天使が隣で眠る夜  4




人の出入は多くとも、忙しさに反比例して在室率が低くなってゆくのが医局という部屋の特性であろう。だが、本日、16時を回ったこの時ばかりはやけに人口密度が高かった。
手前の応接コーナーへ腰を下ろした手持ち無沙汰な医者四人と奥の方で立ち働く作業着姿の男三人を合わせて、計七人。ちなみに後者は天真楼病院お抱えの工事業者であり、投影機はおろか机までも退けた窓際の一角で剥き出しのケーブルやら配線やらを相手に黙々と作業を進めているところだった。
この日、午後から外来業務となっていた里村を呼んで、中川は医局電源増設工事への立ち会いを命じた。その代わり、終日回診担当だった石川に里村の受持ち分を割り振り、外来終了後、本来業務をもこなしてもらうということでなんとか折り合いをつけた。
そういう訳で、里村は昼食を摂った後よりずっと、医局に留まらされている。業者三人が現れた当初こそ、動かした机を何処に運び出したらいいかという指示や外した投影機の取り扱いなどを事細かに説明する必要へ迫られたが、いざ工事が始まってしまうと立会い者としてやることは皆無であった。仕方がないので応接コーナーの長椅子へ身を沈め、時々顔を捩っては後方で蠢く人影を確認していた。
暫くしてオペを終えた峰が医局に戻ってきた。里村から事情を聞いた後、一人掛けソファへ腰を下ろす。カルテや投薬票の整理などをしたくとも、窓際が全部片されている上に残った机は様々な工具類の置き場所と化していて、到底、何かできる状態ではない。せいぜい大人しく座ったまま、作業の進捗状況を眺めているしかなかった。
向かい合わせになった二人が他愛ない雑談を交わしていると、今度は前野が医局へ入ってきた。峰同様、執刀を終えてのことである。
もう一脚の一人掛け用ソファへ腰掛けた前野がすっかり寛いだ頃、更に一人の外科医が外来受付けを終えて戻ってきた。回診業務へ移る前の休憩を取ろうとしていた石川だった。戸口から部屋奥の光景を一瞥するなり、室内で行われている作業内容をすぐさま理解した男は真っ直ぐ応接コーナーまでやってきて、里村の左隣りに座った。
「しっかし、手際悪いったらないですよねぇ。この大変な時期に」
特に誰かへ話しかけたという訳でもなかったが、まず不平不満を口の端に乗せたのは前野である。それを聞いて、峰がおずおずと答えた。
「でも、今日は忙しさも比較的落ち着いてますし・・・今のうちにやってもらっちゃう方が、いいんじゃないですか?」
里村も「そうそう」と頷き、言葉を返す。
「どうせなら、スパッと綺麗に一式、張り直して貰った方がいいよ。午前中、分電板の方だけで工事進めさせたら、間違って既存ケーブル切っちゃってさぁ―――機器類、一時、ストップしたらしいの。内科も災難だったよね」
「げっ・・・そんなことがあったんですか」
他の科がこうむった恐ろしい被害をサラリと告げられて、口火を切った男は小さく顔を歪めた。
情報を入力している最中に突如、供給電力を奪われた内科では、投薬データの全てがものの見事に吹っ飛んだとのことだった。この忙しい年の瀬に外科でも同じようなことが起こったらと想像するだけで背筋が寒くなる。それゆえ、中川外科部長は昼前に業者へ直接掛け合い、医局にも割り当てられている電源工事は増設箇所でじかに施工するよう取り仕切ったのだ。
しかし気持ちとしては納まらないのだろう、前野が再びボヤいた。
「だけど何も年末の、この時期にやんなくてもいいと思いません? そりゃあ、天真楼病院は年中無休ですけど、今時、日中に工事だなんて遅れてますよ。時間外にやってもらうって訳にいかなかったんですかねぇ」
「いずれ、やらなきゃいけない増設工事でしょう。第一外科はあまり暇な時って無いみたいだから、いつやっても同じようなもんだよ」
