僕の大切なひとだから  3




手術を終えた司馬と倉田が医局へ戻ると、そこでは丁度、一真と神崎の対立が激化しているところだった。
山川記念病院の名物ともいえるこの二人のライヴァル意識は誰もが知るところで、最初の頃は仲裁に入った者達も今や無駄骨を折るようなことはしなくなっていた。司馬は睨み合ったままの二人を一瞥しただけで通り過ぎたが、倉田は不審そうな様子で状況を見守っている内科医の落合友里子の傍らへ歩み寄り、好奇心を覗かせた。
「今回は、何で揉めてるんですか?」
友里子はわざとらしく肩を落とすと、声を潜めることなく事情を説明した。
「昨日、検査入院した下肢静脈瘤の患者をオペするか、しないかで意見が分かれてるの」
「え―――だって僕もCTの結果、見せてもらいましたけど、ひどく血管が詰まっていたじゃないですか・・・オペしか無いんじゃないですか?」
「一般的には、ね」
曰くありげな友里子の一言に、一真が振り向いた。
「患者が手術を極端に嫌がってるんだ。切らないで治す方法だって、検討すべきだ」
間髪を入れず、神崎の高圧的な声がその発言を蔽った。
「だが、手術すれば何の問題も無く治る。命に拘わる病気じゃあるまいし―――この場合、切った方がいいんだ! それを説得するのが、主治医の君の役目だろう!!」
睨み合ったまま立ち尽くす二人の間で溜息を吐きつくした友里子は、その場に投げ出されていた問題のCT写真を手に取ると、腰掛けた後、一服しようとしていた司馬の背後へつかつかと歩み寄った。
「司馬先生―――先生なら、どう診断されますか?」
横から差し出された写真を受け取ろうともしない司馬に友里子は一瞬怯んだが、それでも蛍光燈へ透かすようにそれらを高々と掲げた。
そこまでされて漸く見る気になったのか、司馬は煩そうな表情ながら友里子の手にしている写真に視線を合わせた。倉田はもちろん、一真も神崎も司馬が診断をどう下すのか、固唾を呑んで見守っている。
「うわ・・・重症だな、また・・・」
小さく口の中で呟いた独り言を耳ざとい倉田が聞きつけた。
「・・・ですよね。これ、バイパスを渡すのが常道だと、僕も思いますけど・・・」
司馬は倉田を低い位置から見上げると、目だけで頷いた。
「僕がオペするなら、そうするが・・・」
そのまま一真と神埼を見比べるように視線を移すと、司馬は極めて冷静な声で発言した。
「―――手術を望んでない患者の身体は、切れない」
その言葉に神崎が激昂した。
「貴様、それでも外科医か?! このまま放っておけば、どんどん悪化して足自体を切断するしかなくなるぞ! 手術するなら今なんだ!」
今度は一真が大声を張り上げる。
「だから、投薬と食事療法での治療を提案しているんだ―――患者は、手術するくらいなら時間がかかっても辛いリハビリに耐える、と言っている」
「それじゃ、モンダイ無いじゃないですか」
我関せずといったような司馬の声が張り詰めた空間の糸をバッサリと切り裂いた。全員の眼差しが司馬に吸い寄せられる如く移動した。
「だって、主治医の麻生先生が提案する内科療法を行うことで、クランケは納得してるんでしょ? 一体、何の不都合があるんです? 僕はまた―――手術するしか方法の無い患者を説得できなくて、麻生先生が神埼先生に責められているのかと思いました」
それを聞いた一同は押し黙ってしまった。確かに司馬の言う通りであったが、実のところ、先般カンファレンスで対面した際に「手術は絶対にイヤだし、痛いリハビリもしたくない」と喚いた患者の我侭ぶりを知らないから言えることだと決めつけていた神埼は面白くなかったし、一応支持してもらうかたちになった一真も、これからその患者の治療に根気良く付合わなければならない辛さが予想されるだけに、果たしてこれでいいのかと今一つ割り切れぬものを感じていたのだった。
神崎が司馬の方に一歩踏み出すと、威圧するような態度で同意を求めた。
