僕の大切なひとだから  5




「はい、医局ですが―――え? ええ、おります。少しお待ち下さい・・・」
てきぱきした明るい声が山川記念病院の一室に響いた。友里子は保留ボタンを押下すると、いつものようにまわりを完全に無視している背中へ声をかけた。
「司馬先生、3番に、外線入ってます」
そのままの姿勢で左手だけを伸ばし、気怠げに受話器を取り上げた司馬は、不機嫌そうな低い声で、
「はい―――」
と応じた。
「久しぶりだね、司馬先生。元気そうで、安心しましたよ?」
電話の奥から響いてくる声は、司馬にとって意外な人物のものだった。元名誉教授であり現東都医科大学学長の脇坂良惟はあの頃と何ら変わりのない明瞭な発音で自分の名前を口にする。尤も、学長自らが連絡してくる心当たりを何一つ思いつけない司馬は、至極当前の質問を試みた。
「―――何か、僕に用ですか」
「ちょっと、時間をとってくれないかね・・・電話では話し辛いことが起きてしまってね―――」
「・・・忙しいんですが」
「まあ、そう言わずに―――君の大事な恩師である、中川先生に関わることなんだが・・・駄目かね?」
受話器の向こうの顔がニヤリと笑ったような気がした。背筋に悪寒から来る震えが走る。司馬は受話器を叩きつけて通話を切ってしまいたい衝動を辛うじてこらえた。
「―――何処へ行けば、よろしいですか・・・?」
怖気がするような寒気が身体中の血管と神経を次々に犯しはじめていた。諦めたように目を閉じた司馬は、黙りこくったまま指示を仰いだ。

同じ頃、天真楼病院麻酔科の大槻沢子は、一人の困惑した外科医から内線電話を受けていた。
「中川先生が、そんなことを・・・」
「ええ・・・まあ、いつかは・・・と思っていたんですが、先方の都合では、明日の午後がちょうど空いてるらしくて・・・」
電話を取るなり、開口一番「今晩、会っていただけませんか」と頼んできた石川の狼狽が手に取るように伝わってくる。
とうとう賭けに出ちゃったか、中川先生・・・
A国医師連盟が中川を執刀医に指名し近々ここ天真楼病院で難易度の高い手術が行われるであろうことは、既に自分の耳にも入ってきている。とはいえ、その話は職場で噂になっている訳でなく、沢子が持っている、東都医科大の水面下に張り巡らされた情報網から掬い上げられたのだったが。尤も中川自身、この一件については石川と前野にしか打ち明けておらず、その二人にも正式発表されるまではと箝口令を敷いていた。
追いつめられた中川がこの難局を無事乗り切るには、司馬をその手に取り戻すしか方法がないのである。それには石川の司馬に対するマイナス感情をなんとか和らげさせなければならないのだ。そう、せめて、あの二人が今後同じ職場で働いても、今までのようなトラブルを起こしたりしないくらいまでに―――
「解りました。今日は定時に上がれると思います。もちろん急患がなければ、ですが」
前にも、こんなことがあったわ・・・
受話器を戻しながら、沢子は半年以上前の、購入委員会があった日のことを思い出していた。意を決して告げた願いは消えそうになっていた命の火の前にきっぱりと断られ、打ち明けた秘密の価値すら無に帰したのだった。
しかし、あれから多くの時間が流れ、司馬の上にも石川の上にも、様々な出来事が積み重なっていった筈である。そして、人の気持ちほど移ろい易く、また揺り動かされ易いものは無い。
ひょっとすると、これは神様があたしに与えてくれた好機なのかもしれない・・・そして、逃したら二度と巡ってこない最後のチャンスかも―――
早く、そして何事もなく勤務時間が終わるようにと、沢子は心の中で密かに祈り続けた。

「どうぞ、おかけになってください」
そう促されたものの、石川は落ち着かない素振りで部屋の中を見回した。その様子に沢子はクスリと笑うと、悪戯っぽい口調で言った。
「あら、遠慮しないでくださいな。この部屋で、司馬と暮らしてた訳じゃないですから―――」
「あっ、いや、その・・・こっちへ帰って来てから、女性の部屋にあまりお邪魔したことが無いんで、えーと・・・落ち着かなくてっ」
