僕の大切なひとだから  4




耳障りなブザー音に追い立てられるようにして、ディスプレイに『Emergency』の文字が点滅し始めた。医局内で思い思いに姿勢を崩し一息ついていた面々は思わず顔を見合わせ、それぞれに気持ちを引き締めた。決して慣れることのない緊張感が各人の全身を走り抜ける。
「ちょっと―――またぁ? 今日一体、何人目・・・」
不服そうに口を尖らせた前野の肩を軽くたたくと、
「僕が、行ってきますよ」
と言い置いて、石川は医局のドアを開け廊下へと出た。後ろから峰が小走りについてくる。
「もう・・・あんな言い方するなんて―――石川先生、大丈夫ですか? さっき回診終わってきたばかりじゃないですか?」
「大丈夫だよ、これくらい。前野先生はオペから上がってきて、すぐだから―――少し、休んでいてもらわなきゃ」
自分の身体を気遣ってくれる峰の気持ちはありがたく思うものの、それに甘えられる状況ではないことは百も承知だった。石川は黙ってしまった峰と並んで、廊下を進んだ。
一流の技術と驚くような早さで数々のオペを成功に導いてきた天才・司馬と、普通に考えれば充分に優秀な外科医である平賀という二名が在籍していた当時ですら、殺人的な手術スケジュールを組まざるを得ないことが多々あったのである。一日のオペ件数が決められている自分とは逆に、そのしわ寄せは前野や峰に直接降りかかってきていた。
とりわけ前野の場合、司馬の第一助手を務めることが多かっただけに、かなり高度なオペを担当させられるケースが増えている。尤も、今まで度々「自信がありません・・・」と逃げ惑っていた峰にもそんな悠長なことは許されなくなり、お陰で徐々にその腕を上達させられていたのだが。
―――やっぱ、司馬先生がいるといないとじゃ、大違いですよ・・・
石川は、昨日、前野が部長室で吐いた大きな溜息を前にして、何も言い返すことが出来なかった自分を思い出していた。昨晩遅くに中川外科部長から呼ばれた二人は、司馬が天真楼へ復職することに対して、それとなく意向を訊ねられていたのだ。
二人を机の前に立たせたまま、中川は窓にかかっているブラインドの向こうを見透かそうとしているかのような姿勢を取り、背中を見せながら話をはじめた。
来月早々に正式な手術依頼が、この天真楼病院の外科医・中川淳一宛に届くであろうということ。
病状は冠状動脈の先天性異常によるもので、過去、同じ症例の手術を大学病院時代に中川と司馬で執刀しており、その時の成功例は世界的な注目を集めたこと。
患者を抱えるA国の医師連盟会長がどうしても二人の執刀で、と言ってきかず、遂に日本医師連盟へと掛け合われてしまったこと。
石川と前野は固唾を呑んで、中川がたった今告げた内容を咀嚼した。
「ボクの名前が前面に出てはいますけどね、司馬先生も、ホラ、体外肝切除の新記録樹立したりして、充分注目浴びてるでしょう、だから是非にということらしいんだよね―――」
一応、筋の通った話に聞こえるが、実は当の会長が固執したのは執刀医だけであり、助手についての指名は特になかったのだ。だが、過去に中川が司馬を甘やかしてきた理由を『大学時代の愛弟子』という事実に求め、それについて何の疑いも抱いていない前野はもちろん、沢子から二人の共有する秘密について話を聞いていた石川にしても、この病院にいた頃の司馬が如何に注目を集める存在であったか容易く想像されるだけに、ごく自然な経緯として受け止めることが出来た。
「で、これを機会に、いっそ司馬先生に戻ってもらおうかと思うんですけど―――第一外科としては・・・どんなもんでしょーかねぇ・・・」
「いいんじゃないですか。司馬先生に戻っていただけるんなら、僕達としても助かりますよ!」
元々、司馬シンパである前野は、むしろホッとしたようにこの提案へ対して賛意を表明した。
中川はくるりと振り向くと、前野に向かって笑いかけた。
「そうですか。前野先生は賛成、ね」
