僕の大切なひとだから  12




中川淳一、東都医科大学の教授席へ最年少で座った若き天才にして奇跡の指を持つ男―――入学した時から憧れていた先生だった。専門課程で初めてこの天才教授の講義を取れるようになり、彼に近づきたい一心で勉強に励み努力を重ねた。そして、その甲斐あってか中川も司馬の優れた資質を目に留め、学費を援助してまで自身の研究室へと迎え入れてくれたのだ。
いつも自分の数歩前を確かな足取りで歩いていた師の放つ威光があの事件を境に輝きを奪われてしまったからといって、中川へ抱く尊敬と思慕は揺らぐことなどなかった。先生がいたから、僕は外科医を目指した。先生が引き立ててくれたからこそ、僕はここまでやってこれたのだから。
自分達二人を襲った『魔の刻』より時が少しく歩みを進めたある日、司馬は中川研究室の指導教授でもある脇坂から唐突に呼出しを受けた。
「君達の今後について内密に検討したいんだが―――先に君の了解を取らないことには、中川君へ打診できないんでねぇ・・・」
そう言われて、構内の私室ではなく、名誉教授が大学の近所に借りているマンションを指定された。脇坂が揮う対外的な手腕の凄さについて、司馬も全く知らない訳ではなかった。恩師と自分の未来にどういう結末が用意されているのかまで判らないが―――応じない訳にはいかなくなった。
そして訪れた部屋で脇坂から持ちかけられた話は、凡そ考えたことなどなかった内容だった。そういう世界があることくらい知っていたものの、まさか自分の身の上にその体験が重ねられるとは夢にも思わなかったのだ。
尤も脇坂から、この、意に染まぬ関係を強要されたおかげで、新天地である天真楼病院へ移っても備えがあった方が良いことに司馬は気づかされた。とはいえ、たまたまそういう嗜好を持ち合わせていた名誉教授のケースは例外であり、女性ならいざ知らず男相手に同性の色香が武器として通用するなどと、まず思えなかった。全てに於いて相手を屈せられることの出来る最大の力は考えるまでもなく『金』であった。
幸い、移籍したばかりの今は、特に問題もない。だが、いつかまた、中川を苦しめるような状況が生じないとも限らないのだ。そしてその時に、何もないよりは『金』があった方が断然対処しやすいだろう―――そう考えた司馬は、資金調達について検討し始めた。
その頃天真楼病院では、早くも新任者達の過去と移籍理由を怪しむ声が藁の中で燻っていた消炭へ火を移したように炙り出されはじめていた。この人事の首謀者である東都医科大学の名誉教授も天真楼病院の理事長も、その不審火を消すのにやっきとなった。
あの事件が中川と司馬にさせた約束とその裏にある真相については、脇坂もきちんと理解していたようだった。だから真に疵物の中川へ目が向かないようにと、無実である司馬の方を黒衣で包み込もうとしたのだろう―――その結果が『ドクター・ステルベン』という風聞になっただけである。
確かに怒りも心頭に達するような案だったが、中川の評判が傷つけられないで済むのなら、司馬は一向に構わなかった。流された噂が全くの出鱈目であることは、恩師と当事者である自分が一番良く知っている。人の噂も七十五日、いずれ風化していくに違いない―――それに、全ては仕事で返せば、良い。
あまり口が立つ方ではなかったし、言い訳のしようもないので、自然と無口になった。しかし、噂自体が下火になっても、一旦袖を通してしまった漆黒の衣装は、今やおいそれと脱げなくなってしまっていた。そして皮肉にもそれは、己の隠し持っていた目的を却って助けることになった。不本意ながら被った『悪い医者』の仮面は、司馬がより大胆なことをしてもおかしくないような下地を用意してくれた。
確か、一番初めは何処かの社長令嬢の手術だった。大して難しいものではなかったが、主任の平賀が尻込みしたのを代わりに引受けたところ、オペ終了後にかなりの謝礼を手渡されたのだ。普通なら一度や二度辞退してから受けるものをすんなり取ったということで、口さがない連中が立てた僅かばかりの伝聞は速やかに広まっていき、『金に汚い医者』というもう一つの悪評を司馬の上へ追加した。やがてそれは院長の耳に入ることとなり、都会の大病院として当然抱え持っているVIP―――単に我侭な患者だったり、実際に重い症例だったり、患者本人が多忙なあまり深夜オペなどの時間的制約を強いられたりと、厄介なケースであればあるほどそれに反して金払いのよくなるクランケが指名で度々回されてくるようになった。
