僕の大切なひとだから 10
瀟洒な邸宅地を背後に控えた山川記念病院は、南側に向かってなだらかに傾斜している高台の一角に位置している。午後の陽射しが柔かく差し込む穏やかな空間で、石川はどうにも落ち着かない時間を持て余していた。
同僚の医者二人と司馬が連れ立って出ていってしまってから、早くも三時間が経過した。最初は暇潰しにでもと、本棚にある医学雑誌や書籍を物色していたが、すぐに止めてしまった。一つの大きな疑問が石川の心の中で浮かんでは消え、消えてはまた浮かび上がってきていた。
オペを終えた司馬が、副院長室へ本当に帰ってくるだろうか―――?
この病院を訪ねてきて受付で名乗ると、即座にここへと案内された。そして室内で司馬を待つ間中、どうしたら彼が自分に時間をくれるだろうかということばかりを考えていた。
―――僕は、きみと話したいことが沢山ある。きみは嫌がるかもしれないけど、訊きたいこともある。そしてきみに、どうしても話さなければならないことが、ある。
とはいえ過去の自分達の関係からしたら、再会して酒を酌み交わすというような展開が期待出来る訳もなく、司馬を訪ねた用向きの範囲内ギリギリのところで会話を終えた後にソッポを向かれるだろうと、一応覚悟はしていた。
だから、司馬の方から「実はこっちにも話がある」と言われた時には、心底、驚いた。一体、自分にどんな用があるというのかさっぱり見当がつけられぬものの、とにもかくにもありがたい申し出には違いなく、この機会を逃す手はない。そう思った矢先に飛び込んできたドクター達の所為で、二人揃ってここを出るのはお預けになってしまった。
そんなに悪い再会ではないと思った。噛み合った会話は望めなかったが、口論した訳でもない。だが司馬は自分に、オペを終えたらここへ戻ってくると言葉で約束してはいないのだ。彼が発した「好きにしろ」という科白をどの程度前向きに解釈していいものか判らなくて、不安で気が狂いそうになる。相手が何を考え、こちらをどう思っているのか一向推し測れないことが、こんなにも自分を心細い気持ちにさせる現実をたった今、石川は痛感させられていた。
時計の針が一秒進む度に響く微かな音がだんだん大きくなっていき、鼓膜を突き破りそうになる。他のことを考えて気を紛らわそうとしても叶わない。あの頃と何一つ変わっていない司馬の顔だけが、頭の中でぐるぐると回っている。
しかし幸い、諸々の懸念は取り越し苦労に終わる運命だったようだ。午後4時を少し回った頃、石川の待ち人はちゃんと副院長室のドアをノックした。
オペを終えたばかりだからだろうが、軽い疲労感を漂わせつつも、司馬は既にコートを着込み帰り仕度を整えていた。
「で、人が来ないところって―――アテ、あんのか?」
「あ、うん・・・まあ―――」
石川も慌てて鞄とコートを抱きかかえ、ソファから立ち上がる。先に立って扉を開けた司馬が振り返りもせずに告げた。
「言っとくが、屋上はダメだ」
その一言を聞いて、石川は思わず吹き出しそうになった。以前、『人が来ないところ』に窮して、自分が彼を天真楼病院の屋上へ引っ張り上げたことが思い出される。あの、行き違いだらけだった過去を司馬はちゃんと覚えているのだ。
「午後になると西からの風が強くなる。この辺ではここが唯一の高い建物だから、遮るものが何もない」
続く科白は、司馬がここでもちょくちょく天界に近い空間で時間を過ごしている故の詳しさを思わせた。天真楼病院にいた頃も、彼が一人煙草をふかしている姿を屋上でよく見かけると誰かから聞かされたことが、記憶の底へ漂ってきた。そしてたった今司馬が紡いだ言葉の中に自分の身体を気遣ってくれている心情が仄かに感じられて、石川は暖かい気持ちになった。
司馬の後ろからついて歩くようにして山川記念病院の廊下を縫い、外へ向かう。すれ違いざまに頭を軽く下げる看護婦や医者とおぼしき人達を全く顧みようとせず、目の前の男はただ正面だけを真っ直ぐに見つめて足を進めていく。