「ええ、そりゃ、もう―――部長だって、ここ数ヶ月の忙しさはよくご存知でいらっしゃるくせに・・・」
「あ、ああ・・・そうでしたね。こりゃ、失礼―――」
にこにこしながら、少し非難めいた声をも受け止めた上司は、視線をあと一人の方へ移す。
「で、石川先生は・・・反対ですか? まだ、司馬君のこと―――許せない?」
どこか捉えどころのない雰囲気を持ちながらも愛嬌のある瞳で覗きこまれた上に、最後の一言のみを自分だけに聞かせるような小声で囁かれて、石川は言葉に詰まってしまった。
「・・・そ、そんなことは・・・」
答える声が掠れ、僅かに震えた。
「石川先生・・・今更、恨みっこなしですよ。司馬先生がいなきゃ、石川先生だって今ここにこうしていられるかどうか、怪しいもんじゃないですか」
前野が一応遠慮するような素振りを見せながらも、きっぱりと発言したことは、石川の気持ちを激しく揺さぶった。
「司馬先生が戻ってきてくれれば、僕達外科医の負担が大分軽くなることは確実ですって」
彼の言う通りである。今、司馬がここにいれば、前野や峰に負わされている手術件数はもちろん、夜勤や外来といった基本的な業務部分での負担もかなり減るのは間違いのないことだった。
石川は諦めたように視線を落とした。この身体がなんともなければ―――と、どれほど悔しく思っただろう。いくら自分も外科医の一人だとはいえ、再発の危険がある身体を抱えての勤務では所詮五割に届くか届かないかの働きを弾き出すのが精一杯だった。
先程、中川から冠状動脈肺動脈起始症のオペについて打ち明けられた際には、その手術時だけ司馬を助手につければいいじゃないか、という気持ちが渦巻いていた。しかし、こうして前野が面と向かって外科の窮状を訴えたことが、石川に激しい罪悪感を覚えさせていた。
僕がこの手で、彼を辞めさせたのだ・・・
その結果、病院内には平穏な日々が訪れ、また代償として、職場は二名の欠員による多忙に見舞われることとなったのである。尤も『平穏な日々』というのは第一外科内に於いてのことであり、対立する者同士の片一方がいなくなれば、自ずと静かになろうかというものなのだが。
石川は一所懸命気持ちを落ち着かせようとした。自分は本当に司馬を追い出したかった訳ではないのだ。司馬が生き方を変えてくれれば―――もっと患者に優しく接し、ドクターとしての本分を守るよう態度を改めさえすれば、彼を追い落としたりなどしなかったのである。
「ま、司馬君が戻ってきてくれれば、石川先生の術後経過報告もいちいち送らなくて済むし・・・いろいろ、都合がいいんですけどねぇ」
中川が意外な事実をそっと明かした。
「え・・・?」
なんのことか解らないといったように聞き返した石川を満足げに見返すと、司馬の恩師は言葉を続けた。
「いえね、彼がここを出て行く時に、約束させられましてね―――何しろ、ボールマンW型アドバンステージのスキルスだったでしょう、執刀医としては今後の経過を見守る義務と権利があると言われましてね・・・」
「司馬先生が、僕の経過を・・・?」
まだ、事と次第がよく呑み込めない石川は思わず聞き返したが、
「うん、そう。石川先生、手術後に一回、危篤状態になったでしょう? 彼、大分、気にしてたんですよ」
中川は淡々と話し続けた。
「そうですよ―――あの時、司馬先生、必死で石川先生の名前を呼び続けてたんですから」
司馬という名前に対して、前ほど過剰反応しなくなってきている石川に安堵してか、前野が驚くような告白をしてのけた。
それではやはり、あの顔は・・・今にも泣き出しそうだった表情は、見間違いではなかったのだ―――
石川は自分の足元が崩れ落ちていくような激しい眩暈に囚われた。司馬が自分を呼び戻したのだ。この耳で聞いた、あの振り絞るような声は幻聴なんかでなく、事実だったのだ―――
「ま・・・ね、司馬君とはいろいろあったでしょうが―――いい加減、オトナになってくださいよぉ、石川先生」
のほほんとした表情の中川は、そう言って石川の肩をポンポンと軽く叩いたのだった。