穏やかな口調で里村が答えた。
いつも人懐こい笑みを絶やさぬ男が紡ぐ言葉には相応の説得力がある。今だふて腐れた面持ちの前野も、諭した年長者へそれ以上突っかかろうとはしない。年齢や役職の差を考えたらごく普通のやり取りともいえる光景を目の当たりにして、石川は少々不思議な気分を味わっていた。
考えてみれば、自分の前で前野が年下らしい素振りを見せることは殆ど無かった。常日頃、慇懃無礼な態度で接してくるか、余所余所しく振舞われるばかりである。それゆえ、里村へ向かってあからさまに拗ねてみせた彼の姿が物珍しく映ったのだろう。
石川としては前野へ対して特に悪感情を持っていないつもりだった。しかし前野の方で、己の慕っている司馬と過去に激しく敵対した自分を良く思っていないのは確かなようだ。いつも一定の距離を置かれているような感触が付きまとい、それがやはり悲しかった。
司馬は時々、前野のこういう表情を目にしているのだろうか―――そう考えた途端、胸の奥がチクリと痛んだ。
「だけど、電源増設って何の為なんですか?」
斜め前方から聞こえてきた峰の声が、石川の意識を医局内へ引き戻す。
「まあ、この部屋は電源が窓際に集中してて、真ん中の机で何かを使う時は一個しかないコンセントから蛸足配線してましたから、不便といえば不便でしたけど・・・」
参事兼主任を務める丸顔の男は薄目の頭髪を手で整えながら、その問いに答えた。
「うん、僕も良くは知らないけどね。なんでもパソコンもう一台増やすって話だよ」
「パソコン、をですか?」
「って、何のパソコン?」
峰と前野が口々に聞き返す。
「試験的にカルテや手順票の一部をコンピュータ化しようってことらしいのね。どの科でも帳票類は溢れかえってるでしょ。データをなるべくパソコンに入れて紙の使用量減らそうってのと、情報を一見管理しとけば二重帳票とかカルテのダブリとかも発見し易くなるんじゃないか・・・って。ま、やってみないことには何とも言えないけどね」
「はぁ・・・」
揃って相槌をうつだけの二人へ、里村が更に説明する。
「機械本体の納品日がもう決まっているから、工事もこんな押し迫ってのことになったらしいよ。やるんなら病院内全部やってもらった方が効率いいでしょ? それで午前午後に分けて施工箇所を決めたみたい」
日によって較差はあるが、勤務時間内に於いて午前の方が暇であるのはどの科にも共通している。中川としても本心では午前施工を取りたかったに違いない。しかしながら、工事順を取り決める為開かれた各部長会議の席上に於いて、外科部長は何の希望も出さなかった。
高収益を上げている外科としては多少の我儘も通せたかと思われるものの、中川は敢えてそうしなかった。先般、内科から陳情を食らっていたこともあり、遠慮する気持ちが働いたのだろう。その結果、希望を通した内科を初めとする幾つかの部署へ午前工事が割り振られたのだった。
けれども、それが結果的に災難を遠ざけた。世の中、何が幸いするか、全く以って判らないものだ。
「ってことは、年内に納品ですか?」
問うた前野へ向かい、里村は大きく頷いてみせた。
「多分ね。年明けから新しい体制でスタートってのを狙ったんじゃないかなあ」
一連のやり取りに黙って耳を傾けていた石川は、己の中へ苦い思いが拡がっていくのをどうしようもない苛立ちと共に体感しつつあった。
コンピュータを各科へ配し病院内で簡易ネットワークを張り巡らせる計画自体は、以前より上層部で検討していたらしい。
かの案件が各科部長以上で構成される幹部会議に於いて議決されたのは今月上旬のことだった。院内で回覧される月次報告書へシステム概要が記載され、利用ソフトの選定や作業マニュアルの作成等は随時進められている。