「まあ、今回は足だからな・・・だが、手術しなければ命が危ない患者の場合だったら、君だって説得する筈だ!」
今にも掴みかかりそうな勢いで背後から詰め寄られた司馬は、くるりと回転椅子を回し、正面から神崎と対峙した。
「患者にはっきりした意識があって手術を拒むのなら、やはり切れませんね―――死なせてやれば、いいでしょう」
医局内にまたもや別種の緊張が蔓延した。神崎だけでなく、一真も倉田も、クールな考え方をポリシーとしている友里子もさすがにこの発言には耳を疑った。
―――だったら、死なせてやれ。
不治の病や既に手遅れな病状に絶望して手術や治療を拒む患者に限らず、きちんと手当てをすればまだ間に合うのに治療期間の長さや苦痛に耐えることを嫌がって我侭三昧言いたい放題の患者を前にすれば、大なり小なり医者が思い抱くことではあるが、それは心中で呟いても決して言葉にすることのない禁句の筈だった。それをこうもあっさりと吐き出す司馬という男の胸中に何があるのか図りかねて、一同は困ったように顔を見合わせた。
「司馬先生、ちょっとその言い方は、あんまりじゃないですか―――」
どう話を続けたらいいのかさっぱり分らないまま、それでも口火を切ったのは友里子だった。
「そういう考え方は・・・」
司馬はなおも言葉を紡ごうとする相手を視線だけで遮るかのように、声の主を見据えた。その眼差しは深い湖底から発せられるように冷たく冴え冴えとした光を湛えている。
「―――間違っている、ですか?」
友里子はグッと唾を呑み込んだ。
確かに患者本人もしくは近親者の同意がなければ、いくら医者といえども手術や投薬をする訳にはいかないのだから、司馬の言うことが必ずしも間違ってはいないのだ。ただ、それを口に出してしまったらお終いだという、極めて人間的な感情が自分の中に渦巻いているだけである。そしてそれは、この場にいる一真や倉田はもちろん、神崎も同様に感じていると思われた。
「いえ、そういうことじゃなくて・・・」
考え考え、会話のキャッチボールを試みようとする友里子の科白を神崎がいきなり引ったくった。
「貴様、何、考えてるんだ?! ドクターなら、人の命を救う為に最善を尽くすのが当たり前だろう!!!」
顔を真っ赤にし、噛みつかんばかりの神埼を前にしても、司馬は一向に動じていないようである。
「確かに神崎先生の仰る通りですが、考え方は人それぞれだ―――医者は絶対者じゃ、ない。主治医だからといって、患者の生き方を強制することは出来ないでしょう」
今度は神崎が言葉に詰まってしまった。
「僕達医者が『病気を治したい』という意志のある患者に対して治療を施し最善を尽くすのは、当然の義務です。しかし、生きるつもりのないクランケの命なんて、救うことはない―――違いますか?」
全員がその場で凍りついたまま一歩も動こうとせず、なんとも重苦しい空気が部屋中に垂れ込めることとなった。
ポケットの中にあったマルボロの箱が空であることに気づいた司馬は、わざと音を立ててそれを握り締めてから席を立つと、部屋を出る間際、此れ見よがしにその残骸をゴミ箱へ投げ入れた。

「司馬先生」
煙草の自動販売機の前で声をかけてきたのは、一真だった。司馬が煩そうな表情を見せたにも拘わらず、一向に頓着しない様子で軽く親指を立て、
「ちょっと、いいかな?」
と一真は同行を促し、先に立って歩き出した。
連れて来られたのは、山川記念病院の屋上だった。
天候はあまり芳しいものでなく、空の端からもう一方の端まで、いちめん薄鼠色の厚い雲の重なりに埋め尽くされていた。予報では降らないとのことだったが、屋上を渡る風は気味が悪い程に生温く、夕立の来襲を予見させる気配がありありと感じられて、そのせいか普段なら多くの姿があるこの広い空間も、疎らな人影を行き来させているだけである。
どこか遠いところで、自動車の走る音やバイクの唸り声がこだまし、上空にまで残響を跳ね返してきていた。