今となっては、顔を突合せていた頃と比較にならないほど、司馬に対する悪感情は減少している。離れてみて初めて味わう開放感を愉しんだのは最初の頃だけで、ただただ忙しい日々が続く中、却って一抹の寂寥感を感じるようになっていた。
あれだけ激しく対立し、一生消えることもないと思った憎しみも、たかだか半年の間にあっさりと薄れてしまっている。時の威力はこんなにも凄まじい勢いで、人の感情を風化させてしまうのだということに気づかされる。
だけど―――
石川は躊躇う気持ちとどう向き合えばいいのか、解らないままだった。
司馬が戻ってくれば、また自分は彼に掴みかかり、考え方を変えさせようとするような気がして嫌な気分になった。彼の倫理観は自分に到底理解出来るものではない。ならば、その部分には目を瞑って、単に戦力としての司馬を迎え入れることが、果たして自分に可能だろうか―――
砂を飲み込まされた如くに重苦しい心を抱えた患者でもある外科医と、隣の男の心中など知る由もない研修医は救急センターへと歩みを早めた。

運び込まれた患者は90歳近い男性で、重度の左前下行枝梗塞だった。過去にここ天真楼病院で左足の静脈使用によるバイパス手術を試みており、執刀は約一年前―――司馬の手によるものだったことを石川は部長室で中川の口から聞かされた。
「何しろ、お歳がお歳でしたからねぇ、もたもたやってたら患者の体力が持たなくなる―――司馬君だからこそ成功させられたオペ、と言えるんじゃないでしょうかねぇ」
確かに80歳代でのバイパスオペは、余程の幸運が重ならなければ実施できない。最低でも、患者の充分な体力と外科医の腕は揃わなければならない条件である。この、人の悪い外科部長の計らいで自分も一緒に手術室へと放りこまれたあの時以来、司馬の持つ卓越した技術とその速さにだけは敬意を払っている石川も、黙ったまま頷いた。
「司馬君がいれば、一も二もなく担当してもらうんですけどねぇ、彼、今いないでしょ? まあ大きい声じゃ言えないですが、もうあまり長くない筈ですから―――申し訳ないですが、石川先生、ひとつお願いしますよ」
「はあ・・・」
別に司馬の後を引き継ぐのが意にそぐわないのではなく、死期を目前にした、自分の何倍もの時を生きてきた老人とどう接すればいいのか、見当がつかない故の不安が心の中に生じた。その石川の、心許ない返事を別の意味にとったらしい中川は、ちょっと顔を顰めた。
「あ、ひょっとして、何か聞いてます?」
「は?」
探るように訊ねられても、全く心当たりの無い石川は、頓狂な声を上げた。
「あ、違ったの? いや・・・ね、あの患者―――山崎さんね、気難しいんで有名なんですよぉ。あの人が戻ってくると知ったら震え上がる看護婦さん、多いんじゃないでしょーかねぇ」
「・・・ということは、手術後、入院されてたんですか? なら、なんで、あんな重症な人を退院させたんです?!」
先程中川から手渡されたカルテは施術内容と術後経過が記載されただけの、所謂手術自体の記録のみだったので、その後の入院については頭に無かった。だが、この病気は手術が成功したからといって、直ぐに退院させられる類のものではない筈である。
よしんば、クランケがまだ若く、術後の経過が良好で、比較的早く退院出来たとしても、この病が国から第一種三級の身体障害者の認定を受けることもあるくらいのものであることには変わりない。オペ一年後で、山崎老人が再びここに担ぎ込まれたのは、その年齢を加味すればなおのこと、充分考えられる結果だったといえよう。
なぜなら、高齢なクランケの場合、術後の体力消耗からくる負担が取り替えたばかりの静脈に過負荷を与え、同時閉塞などを起こす確率がより高まるからである。寧ろ術後も長期入院を余儀なくされ、安静を保つことが多いくらいなのだ。
