僕の大切なひとだから 9
「司馬君・・・ちょっと最近、評判、悪いんじゃない? その―――患者さん達から、ね・・・」
「医者が患者に媚びる必要は、ないと思いますが・・・?」
「またぁ・・・そーいう言い方、ダメですよぉ―――ま、気持ちは解りますけどねぇ・・・」
時折、外科部長室で交わされる会話がだんだん苦痛なものとして感じられるようになり始めたのは、いつの頃からだったろうか。
大学時代からの長い付き合いは、日々その顔を見ただけで互いの機嫌や感情の在り処を推し量れるまでになっていて、二人ともその上に胡座をかいていたのは事実だった。多くを語らなくとも、何を欲しているか、何が気に食わないかが手に取るように判るのだ。それが高じれば、相手の考えそうなことも自然と見当がつくようになる。
二人が天真楼病院へ赴任した時もそうだった。
表向きは、理事長が東都医科大学に掛け合い、あの天才教授を口説き落として外科部長の後釜に据えた結果、中川から愛弟子の司馬も是非一緒にとの申し出を受け、それ故の二人揃った移籍ということになっていた。そしてその逸話を裏付けるために、中川が引き抜かれる時の条件として望んだという研究設備まで用意したくらいである。
だが人の口に戸はたてられぬという言葉の通り、大学での失態が噂として洩れてくるのはあっという間だった。
たった一度の執刀ミスで、患者を死なせたという理由だけで、大学の研究室を―――しかもその研究室のトップだった教授と一緒に追い出されてくるのは、どう考えても妙だ。何か別の事情があるに違いない―――
お互いの利害を一致させ、この人事を採り仕切った理事長と脇坂は慌てた。学長選で勝つ為と喧伝効果のある天才師弟コンビを得る為と―――いずれにしても、裏で動いた金のことは絶対に知られてはならぬのだ。
既に大学での事件は多くの知るところとなってしまった。それなら、その方向で物事を推し進め、目先を誤魔化すしかないだろうと、例によって脇坂がその切れる頭を働かせはじめていた。
中川は、その提案を脇坂から受けた時のことを思うと、今でも胸の悪くなるような憤りを感じずにはいられなくなる。名誉教授が持ちかけてきたのは、司馬に纏わる一つの噂を流すことについてだった。
『ドクター・ステルベン』。
手術が成功しても完治からはほど遠く、結果的に命を存えさせただけの患者から、「死なせてくれ」と頼まれることは間々あった。出来る限り、時間の許す限り、患者の家族とも話し合いを持ち、同意書を取った上で、人工呼吸器のスイッチを切り電極やチューブを外してきたのは、何も中川研究室の患者に限ったことではない。延命技術があまりに進歩してしまったが故に出る弊害が徐々に社会問題へと忍び寄りはじめていた。
患者やその家族からの度重なる懇願に負け、措置を敢行した医者達の中にあって、司馬はどんなに辛かったことだろう。亡くした父親を思い出させる患者達に施すその行為は、彼に医学の限界と患者の生死を握る『医者』という立場の難しさを正面から突き付けたに違いない。だがそれは、治る見込みのない身体をこれ以上痛めつけずに楽にしてやれる唯一の方法であり、どんなに優秀な技術をもってしても太刀打ちできない『死』という前人未踏の領域に改めて畏敬の念を抱かせられる瞬間だった。
司馬が担当したクランケのうち、三名からそういう依頼があった。取りたてて問題にはならない数である。もっと多くの病人がそれを望み、同意書等の諸条件が整えば敗北感と向き合う決意のもとに処置が為された後、決して表沙汰にならないよう厳重に封をされた。