石川も、それについて何か文句がある訳ではなかった。
先ほど里村が語ったように、院内ネットワークで帳票類の一部を管理するようになったら無駄な印刷も減らせるだろうし、しまい込んである書類を探し回る手間も省けるようになるだろう。カンザスで当り前に導入されていたシステムの足許には及ばないにしても、煩雑な手作業の何割かがこれで確実に無くなる筈である。導入当初は何かとトラブルもあるだろうが、将来的にはメリットがデメリットを上回ると思われた。
だが問題なのは、その、新規に設置されるパソコン本体の購入に付随する事情だった。
天真楼病院には一般企業で言うところのシステム部たる部署が存在しない。それでも本来なら、院内で新規に使用する台数を一括購入するのが普通である。しかし、今回の新規設置は各科毎に手配という、イレギュラーなやり方が採用された。
年度も途中ということで科をまたがっての予算が取り辛かったからか、パソコン本体の手配は各科へ一任するという事態になったのだ。使用する機種や設置期限についての御達しに基づき、各科で該当品を用意する。年度が変わってから新たに院内システムとしての予算を取り、随時付け替え処理を行うらしい。
各科とも、購入伝票の処理は全て経理へ任せることとなる。外科とて、それを違えたりは出来ない。しかし、医局と外科部長室、研究設備、外科担当のナースステーションへ納品されるパソコン類の代金が外科の予算内から支払われるのではないことを石川は昨日知ってしまった。
外科絡みのコンピュータ購入費用は全てオットー製薬が肩代わりする―――いつの間にか、そういう『契約』が成立していたのである。
もちろん、仕組んだのは司馬に他ならない。本人の口から、直接、それを聞いたのだ。自宅で冠状動脈肺動脈起始症のオペ指導を受けている合間に交わした些細な言葉へ引っ掛かりを感じた石川が追求すると、司馬は悪びれもせず、経緯をあっさりと白状した。
「別に、こっちから催促した訳じゃない。第一外科が使っている薬の量に対しての謝意表明、だそうだ」
怒りとも失望ともつかぬ痛みが石川を苛みはじめる。それでも辛うじて、
「・・・そういうのは、断るのが筋だろう?」
と言い返した。しかし司馬の口から出た科白は、石川の中へ更なる不快感を湧き上がらせただけだった。
「何、キレイ事言ってんだ? どうせこれからも、オットーの薬は使わなきゃなんねーんだ。その見返りをくれるってんだから、貰ったって構わねーだろーが」
言葉が出るよりも早く身体が動き、石川は目前の男へ掴みかかった。こういった事柄に対し、相変わらず司馬が何の罪悪感も持ち合わせていないという現実を認識させられたような気がして悲しくなった。
「それじゃ―――賄賂と一緒じゃないかっ!!」
襟首にかけた自分の手が、ゆっくりと払われる。
「おまえもいい加減、慣れるんだな。日本では、持ちつ持たれつってのが必要なんだよ」
司馬はそう言い放つと、これ以上この件について話すことはないというように背を向けた。冷たく整った顔立ちを少しも崩さぬ同僚の傍らで、石川は途方に暮れるしかなかった。
機器の購入代金を請け負うと言い出したのはあくまでもオットー側らしい。だが、おそらく司馬の方から水を向け、挙句、そういう取引が成立したのだろう―――石川は本能的にそれを悟った。いくら星野が鋭い嗅覚の持ち主だったとしても、天真楼病院の内部事情をそう容易く、察知できる筈がない。
それにしても解らないのが司馬の真意であり、収賄行為に堂々と手を染めようとする無神経さだった。果たして、新規購入分のパソコンをオットーへ用意させるという手筈は、何を目的とし、いかなる理由でなされるのだろうか?