元々、完治させる為の手術ではない。一旦、動脈閉塞が発病すれば、その後どんなに気をつけても年齢と共にその基幹動脈が弱っていく。パイパス手術は、生存率を高める最終手段の一環でしかないのだ。しかも患者が高齢であればあるほど、常に死の危険がつきまとうのである。
それなのに―――なぜ、退院させたのか・・・
石川の怪訝そうな視線を受けた中川は諦めたように一息つくと、残りの診療記録を石川に手渡し、再び口を開いた。
本当に・・・こーいうところはカン、いいんですからねぇ、全く―――
「誤解してもらっちゃ、困るんですが―――退院は御本人の強い希望でしてねぇ・・・担当医とも相談して、自宅療養に切り替えた・・・」
中川が言い終わらないうちに、その科白は引ったくられた。
「担当医・・・って、司馬君ですか?!」
ああー・・・もおぉぉ―――これだから、言いたくなかったんですよぉー・・・
興奮気味の石川に向かい、(どうどう)と暴れ馬を諌めるように両手を身体の前へ翳しながら、中川は軽い眩暈を感じていた。
「別に扱いにくいクランケだからとか、完治しないからとか、まさかそーいう理由で退院させたと思ってないでしょーねぇ? いくらボクだって、それじゃ退院許可出しませんよお?」
・・・どーだか―――
石川は疑心暗鬼のまま無言で、中川の顔を見据えた。
「むしろ、ボクとしては、術後、暫く退院を思い留まらせた司馬君の功績を讃えたいくらいだねぇ、うん」
中川はそこで言葉を切ると椅子から立ち上がり、
「まあ、まず患者本人に会いましょうかねぇ? 意識、戻ったらしいですから」
不審な目で自分を見ている石川を促すと、先に立って歩き出した。

「よう、先生―――儂は、また、助かっちまったみたいですな・・・」
集中治療室に寝かされた山崎老人は首だけを捩って、中川とその後ろに控えるようにして入室してきた石川をジロリとねめつけた。その男の放つ鋭い眼光は、救急車で運び込まれた重態患者としていっこう似つかわしくないものだった。
「山崎さん。いけませんよぉ、そんな言い方・・・私達医者は助けるのが仕事なんですから―――あ、こちらは石川先生です。本日から山崎さんの担当医になりますので、よろしくお願いしますね」
続いて挨拶しようとした石川が口を開くよりも早く、山崎老人はしっかりした声音で言い放った。
「担当医なんて、そんなもん要りませんわ―――早いとこ、帰らしてくれませんかね」
その言葉を受けた石川は思わず一歩前へ出て、
「駄目ですよ、山崎さん。今退院なんて、医者としては認められません―――」
と、出来るだけ穏やかに言い置いた。老人は煩そうに頭を振っただけである。
「はん、また手術する気かね? 冗談じゃない、お断りだ」
「山崎さん・・・手術はすぐにという訳ではありませんよ。安静にして、治療を受ければきっと良くなりますから―――」
確かにこの年齢で、発作を起こしたばかりの身体へメスを入れるのは危険である。そうなると、血管拡張剤の投与とフーセン療法で様子を見ながら、体力回復を待つしかないと思われた。
「この体がもう長くないことは、儂自身がよう知っとるよ・・・助からないのに、体中チューブやら計器やらつけられて延命されるのは、ごめん被りたいもんだ」
「そんなことありませんよ!」
年齢や病状から見ても、完全治癒が有り得ないことはよく判っていることである。だが医者が、治らないと言う訳にもいかず、とりあえず元気づけようと思った石川が口にした科白は、山崎老人の癇にいたく障ったらしい。
「お若い先生よ」
声に、一段と棘が増している。
「うちには儂とたいして歳の変わらんばあさんがおる。少々痴呆が進んどるがな、体の方は元気だ。今までは儂がおったから老人二人でもやってこれた―――儂は心臓に欠陥があるが、頭の方はこの通りだからの」
言わずもがなである。これだけ、ずけずけと発言できるなら、日常生活でも何ら困ることは無いだろう。下手な悪徳商法の勧誘など足許にも寄せつけないくらいに、頭の方はしっかりしているようである。
「まあ、儂が入院している間は、N市の倅夫婦がばあさんを引き取るだろうさ。一人での生活は危なくて、させられんしのう・・・」