一真は黙ったまま、裏通りに面したほうの一角へ歩みを進め、手摺りの手前まで来ると足を止めた。そのまま軽く身を乗り出すように手を掛け、半ば凭れかかって姿勢を固定する。司馬はその隣で立ち止まると、ポケットに手を入れてライターを探した。
「いきなり、ストレートなカウンターパンチを繰り出すとはね―――言葉は選んだ方がいいんじゃないかな」
ざっくばらんな口調が、司馬に向かって語りかけてきた。
「どんなに美辞麗句を並べても、物事の本質が変わる訳ではないですから」
先程買ったばかりの新しいパッケージを手に取り、封を切ってまず一本咥える。チーンと小気味良い音を立てて火をつけると、司馬は美味しそうに煙を燻らせた。
「そりゃそうだけどさ―――君、変わってるよな」
一真は溜息を吐いた。神崎がこの場にいたら「変わってるのはお前の方だろう」と切り返されているに違いないと思いながら、やけに醒めている年下の男を何気なく見遣った。
「まさか、そういうこと、患者さんに直接、言ってないよねぇ・・・」
祈るような気持ちで呟いた一言は、あいにくと司馬の耳に届いてしまったようである。
「僕は、ドクター、ですよ?」
一言一言を区切るようにゆっくりと返されて、漸く一真は安堵した。
「そ、そうだよね・・・うん、こりゃ、失礼」
ぼそぼそと詫びたが、当の司馬はどうでもいいとでもいうように、チラリとこちらへ視線を走らせただげたった。
全く、どうしてここの外科医はこうも扱いにくい奴ばかりなんだろうか―――そう思いながらも、一真は再度口を開いた。
「その―――さっき医局で話してたこと、なんだけどさ・・・」
司馬は隣で黙って煙草をふかしているだけである。
「・・・あんたの言うことは、間違っていないと俺も思うよ。だが、自暴自棄になっている患者を励まし、支えて、生きようという気力を取り戻させてやるのも医者の役目なんじゃないだろうか・・・」
目を合わせようとせず、司馬は淡々と応じただけだった。
「治療することによって、今後も生きられる患者でしたら、ね」
「そうだね―――でも」
司馬と並んでいる一真も、正面の景色を見据えたまま続けた。
「例え命の火が消えそうになっている患者でも、その人が自分自身と向き合って、残りの人生を見つめられるように手助けしてやるべきなんじゃないのかな」
敢えて視線を合わせないようにしながら、一真は自分の思っていることを口にした。司馬がどういう反応を示すのか、正直気になるところだ。
だが、返ってきたのは否定とも肯定ともつかない答えだった。
「―――ケースワーカーがいるでしょう」
「う・・・まあ、そうだけど・・・医者本人が親身になってあげた方が、患者さんは安心するよね」
墓穴を掘ったような気がして、一真は少々居心地の悪さを感じていた。そもそも自分の場合、この考え方のせいで神崎や友里子からは『患者一人一人に無駄な時間を取られ過ぎている』とさんざんな悪評を頂戴することになってしまっているのである。そして、この若い外科医の深層心理へ殆ど近寄ることが出来ぬ現状は、一真の不安感を更に煽り立てるばかりだった。
そんな自分の心中など全く察した様子もなく、司馬がふいに口を開いた。
「麻生先生―――先生ならどうされますか? もう助からない、余命幾ばくもないクランケから後のことを頼まれたら・・・そして、自分の目前で苦しみのたうちまわられたなら・・・どうなさいますか・・・」
最後の言葉は独り言のようにも聞こえたが、一真はその問いかけをしかと受け止めた。
とはいえ、すぐに名答を思いつける筈がなく―――
「・・・難しいこと、訊くなあ・・・」
ガリガリと頭を引っ掻き回しつつ、懸命に考えをまとめようとしている自分の返答を質問者は静かに待っている。
「延命拒否が患者の『願い』ってことになっちまうんだからなぁ・・・」