今時、学生だって使わないような言い訳をしながら、石川は自分の顔が熱くなっているのを自覚していた。沢子の言う通り、ここへ一歩足を踏み入れた瞬間に、もしかしたら漂っているかもしれない司馬の残り香を無意識のうちに求めてしまい、そわそわしていたのは事実だったからである。
「別れた時、一緒に住んでいた部屋は引き払って、それぞれ別の新しい住居へ移ったんです。だから、司馬がここへ来たことは無いの」
勤務先からかなり離れた繁華街の小料理屋で、あまり重くない夕食を共にした二人が食事中に交わした会話は、当たり障りのない職場の噂話に始終した。石川が訊きたかったことも沢子が話したかったことも、他人の耳がある場所では口の端にのせるのが難しかったのだ。
だから、食後に出てきた湯呑の中身がいよいよ空になったところで、沢子から「場所、変えませんか?」と言われた途端、石川はその提案に飛びついた。そして、誘われるままに都内を移動し連れて来られたのが、閑静な住宅街の一角にある彼女の自宅だった。
女性の一人暮しにすればかなり恵まれた広さの部屋は明るい雰囲気でまとめられていて、なかなかに居心地の良さそうな空間である。
まだ、寛いだとはいい難い状態の石川が、それでもソファに腰を落ち着けたのを確認すると、沢子はよく冷えた白ワインをソーダ水で割り、フルートグラスに注いだスプリッツアーを二人分用意した。
「多分、長くなる話だと思いますから、軽いものの方がいいでしょう?」
石川は無言で頷くと、軽くグラスの縁を合わせた。冷たい気泡が喉を緩やかに通過していき、僅かな甘みだけが舌の上に残った。
どう切り出そうかと悩む間もなく、沢子がさっさと口を開いた。
「以前、お話しましたよね? 司馬が中川先生を庇ったんじゃないかって―――」
「ええ・・・」
「おそらく、事実だろうと思います。本当のところは、司馬と中川先生以外の誰も知るところではないでしょうけれど」
「でも、手術は二人でするもんじゃないでしょう。他にもその場にいた人間をどうやって誤魔化すんです?」
ごく当たり前の疑問を石川は口にした。例え、沢子の言うことが真実だとしても、そこに存在した筈の複数の目をどうやって見なかったことにしたのか、それは非常に大きな疑問だった。
「石川先生―――」
沢子はゆっくりと呼吸を整えた。これから自分が告げようとしていることは何の裏付けも証拠も無い仮説に過ぎないのだが、一旦、口にしてしまえばもう後戻りはきかないのである。今まで決して口外したことのない事柄をここで打ち明けたが最後、まるで坂道を転げ落ちていくような速さで、様々な仮説と憶測が白日の許に晒されることだろう。そして、それが果たして吉と出るか凶と出るか、まだ何とも判断がつかぬ。しかし、自分がここを避けて通る訳にいかないこともまた、嫌というほど解ってはいるのだが。
「例えば、麻酔医の視線は一段低い場所にあります。他の助手も、立ち位置によっては、執刀医の手許まで正確に捉えることは出来ません。それに・・・あの頃の中川先生は、余程のことが無い限り司馬以外の助手をつけませんでした」
「それは・・・本当なんですか?」
石川は思わず聞き返していた。以前、自分が知人に調べてもらった司馬の執刀リストで判断する限り、高度な技術を要するものが目白押しだったのである。普通の医者なら最低でも助手を三人は付けたくなるようなものばかりだった。黙って肯いた沢子を認めて、もう一度念をおすべく質問が口をついて出た。
「司馬以外の助手無しで、あんなに沢山の・・・難易度の高いオペをこなしていたんですか?」
驚きを隠せず、つい大声を出してしまった石川が慌てて口に手を当てた。
そんな自分の様子に沢子は薄く微笑しただけだったが、その表情が数えるほどしか見たことのない司馬のそれとよく似ていることに気がついて、石川は胸が締め付けられそうになった。目の前の女性は確かに司馬と五年間暮らし、多くの時間を共有してきたのである。何気なくこぼれ出る笑顔がそっくりなのはそのいい証拠といえよう。