一つの即物的な結論が脳裡をよぎる。機器代金に相当する数百万を製薬会社へ出させればこちらの懐は全く痛まないで済む。つまり、外科の予算にかなりの余裕が生じるということだ。とはいえ、それは正規の帳簿へ記入できぬ余剰にしかならず、当然、その金銭を堂々と使える筈がない。そうまでして曰くの付いてまわる金をプールすることにどのような意義があるのか、石川にはさっぱり見当がつかなかった。
浮いた金額分を司馬本人が着服しているというのなら、まだ納得もする。認めたくはないものの、単に司馬が金に汚い人間だと考えればいいからである。
しかし過去を鑑みる限り、司馬の発言は必ずしも鵜呑みに出来なかった。人からどう思われるかということなど一切頭に無いこの男は、決して本音を明かさず独自のモラルで行動している。自分の見聞きした情報だけで善悪の判断を下すのはどうかと思われた。
それでも、このようなやり方をする是非だけは責められて然るべきだと、憤る気持ちが納まらなかった。だが、正面から司馬にそれを説いたところで聞く耳は持たないだろうということも、既に判っていた。
キリキリと捩れる心を抱え、唇を強く噛む。
「そのこと、中川部長は・・・?」
呻くように訊ねるのが精一杯だった。振り向きもせず、司馬が答えた。
「当然、了解してるよ?」
そんな馬鹿な―――と詰ろうとして、石川は結局、口を噤んだ。
あの中川が司馬のすることを咎められるのであれば、もっと早くにそうしているだろう。押し切られてのことなのか、それとも真意を知った上で頷いたのか・・・いずれにしても外科部長が容認しているのなら、黙るしかなかった。
やっと見えてきたと思っていた司馬の心はまたも深い霧中に覆い隠されてしまったようだ。
司馬君―――
きみは一体、何を考えているんだ?
きみは一体、何をしようとしているんだ?
投げかけることのできなかった言葉を呑み込んだ瞬間が己の中へ鮮明に甦る。医局の片隅で、石川はこっそり溜息を吐いた。

天真楼病院の一角にある研究設備が使われることはあまりない。必要な器具や実習用ツールが完備しているにも拘わらず、この病院に勤務している人間の大半は忙し過ぎて、自身の研鑚を積む暇が得られないでいるからだ。とはいえ、夥しい数の患者達を治療することが却って有効なOJTともなる日常を考えれば、研究設備の存在自体が無用の長物と言われてもいたしかたないだろう。
出戻ってきてから、司馬は度々そこで時間を潰すようになった。滅多に人が来ないその場所は一服するのにも丁度良かった。
一日に吸う煙草の量に然程の変動はないものの、医局でふかす本数は激減した。闘病しながら勤務についている胃の無い同僚のことを考えると、室内を煙で充満させる気になれないのだ。かといって、麻酔科で吸うのも後ろめたい。沢子の「いつでも、どうぞ」という社交辞令を言葉通りに受け取ってやろうかとも思ったが、それはさすがに憚られた。
晴れている日は、以前もそうだったように屋上へ出向く。天上に近い場所で吸う方が不思議と美味しく感じるし、紫煙もたちどころに拡散する。また、眼下へ広がるパノラマを眺めていると、抱えている様々な心配事を一時的に忘却の彼方へ追いやることが出来た。それは今の自分に必要な慰めで、その瞬間を得る為にしばしば階段を昇った。
だが、雨の日はそうもいかない。わざわざ傘をさし、外で吸うのは面倒である。どうしたものかと考えているうち、研究設備内での喫煙を思いついた。
やや薄暗い室内に赤い焔が光る。咥えた一本に火を付けると、司馬はライターの蓋を閉じた。チーンという音が空気を僅かに震わせた。
立ち昇ってゆく煙の行方を目で追いながら、昨日、石川と交わした会話の内容について考えた。
誤魔化しようはいくらでもあった筈である。なのに自分は、馬鹿正直な答え方をした。あんな言い方をすれば、正義感の強いあいつが突っかかってくると判っていて、敢えてそうなるよう仕向けた。
オットー製薬との癒着は今に始まったことでなく、その相手も星野へ限られた話ではなかった。程度の差こそあれ、前野や里村にも袖の下が渡っている。尤も、それらは『現金』でなく、概ね差し入れという言い訳の利きそうな『品物』であることがほとんどであったが。