ポツポツと言葉を零す一真の姿を視界の隅に認めながら、司馬は自分が手にかけた笹岡繁三郎のことを思い出していた。己の腕を信じ治療を全て任せてくれた患者だったからこそ、本人たっての、最後の願いを叶えてやりたかった。そう、この手で―――ただ、それだけのことだったのだ。
「尊厳死・・・か」
一真は詠うようにその単語を口の端に乗せた。
もしも、自分がその患者本人だとしたら、せめて意識があるうちに家族や友人達へ礼を言い、別れていきたいものだと思った。むやみに生存を引き延ばすでなく、人としての尊厳を損なわずに死なせてほしい。例えどんなに残された者が悲しくとも、それは一時的なことであり、全ての人間はいずれ死んでゆくのだから―――
ただ物理的に死を遅らせることが、自分にとってもその時己を取り巻いている家族にとっても、良い結果になるとは思えなかった。きちんとした別れをしないまま意識を無くして、体力だけが持ち堪える限界まで延命したところで、それは既に死に体なのである。残された家族も、それぞれの心の中で『死』そのものと対面できずに、より苦しむのではないだろうか。生きることと、死なないということは、違うのだ。
「尊厳死は認められて然るべきだよ・・・俺は、そう思う。やっぱり最後は、人として死にたいじゃないか」
「・・・僕も、そう思ったんです―――」
司馬が何を想って言葉を発したのかは解らぬものの、この時、一真は医局内を困惑させた過激な発言の裏側に垣間見える人間らしい感情の片鱗へ触れた気がしていた。盗み見るように隣の様子を覗うが、相手はそんな自分の所作に気づいた風もなく、ゆるゆると紫煙を吐き続けている。
浅黒い肌によく似合う長い睫を伏せたまま、少し上向き加減に顎を突き出して上空へ顔を向けている姿は、曇天に抱かれようとしているかのようである。その無心な姿が小刻みに震えたように見受けられたのは、何かの間違いだろうか。
一真は五ヶ月ほど前に一部のマスコミを賑わせた、東京は新宿の天真楼病院での安楽死疑惑のことを思い出した。自分はまだ石垣島の診療所にいて、都会とは随分違う時間の流れに身を委ねていた頃の出来事である。
尤も、何処かから圧力がかかったのか、記事自体はたいした進展も見せないうちに揉み消されてしまっていた。後に遺族が告訴を取り止めたという噂を耳にして以来、示談で決着したとばかり思っていたのだが・・・
―――もしや、彼がここへ来ることになった理由は、例の事件と何か関わりがあったからか・・・?
一真は頭の中でその可能性に考えを巡らした。当時の報道によれば医師の名前は伏せられていたが、瀕死の患者に大量の鎮痛剤を打ってショックを与え死なせたというような内容だった。
仮にあの報道が事実で問題の担当医が今現在目の前にいる人物だったとしても、一真には司馬が積極的に患者を死なせたとは思えなかった。
患者に対して真摯に接すれば接するほど、その生死を軽々しく扱えなくなり、尊厳を損なってはならないという気持ちになるのが一般的だからである。世間で言われる『安楽死』を容易く敢行できる医者もいることにはいるだろうが、少なくとも隣の男はそういう類の人間ではなさそうだった。
多分、患者当人から頼まれていたこの男は、苦しむ姿を目にしていられなくて、とうとう手を出したに違いない。どんなにそれが患者自身の切実な願いだったにしても、また、例え尊厳死協会に登録があったものだとしても、死を決定づける行為には違いない訳で、処置を施した医者が冷静でいられる筈がないのである。誤解を招くような言い方が常になっている司馬と遺族との間で、おそらく何か行き違いがあったのだろう。
まいったな―――
一真は、心の中だけで苦笑した。
なんのことはない、その態度と物言いがあまりに悪い為に、冷たい男だと思われてるだけじゃないか―――
外見はこの通り人目を惹く存在なクセして、なんか勿体無いよな・・・というのが正直な感想だった。この口の悪い青年が、本当は誰よりも人間の生死に対して畏敬の念を抱いているであろうことは、たった今の会話からでも窺い知ることが出来た。