そこで一旦言葉を切った老人は、更に厳しい言葉を吐き出した。
「だが、この後、呆けた老母と延命され続ける老父を持った倅夫婦の医療負担はどうなる?! 倅んとこには子供が三人おる―――大学も国立を狙えるくらいに、みんな頭のいい子達だ。だがな、石川先生。子供を持てば判りなさるだろうが、教育費ってのは意外とかかるもんなんだ。まだまだ孫達に金が要るんだよ」
石川は黙って続きを待った。隣では中川がやれやれという風情を僅かに感じさせながら、所在無く立っていた。
「儂はな、この体が健康体に戻らんとしても、自分で自分の面倒を見られる程度に回復するんなら、喜んで治療を受けるさ。そうすりゃ、倅や孫に迷惑かけないで、ばあさんと二人、年金で暮らしていけるからの。だが、子供に負担をかけるわけにはいかん」
今日、医学や薬学の進歩はめざましく、死んでいてもおかしくない人間がそのおかげで一命をとりとめられるようになってきている。だが反面、例えば植物状態患者の命を長らえさせるだけの技術もまた進歩しているのだ。結果として、本来死ぬべき人間が死なずに寿命を延ばされ、それ故に寝たきり、あるいは呆けなどの社会問題と深く結びつくようになってしまい、医療に於ける厳しい現実を指し示しているといえよう。
「誤解しないでもらいたい。儂は『死にたい』訳じゃないんだ。『延命はしないでくれ』と言ってるんですよ」
一部の致命的疾病が一時的に延命できるようになった反面、脳死と判定出来ないゆえに『生きている』と認められた病人が死ねず、寿命が延ばされている事実も、往々にして存在するのである。
「人には天寿ってもんがある筈でしょう。それに逆らいたくないだけですわ―――儂はな、人間らしく死にたいんだよ」
その言葉を最後に、老人は目を瞑った。まるで、言うべきことは言ったから、さっさと出て行けといわんばかりである。ベッドの方へ少し身体を屈めた中川が、宥めるような口調で話し出した。
「あなたのお気持ちはよ〜く判りますよ、山崎さん。ま、息子さんの方にも連絡させていただいてますから、治療法や入院については、後日もう一度、検討することにしましょう」
さすがに外科部長ともなれば、伊達に多くの患者と接してきてはいないようである。自分の意見を特に否定も肯定もしない飄々とした語り口に安堵したのか、横たわった病人は黙って頷いた。
「それまでは、安静にしていてくださいね? 約束ですよ」
最後にもう一度念押しして、中川は退室する旨を目だけで石川に指示した。

病室を出た後も、二人の医者はいささか気まずい想いを抱えて、ゆっくりと廊下を歩いた。
「どうです、お歳の割には、しっかりしてるでしょう。あの人の―――山崎さんの前で、気休めや嘘は禁物ですよ・・・とっとと看破されますからねぇ」
「はあ・・・」
中川のやや疲れたような言い方に石川も相槌をうったが、直ぐに反問が心の中へ浮かび上がってきた。
「しかし―――あの症状で、自宅へ帰す訳にはいかないじゃないですか。まず入院してもらって、様子を見ながら、もし外科的措置が取れるようであれば・・・」
ほんの数歩だけ前を歩いていた中川は、往生際の悪い石川の科白を聞いても振り返ることなく、軽く頭を振った後、ポツリポツリとあの老人についての境遇を語ってくれた。
「さっき話に出た、N市の息子さんですがね・・・山崎さんの末のお子さんでねぇ―――大分遅くに授かったんだそうです・・・」
それで、孫達もまだ若いのか―――道理で『金がかかる』という発言に結びつく筈である。
「その息子さんの上に男女一人づつ、お子さんがいらしたんですが、お二人とも山崎さんご夫婦よりも先に亡くなりました―――上の息子さんは胃癌でしたかねぇ・・・まだ60前でしたから進行が早くて、一旦全摘出来たんですが、結局転移してしまいましてねぇ。お嬢さんの方は若いときに交通事故に遭われて―――頭を強く打って昏睡状態に陥り、大分長いこと植物人間だったんです・・・」