司馬のしたことを知った中川は一応顔を顰めてみせたが、結局、それを不問に付した。プールされる金がどういう目的をもって使われるかを薄々感づいているからであろう。
先日、沢子がもたらしてくれた情報に依れば、今のところ、母校も別段怪しげな動向を見せていない。天下の東都医科大学でなく一民間病院の外科医が執刀する現実を心持ち面白くなく感じているにせよ、大多数の教授陣は難易度・注目度とも最高級のオペがどのように執り行われるかをごく普通の好奇心で眺めているようだ。術式としては本邦初という訳でもないから、妥当な反応といえよう。
しかし、日本医師連盟が提示した条件を違えて事を敢行する以上、オペ終了後も決して気の抜けない日々が待ち構えているだろうというのは予測に足る事態だった。
もちろん手術そのものの失敗は絶対に許されない。だが、成功させればそれで良いという訳でもないのだ。いくら結果オーライがまかり通る業界とはいえ、執刀医および第一助手総取替えという手段がそれなりに騒がれそうな未来は既に見えている。
元々、天真楼に入院していたクランケを執刀した体外肝切除の時とは事情が違う。今回は相手国から正式な手術依頼を受け、国外搬送というリスクをも承諾した患者に対してのオペなのだ。自分の腕を試してみたいから―――という理由で若造が上司に機会を強請ったという理屈が果たしてどこまで対外的に通用するか、神のみぞ知るところである。
ましてや、中川の状態を知りつつ、なし崩し的にオペ依頼を通した脇坂という男の一筋縄ではいかない性格を思えば、この件がすんなり終わるとは考えられなかった。今後、あの俗物が何を仕掛けてくるか、判ったものではない。マスコミ相手に内部事情が曝露されたりしないよう、手を打っておく必要もある。
さしあたって業界紙の記者達から嗅ぎ回られないようにすることが先決である。百戦錬磨の連中と渡り合うには、やはり金が入り用だ。そんな訳で、手っ取り早く軍資金になると判断し、オットー製薬から今回の申し出を受けたに過ぎなかった。
尤も、司馬としては最終的に理事長とも詰めて対策を講じるつもりでいた。病院の体裁や評判を重んじる彼のこと、今回のオペに於ける術者交替で外科部長の真実が暴かれるかもしれないという危惧を放置しておく気はないだろう。政界や財界とも通じている理事長は実業家として申し分の無い人脈を保有している。巻き込んでしまえば、こちらも後々動き易くなるのは明白だった。
しかし、冠状動脈肺動脈起始症のオペに於いてだけ共犯者となった男へ、そういった複雑な裏事情を知らせる必要は全く無い。
請うた助力は、あくまでも第一助手を務めさせることのみである。それ以外の負担をかける気は端から無かった。もちろん収賄行為の裏にある目的を明かすなど、もっての外だ。
にも拘わらず、なぜ、自分はあんな言い方をしたのだろう? 石川に非難されることが判っていて、どうして言葉を選ばなかったのだろう?
正面きって自分にぶつかってくる男が当り前のように為しうる発言や行動の裏には、どんな時にも真っ直ぐな正義がある。普通の人間ならまず闘病するだけで精一杯となるボールマンW型アドバンステージのスキルス発病後もそれは一向に衰えず、彼の正義感が上辺だけのものでないことを改めて思い知った。
自分への強い敵愾心を糧としてではあったが、何事も納得するまで引き下がらない石川のパワーには目を見張るばかりだった。健康体のドクターと変わらぬ勢いで業務をこなし、こちらへも律儀に食ってかかってくるという日常が続く。確かにそれを闘病生活に於ける『生き甲斐』として司馬も望みはしたが、その結果、石川本人は目的達成がために手段を選ばぬところまで追い込まれた。
それは、いつも真摯に自分へ挑んできた誇り高い男が、病からくる死の恐怖に呑み込まれまいと必死にもがく姿でしかなかった。
―――司馬主任、オペ成功だったみたいですね。新記録だったって聞きました・・・おめでとうございます・・・・・・
病人特有の青白い顔色よりも、虚ろな瞳と宙を彷徨うような声がより司馬を苦しめた。
(石川・・・?!)