第一、医学を修めたからといって特別な力を授かるはずがない。所詮、医者も人の子に過ぎないのだ。人間だけが無理にもその命を生き長らえさせようとする生き物となったのは進化の結果でしかなく、神に許されたゆえではないという真理を理解している者が意外に少ない現状は、日頃、一真も痛感していることだった。
医者が人を治すのではなく、その手伝いをするだけであることを肝に銘じている者は、果たしてどれくらいいるのだろうか。人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいという気持ちがあればこそ、医の道に対して謙虚な姿勢を保つことが可能であるというのに。
それにしても、司馬が何故こうまで偽悪的に振舞うのか、さっぱり見当をつけられない。一真はおずおずと言葉を発した。
「君は、その・・・」
なんで、そんな生き方をするんだ―――と口に出しそうになり、すんでのところで思いとどまった。
司馬がこちらへ向き直り、不思議そうにその眼を眇めた。
「い、いや、何でもない・・・」
一真は再び頭を掻くと、慌てて言葉を取り繕った。その様子を目にしても別段不審に思わなかったらしい司馬は、次の煙草に火を点けている。
ホッと胸を撫で下ろしつつも、一真自身、不思議な気分に囚われていた。何故かは判らないが、これ以上いろいろな事を詮索しない方がいいような気がして、軽く伸びをするように、一真は灰色の大空を振り仰いだ。

季節は巡り、日に日に透明感が増していく大気と、色づく木の葉が織り成す秋の深まりを世間は黙って受け入れていた。天真楼病院や山川記念病院でもお定まりの毎日が繰り返され、医師達は己の業務と使命に専念し続けている。
そして、そんなごく普通の営みの中で、ことは起こった。尤も、この一件が後々司馬と石川の運命を狂わせ、新たに交錯させる結果を生み出すことになるとは、誰一人として思いもよらなかったのだが。
その日、母校へ講義に出向いた中川は授業が終わった後も引き止められ、学長室へと案内された。
どっしりとした風格が感じられる室内で、たった今学長が口にした話を反芻した中川は自分の耳を疑った。
「・・・冠状動脈肺動脈起始症、ですか・・・また、面倒なオペを・・・ですが、私には・・・」
あの事件の後、見事学長へ就任した元名誉教授から告げられた内容は、他国からの手術依頼だった。
「知っておるよ、司馬先生が配下にいないことは。事情はそちらの理事長からも聞いている―――しかし、天真楼の中川先生で、と言ってきかないのだよ」
自分と司馬との『共生関係』を知る人物の一人でありながら、なぜそんな難しい手術の依頼を持ち込むのかと、訝しむよりも先に怒りの方が湧き上がってきた。そのあたりの事情はよく心得ているのだが、と言いたげな表情が目の前で呻いた。
「・・・数年前に君と司馬先生で執刀した同病のクランケの症例が、学会で発表になったのを覚えられていてね・・・A国医師連盟会長自らのご指名なのだ・・・」
中川はきつく唇を噛み締めた。もちろん、大学を離れた後でも業界では『天真楼病院の天才師弟コンビ』として注目されていたのを知らなかった訳ではない。事実、外国から直接自分宛に手術依頼のレターが舞い込むことだってあったのだ。その都度、勤務先(つまり天真楼病院のことであるが)の患者の方が優先であると、苦しい言い訳をしてたび重なる懇願を断ってきたのである。
「これでも手を尽くしたのだが、どうしてもと―――直接、日本医師連盟に掛け合われてしまっては、もはや処置なしでね・・・」
怖れていたことがとうとう現実になってしまった―――
中川はこの場で頭を抱えて、大声で叫び出したい衝動を何とか抑えつけた。いつかはこういう日が訪れるかもしれないと、懸念していたのだ。自分を名指しで指定してくる患者をどうしても断れなかったその時、口を噤んで執刀を請負う司馬がいなければ、己に外科医としての価値が無いことを―――すなわち中川がメスを握れない実情を告白せねばならない・・・