当然のことながら袖の下として渡される金額も大きく、大量の紙幣が司馬の手に渡った。そして、そういう特殊な患者だけでなく、医局へ出入りするチャンスを窺っている製薬会社や医療機器メーカーからも、せしめるものはせしめられるということを司馬が嗅ぎつけるのは時間の問題だった。
一錠でも一包でも多く自社製品を使ってもらわんと、必死に接待を持ちかけてくるMR達の心得へ大なり小なり刻み込まれているのが『誠意』というの名の『金』を包む行為だった。本当に治癒効果があるのならその薬を使うだろうが、どこのものを使用しても大差ないのであれば、賄賂が期待できる社の製品を手に取るのは、比較論からくる人間の欲念でもある。ちょっと水を向ければ多くのMRが魚心を見せた。そしてまた、その方面でも司馬の名前は徐々に浸透していったのだった。
意識して素行不良を装い出した分、今までよりも真剣に本来業務へ取り組むよう心掛けた。手掛けるオペについては充分に術式を検討し、不明な点は納得いくまで過去の症例を調べ、確認してから臨んだ。司馬にとって手術室でメスを持っている時間だけが、自分自身でいられた。普段演じている姿を脱ぎ捨てられる唯一の場所だった。
そんな司馬を中川はなんとか受け止めようとした。誰よりも大切な存在へ自らが負わせた枷の重さをその腕に抱えながら、父たる恩師は仮初めの姿で日々を過ごす最愛の息子を見続けなければならなかった。それは自身が傷つけられるよりも遼かに辛い痛みを中川へ与え、苦悩の嵩を少しづつ高めてゆくこととなった。愛する者へ己の咎を被せるという過ちを犯してしまった以上、身を切られるような想いから中川が逃げ出すのは、叶わないことだった。
だが―――
いつしか中川は、言葉を尽くさずとも判ると思っていた司馬の行動に自分の知らない一面が現れるようになったのを訝しみ、悩むようになっていた。元はといえば己の撒いた種なのだが、不審な挙動の多くなった教え子を前に、どうしたものかと不安になり、そして途方にくれてしまったのだ。
恩師の狼狽は司馬当人にも伝わってきた。とまれ、今更、本心を打ち明ける訳にもいかなかった。
中川仕込みの天才的な腕は徐々に司馬の名前を世間一般へと知らしめつつあったが、その超一流のオペ技術だけでこの業界内を渡り行くのはなかなかに難しいのが現実である。時として政治的な駆引きを要することもあるに違いなかった。そしてその際に金の力をあてにすることをも手段として講じるべきだと、司馬は考えていた。けれども、自分がそう思うようになった本当の理由を中川に絶対気づかれてはならなかった。
もしも、僕があの男に何をされたか、先生に知られてしまったら・・・
中川が一生自分に顔向け出来なくなるだろうということを察すればこそ、司馬はなんとしてでもそれを避けたかった。罪の意識に苛まれる恩師は今以上にこちらの顔色を窺い、機嫌を取り続けるようになるのが火を見るより明らかだったからである。
名誉教授の言いなりになったのは、自らの意志だった。脇坂の提示した条件は司馬が我慢すれば済むことだったし、この話を断ったところで、自分達二人の上へ良い結果が返ってくるとは思えなかったからだ。寧ろ、この身体を差し出すことで、中川と二人、これからもやっていける場所を与えてもらえるのなら、安いものだと思った。
自分に断る自由がないのを辛いと思うより、持てる者が振りかざす権力に対し、己の存在が如何に小さく、無力であるかを痛感させられたことの方がこたえた。それ故の悔しさと情けなさで胸が張り裂けそうだったのだ。あの夜、受け入れさせられた取引は司馬のプライドを完膚無きまでに叩きのめしたが、同時に中川を護る為なら何でもしようと決意も新たにさせたのである。
願わくば、先生が一生、僕のこの想いを知らずに済むといい―――