思わず振り返り、遠ざかってゆく後姿を凝視した。かける言葉が無かった。
今まであいつが華やかさや眩しさを自分に感じさせていたのは幻だったのだろうか? 単に患者や看護婦に慕われるだけでなく、確かな腕も技術も持った、かくあるべき医者としての姿を常に見せつけていた昔日は夢だったのだろうか?
イヤ、だ―――俺は、そんなおまえを見ていたくないッ!!
あれほど明るく爽やかで正しい事をごく普通に為していた男の心を豹変させ蝕んだ病魔の存在が、心底憎く感じられた。
目前の敵を倒したいばかりに高邁な精神と清廉な正義を押し遣り、確実に勝つ方法を採り始めた石川の姿は、司馬に病の持つもう一つの力の恐ろしさを知らしめた。死と隣り合わせの恐怖は人ひとりの人格をいとも簡単に突き崩した挙句、絶望の淵へ沈めてしまう。症例研究で目にしたことは何度もあったが、身近な例として石川の変化を感じ取るたびに、自分の中の何かが壊れていくような気がした。
いつも司馬の前に『理想の医者』として立ちはだかっていた男の輝きが鈍り、その姿が色褪せていくのを歯噛みしながら見ているしかなかった。
石川―――
あの頃、俺がどんなに辛かったか、おまえに判るか・・・?
おまえが荒んで、堕ちてゆくのをどんな気持ちで俺が見ていたか、判るか?!
彼がベクトルをマイナスへと傾けた日々にあって、同じようなスピードで軋んでゆく己の心を司馬はただ持て余しているしかなかった。
正攻法では勝てないと知ってなお、どうしても勝利を収めたいが為に選んだ手段―――それは、中川から捨てられるかもしれないという恐怖を払拭しようして自分が取った諸々の行動パターンと酷似していた。どうやっても手放せないでいる絆を相手から断ち切られぬ為になりふり構わず動いて、望む通りの結末を手に入れようと足掻く。倫理の是非は一切問わず、使える手管を全て使う。
其処に正義やルールは無い。ただ己の存在そのものを賭けた、文字通り生きるか死ぬかの闘いとなるのは必至であり、自分達はそれぞれ嫌という程にその中で苦しんだのだ。そうして、石川も司馬も、互いの根底に持っているものは大差無いという揺るぎ無い事実を理解させられたのである。
だが、決定的に違う要素が一つだけあった。
自分は自らそうする覚悟を決め、堕ちることに甘んじた。けれども石川の場合は、死神の振り下ろす鎌首から逃れんと据えた『生き甲斐』という名の目的を成し遂げようとするあまり、道を誤ったに過ぎなかった。
司馬にとってはそれが救いだった。石川が病気に打ち勝ち生き長らえれば、かりそめの姿から解放される―――だからあの時、彼のオペを自分にやらせてくれと、部長室へ舞い戻ったのだ。
俺が、おまえを元に戻してやる・・・元通り、『理想の医者』としての姿を取り戻させてやる!!