社会的にはまだ認められていないこの行為が白日の元に曝されでもしたら、一歩間違うと犯罪に分類される『安楽死』と同列に扱われて医師免許を剥奪されかねない。これらの依頼を受けたことは、非合法措置として、大学側としても固く口を噤まざるを得ない類のものだった。いくら患者が望んでも、同意書があっても、世の中にはまだまだ理解され難い考え方だった。
脇坂はその『尊厳死』の記録に目をつけた。中川研究室が無くなった今、過去のオペ記録や各々の帳票類などいくらでも改ざん可能だった。
三名ではもの足りない。当時同じ研究室にいた講師や助教授が担当した患者から四名プラスして、七名―――最後に問題の政治家のオペ記録をつければ申し分ないだろう。
執刀ミスに安楽死疑惑―――
これほどの黒い噂なら、その時天真楼内を席巻していた季節外れの人事に対する様々な憶測に尤もらしいオチがつけられそうだった。
噂の中身とその成立過程を確認した中川は大変驚き、悲しくなった。司馬の評判はどうなるというのだ。脇坂が流そうとしている作り話は本来の司馬とは正反対の人間のものとしか思えない。そんな嘘は困ると反対したが、学長選を目前にした名誉教授は一向に取り合おうとしなかった。
「彼には、そういう雰囲気があるのだよ。こういう黒い疑惑は、うってつけじゃないかね?」
司馬から痛烈な一撃を頂戴していた脇坂からすれば、ちょっとした意趣返しのつもりもあったのだが、その辺りの事情を全く知らない中川には、あまりに酷い仕打ちとしか思えなかった。
「もっと、穏やかなやり方はないんですか? そんな、人格を疑われるような噂では、大学側としても困るんじゃないですか?」
既に自分自身で掌中の珠へ刃を突き立てておきながら、どの面下げて司馬を心配するのか―――嘲るような心の声を無視し、中川は必死に食い下がった。司馬を汚されたような気がした。ましてやこんな方法で、彼の心と立場を傷つけられるのは絶対に許せなかった。
「いいかね、中川君。君と司馬君がいるところはもう『大学』という名の聖域ではないんだよ。少しは、一般社会を生き抜く術も学び給え。今後、その足許を掬われんようにする為にも、だ」
全く、学者馬鹿はこれだから―――と言わんばかりの科白が中川へ投げつけられた。
こうなってしまっては、手も足も出なかった。中川が自分の不甲斐なさを痛感させられていた頃、時を同じくして大学側は脇坂の撒いた荒唐無稽な法螺話に呑み込まれていった。
中川の下にいた助教授も講師も助手も言いくるめられ、あたかも研究室に在籍していた時代から司馬が『ドクター・ステルベン』と陰口をたたかれてきたかのような過去を語りはじめていた。他の研究室や余所の科にまで、それは及んだ。
沢子の在籍していた麻酔科までがそのような態度を採りはじめた時には、(なんと恥知らずな)と思い、怒りを通り越して呆れたものだったが、いかにも脇坂らしくその裏にはちゃんと綿密な計算が為されていた。当時、司馬と付き合っていたことが学内では遍く知られていたことを逆手にとって、それゆえ彼女の耳にその仇名が入らぬよう、皆で気をつけていたという筋書きを用意したのである。
これで、沢子が司馬の別名をリアルタイムで聞いていなくても、この風聞に対する信憑性を覆すことが極めて困難な理論が確立されてしまったのだ。一向衰える気配のない恩師の悪魔的な手腕に、中川は唇を噛むことしか出来なかった。
もちろん司馬には自ら事情を説明した。勘の良い青年は、黙って頷いただけだった。
元々口数の多くなかった教え子は、ますます無口になり第一外科内でもみるみる孤立していった。
―――違う!!! 司馬君が、そんな人間ではないことは、この私が一番良く知っている!!!