(せっかく会釈してくれてるんだから、ちょっと返礼すればいいのに・・・)
昔と少しも変わらぬ後姿から醸される人を寄せつけようとしない雰囲気を目にしても、以前のような不快感や怒りを感じない心が石川に奇妙な感触を与えていた。しかし、それを自然な気持ちで受け入れている己の存在は決して違和感のあるものではなかった。
一方、後ろを数歩遅れてついてくる元同僚との接見は司馬に、とある不安をもたらしていた。
今まで送ってもらっていた報告書からは何ら問題が見受けられなかったので安心していた。オペ直前の痩せ方からしたら、身体つきも殆ど元に戻ってきている。だが、顔色の悪さが気になる・・・
医者は自分の身体の異変に敏感なものだ。検査で引っかからなくても本能的に危険を察知することはある。ましてや石川の場合、今後再発をいくら危惧し続けても足りないような病巣を切り取ったのだ。発病したのは胃だったが、もし膵体部へでも転移されたら発見が難しい。そして、それは常に考慮しておかなければならないことだった。
再会した途端、法外に友好的な言葉を並べられた故か、驚きだけでなく訝しさが司馬を襲っていた。何か悪いものでも食べたのかと思ったが、生命の残量が指し示した警告に従って、かつての敵と関係修復を計ろうという思惑が石川の中に生じている可能性もゼロとは言い切れぬ。石川の心境など全く預り知らない司馬からすれば、当然危ぶまれることであり―――だから自然と、声も態度も優しくなった。
適度なスピードで移動し建物内を抜けた二人は、天真楼の近代的な玄関口とは対照的でもある山川記念病院のどっしりとした門構えを後にした。光の射し込まない廊下を随分長いこと歩いてきたので、殊更外光が瞳に眩しく跳ね返る。やわらかな西日の中に自分達の存在だけが切り取られて置かれているような気がして、お互い、何とはなしに顔を見合わせる。
隣に並んだ司馬がすっと手を伸ばして、久しぶりに顔を合わせた男の肩を軽く抱きかかえた。耳朶に生暖かい息が触れて、なぜか石川の心臓がドキドキと高鳴り始める。
「―――で、何処に連れてくつもりだ?」
まるで恋人に甘えるかのような囁きが、言われた方の心拍数を極限まで追い上げそうになる。
「・・・こっちだ」
嫌がったと思われぬよう気をつけながら石川は司馬の腕を外し、先に歩き出した。
天真楼病院内以外の場所でこんな風に二人でどこかへ移動する日が来るなどと、あの頃の自分達には想像することすら出来なかった。だが、今こうして、夕日の投げかける残光の淵を二人で歩いている。交わす言葉は何も無かった。石川も司馬もまだこの時は、大切なひとに語りかける術を一つも持っていなかった。一旦、司馬の勤務先を出てしまうと、そこからは石川が先導するかたちになった。時刻としては午後5時前で、食事をするには早過ぎ、お茶を飲むには遅過ぎるというなんとも中途半端な時間帯であることが、司馬の不安定な気持ちに拍車をかけていた。そして電車を乗り継いで連れてこられた場所は、司馬から少なからぬ冷静さを奪ってしまった。
天真楼病院を挟んで自分の住いがある方角とほぼ正反対にあたるこの地域は、司馬にとってあまり馴染みの無い街で、その一角にあるまだ真新しいマンションの一室が石川の部屋だった。
玄関ロビーの前で立ち尽くしたまま動こうとしない司馬の肩に今度は石川が腕を回して、前へ押した。
意外に強い力へ引き摺られて身体は動き出しても、脳の方では未だ事態を理解できていないままの司馬が呟いた。
「―――なんで、おまえん家なんだ?」
「仕方ないだろ。誰にも邪魔されないで話が出来るところっていったら、どっちかの家しかないじゃないか」
大真面目な顔の石川から至極正当な理由を提示されて、
「・・・まあ、そうだな」
と、司馬はやっとのことで頷いた。エントランスを抜け、丁度1階に止まったままのエレベーターへ乗り込む。司馬が観念したように内壁へ凭れかかったのを気配だけで確認すると、石川は自分の部屋がある階のボタンを押した。