司馬の差し出す気持ちをすんなり受け取れるほど、中川が自己本位な人間でないことは、およそ経験しうる感情のほとんどを恩師と共有し分かち合ってきた自分が一番よく知っていた。世の垢に塗れず学問の世界だけに没頭していられた輝かしい日々は過去の栄光となってしまったが、その天才的な『腕』を奪われてしまった分、先生にはこれ以上堕ちてほしくなかった。だからこそ、自分が悪役を引受けたのだ。
それは中川と、ひいては自分を護るための策の一つに過ぎなかった。互いに割り当てられた役を演じ続けることは確かに辛かったが、嫌だと思ったことはただの一度もなかった。
だが、歪んだペルソナは徐々に二人の間へ亀裂を生じさせ、距離を作っていった。
機会が巡ってくる度に行っていた諸々の黒い取引は、まず理事長から疑われたようだった。上の方から遠回しに司馬の素行を改めさせるよう、中川も諌められたのだろう―――恩師が自分との距離を置こうとしていることを直截に感じて、たまらなくなった。
今まで舐めさせられてきた辛酸の数々が、強い憤りとなって全身へ甦り、声にならない悲鳴を上げはじめた。
被っている仮面は、既に芯まで黒く染まってしまっている。悪徳の差し伸べる誘惑が蜜のような甘さを匂わせて、それを司馬の咽喉へ流し込もうとするギリギリのところまできていた。このままだと、僕は駄目になってしまう―――人が堕落することの容易さは、這い上がる時の苦しみに比べてなんと少ない労力で済むのだろうと思った。先生が僕を見ていてくれれば、堕ちないでいられると自分に言い聞かせようとした。
だからこそ、目を逸らしてほしくなかった。いつも自分を見ていてほしかった。
あなたのせいで僕はこんな目に遭っているのだから、あなたはそれを見届ける義務がある。自分だけ楽になろうなんて、許さない! 見捨てたら―――僕を裏切ったら、許さない!!!
だが結局、中川はだんだん自分から目を背けるようになっていった。
もう、どうでもよくなった。虚構の筈だった日頃の行いが現実になっても構わないとまで思った。気持ちがどんどん荒んでゆくのが感じられ、痛みは麻痺してゆく一方だった。一度転がり出した絶望は、司馬をあっという間に奈落の底へ突き落とした。
蔓延る悪評など、気に病む必要はなくなった。お天道様へ顔向けできないようなことをしているのは事実なのだから、それもまあ仕方ないと思うようにすらなった。もはや多額の礼金授受にせよ賄賂の贈与にせよ、何の抵抗も良心の呵責をも感じることはなくなっていった。
それでも時折、真白い光が、黒雲で蔽われた己の闇中でひっそりと瞬くことがある。
いっそ、全てを告白してしまえたら―――先生とも離れられたなら、どんなにか楽になるだろう・・・
何度もそう思ったが、どうしてもそれは出来なかった。自分が天真楼を飛び出したら一体誰が残された中川を護るというのか―――そう考えただけで身体が硬直し、思考を停止させた。そして恩師もまた、自分を捨て切れないことが判っているからこそ、司馬は踏み止まった。
こうなってしまったのも、誰かが悪いという訳ではない。全てはあの不運な事故が銘々にもたらした思惑と、良かれと思って起こした行動からくるすれ違いに翻弄された結果でしかないことは、轟然たる現実だった。
そんな矢先に、石川が天真楼病院へ赴任してきたのだ。そして、この、当たり前の正義感を持つ真っ直ぐな男の存在そのものが、司馬を中心に動いていた第一外科を嵐のような闘いの渦へと巻き込んでいったのは、それぞれの記憶にも新しいことである。
自分との膠着状態に悩んだ恩師が、石川を重用することによってこちらの動きを牽制したのは、当然の帰結でしかなかった。同い年の、しかし一見正反対の人間同士がライヴァルとしてしのぎを削り、切磋琢磨し合いながら互いを高めてゆくというのは、誰もが納得し興味をそそられる外面の良いシナリオだった。
だが石川の身体にボールマンW型アドバンステージのスキルスという災難が降りかかり、事態の進みゆく方向を大きく変えた。司馬との闘いが文字通り石川の生死を賭けたものとなったのは、いたしかたのないことだった。
あの当時は、その石川の勢いに引き摺られて自分を排斥しようとした中川を恨み、責めもした。だが今となっては、それも過去のことだ。思い出すのを躊躇うほど辛い種類のものではなく、苦笑混じりに記憶の面影を辿ってゆけば心が小さな痛みを感じるだけの出来事となっていた。