幾度、全てをぶちまけたいと思ったことだろう。
己に向けられた疑惑に対して、司馬は不敵な笑みをもって対処していた。その迫力のある外見と相俟って、『ドクター・ステルベン』という呼称が益々似つかわしくなってしまったような彼をなんとかして元に戻してやりたかった。
だが、自分が噂を否定すれば、司馬の立場が余計に悪くなる―――
疑わしきを庇えば庇うほど、二人が共に大学を追われたという事実は浮き彫りになり、噂に真実味を増し加えてしまうことが外科部長を苦しめた。司馬の表情はどんどん硬くなってゆく。浴びせられる疑惑の眼差しにただ一人耐えている彼の心中を思う度、中川もまた口を噤み続けるしかなかった。
しかしこの時、司馬の性格と行動に非難が集中すれば、そのオペ技術の素晴らしさが却って際立ち、中川が教え子に意見出来ないのもその天才的な腕を認める故であるとの説明がまかり通ることに、二人は気がついた。ある一点に視線が集まれば、その周囲への目配りは自然と疎かになる。つまり司馬へ注意を引き付けることで、中川の存在は常に蚊帳の外へ置かれる可能性が高くなるということに他ならなかった。
お互いの考えていることが手に取るように判る師弟は、それぞれに考えを巡らし始めていた。
それでも司馬へ悪役を割り振ることは、中川にとって辛い選択だった。既に自分は大事な息子に犯してもいない執刀ミスの罪を擦り付け、これまた与太にも等しい悪意のある噂の当事者へと仕立てられていくのを黙認したという非を行ってしまった。だからこそこれ以上、彼を貶めたくなかった。
だが教え子は暗い鎧を身に纏い、自分に割り当てられた役を演じようとしていた。それならば、私も協力するしかない。司馬をこんな目に合わせてしまったのは、全て自分の責任だ。せめて、彼が今望んでいることに手を貸そう―――
元々の持ち味である飄々とした雰囲気は、益々前面に出るようになった。呑気そうに病院内を歩き回り、何事にも断定する態度を避けるようにした。
その結果、温和で人の良い、だが、特定の部下―――もちろん司馬のことだ―――に対する管理能力には疑問を差し挟む余地がある、のほほんとした部長先生という評価が定着した。司馬の態度と性格の悪さにも拍車がかかり、それでも部長が彼を庇うのは、教え子だった過去と最高のオペ技術が惜しいからだという見方で一応の着地をみるようになっていた。
しかし、作られた暗い過去は徐々に司馬の精神と行動を侵し始めていた。無愛想な表情を常とし、滅多に笑わなくなった。スタンドプレイが多くなり、裏金や賄賂を貰っているらしいとの噂も耳にするようになった。
中川は、どうしていいか分からなくなっていた。
司馬の心が見えない。あれだけ多くの時間を共有し、お互いの何もかもが理解し合えた頃の記憶は、全て日溜りのような過去の中に閉じ込められてしまったようだった。
あの悪夢から覚めた後に、深く考えもせず自分が司馬へ頭を下げたのが諸々の始まりだった。もしも、あの事実が無かったら、もっと違う人生を二人で歩んでいたのかもしれなかったのだ。
確かに、ここにいれば過去の名声はそのままに、自分は手術をしなくて済み、司馬もお咎めなしで、堂々とメスを揮える。しかも、元天才教授直伝の技術を持った若い外科医には次々と難易度の高いオペ依頼が舞い込んできて、それをこなすことにより彼の腕は益々磨かれていった。
だが、このままでは司馬が司馬でなくなる―――
彼が自ら悪者を演じるようになったその理由が、自分を護る為だと解っているからこそ、いたたまれなかった。あの事件以来、むごい境遇を強いるばかりで、愛弟子に何一つしてやれない恩師の不甲斐なさを責めもせず、ただ中川の評判が悪くならないことだけを願い、わざと堕ちていく司馬を見ているのは己の身を切られるよりも辛かった。