正直なところ、昨晩沢子からそうされるまで、自宅へ彼を引き入れることなど考えもしなかった。だが、司馬が守り通してきた中川との秘密を一言たりとも外部へ洩らさない為には、他人の目や耳が無いところで話をしなければならない。沢子が計らったように、自室でならそういう問題がそこそこクリアされるように思えたし、何より己のテリトリー内ということで、石川自身、ある程度リラックスできるだろうと計算したのだった。
「大体、きみだって僕に何か話があるって言っただろう? さ、入って―――」
すっかり石川のペースに乗せられてしまった司馬は、言われるままに靴を脱ぎ部屋へ上がった。
自分の居住空間とそれほど変わらない光景が司馬の目前に拡がった。リビングはフローリングの床にラグが敷かれている。キリムのような生地だ。カンザスに長いこといた石川らしく、ひなたの匂いがしそうな部屋だと思った。
AV機器及び家電構成に家具の有る無し―――本棚が多いことやソファとサイドテーブルはあってもきちんとしたダイニングデーブルは無いことなど―――は、殆ど自分の家のそれと変わらない。結局、独身男性の一人暮しというのは似たり寄ったりなのだろう。
「司馬君、これにコート、かけて―――何、見てるんだい」
突然、差し出されたハンガーを受け取りはしたものの、それを足許のアタッシュケースの上に置くなり、再び壁際へ目を戻した司馬の視線を石川が辿った。
「あれ―――オスラー博士の本、よく手に入ったな・・・」
「ああ、あれ・・・僕のじゃないんだ。借りてるんだよ」
石川は本棚の前までいくと司馬の目を釘付けにしていた本を取って戻り、無造作に手渡した。
「絶版になって久しかったし、手にすることなんて不可能だと思ってたけど・・・カンザス大の研究室にいた頃知り合った友人が、やっと一冊だけ見つけて買えたから、暫く貸してやるって・・・で、航空便で送ってくれて」
パラパラとページを捲りながら、司馬は視界の隅で石川の動きを追った。脱いだ上着類をクローゼットに納めた部屋の主が軽くネクタイを弛める様子を見遣りつつ、この天真爛漫な坊ちゃんへなら、例え海を越えた場所に住んでいようが必ず返してくれるに違いないという信頼を糧として、稀覯本を貸す友人がいたとしてもおかしくないだろうと思った。
「きみも読む?」
明るい声で訊かれて、司馬はちょっと考えた。
「―――返却期限、いつだ?」
「来年でいいんだ。ポール―――あ、貸してくれた人の名前なんだけど、年が明けたら日本に来るんで、その時まで預かっていてくれって言われてるから。だから、持って帰っていいよ」
些細なものを人から借りる時ですら、その裏にある意味を嗅ぎ回るようになってしまった自分とは対照的な石川の笑顔が、司馬に不思議な安らぎを感じさせてくれる。別段、嫌味でもなく、ごく自然な感想としての言葉が洩れた。
「じゃ、借りてくが―――しかし、年明けにご来日とは、ずいぶん優雅なお友達みたいだな。尤も、この本返して貰う為だけに来る訳じゃないだろうが・・・」
「うん・・・学会でこっちに来るんだよ。全日本臨床遺伝学化学学会に特別講師として招待されてる・・・」
「って、おい! ポール・・・って、まさか―――ビーソンJr.か?!」
驚きを隠せず科白をひったくった司馬は、自分の声が少々上ずっていることに気がついた。その剣幕に圧されてか、石川が軽く目を瞬かせる。しかし、返ってきた答えはなんとも無邪気なもので、
「あ、うん・・・さすがに名前くらい知ってる、か・・・」
と、淡く顔を綻ばせた。
「・・・ハーバード大学東洋医学研究所の代替医療チームを率いてる、一番若い博士だろ」
「前はカナダのマックマスター大学にいたんだよ。その頃からオルターナティブ・メディシン(在来西洋医学以外医療)に強い興味があったみたいで、彼がカンザス大の研究室に来る度、灸や漢方についてよく聞かれてたから・・・」