「ええ。あの二人は東都医科大始まって以来の天才外科医のペアだと言われてましたから・・・普通、そこまで一研修医を登用したら問題になりそうなものだけど、彼らの場合はそれが許されてしまったの―――あの二人でなければこなせない、難易度の高いオペ依頼が中川先生指名で来るようになったのも、司馬あってのことだったんですよ」
「確かに、司馬君の技術は素晴らしい―――僕も間近で見ました。でも、しかし、そんな・・・あれだけの手術をいつも二人でやっていたなんて・・・」
沢子は小さく溜息を吐いた。ここからが正念場である。
「司馬にとって、中川先生は父親のような存在だったんです。司馬が子供の頃に実の父親を亡くしていることは、ご存知ですよね?」
「ええ、それは大分前に、聞きました・・・」
天真楼病院に来て間も無い頃、あいつはどういう男なのかと詰め寄ったときに、中川がかいつまんで話してくれた司馬に関する情報の中にその話が確かに存在し、また、つい最近、より詳しい事情を知ったばかりだった。
「母子家庭となったところから医者を目指すには、多くの苦労があった筈です。司馬の口からそんなことは一言だって聞いたこと無かったけれど・・・様々な辛酸を舐めさせられてきたに違いないの」
石川は黙って頷いた。元気な両親から暖かく「行ってこい」とアメリカに送り出され、学費についても全て賄ってもらった自分の恵まれた立場に比べると、司馬がどれほどの苦労をしたかは容易に想像がつく。
医学を修めようとする者の場合、他の大学生と比べて決定的に異なることが一つある。それは、学期中にアルバイトをする時間がまず無いという実情である。山のように出される課題や、普通に勉強しても追いつかないほどの知識の詰め込み、一時間たりともサボることの出来ない実習―――と、勉学に全力投球出来る状態でなければドクターコースの全課程を制覇することは難しい。
「司馬くん、中川先生に憧れて外科医を目指したんだって言ってた・・・先生のことを父親のように慕っていたのね。教える方だって、自分を無心に頼ってくる生徒が可愛くない筈ないでしょう。それが優秀な学生なら尚更、ね。司馬くんはお父さんのような中川先生に褒めてもらいたい一心で勉強し、練習して、めきめきと腕を上げていった。より高い技術をと、自分の持てるもの全てを伝授すればしただけ、それをスポンジのように吸収していく愛弟子は、また、中川先生にとっても完全に息子同然の存在だったんですよ」
「でも、それなら、なぜ中川先生は自分のミスを司馬に押し付けたりなんか―――息子みたいに思っていたのなら、そんなこと、出来ない筈でしょう?」
グラスを持つ手に自然と力が入った。既に中の液体は炭酸特有の気泡を飛ばしきり、気の抜けた飲み物と化していたが、そんなことは石川にとってどうでもよかった。
沢子が、考え考え言葉を紡ぐ。
「それは・・・本当なら、中川先生はそこで潔く外科医を辞めるべきだったんだろうけど、今まで築き上げてきた名声や地位を失うことやこれからのことを考えたら、つい欲が出てしまったんでしょう・・・それに、司馬くんだったら自分を見捨てないだろうって、どこかで奢っていたんじゃないかしら・・・」
「そんな―――司馬君も司馬君だよ、何で受けたんだ、そんな申し出・・・断ればよかったんじゃ、ないのか・・・!」
何やら無性に腹が立ってきた。いくら父親同然に思っていた恩師の頼みだとしても、なぜ応じたりしたのか、石川にはどうしても理解出来そうになかった。
そして沢子が続けた話は更なるショックを石川に与えた。
「そして・・・彼にはそれを断れない、もう一つの理由があったの―――学費の一部をね、中川先生に援助してもらっていたんですよ」
「それじゃ、中川先生は、司馬が断れないと知ってて・・・そんな―――」