中川は自分が司馬から離れるべきなのではないかという考えに囚われはじめていた。物理的には二人が別々の病院へ勤務することなど不可能だったが、最初は精神面でもう少し自立しようと思っただけだった。
己に定着した怠け者のような風情を漂わせつつ、司馬を特別扱いしないことに決めた。断腸の思いで、出来るだけ他の医者達と同等に扱った。
だが、司馬はそれを酷く嫌がった。自分から中川の注意が逸れると、とんでもないことをしでかした。のほほんとした仮面の下で汗だくになりながら、事態を収拾するべく何度危ない橋を渡ったか分からない。悪い噂が現実のものとなり始め、自分達の隠し持つ事情を知っている筈の理事長でさえも、時々顔を顰めるまでになっていた。
そんな折、カンザス大から第一外科へ外科医を一人受け入れてみないかと、上から打診された。元々増員計画があっての人事であり、別に何かを画策しようとした訳ではなかった。だが、司馬の悪評を多少なりとも漏れ聞いている東都からの医者を受け入れるより、彼に対して全く先入観を持たない人間の方がいいような気がして、中川は二つ返事でその提案に賛同した。そしてやってきたのが、あの石川だったのである。
自分が呑気に接待を受けていた頃、既に二人の対立は始まっていたらしい。後で沢子からチクリと嫌味を言われた。
石川の受け入れを決めた時に目を通したのは履歴書と任意で提出してもらう職務経歴書をはじめとした各種覚書の類だけだった。それらから大体の嗜好や性向を推測することは可能だが、性格や信念までは読み取れない―――全く、とんでもない男が来たものだと思った。
正義感が強く、正しいと思ったことは堂々と主張し、人の顔色を覗うということをしない熱血青年が司馬と衝突するのは当たり前だった。懲りずに何度も対立を繰り返す二人を目にする度、(ああ、もう、いい加減にしなさいよぉ)と思ったものだ。だが、故意に纏った黒いマントでその内部をも塗り替えられてしまったかのような司馬の前に、白い輝きも眩しい刃を手にした石川が立ち塞がる光景は、中川の心の奥になんとも言えない感慨を呼び覚ました。
石川君なら司馬君をなんとか変えられるのでは―――?
元に戻してくれとまでは願えなかった。自分がその原因を作ったというのに、後からやってきた、何の事情も知らない石川へそれを望むのはあまりに身勝手というものだ。
だが、石川と張り合うことで、司馬の意識が本来業務である医療行為により強く向けられるのではないかという気がした。その中で、昔、自分と共に歩んだ道を思い出してくれればいい。それでも司馬が戻らないのなら、それは彼の中で彼自身が決めたことである。もはや、中川には何一つ口を挟める権利はない。
そう思って、二人を同じ手術室に放り込んだが、結果は失敗に終わった。参事の昇格も独断で石川に決めた結果があの返り討ちだ。司馬の内面が本当に黒く染まっていることを見せつけられたような気がして、中川は胸が締めつけられる想いだった。
その後も、石川の発病、体外肝切除手術時間の新記録樹立、購入委員会での顛末、笹岡の安楽死疑惑―――と、次々に騒ぎが起こり、本当にめまぐるしい三ヶ月だった。
(あの二人を部下に持っていながら、その上でのほほんとしていられたことは、我ながら表彰ものですよねぇ・・・)
こんなことで、よくも外科部長が務まったものだと、中川は己に内心呆れてもいた。尤も、スキルスが発病した石川の生死を賭けた闘いは相対する司馬だけでなく、中川自身はもちろん、沢子や峰や稲村や―――果てはオットー製薬の星野まで巻き込んだのだ。あまりに騒ぎが大きくなり、勢いがつきすぎて、誰も部長先生の責任を問うどころではなかったと言った方が相応しいのだろう。
それでも―――中川は満足げに溜息を吐いた。
石川のオペをやらせろと舞い戻ってきたことにも驚かされたが、その直前に司馬が己に見せた姿は、確かに昔の彼だった。