ごく普通の友人について話す気安さで、石川からポール・ビーソンJr.という若き鬼才を語られた司馬は、危うく眩暈がしそうになった。
確かにアメリカという国は実力社会である。以前、天下の東都医科大学を卒業した人物がスカラシップでハーバード大学へ研修を受けるために出向いたが、アメリカと日本の臨床医学への取り組み方の落差に驚き、そのままインターン試験とレジデント・フェロー試験を受けて一から勉強し直したというケースがあった。しかし彼は二十年後の今日、見事ハーバード大学の循環器系の教授になっている。一般論として差別が存在すると言われている国だが、本当に才能のある人材にはそれを適用しないというところだろうか。
だから、ビーソン博士がカンザス大学の研究室を訪ねてきて石川と出会い、彼の能力と人柄を評価し親交を結んだとしても別に不思議な話ではなかった。また、共に興味を持って捜していた絶版本が一冊だけしか手に入らなかったからといって、わざわざ空輸してまで貸して寄越したという事実は、ビーソンJr.が石川をかなり親しい『友人』として遇していることをはっきり裏付ける証拠に他ならなかった。
己の才能が本物であれば必ずチャンスが巡ってくるアメリカという国は、司馬にとって非常に魅力的なものとして映った。それ故、なぜ石川がその中から抜け出てきたのかが、不思議だった。少しばかり俯いて視線を落としている男をそっと盗み見る。
「なんで・・・日本に、戻ってきたんだ?」
石川が弾かれたように顔を上げ司馬を見返した。奇妙な儚さを感じさせるその表情は、質問者たる司馬を戸惑わせるのに充分なものだった。過去、自分に対して強い態度を取り続けた彼からは想像も出来ないような頼りない風情を目の当たりにして、訊いてはいけないことを訊いているのかもしれないと思い直したが、一旦口の端に乗せてしまった質問の言い訳をするかのように、司馬は言葉を続けた。
「ビーソン博士みたいな一流の研究者と知り合える程の環境にいたんだろ? そこから帰ってきちまうなんて―――勿体無くなかったのか?」
言いにくそうに唇を噛んだ石川だったが、暫し沈黙した後、静かな声で語り出した。
「祖母が―――もう、長くないだろうから、日本に帰って来ないかって・・・両親からずっと言われてたから・・・丁度いい機会かなあって思ったんだ・・・」
柔らかな静けさが二人を包み込んだ。石川の、何かを諦めたような表情が司馬の心の最奥を少しづつ抉り始めている。
暫し間を置いてから、肝心なことを訊こうとして口許を歪めた司馬の様子を石川が正確に読み取った。
「あ、ああ、生きてるよ。寝たきりだけど・・・僕も、出来るだけ見舞いには行ってるんだけどね―――」
「それで、発病した時、家族に知らせなかったのか?」
いつまでやれるかは自分で判断できるから、それまでは仕事を続けたい―――石川本人の意志を中川から神妙な顔つきで打明けられた時の記憶が鮮明に甦る。家族に知らせるよう一応諭したんですけどねぇ、と言った恩師のやや困惑気味な口ぶりは、説得が上手くいかなかったことを微かに物語っていた。
「うん、まあ・・・両親に打ち明ければ、いずれ祖母にも伝わるから―――助かるかどうかはっきりするまで、言うまいと思って・・・」
「おまえな―――」
本気でそう考えてたのか?!と責め立てそうになり、司馬は慌てて言葉を呑み込んだ。確かにオペ自体は成功だったものの、石川の身体が直後に危篤状態となった事実は、執刀医である司馬自身をも激しく締め上げた。あの時の焦燥感は時として体内を駆け巡り、今だ忘れ得ぬ悪寒を呼び覚ますことがある。結果として奇跡的に助かったから良かったとはいえ、身体中に漲る圧し潰されそうな緊迫感と石川を失うかもしれないという『恐怖』は、司馬の意識を極限状態にまで追い込んだのだ。
―――全く・・・そういう大切な人と永遠に会えなくなったかもしれないんだぞ、この馬鹿野郎!!
