に石川へ囁いた。
「キミの都合が悪くなければ、今日教えられることを教えておきたい。このオペを終えてからでないと、そっちへは行けないだろうが・・・」
「判った。何時になっても構わないよ。待っているから」
もちろん、医局に自分達以外の人間がいない時を見計らって交わした会話だった。天敵同士と見なされている二人がこんな風に秘密めいた話をしていると知れたら、余計な騒ぎになるのは目に見えている。それゆえ、石川も司馬も話をする時には細心の注意を払っていた。
担当医が峰でなくなった後も、二人を見る数多の視線に然程の変化は感じられぬままだった。誰しも今以て、彼等が刻んだ昔日の凄まじい闘いからくる印象を拭えていないのだ。何分、過去が過去だから、それも詮ないことではあるものの、石川も司馬もいい加減周囲のそういう目には辟易していた。
出くわした光景が親しい者同士の邂逅なら、人はそれを日常の一こまとして受け止め、ろくに注意を払わず通り過ぎることになろう。だが、二人でいるだけならまだしも、彼等が穏やかに語らっているという図柄は古今東西凡そ見られなかったものであり、それが人々の好奇心をいたく刺激した。一体、何を話しているのかと、興味津々で様子を窺う者達が後を絶たないのも道理となってしまったのである。
そんな状況下に於いて、冠状動脈肺動脈起始症についての話題を持ち出したりは到底出来なかった。司馬はともかく、石川までもがはるばる異国から手術を受けにくるクランケの症例についてひとかたならぬ興味を示しているということが匂うようでは、まずい。直前まで選手交代をひた隠すつもりである以上、その辺りには殊更、気を配らなければならぬ。
結局、職場で術式に繋がる話などは一切しない方が懸命だという判断へ落ち着いた二人は、これから連日の強行軍となる一連の特訓を別の場所ですることを余儀なくされた。
そうなると、場所は双方の自宅くらいしか無い。天真楼内にある研究設備の使用も検討してみたが、二人でコソコソ何かをしているという噂を立てられそうな気がして止めた。
話し合った結果、特訓は石川の自宅で行うことになった。
自分が司馬の家へ行こうと司馬がこちらへ来ようと、石川にしてみればどちらでも構わなかった。しかし、定時で帰れるのは己の方ということもあり、司馬が勤務を終えた足で石川を訪ねるという段取りに概ね落ち着いたのだ。
今までに教えられた症例研究に於いての注意点や術式等を書き留めたノートを、石川はざっと読み返した。
司馬の教え方は無駄が無かった。項目別に要点をまとめて解り易く説明してくれる。また、こちらが差し向けたどんな瑣末な質問へもきちんと答えが返ってくるのに感心した。それはこの難病の症例を非常によく研究しているということであり、付け焼刃でない知識の深さを認識されられた。
やはり司馬は自分が知っている中で最高のドクターなのだろう。しかし―――
(問題なのは、言葉使いと態度なんだよなぁ・・・)
そもそも口調からがぶっきらぼうで、素っ気無い。さすがにバカだのボケだのとまでは言われないけれど、こちらの飲み込みが悪いと途端に凄まじく冷たい目を向けられる。同じ事を繰り返して訊こうものなら「それは、前に教えた」とにべもなく言い放たれる。初めて教わる身なのだからもうちょっと寛容に扱ってくれてもいいのにと思わされることが、この四日の間にも何度かあった。
だが、予定されているオペ当日までに残された時間を考えると、そういったことで指導医の機嫌を損ねている時間はなかった。別段、媚びるつもりはないものの、少々カチンと来てもそれが教わっている内容に直接差し障りがないのであれば耐えようと決めた。その結果、石川はずっと我慢し続けることになってしまったのだが。
初めて司馬を自宅に引き入れた時の記憶が甦る。
それぞれに隠し持った目的を抱えていたものの、其処へ至るまでは非常に穏やかな空気が二人を包んでいた。あの懐かしい気配は司馬がこの部屋へやって来る度、この場へ忠実に再現され、石川の意識を刺激する。
しかし、ここ暫くはそんな甘い記憶へ心身を浸している余裕はない。月末に執り行われる冠状動脈肺動脈起始症のオペを司馬と二人で無事乗り越えることが今の自分に与えられた大命題なのだ。司馬の足手纏いにならぬよう、研鑚を積むのが第一目標だと自身へ強く言い聞かせた。
石川はもう一度、壁の上方へ視線を向けた。
20時15分。
玄関のチャイムが鳴った。To Be Continued・・・・・
(2000/11/17)
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−第3話に対する言い訳−
うわー、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい〜〜〜!!!!!
えらく間が空いたにも拘わらず、今回も(っていつもですが・汗)見事に話が進んでいません。この程度の展開なのに何故ここまで時間がかかったのかというと、都合3〜4回書き直しているんですね(爆死)
原因はズバリ峰先生。司馬に石川を渡す(笑)のがよっぽど嫌だったとみえて、もう、タイヘン。当初は中川と峰の間で科白の応酬を考えていてその部分を練り直したりしていたのですが、あまりに抵抗激しく収拾つかなくなってしまい、最後の手段へ訴えざるを得なくなりました。つまり、そのシーンは丸々カット(号泣) その結果、字数感覚もオカシくなってしまい、なんだかミョーなところで切る羽目に……ううう、すみません〜
峰サイドの不信・不安や甘えについてはある程度きちんと書きたかったので、実は結構、残念なんです。そのうち、番外編として書くかもしれません。
で、某変態外科医の出演を楽しみにしている皆様(←結構いらっしゃるんですよね・笑)、申し訳ありませーん。次回は里ちゃん出演を予定していますので、もう少しお待ちくださりませ♪