―――あなたが、辞めることはない。僕は死ぬまで・・・黙ってます。
先生・・・色々・・・ありがとうございました―――
結局、司馬は何一つ変わっていなかったというのか。中川のミスを自己のものとして身に被ったその時から、司馬の本質はずっとそのままだったということか。
彼の心にあったのは、自分をずっと父親のように慕いつづけていた感情だった。己が司馬という『息子』を無心に愛したように、この青年は中川という『父親』へ孝行し続けていたのだ―――その時、漸くそのことに中川は思い至った。だから、石川のオペが成功した後に、冗談めかして「もう一度、一緒にやる気は・・・・・・無いよね」とまで告げたのだった。
司馬を解ろうとする必要はなかった。表面にどんなかたちの棘を生やしていようと、その心があの頃と同じであることを自分は『知って』いさえすればいいのだ。それに気がついたことが、中川にとって一番の収穫だった。
―――ここに残るつもりは、ありません・・・
穏やかな微笑みは、昔のままの教え子がそこにいることを己に確信させてくれた。
純粋に尊敬や師弟愛で結びついていた絆が、打算と馴れ合いだけの荒んだものに変化しても、どうしても手放せなかった互いの存在だった。だが表面を蔽っていた錆や膿を取り除けば、その下には昔と変わらない想いが息を潜めている真実を知った今、迷う必要はなかった。
刺された司馬の再就職先を手配しながらも、己の中で一つの決意を固めた。理事長はまだ司馬の技術に未練タラタラのようだが、それは時間の経過と共に様子を見ながらどうするか検討していけば良いだろう。もう二度と自分の存在が司馬を苦しめることになってはいけないと、中川は肝に命じた。
だがそれも、降って湧いた『悪夢』にまたもや邪魔されることとなった―――冠状動脈肺動脈起始症手術依頼である。
脇坂が自分と司馬を本心から心配しているとは、今までの経緯を鑑みても考えにくかった。だが、日本医師連盟の筆頭常任理事及び東都医科大学学長という立場がそうそう動き易いポジションでないことは紛れもない事実であり、充分承服されるものだ。そして、中川が取れる手段がたった一つしか存在しないこともまた、厳しい現実だった。
どこまでも司馬と共に歩むよう、神が配しているのなら、人間の分際で逆らおうとすること自体が滑稽なのかもしれない。そうだとしたら、もう一度彼の前に跪くことくらい、何だというのだ?
しかし、その為には越えなければならないハードルがあった。それも、とてつもなくやっかいな障壁―――中川の大切な右腕だった司馬を追いつめ、ここから去らせた男の存在が重く心に圧しかかってきていた。
石川という男は自分にとってもまだまだ未知数である。ここのところ司馬についての話題にも素直に応じるようになってきているが、所詮、噂話の延長でしかない。目前に控えている難儀な手術の為だけにではなく、中川は何としても司馬をこの手に取り戻すつもりだった。だが、戻って来てまた石川と壮絶な闘いをされたのではかなわない。司馬を呼び戻す前に一度、二人を何処かで対面させて、様子を見ておいたほうがよさそうだった。
中川は、現在、司馬を置いてもらっている山川記念病院の副院長で自分の大学時代の大先輩でもある天野智子に、電話をかけた。自らも外科医としてまだメスを揮うことのあるこの女丈夫は、司馬の勤務スケジュールをてきぱきと調整してくれた。
「で、このこと、司馬先生には内緒にしておいていただけないでしょうかねぇ―――その、天真楼から患者が行くことも、その名前も・・・」
「あらま、どうして?」
「石川君が行くと知ったら、司馬君、逃げちゃいそうですから。せっかく出向いていったのに、すっぽかされちゃ、気の毒ですよぉ」