だが、あの頃の自分達は、お互いの個人的な事情に注意を向けている余裕など全くなかったことを思い出し、そっと唇を噛んだ。
そんな司馬の表情を見て、石川がちょっと困ったような顔をした。
「司馬君―――いい加減、コート脱いでくれないかなあ」
「・・・」
言われるまですっかり忘れていた―――憮然とした面持ちで、司馬は黙ってオスラー本を石川の前に突き出し、足許からハンガーを取り上げるとコートをかけた。入れ違いに石川が本を戻し、司馬の手からコートのかかったハンガーを引き取った。
「そっち―――座ってよ。何か、飲むだろう? コーヒー・・・ブラックで良かったっけ?」
「ああ」
石川がなぜ自分の好みを知っているのだろうという疑問がふと頭の隅を掠めたが、口には出さなかった。キッチンへ向かった後姿が何やら脆いもののように思われて、司馬の胸の奥をひくつかせた。
ケトルをガス台にかけるとすぐリビングへ戻ってきた石川は、司馬が腰掛けたソファのはす向かいにある一人掛け用リクライニングチェアへ腰を下ろした。だが背凭れから上体を離し、軽く膝の上で腕を組み合わせた姿勢は、とても寛ぐ意志があるとは思えない。その場を蔽う気配の息苦しさに耐えかねて、先程、宙ぶらりんなまま終わった会話を続けようとしたのは、意外なことに司馬の方だった。
「お祖母さん、幾つになるんだ?」
「来年で83、だったかな・・・」
充分、大往生じゃないか―――とは、所詮他人からの見方で、本人はまだまだ現世に凄まじい執着を持っているのかもしれぬ。
「僕が渡米する前に倒れてね、脳性麻痺でもう駄目だろうって言われたけど、本人の『生きたい』という意思がずば抜けて強かったんだろうな・・・リハビリで意識の回復と言語障害の方はクリアしたんだ。でも、体の方は自由が利かなくなって、それ以来ずっと入院してる」
司馬は無言のまま石川を見つめた。初めて聞く、彼のプライヴェートな事情に著しく興味を抱いている自分が不思議に思えたが、この感情が事実である以上、避けようのないことでしかなかった。
そんな司馬の好奇心を知ってか知らずか、石川は自分の境遇を少しづつ話し始めた。
「僕には、妹が一人いてね―――小さい頃から酷い喘息持ちで、母はしょっちゅう妹を連れて病院へ行ってた。発作が止まらなくなると緊急入院するだろう? で、そういう時は母が病院へ泊まり込みになるし、父は仕事で帰りが遅いから、祖母のところへやられたんだ。学校へ上がってからは、預けられた先から通っても遠くならないようにって、彼女が同じ学区内へわざわざ引っ越してきたんだよ」
「同居、しなかったのか?」
「当時、母と折り合いがよくなくてね・・・よくある嫁と姑だったから」
それでも以前住んでいたところを引き払ってまで石川の面倒を見たのは、やはり孫可愛さ故なのだろう。
石川の目が懐かしそうに眇められるのを司馬はじっと見守っていた。
「結局、あの人に育ててもらったようなもんだよ。典型的な、おばあちゃん子ってやつだね」
「それで、戻ってきたって訳か・・・」
「ん・・・僕は初孫だったし、凄く可愛がってもらったから―――それに、祖母にだけは、世話になった責任を果たしたくて、さ」
自分が紡いでいる物語に聞き入っている司馬の存在を確かなものとして感じながら、石川は言葉を続けた。
「僕の父はね、末っ子なんだ・・・祖父はもちろん、上の伯父達まで戦争に取られてね―――学徒出陣ってやつ。最終的に、残った子供は父とそのすぐ上の伯母だけで・・・その伯母は病気がちで、嫁いだ先で亡くなったよ・・・自分の母親より先にね」
別段、珍しい話ではなかった。日本に大きな爪痕を残した太平洋戦争は、奪われなくてもすんだ筈の多くの命を無駄に散らしていったのだ。
「夫と子供達を戦争と病気で亡くして以来、人一倍、『生きる』ということに固執したのかもしれないね・・・『人間、死んだらおしまいだ』ってよく言ってたなあ・・・だからかなぁ、たった一人でもその人が生きる事を望む人がいるのなら、その命を奪ってはいけないと、僕は思うんだ・・・」
石川が患者の『生命』を生かすことに拘り続けたのは、彼女からの影響が大きいのだろう。司馬が考える『尊厳死』と石川の考えるそれとは微妙に違うだろうが、どちらが正しくどちらが間違っていると簡単に決めつけられるものではない。