司馬は、相変わらずのほほんとしているに違いない中川の横顔を自分の中へ思い描いた。恩師が巡らした策略の真意は既に石川にも司馬にも看破されてしまっている。尤も、中川本人からしたら、『企んだ』というほどの気持ちもないだろう。せいぜい『思いついた』とでも言った方が良いのかもしれなかった。
冠状動脈肺動脈起始症の手術依頼を脇坂の口から聞かされた時に、自分が元の職場へ帰ることになる日も近いと感じた。そして今日、石川が勤務先へ訪ねてきたことで、己を天真楼へ連れ戻す準備が進められているという確証も得られた。八ヶ月前、辞表を提出させられた際に理事長からは「いずれ復帰してもらうから、そのつもりで」と言われていたし、安楽死疑惑と騒がれた事件のほとぼりが醒めれば、後は中川の手筈次第というところだった。その中川も、まず石川という外堀を埋めてから理事長へ話を持っていく心積もりなのだろう―――もしかしたら、既に司馬を復職させる手続きは済んでいるのかもしれぬ。考えてみれば理事長は脇坂とも通じているのである。
有能な実業家である天真楼病院の理事長は、司馬の本当の価値を一番よく知っていた。
過去、中川と自分の移籍に関して様々な調整がなされていた頃、その話が引き返せないところまで進んだことを見極め、司馬は理事長に時間を取ってもらい自分達がひた隠している真実を自ら打明けた。何も知らない理事長が中川へ過分な期待をかけ、既に充分傷ついている恩師へこれ以上痛手を負わせるのを未然に防ごうと考えたからだったが、同時に脇坂から一杯食わされたことをきちんと認識させて、今後名誉教授が持ち込むかもしれない話の一つ一つに警戒心を抱かせる目的もあった。
真相を知った理事長は予想に違わず激しい怒りを露わにしたが、それと同時に司馬へその分の働きを要求し―――高くついた買物の元手を回収しようと決心したようだった。だからこそ、理事長がこの機会に司馬を取り戻そうとするのは当然のことなのだ。病院側がセット商品として大学から買い取った自分達は、本来一緒にしておかなければその価値も半減する。中川という『名』が光り輝くのは、その天才から伝授されたメス捌きを披露できる『実』である自分がその傍らにいてこそだった。
それらを踏まえた上で、天真楼病院への復帰は既に決まったことと司馬自身も考えてはいた。しかし正式な要請は、まだ無い。とぼけるつもりなどなかったが事実なので、石川には敢えてこう告げた。
「部長がいくらその気でも、採用には院長と理事長の承認が必要だろ。一旦、辞めさせてるんだ―――理事会だって、そう簡単に頷くもんか」
「でも、懲戒免職になった訳じゃない。きみの場合、あくまでも、自己都合で辞めたことになっている筈だから―――」
「あのな、石川」
山川記念病院の副院長室で再会し、爆弾発言とも思える一言を聞かされた時から気になっていた疑問が、司馬の中へ頭を擡げてきた。
「・・・なんでそんなに、おまえは俺を天真楼へ連れ戻したがるんだ?」
「それは―――」
石川の声にはっきりとした戸惑いが感じられた。それでも、瞳はしっかりと自分を見据えたままだ。司馬はふと、人の気を逸らさないところがこいつの強さなのかな・・・と思った。
「大体、おまえの『話』って、なんだ?」
ほんの一瞬だけ視線を下方に落とした石川は、次の瞬間、何か揺るぎないものを手に納めているような様子で言葉を紡いだ。
「司馬君―――僕は、もう二度と後悔したくないんだ」
『何に対して』という肝心の言葉が抜けていたが、石川はそれに構わず話を続けた。
「きみと離れて初めて、今まできみがしてきたことや、きみの身の上に起きたことについて考えたよ」
少し不思議そうにその目を眇めた司馬が小さく首を傾げ、こちらを見返してきた。
「俺の、身の上に起きたこと・・・?」
「昨日、大槻先生から全部、聞いたんだ―――きみのことを」
思いがけぬひとの名前が石川の口から飛び出した。それは、中川と過ごした幸せな日々にあってもう一つ別の種類の幸福を自分へ与えてくれた、忘れ得ぬ女性のものだった。