司馬とは伊達に長い付き合いではない。石川に対して司馬の気持ちがどう変化しているかまでは推し量れないが、今までのことを考えるとそうなる可能性が捨てきれなかった。
「確かに―――有り得るわね」
電話の向こうの天野も同意見だということは、山川での司馬の態度や行動はここにいた頃とそんなに変わっていないということだろう。
「いいわ。他ならぬ中川君の頼みですもの、一肌、脱がせていただきましょ。司馬先生には直前まで知られないよう、計らいますよ」
「すみませんねぇ」
「どういたしまして―――中川君、なんだか楽しそうよ」
からからと笑う大先輩の声は昔と変わらず、聞いているだけでも楽しい気分になってくる。
「あなた、昔っからそうだったわ。そういう風に何でも面白がるところ、ちっとも変わってないわねぇ」
そう言う天野の茶目っ気もまた健在であることが、司馬と過ごした時代とはまた違う懐かしい学び舎を中川に思い出させていた。
受話器を戻し、石川を呼んだ。司馬に会いに行くよう命じると、案の定、目を丸くして固まってしまった。
中川はまず正当な理由を説明し、基本的な社会の常識を持ち出した。
「ま、ね・・・司馬先生の執刀で貴方が助かったのは事実ですしねぇ―――ちゃんと顔見て、お礼、言っといた方がいいですよぉ?」
こちらからの提案は石川にとってまさに青天の霹靂だったのだろう、視線をさ迷わせ、言葉も出て来ないほどに狼狽している自分の部下を中川はゆっくりと囲い込んだ。
「人間、思い込みや決めつけに囚われ過ぎると、意外に目が曇るもんです。世の中、見えてるものばかりが真実じゃないですから・・・」
石川へ語ると同時に、自身にも言い聞かせた言葉だった。
無言のままお辞儀をして出ていった白衣が廊下の角を曲がってしまうまでその後姿を見送った後、室内に戻る。すっかり黄昏、暗くなった外気がブラインドの隙間からビロードの襞の如くに這い込んできていた。
これは、賭けだ―――自分がこの手に再び司馬を取り戻すための、賭けなのだ。
もしも明日、石川が司馬を再び怒らせたら。相手に掴みかかっていったあの三ヶ月の死闘を彷彿とさせるような関係しか、彼らの間に存在しないようだったら。
その時自分は、石川をここから追い出し、司馬を取るだろう。
―――大事なものを見誤らないようにしませんとねぇ・・・
中川にとって、今も昔も一番大切なのは司馬であることに変わりはない。
もう、自分は間違えない。司馬の態度や行動に顔を顰めることはこれからもあるだろうが、彼の中にある真実は一つだけだ―――それを知ったからこそ、もう、司馬が自分から離れても、自分が司馬から離れても、大丈夫だと思った。
だが、運命が二人を分かとうとしないなら、二度とその目を逸らすまい。
これからはどんなに楯突かれようと軽蔑されようと、ボクは君を見続けていられますよ、司馬君―――
そして、その司馬と互角に渡り合った男だと思えばこそ、石川を失うのは勿体無いという気にもなる。
少しは歩み寄れるか、それとも決裂するか。
(明日、君達が再び、顔を合わせるその瞬間を見てみたいものですねぇ・・・)
二人の顔を頭の中に思い描きながら、中川は無意識のうちに緩んでくる頬をどうしたものかと悩んでいた。「司馬先生」
手術室から出てきたばかりの司馬を一真が呼び止めた。水流が迸り出ている蛇口の下へ手をかざしていた執刀医は顔だけを捩り、声の主を見遣った。
「お疲れ様―――西村さん、何だった?」
一真が自分を待ち構えていた理由は、簡単に見当がついた。たった今、司馬が二度目の執刀を終えた西村裕人は、元々この内科医から回された患者だったからである。
明らかに判っている外傷がない限り、まず患者は内科の門を叩く。診察の結果、外科的措置つまり手術が必要となった時点でクランケを外科へと譲り渡すのが、どこの病院でも一般的な流れだった。そして内科の医者からしたら腕の良い外科医、即ち確実に治すオペ技術を持った医者へ患者を託したがるのは当然のことである。共に性格は難ありと評されつつ、そうした理由からか司馬も神崎も指名は多かった。