関東圏外のN市へ老妻を預けるというのは、そういう事情ならば仕方のないことと思われた。適当な老人ホームへ押し込めないで、老いた両親の生活を遠くから見守るのは、結構、勇気の要ることである。充分、孝行息子だと言えるだろう。
「三人の子供のうち、二人までを失ってしまった―――しかも、そのうちの一人は植物状態で随分と長いこと病院で治療を受けましたが、最終的に亡くなりました。山崎さんは、その時の医療負担や治る見込みの無い病人を抱える家族の辛さを実際に経験してるんですよ・・・」
だからと言って治療を拒む気持ちが、石川には、どうしても理解できない。人ならば生きようという想いは本能ではないのか。いくら天寿をまっとうするような年齢だといえ、もうこれでやり残したことはないと言えるほど、あの老人は自分の人生に満足しているのだろうか。
気がつくと部長室の手前まで来てしまっていた。中川は扉を開けて、石川に入室を促した。
石川が手前の椅子に腰掛けると、中川は真っ直ぐ部屋の奥まで行き、ブラインドを調整して部屋の採光を明るくした。
「また、N市の息子さんが親孝行でしてねぇ・・・一年前、司馬先生が執刀して成功した後も暫く入院させた方がいいと話したら、N市の病院へ転院させてくれれば、自分達も見舞や看病がし易くなるからと―――もちろん奥さんも引き取りますって・・・ね・・・」
「じゃあ、なぜ、そうしなかったんですか?」
仮に司馬が担当医だったとしても、患者の家族からそのような申し出があったなら、受けるのが普通である。それにもしそうなれば、天真楼病院側としても何ら損失はない筈ではないか。
中川は石川に視線を合わせると、はっきりした溜息を吐いた。
「石川先生も、さっき話してみて判ったと思いますが―――あの通り、頑固なお人でしょう。絶対、東京を離れないと言い張りましてねぇ・・・まあ、生まれた時からずーっと住んでいた場所を移るのは、お年寄りには辛いですから・・・」
なるほど、歳をとればとるほど人はその住処や持ち物に愛着を持ち、それらに纏わる思い出を大切にするようになる。若く未来がある人間ならともかく、生い先短い人間にとっては環境を変えられることがどんなに過酷な試練となりうるか、石川にも簡単に想像がつくことだった。
「息子さん家族の負担を考えてのこともあったでしょうが、もー、言い出すときかない方ですから―――N市へは行かない、退院させろ・・・って言われちゃあ、八方塞がりですよ」
「しかし、それで本当に退院させるなんて・・・」
随分と短絡的な判断ではないか―――そう思ったのだが・・・
「だから、司馬先生、かなり頑張ったんですよぉ」
その科白は、石川にとって予想外だった。露骨に驚いた顔をした自分を見て可笑しそうな表情になった中川を石川は眩しげに見返した。
「ある一定の体力がつくまでは、絶対に退院させる訳にいかない―――ってね。あの司馬君が、あんなに一所懸命になったことも珍しいんじゃ、ないですかねぇ・・・」
話を聞く限り、裕福とは到底思えない患者である。この場合、報酬欲しさでないことは、歴然としていた。
「司馬君、山崎さんにこう言ったんですよ―――自分で自分のことが出来る程度に回復しなければ、退院しても更に病状を悪化させ、直ぐ病院へ逆戻りすることになる。それでは、自分がオペした意味が無い、とね」
自分の身の始末が出来なくなったら、人に迷惑をかけてまで生き延びたくないと考える、山崎老人のような人は寧ろ多いのかもしれない。身体中にチューブや電極をつけられ、意識もなく無理矢理生かされている状態が、果たして『生きている』と言えるかどうか、改めて問わずとも判っていることだった。
「あの頑なな親爺さんが、どーいう訳か司馬君の言うことだけには素直に耳を傾けましてねぇ・・・若いが筋の通った医者だと言って、よく彼を呼んでは話、してましたっけね・・・司馬君、あれでも敬老精神だけは持ってたようですから」