無論、天真楼病院としてはもちろんのこと、東都医科大学としてもそのような事態を防ごうと、必死に策を練っているのは事実なのだが、結局、残された道はただ一つ―――司馬をその手術までに、天真楼病院へと連れ戻す他ないのだ。
「正式な手術依頼は来月に入ってからだろう・・・患者が日本へ輸送されるのはその一ヶ月後―――年内か、或いは年が明けてからか・・・少しでも早く情報をと思い、こうしてお呼びだてしたのだ・・・」
闇に葬られた過去を知る者として素知らぬ振りが出来なかった学長は、現在日本医師連盟に名を連ねる常任理事の一人となっている。
「お心遣い、感謝いたします―――」
自分の手許に司馬がいないことが、こんなにも心細く不安であることを中川は身を持って思い知らされつつあった。
「この手術は断ることも失敗することも許されん・・・司馬先生には、私からも連絡を入れてみますよ」
学長は消え入るような声でそう言った後、溜息を吐いてぐったりと背凭れに沈み込んだ。
無言のまま一礼して学長室を辞した中川は、心に鉛のような重みを痞えさせながら、天真楼病院へと戻る道を辿り始めた。陽が落ちるのは殊のほか早く、黄昏に染まった街はあっという間に宵闇へと呑み込まれてゆく。時間的には直帰しても問題ない筈だが、つい先程もたらされた悪夢のような話を抱えたまま、真っ直ぐ自宅へ帰る気がしなかったのだ。
外科部長室へ入り、上着をロッカーに納めると、ネクタイを乱暴に緩めた。窓枠いっぱいに下ろされたブラインドの隙間から夜の帳が忍び寄り、徐々に室内へと侵入を開始していた。
―――もう一度、跪くのか・・・? 彼の前に?
机の引出し奥に転がしてあるも、この部屋の中では滅多に吸わない煙草を引っ張りだす。同様に追いやられていたマッチを手に取り、火を点けた。肺の中まで深く吸いこんだものの、とても味わう気分にはなれず、早々に煙を吐き出した己に対して、中川は苦笑せざるをえなかった。
結局、自分には選択の余地など、無いのだ。どう逆立ちしたところで、司馬の協力を得られなければ、自滅するだけなのである。
―――これも、ボクの罪を君に庇ってもらったことに対する報いなんでしょうかねぇ・・・司馬君・・・
薄暗い部屋の中で佇んだまま、中川は電燈をつけようともせずに独りごちた。

To Be Continued・・・・・

(1999/10/10)



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−第3話に対する言い訳−
どういうわけか長くなってしまった、山川記念病院のエピソード……おまけに場所に困って、またもや屋上、使ってます。こんなん一真じゃない、神崎じゃないやいという声が聞こえてきそうですが(更に、司馬も違う!って言われそお・涙)………もしも、『ザ・ドクター』ファンの人がいらっしゃいましたら、許してください〜〜〜(ひーん)
一応、
TBSの『ザ・ドクター』公式サイトによりますと、麻生一真/神埼俊太郎/落合友里子が33歳、朝倉由希が27歳(司馬や石川と同い年か1年上?)、倉田透が25歳、青山晴香が24歳ということになっているんですが、屋上での司馬と一真の会話が進むにつれて、この二人、だんだんイイ味出てきてしまいまして…このままじゃ石川の出番がなくなる!と潜在的な恐怖を感じてしまった作者です。
中川先生と学長の接見については、当初、ここも電話でのやり取りだったのですが、理事長との攻防と同じパターンになってしまうので、急遽対面させました。
ところで、一言に外科といってもいろいろ専門がある筈ですよね。中川先生と司馬の場合、循環器系ということになるんでしょうか? 脳外科じゃないとは思うんですが、心臓外科は今や独立しているようなので、どうなんでしょう……このへんのコトはどうかツッコマないでください(泣) それから病名も(涙)