「術後24時間内の飲食禁止令を守らなかったようですね・・・食道に残留物がありました。隔壁にその固形物が詰まって激痛につながったようです」
淡々と告げる司馬の傍らで、一真は胸を撫で下ろしていた。
よくよく考えてみれば、『最高の技術を持っているドクター』である司馬が縫合不全等の初歩的なミスを犯すとは思い難い。結局は我侭な患者の、身勝手な行動に起因する自業自得だったという訳か・・・
看護婦から西村の異常を告げられ慌てて司馬がいる筈の外来へ飛び込んだが、そこで診察にあたっていたのは神崎だった。天野の命により司馬が副院長室で人と会っているらしいことを聞き出すと、「あいつは非番だぞ」と喚きながら後を追ってきた声に一向構わず、駆け込んだだけの甲斐はあったというものだ。
―――やれやれ、司馬先生が執刀してくれてて、良かったよ・・・
もしも神崎に開腹させて、この事実が明るみに出たなら、「お前が患者に甘い顔するから、こんなことになるんだ」と非難され続ける日々が一真を待っていたことだろう。
自分にも他人にも寛大になれないあの高飛車な男とは異なって、起こってしまったことに関する限り、司馬は殆ど拘りを見せず執拗に追及することもしない。今回の手術にしても、再手術の原因を自ら作った患者本人へは後で一言お灸を据えねばならないだろうが、既にクランケがやってしまったことをいくら責めたてたところで、二度目の執刀が帳消しになる訳ではない―――この若い外科医はそれをよく心得ているようだった。
一歩下がって司馬の背後に退いた一真が、ぼそりと詫びた。
「済まなかったね―――その、半休中に」
「別に・・・構いませんよ」
オペ室で器械出しを務めた看護婦から差し出されたタオルを受け取り、丁寧に雫を拭いながら、司馬はいつもながらの素っ気無い口調で答えた。
「でも・・・お客さん、ほったらかしにさせちゃってさ―――その、悪かったね。彼、友達?」
一緒に移動しながら、おずおずと質問を試みる。少し間を置いて司馬から返された言葉は、一真に軽い驚きを与えた。
「あいつは、クランケですよ―――僕の」
「ええっ―――とても、病人には思えなかったけどなぁ・・・」
「八ヶ月前に、ボールマンW型アドバンステージのスキルスを切り取ったんです。胃は、ほぼ全摘出―――執刀したのが、僕です」
「そっか―――成る程、それで『クランケ』ね・・・」
それにしても、司馬に掴みかかっていったあの青年の行動には仰天させられた。ここ山川記念病院でも、彼の性格及び態度の悪さはしっかり知れ渡ってしまっていて、余程のことがない限り、誰も司馬に対して意見などしない。下手に干渉しようものなら、関わった事を後悔させられるかのような冷たい声で拒絶されるか、せいぜい良くてすっぱり無視されるか、というのが常なのだ。あの神崎でさえも、司馬に話しかける時には相当気を遣っているくらいである。
「でもさ・・・凄いじゃない、彼―――」
そういう事情もあり、真正面から司馬に説教するだけの度胸を持った男を目の当たりにした一真の口からポロリと本音が零れ出たのは、至極当然のことだった。だが司馬本人は、何を言われているのか解らないという顔で、こちらを見返した。
「いや、その・・・・・・あんたの胸倉、掴んで怒鳴りつけるなんて―――大したモンだな・・・って」
司馬がここへ来てまだ間もない頃、屋上で二人、会話を交わした時のことが、鮮明に甦る。あの時、自分はなんとかこの口の悪い外科医の心の中へ踏み込もうとして足掻き、結局その内面へは何一つ触れられないまま終わった。だが、先程副院長室で会った見知らぬ人物は、いとも簡単に司馬へ詰め寄り、最終的には言う事を聞かせたのだ。