「学費のことについては、苦学生の司馬くんの優秀な能力をお金の問題で埋もれさせたくないという、至極純粋な理由で中川先生の方から援助を申し出たようなんです。奨学金と言っても、限界はありますから・・・それに―――その当時は、中川先生だって、まさかこんなことになるとは思っていやしなかったでしょうし・・・」
石川は手にしていたグラスをそっとテーブルの上に置いた。震える両手を固く組み合わせ、膝の上に落ち着かせようとするが、激しい怒りと虚しさに苛まれ、心の平安はとっくに失われてしまっていた。
「もし、司馬くんが先生の頼みを断ったら、学費のことを持ち出して恩知らず呼ばわりしてでも言う事をきかせるつもりだったかもしれない・・・でも、彼はきっと黙って中川先生の懇願を受けたんだろうと、あたしは思ってるの・・・」
石川はやりきれない気持ちでいっぱいになった。司馬が気の毒でならなかった。
それでも、医療に携わる者として恥ずべき取引きに応じたのは、間違っている―――
「―――理由は、分かりました・・・でも、彼はその申し出を受けるべきじゃなかった・・・」
沢子は黙って石川の言葉を待った。
「学費を出してもらったなら、何年かかってもそれを返せばいい。いくら、恩師の頼みでも聞いちゃいけないことだってある・・・司馬ほどの腕を持っている人間だったら、中川先生の庇護下でなくともやっていけた筈だ―――違いますか?! 事実を捻じ曲げるような行為を受け入れたりせず、正しいことを押し通すだけの強さが・・・」
「石川先生!!」
突然、遮るように叫ばれて、石川は目を見開いた。
「先生は、誤解してます・・・司馬は―――司馬は、そんなに強い男じゃ、ないわ・・・」
沢子の瞳が今にも泣き出しそうに歪んだ。
「人は誰でも縋り付いてくる人を足蹴に出来るほど、非情ではないでしょう? それが自分の大切な人だったら、尚更です・・・司馬は悩んだんでしょう、憧れ、目標ともしていた人が致命的な失敗をしてしまったその現場に居合わせただけでなく、目の前に堕ちた姿を晒されて・・・少年時代に失った父親の代わりとも思ってきた、強く逞しい筈の恩師の醜い本性を見せられて、それでも―――どうしても、助けてあげたかったんでしょう・・・中川先生のことを・・・」
「だけど・・・」
迸る感情をそのままぶつけられて、石川は口篭もるしかなくなってしまった。幾分は推測の域を出ないにせよ、こうして司馬の身に起こったかもしれないことをつぶさに沢子の口から告げられて、今でも彼を憎み続けられるかといえばそれは否だった。
もしも自分が司馬と同じ立場に置かれたとしたら、果たして断固とした態度で中川の哀願を突っぱねられるだろうか? 今まで自分を可愛がり、学費まで都合してくれた実の父親のような男の窮地を前に、正義を振りかざしてすっぱりと切り捨てることが出来ただろうか?
石川には答えが見つからなかった。出来るような気もするし、絶対に出来そうもない気もした。ただ、司馬がどんな想いで中川の申し出を受けたのか、その苦しみ抜いたに違いないやるせない心を思い計る他はなかった。
「あたしたちの間がギクシャクし始めたのは、その頃でした・・・」
沢子の静かな声が、石川の中に沁み込んできた。
「彼はあたしに何一つ言ってくれなかった・・・元々、口数の多い人じゃなかったけれど、日に日に塞ぎ込んでいく司馬を前にして、あたしは詰め寄ることしかできなかった・・・それでも彼は最後まで、何も話してくれなかったんです。あたしを信用していなかったというより、自分以外の人間に中川先生の失態を知られるのが嫌だったんじゃないかしら・・・」
自分の膝の上に置いた手をただただ見つめながら、石川は続く科白を待った。少しく間を置いて、再び沢子が口を開いた。
「今から思えば、司馬を信じて待っていれば良かったのに・・・あの頃のあたしは自分のことだけで精一杯だったんですね・・・何かに苦しんでいる彼を黙って受け止めるよりも、もっと自分を構ってもらいたかった・・・男は当然、女に対してそうすべきだ、と決めつけていた部分もありました・・・」