患者からは総じて評判の悪い男だったが、そう言われてみると比較的年配の患者からの受けは良かったような気もする。
「まあ、病気が病気ですから、完全治癒はどうやっても無理でしょう・・・でもね、山崎さんの『生き方』を司馬君は尊重したかったんじゃないでしょうかねぇ・・・意識があるうちが花、ってことですか・・・」
最後の科白を聞いた石川がきょとんとした表情を見せた。中川はゆっくりと次の話題に移った。
「司馬君のお父さんが膵臓癌で亡くなった話は、しましたっけ?」
「はい・・・」
「最後は、植物状態になってね・・・長い間、寝たきりだったそうです・・・」
それは初耳だった。確か沢子から、司馬の死んだ父親がNRDによる治療を受けられれば助かっていたかもしれないということで、あの機械に拘っていたらしいという話を聞かされた。だが、植物状態になって大分長いこと生かされていたとは・・・
「治らない患者を抱えた家族の気持ち―――彼はよ〜く判ってるんですよねぇ・・・」
中川のその呟きが石川に、とある今は亡き患者のことを思い起こさせた。
笹岡さん―――
一緒に麻雀したり、よく話込んでいたり―――単に仲が良かっただけでなく、自分に施される治療に於いて彼が担当医である司馬に全幅の信頼を寄せていたのは周囲の人間も知っていた。だからこそ、その司馬が笹岡にペタロルファンを大量に打ったことは、納得のいかないことだった。
―――司馬先生は、安楽死に関して独自の見解を持っておられるようです。たとえ家族の同意が無くても、たとえまだ生きる望みがあっても、彼には助かる込みのないクランケを生かしておくことはできないんです。理由はひとつ、無駄だからです。彼にとって、クランケに最後まで尽くすという行為は、無駄以外のなにものでもない。きみは異常だ・・・
―――考え方の・・・違いでしょう・・・
理事長と中川の立会いの元、笹岡の一件について面と向かって糾弾した自分に、司馬はろくな弁明もしなかった。だが、今、考えてみれば、あの時の彼の気持ちが少しは判るような気がする・・・
人間は実に勝手な動物である。自分が経験させられた痛みは声高に主張するくせに、己の受けたことのない痛みには目を背け、推し量ろうともしない。
―――司馬君・・・どうして、きみは何も言わなかったんだ?
こうしてきみの話を聞き、きみのことを思い出すたびに、きみが僕に告げなかったことが次から次へと明るみに出てきて、僕がきみにしたことが本当に正しい事だったかどうかを問いかけてくる―――
僕は―――間違っていたんだろうか?
石川は己の考え方を根底から揺さぶられているような、とてつもない不安感に襲われた。自分のしてきたことに対してこんなに自信を無くしたことは、未だかつて無かった。

To Be Continued・・・・・

(1999/10/22)



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−第4話に対する言い訳−
あああ、今回も長い……司馬の出番は
2話同様、またもや次回へと追いやられてしまいました。石川と中川だらけの回ですね。司馬と中川どころか、司馬と石川、二人を並べて(?)書けるのは一体いつになるんでしょう、トホホ。
やたらに医療の現実や延命拒否について語ってますが、これは私個人の意見であり、私個人の尊厳死に対する考え方に過ぎません。それから左前下行枝梗塞バイパス手術については、とある心筋梗塞の患者さんの症例を参考にさせていただきました。といってもご本人から聞いた話をかなりこねくり回した上、適当に捏造してますので、これら医療知識については読み流してください(必死)
どうも回が進むにつれて、
1話の文章量が増えているような気がします。でも、途中で切ると意味不明になりそうなので、今回もここまで無理矢理入れました。
次回は司馬先生の出演(?)がちゃんと予定されてますので、今回は許してください〜〜〜〜〜!!!(でも、出てもチョットかもしれない……)