固い決意を抱いてメスを揮った。手術は奇跡的な成功を納め、その後、自分は天真楼を離れた。
何も知らぬ石川は療養期間を経た後、再び理想の外科医として職場復帰するだろう。日本国内で互いにドクターとして働いている以上、俺達二人が道ですれ違うこともあるかもしれない。その時は少しくらい、昔話が出来るかもな―――やがて訪れるかもしれない石川との邂逅に於いて、司馬が望んだのは、ただそれだけだったのだ。
けれども冠状動脈肺動脈起始症という難病のオペ依頼が中川を直撃したことによって、自分達の再会は予想外の展開を迎える。
顔を合わせたその時から穏やかな時間ばかりが流れ、互いの持っていた印象はことごとく覆された。過去の記憶が何かの間違いに思えるほど和やかな空気が自分達二人を取り巻き、少なくとも司馬の言う事へとりあえず耳を傾ける用意が石川にも整えられるようになった。
だから、今回の機器購入に関する事情についても誤解されるような言い方さえ慎めば、自分がしようとしていることを理解させ、ひょっとしたら同意が得られるところまで漕ぎつけられたかもしれなかった。
そうは言ってもクソ真面目で融通の利かない男である。収賄行為に関して反対されるのは間違いないだろう。最終的な結果がそうなら敢えて会話を重ねることもないかと思い、有り体に答えたところ―――襟元を掴まれた挙句、凄まじい剣幕で怒鳴られる羽目になった。
尤も、司馬にしてみれば、昨夜過ごした時間が然程不快だった訳でもない。こちらが細かな説明を放棄している以上、石川に責められてもしかたがないと腹は据えていたし、今日まで自分に絡み続けてきている男の性格から考えて一頻り説教を食らうだろうと予見もしていた。
石川の煩さが少しづつかたちを変え、司馬の中へ奇妙な心地良さを積み上げてゆく。だが、人の優しさや暖かさに触れるのを今だ躊躇う男は、幾つもの言葉を呑み込むしかなかったのだ。
おまえは、俺がなれなかった『理想の医者』として、今後も明るい未来を目指していけばいいんだ。俺のする事なんかに一々首を突っ込んでると、ロクなことにならないぜ?
光輝く将来を約束されたように見えた男をいつも羨んでいたのだと、誰が知るだろう。
素っ気無い態度が気持ちの裏返しであると、誰が気づくだろう。
司馬は短くなったマルボロを灰皿に押しつけた。
(コンピュータ四台分で、トータル三百万弱ってところか。有効に使わねぇと、な・・・)
オットー製薬から貰い受ける機器代金のお陰で宙に浮く予定の額面を頭の中で弾いていると、研究設備のドアが遠慮がちにノックされた。
「・・・何だ?」
扉に嵌め込まれた摺りガラスへ映った影の頭上に白いものが見えたことから、看護婦の誰かが自分を捜しにきたのだろうと見当をつけての呼びかけだった。案の定、廊下には外科担当のナースである中井加世が縮こまるようにして立っていた。
おそるおそる顔を覗かせた小柄な彼女は躊躇いがちに呟いた。
「あ、あの・・・」
無言のまま視線を上げ、用件を促す。加世が縋るような目をして見返してくる。
「司馬先生、助けてください! お願いします!!」
叫ぶように言われた科白と深い一礼を前にした司馬は、この時、既に少なからぬ胸騒ぎを覚えていた。

To Be Continued・・・・・

(2001/3/31)



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−第4話に対する言い訳−
すすすすすみません、今回も見事に話が進んでナイです(滝汗) っていうか、予定したところまで書けてなくて…一応、各話ごとのトピックは決めてあるのですが、既に大幅な狂いが出ている状態だったりする←オイコラ
で、パソコン導入のくだりなんですが、普通、企業ではコンピュータ類を一括もしくは割賦にて購入したりしません。買ってしまうと固定資産扱いになるので後が面倒というのと、減価償却なども鑑みて本体はもちろんアプリ込みでリース契約するのが一般的なんですね。しかし本放送第四話で司馬が星野に医局のパソコンをタカる(笑)シーン見てると、電器店から買ってきた物をそのまま持ってきたような印象が拭えなくて…そんなこともあり、目一杯こじつけてみました。
まあ、いくら社内システム部が無い病院でも、まずこんなことはしないと思いますので、このあたりの理屈に関してはツッコまないでいただけると嬉しいです。
ところで、昨今はデスクトップ型
PCもモノによっては十万を切ったりするご時世ですが、八年前はまだ一台につき五十万は下らなかった筈なんですね。Macだったりすると一台百万近くしたような気がする。それで、"四台分で三百万弱"という数字になりました。
次回も、話としては進まないかもしれません。本当に申し訳無い……(しくしくしく)