彼女が語ったことは、二十代の、恋する女性ならごく普通に持ち合わせている感情な筈である。だが、恋人に突如降りかかった災難(この場合、そう言っていいだろう)故に、二人の間には出来なくてもいい溝が生じてしまったのだ。しかもそれは全くの外的要素に起因したのであり、当の恋人達には何ら非が無かったにも拘わらず―――
「結局、彼の全てが信じられなくなって、あたしの方から別れを切り出したんです。あの人はあたしを責めもせず『お前がそうしたいのなら』と、言っただけでした・・・」
声を震わせないよう、せめて、涙を零さないよう―――懸命に言葉を続けようとする、目の前の女性がいじらしかった。
「自分には重過ぎる荷を負ってしまったあの人は、例え結婚まで誓い合った恋人でも、その秘密を打ち明けられるほど、あけすけな人間じゃなかったんです。もしも、司馬くんが物事を軽く考えるような人間だったなら、中川先生はそんな頼み事など諦めて、きっぱりと外科医を辞めざるを得なかったかもしれない・・・彼が真面目で、自分の頼みを引き受けたら最後、絶対に裏切らないと判っていたからこそ、先生は司馬に頭を下げる気になったのかもしれないんです・・・」
小ぶりな唇を音がしそうなほどに噛み締めた沢子の表情は、とても無念そうに見える。
「とにもかくにも、起こってしまったことです。今更、司馬を・・・中川先生を責めたところで、何かが変わる話ではありません―――」
石川は呆然とするばかりだった。そう言われてみれば、全ての謎がきれいに氷解していくようだった。
いくら覚悟の上で決意したこととはいえ、自分に罪をなすりつけた恩師に対する抑えがたい憤りとそれでも捨て切れない思慕の狭間で苛まれ続けた挙句が数々の不遜な態度へと繋がっていったことは、今や歴然としていた。
そして、己が望み、撒いた種には違いなくとも、教え子の機嫌を取り続け、傍若無人な振舞いをも認めざるを得なかった悲しい男の選択も、頭からは否定出来ないものだった。
また、二人が誰にも言えない秘密を共有してしまったが為に、そこから切り離されてしまった沢子の存在は、恋人の苦しみを肌では感じながらもそれを包み込むことのできなかった若さを象徴するかのようだった。
「これで、解りましたでしょう・・・なぜ、あたしが先生を家へお誘いしたのかが―――」
下手に外で会話を続けていたら、恩師と元恋人が守り通そうとしたその行為がひょんなことから洩れることにもなりかねない―――それが沢子の精一杯の心遣いであることは、石川にも痛いほど伝わってきた。
おそらく沢子にとって、司馬はまだ過去の人間ではないのだ。中川との間にあったであろう様々な確執に思い至った時点で、彼女は司馬を疎み無視することが叶わなくなってしまった筈である。知らなかったが故に自分が司馬にした仕打ちを後悔し、何も言わなかった男の後姿に向かい、心の中で「どうして?」と問いかけることになる。
そして僕自身も今、それをいやと言うほどに思い知らされているのだ―――
「大槻先生・・・貴女―――今でも、司馬のことを・・・」
おずおずと発した問いかけに返ってきたのは、消え入るような声だった。
「あたしじゃ、駄目なんです―――」
その言葉を聞いて顔を上げた石川の視線を避けるように、沢子は顔をそむけた。
「あたしじゃ、司馬を助けられないんです―――だってあたしと一緒にいたら、司馬くん、常に中川先生のことを思い出すに違いないから・・・」
「でも・・・」
愛しているのなら、そんなことは関係ないのではないか。
気持ちが変わってしまったのならともかく、どうしようもない運命の歯車が二人の人生を狂わせただけではないか―――
以前、沢子と食事しながら、病院外で初めて司馬の話題を持ち出した時のことが思い出された。あの夜、爆発事故が起こり、急患が天真楼へ五名も搬送されてきた為、結局、二人揃って急遽職場へと引き返したのだった。
そして、緊急オペにとりかかる際、二名の麻酔医のどちらを取るかについて、司馬は奇妙な拘りを見せた。
―――麻酔医、どっちとる?
―――え?
―――沢子と、もうひとり
―――どっちでも
―――沢子・・・もらうよ・・・?