友達か?と訊ねた自分の問いかけに対し、司馬は患者だとしか言わなかったが、何か入りこめないような空気を二人の間に一真が感じたのもまた事実だった。
―――司馬先生、あんた・・・彼の発言には、耳を傾けるんだな・・・
そう思うと、奇妙な無力感に支配される。一真は少々面白くなかった。
全く頓着していない様子で口を開いた司馬は、何の感情も感じさせない声を繰り出した。
「すぐ、頭に血が昇る奴ですから―――煩いだけですよ」
その言葉を受けた一真が素直な感想を述べた。
「そうかな・・・一所懸命なんじゃ、ないか? つまり―――あんたに対して、さ・・・」
言ってしまった後でそっと司馬の方を窺い見た。そして、その鋭い眼差しに僅かながらも怒気が宿っていることに気がついた。
(うわ、やっべぇ・・・)
どうやらこれが失言だったらしいことを悟った一真は、この後、浴びせられる筈の毒舌を覚悟する。だが、司馬は黙ったまま歩き続け、自分用のロッカー前で足を止めると、中にかけてあった白衣のポケットに手を入れて、鍵束を取り出した。
「この鍵なんですが―――天野先生から麻生先生に渡すよう、頼まれました」
「あ、ああ・・・ありがとう」
とりあえず差し出されたものを受け取り、正面からもう一度司馬の顔を見つめた。そこには相変わらず人を寄せつけようとしない気配を纏った顔があるだけで、一真が安堵すべきか憂えるべきか悩みはじめたその時、
「もう、僕達は出ますから―――後を頼みます」
と事務的に告げる声が降ってきて、己の思考を現実へ引き戻された。
「あ、そうだね・・・ええと、お友達―――じゃなかった、患者さんだっけか・・・」
今、司馬が『僕達』と言ったことに心を揺り動かされて、一真は夢中で言葉を紡いだ。
「その・・・彼、名前は・・・?」
「―――石川」
「あの、石川さんに、よろしく―――邪魔して、悪かったって・・・」
「伝えときますよ―――では、お先に」
そう言った司馬の表情が少しだけ緩んだような気がしたのは見間違いかなと思いながら、一真は受け取った鍵束を乱暴な仕草で白衣のポケットに納め、自分の持ち場へ戻る為に歩き出した。
To Be Continued・・・・・
(1999/12/5)
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−第9話に対する言い訳−
前回(第8話)の言い訳部分でも書きましたが、この回は元々前回分と併せて一つの話になる予定でした。いつもの如く手が滑った(!)為、とんでもない長さになり、分割する羽目になりましたが……(涙)
で、山川記念病院サイドでの言い訳です。通常、容態が急変して緊急オペということになっても、本来はきちんと検査をし、ある程度の原因(?)を特定した後に患者の体力や症状をも検討した上で再手術という段取りになります。この話では、一真と神埼が司馬を呼びに来てますが、その足で速攻オペということは、実際にはまずありません(苦笑) まあ、どうしても原因が分らなくて最後の手段として開腹に踏み切ることも稀にあるそうですが。
それから、時々ご質問いただくのでここへ改めて書いてしまいますが、『ザ・ドクター』は99年7月〜9月にTBS系で放送されていたドラマです。配役は、堤真一(麻生一真)/長嶋一茂(神崎俊太郎)/野際陽子(天野智子)/永井美奈子(落合友里子)/河相我聞(倉田透)/高岡早紀(朝倉由希)/葉月里緒菜(青山晴香)でした(全て敬称略) 何しろちゃんと見てなかったので、キャラクターの性格等は演じた方々の持つイメージにかなり頼って(?)書いています。ドラマのストーリーは……訊かないでください(大爆笑)
やっと次回から、石川と司馬の攻防(?)へ突入します。もう少しで終わる……と信じたい(泣)