人が自分の命をどうするか、どういう生き方をするかは、あくまでもその人個人の問題である。だが、この世に生活している以上、たった一人だけで生きている人間はまずいない。天蓋孤独といわれる人物でも社会と関わっている以上、何某かの『他人』と接しているのである。その『他人』が自分のことを心配し、力づけてくれることだってあるのだ。
そういった『他人』にだって相手の生き方や命を心配する権利はあるだろう。まして知人や友人、肉親ともなれば、少しでも長くこの世で生きていて欲しいと願うのは当然の心理である。
「僕が医者になろうと思ったのも、祖母の一言がきっかけになったんだ。『人の役に立つような仕事に就いてこそ、日本男子だ』ってね・・・妹が喘息だったから、治してやりたいという気持ちも、もちろんあったけど」
「だったら、フツー、内科じゃないのか?」
当然、心に思い浮かぶ筈の質問を司馬が口にした。
「うん、そのつもりだったんだけど―――大学時代に、外科の方が向いてるって言われて・・・」
確かに石川の器用な手先は外科向きである。スピードという点では自分に劣るが、細かい術式を正確にこなしていく腕前と、初めての経験だった筈のラパコレを途中から一人でやり果せたカンと度胸の良さは、司馬もよく知っている。
その時、台所のケトルが音を立てた。お湯が沸いたらしい。
キッチンへ立った石川が大きめのマグカップを二つ、手にして戻ってきた。ブラックコーヒーの入っている方を司馬の前へ置く。自分用にはカフェオレを淹れたようである。部屋中に充満した香しい匂いにつられて、暫く二人とも無言で飲み物を啜った。ゆったりとした心地良い時間に流されそうだった。
医局でも部長室でもオペ室でも、いつも敵対し争ってばかりだったのに―――場所と話題が変わっただけで、こんなにも和やかな会話を続けていられることに、石川も司馬も驚いていた。
一体、自分達は今まで何をしていたのだろう? 相手を憎み疎み目障りな奴だと思い続けてきたが、もっと他のことをいろいろ話すべきだった。もっとお互いを知るべきだった。あの頃そうしていれば、おそらく失わないで済んだ時間が、二人の間で確かに存在していた。そしてそれを取り返すのはこれからでも遅くない筈だ―――
気まずい訳ではないが、やや長引いた沈黙に引け目を感じてか、今度は石川が会話の糸口を引っ張った。
「ところで、きみの話って・・・?」
司馬としては石川が自分自身について語る事柄をもっといろいろ聞いていたかったが、せっかく水を向けられたのだから、先に己の用件を済ませてしまおうと思い立った。
正面から石川を見据え、率直に切り出す。なるべく穏やかな口調を心掛けようと努力する必要もなく、声音はごく自然に和らいだ。
「冠状動脈と肺動脈の剥離―――やったこと、あるか?」
司馬の科白を石川がゆっくりと咀嚼した。眼差しが微かな驚愕を帯びて瞬く。
石川の表情に僅かな躊躇いの色を見てとった司馬は、この時既に小さな嵐の予兆へ触れようとしていた。
To Be Continued・・・・・
(2000/1/6)
へ戻る
−第10話に対する言い訳−
あああ、今回も話が進んでませんねぇ……(しくしくしく)
石川先生の家族構成については、結構、悩みました。おばあちゃん子というのは最初から考えていたのですが、一人っ子じゃないような気がしたんですね。で、喘息持ちの妹がいたことにしました。この話では多分書かないと思いますが、司馬先生は対照的に一人っ子だと思います。本質的に人付き合い下手そうですし。兄弟いると、その辺はある程度丸くなりますから。
ポール・ビーソンという人物は実在します。尤も専門は少々異なり、感染症の大家でした。それで同業の息子がいたことにして、ハーバード大学東洋医学研究所(実在します)所属ということにしました。二十年の研鑚の後、同大学循環器系教授に就任した日本人も実在の人物です。某学会会報から、情報を得ました。
とりあえず、二人っきりの会話を始めたわけですが、まだ口説く(?)段階には程遠いです。でも八ヶ月ぶりの再会ですし、お互いが知らなかったことは沢山あると思うので、こうにしかなりませんでした。すみませんです〜
次回は、石川先生に是非是非頑張ってもらいたいものです←本当にキャラ任せで話を創っている