司馬が沢子に対して今だ一種の独占欲のようなものを持っているらしいことには、その時なんとなく気がついた。尤もそれは、昔の恋人にヘンな虫がつかないよう、目を光らせていた程度のものなのかもしれない。だが、世話好きな男なら似つかわしくも、司馬には無縁な感情のように思われたので、少々不思議に感じたものだった。
必死になって、何か言葉を探しているらしい石川をやんわり制するかのように、沢子はそっと言った。
「男女の間って、難しいですよね。ちょっと感情が行き違っただけなのに、とり返しのつかないことになってしまう・・・シャツのボタンだったら、段違いに掛け間違えてもいったん外して、もう一度きちんと嵌め直せば済むことなのに・・・人の気持ちはそういう訳にいかないんですものね・・・」
何よりも司馬自身が自分の助けを必要としていないのである。屋上で再び詰め寄ってしまったあたしに、司馬が残したのは「今更」というはっきりした拒絶の一言だったのだから―――
だからあたしは―――あたしが、あなたにしてあげられる唯一のことをこれからするのよ、司馬くん。
あなたには幸せになってほしいと、あたしだって本心からそう思っているんだから・・・
沢子は気持ちを引き締めると、目の前の男に呼びかけた。
「石川先生」
その声にただならぬ気配を感じてか、視線を落としていた石川がのろのろと顔を上げた。
「もう一度、お願いします―――先生だけは、司馬を解ってあげて・・・」
石川の瞳がゆっくりと瞬いた。反論されるよりも前にと、沢子は更にたたみかけた。
「確かに司馬のしてきたことは、色々問題だらけだったでしょう。それを認めてくれと言ってるんじゃないんです。第一、過去を責めても始まらないじゃないですか―――司馬は中川先生とあんなことになって以来、人を信じられなくなってしまった・・・多分、心を閉ざして、自分以外の人間を信じまいとして、やってきたんです。でも」
石川は憑かれたように話し続ける沢子を無言で見守った。
「あいつ・・・本当は結構、淋しがり屋なんです。だから、石川先生があんなに司馬に関わってくれて、きっと嬉しかった筈ですよ。司馬にとって、先生は大切なひとなんです―――」
胸の奥がズキンと痛んだ。それは決して肉体的なものでなく、多くの人が時折感じることのある、甘く切ない痛みによく似ていた。
まるで、全身に甘美な毒がまわったようだった。
だから、僕を助けてくれたのか? きみは―――だから、僕を呼び戻したのか・・・?
「司馬は、物事を簡単に考えて適当に乗り越えていけるほど、いい加減でもないし、強くもないんです。あの人は本当は誰よりも人の痛みに敏感だから・・・自分が幾つもの辛い経験をしているからこそ、それが判っている筈だと、あたしは信じてます―――」
視界にうっすらと靄がかかった。身体の奥底から込み上げてくる熱い感情をどうしたらいいのか、石川には解らなかった。
「そう・・・かも、しれませんね・・・」
語尾が震えないようにと、そればかりに気をとられて、切れ切れに答えた自分を果たして沢子はどう思っただろうか。静かに瞼を閉じ、目頭を押えるふりをして、石川はこっそりと眦を拭った。

「何、ですって・・・?」
司馬は震えだしそうになる身体を堪えようと、両の拳に力を込めた。
だが、自分の口から出た声は己の不安と疑惑をそのまま浮き彫りにしたかのようなものだった。
「あんた、どういうつもりだ?!」
「大声を出していいのかね? 一応、場所選びには気を配ったつもりだが、何処で誰が聞いていないとも限らんよ」
だから私の部屋にすれば良かったものを―――と、幾分非難するような呟きが続いて洩れたが、司馬はわざと聞こえなかったふりをした。
都会のジャングルに点在する隠れ家のような高級料亭は、多くの著名人が密会の為に利用することが多い。今日、司馬が呼び出されたここもそんな場所の一つだ。鬱蒼とした竹林をバックにひっそりと佇む日本家屋は、無機質なビルの谷間に忽然と出現した異空間のようでもあり、それと判る表札が出ていなことも手伝って、知らない人間なら特に気にも留めず通り過ぎてしまう門構えである。
「君にも、知らせておいた方がいいと思ったものでね・・・」
どこまでも自分へ敵意を向ける青年を前に、脇坂学長は少し肩を落とした。元々、好かれているとは思っていない。寧ろ、自分が彼にした仕打ちを考えれば、憎まれて当然だろう。
「へえ、そうですか・・・?」
ねめつけるような瞳は、畳の上に置かれた間接照明の柔らかな光を受けて、獲物を狙う獣のような煌きを発している。
「おやおや、信じてもらえないようだね」