勘の良い彼女は恩師と自分との間にあった事実をほぼ正確に探り当てているに違いなかった。それは司馬も薄々気づいていたが、沢子なら確証の無いことを軽々しく口にはしないと思って安心もしていた。だから、沢子が自ら語ったというより、石川の方から彼女へ話を聞きにいったと考えた方が理に叶うだろう。司馬は往なすつもりで、言葉を選んだ。
「沢子が―――大槻先生が知っているのは、ほんの一部だ。まあ、同じ大学にいたしな、いろいろ勘繰ってもいるだろう・・・それを鵜呑みにしたのか? 相変わらずお人好しだな、キミは」
尤も、彼女の掌握している『真実』が未だ表面的なものでしかないことを司馬は確信していたし、それが己にとって幸いであり、唯一の救いだった。
だが、石川の発する言葉は容赦無く司馬の中へ喰い込んできた。
「悪ぶったって、駄目だ。もう、僕は誤魔化されない」
闘病中だった時でも不屈の精神を宿していた強い瞳が、今また同じ輝きを放っていた。眩しさに負け、目を逸らすのは一瞬のことで、再び引き寄せられる力を持った清冽な光が司馬の心の奥深くまで沁み込もうとする。
石川の頑とした強さが核心を突こうとしていた。
「きみと中川先生の間に何があったのか、なぜきみが―――」
「おまえには、関係ないことだ」
最後まで言わせるつもりはなかった。向けられた科白を遮り、ゆっくりと、寧ろ自分に言い聞かせるように司馬は言い置いた。
暫し無言の時が流れた。
しくしくと心が痛むような時間が互いの内腑を抉り始めていた。
「司馬君・・・なんで、きみはそんな生き方をするんだ―――なぜ、自分で自分を切りつけるようなことをするんだ?!」
振り絞るような石川の声が解き放たれ、司馬を激しい耳鳴りで取り囲んだ。姿勢と表情は崩さなかったものの、司馬は自分の気持ちが何か手触りの良いもので満たされつつあるのを享受し、不可思議な感慨へ浸っていた。石川がぶつけてきた感情の根底にあるものは、自分の中にも存在しているような気がする―――それは奇妙な錯覚の筈にも拘わらず、不快感とは正反対の暖みを司馬に感じさせていたのだ。
その、いつまでも抱きしめていたくなるような感触を振り切って、司馬は立ちあがった。今まで殆ど動きの無かった空間に対流が生じて、石川を戸惑わせた。
「司馬君・・・?」
「煙草、吸わせろ―――外の方がいいだろ? バルコニー、借りるぜ」
なんだか胸が苦しい。外の空気を肺に入れて、少し気持ちを落ち着かせようと思った。このまま向かい合っていたら、あの真っ直ぐで真摯に煌く瞳へ呑み込まれてしまいそうだった。
石川が黙って小さな灰皿を渡してくれる。掌から少しはみ出る程度の大きさが、程よい重さを感じさせた。適度に傷のついた表面は、なかなか年季の入ったものだったが、この部屋の主には似つかわしくないような気がした。
昔、吸ってたのか―――それとも、誰かの置き土産か・・・
灰皿一つ取っても持ち主に結び付けての想像を掻き立てられてしまうのは、ここが石川の部屋だからだと自分に言い聞かせようとした。だが、そんな理屈は所詮まやかしでしかないと本能の囁く声を司馬の心は既に受け容れつつあった。

To Be Continued・・・・・

(2000/1/23)



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−第12話に対する言い訳−
前回(第
11話)の言い訳部分でも書いた通り、この回は元々前回分と併せて一つの話になる予定でした。司馬側の心理として書かなければならないことがかなり多かったので、第8話及び第9話と同様"分割"という憂き目を見ることになってしまいましたが…(苦笑)
ところで、司馬は天真楼病院へ赴任する少し前に理事長へ真相を告げていますが、中川はそれを知りません。ウチの司馬は、この頃から辛いこと全てを自分で背負い込むようなところがあったようですね。理事長も表向きは中川の『真実』を不問にしているのですが、司馬をいずれ天真楼へ戻す為、第
2話で外科部長に自分がその『真実』を知っているのだということを匂わせています。少しややこしいのですが、こういう駆引きが存在しているということでご了承くださいませ。