「当然です。日本医師連盟の理事―――それも筆頭常任理事でありながら、なんだってそんな依頼、受けたんです?」
司馬の言葉は容赦無く、切り込んでくる。
「だから、言っただろう? A国医師連盟会長自ら―――」
一応、経緯を説明しようとしたが、
「そんなものは、ただの言い逃れでしょう?」
と、一刀両断のもとに切り捨てられてしまった。やれやれである。
「依頼してきたのはアメリカやドイツじゃない・・・A国―――国際的な勢力図ではもちろん、世界医師連盟内に限っても、我が国の方が遼かに強い立場にいる筈です。もしこれが行政機関を通しての要請なら、一医療団体に過ぎない日本医師連盟が断れないのも納得がいく」
司馬はそこまで言うと一息ついた。
「しかし、たかだかA国医師連盟の依頼じゃないですか。貴方の力をフルに活用すれば、阻止できた筈だ―――指名された外科医は研究職に退いている、日本にはもっと優秀な外科医が沢山いるから、執刀医はこちらで決めさせてもらう等等、幾らでも言うことを聞かせられたでしょう。だが、貴方は早々にその手を止めて、中川先生本人へ裁量を委ねた・・・」
深い色の眼がはっきりとした凶暴性を帯びる。たばかるような回答をしたら絶対に許さないという剣幕で、司馬は下方から学長を睨み据え、ゆっくりと口を動かした。
「なぜ、です」
凍りつくような寒さが室内に入りこんできたようだった。中庭に設えられた蹲踞(つくばい)の掛樋が規則正しく手水鉢を叩く。その音だけがやけに大きく、時折響いた。
時の歩みを止められた重苦しい空間と、己に向けられている刺すような視線に耐えかねてか、とうとう学長が言葉を発した。
「私の耳に入ってきた時には・・・事が・・・大きくなり過ぎていてね・・・」
司馬は微動だにしない。ただ冴え冴えとした冷たい目で、相手を見つめているだけである。
「私よりも前に、この件を知った理事が何人かいる―――佐伯も、そうだ・・・」
佐伯理一郎は現在、大阪中央自治医科大学長を務める男で、脇坂とは同窓だった。ややタカ派な野心家の彼と脇坂が、今後日本医師連盟会長の椅子を巡ることになるライヴァルとしてお互いを注視していることは周知の事実であり、業界内に於ける覇権争いの一つとなっている。
「もう、打つ手は無いんですか・・・」
本当は「手を打つ気は無いのか」と訊きたかったのだが、さすがにそうは言えず、司馬は曖昧に言葉を濁した。そんなごく僅かの躊躇いに対しても、脇坂の狡猾な神経は敏感に反応し、隙あらば付け入ろうとする。
「いや、道はもう一つある・・・君次第、でね―――」
その言葉を聞いた途端、全身の血が逆流し、心の底から激しい怒りが湧き上がってきたことを司馬ははっきりと自覚した。
「・・・やはり、狙いは―――そういうこと、ですか」
自分でもゾッとするような冷たい声が放たれる。
「そ、そんな顔、しないでくれないかね・・・冗談、だよ・・・」
凄まじい憤怒にかられた司馬の表情は、息の根を止められるほどに恐ろしく、また美しい。だがその矛先が己に直接向けられていると知っては、脇坂にも、おちおち鑑賞していられる余裕など無いようである。
「冗談であろうとなかろうと、お断りしますよ。僕に残された道はたった一つです。あの時と同じに、ね―――」
司馬はくいと顎を上げて、学長を見下すような姿勢をとった。まるで歌舞伎役者が見栄を切るように鮮やかだな、と脇坂は思った。
「尤も、大変悦ばしいことに、今回は貴方の力をあてにしないで済みそうだ・・・この件を前にして、中川先生と僕が取れる道は一つしかない。それは、貴方がそうさせたんですよ―――脇坂学長」
音も無く立ち上がった司馬はそのまま踵を返し、挨拶の一つも口にせず、部屋を出た。
磨きぬかれた廊下を玄関の方へ進んでいくと、仲居が預けたコートを返してくれる。三和土で靴を履いてから袖を通し、うっそりとした竹薮に守られる建物を後にした。吹きつけてくる夜風が肌に冷たかったが、司馬にとっては先程までいた室内の方が、寧ろうすら寒い場所だった。
そして――― 一人残された脇坂は冷酒を口に運びながら、自分の手の中からするりと抜け出ていった男に軽い溜息を吐いていた。

To Be Continued・・・・・

(1999/10/26)



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−第5話に対する言い訳−
またまた長い回になってしまいました……掲示板で予告した通り、
5話以降は毎回司馬を出演(?)させようとしてこうなった訳ではありません(大爆笑) 元々予定していた箇所まで書き続けるうちに、どんどん長くなっていってしまったのでした(メソメソメソ…)
胃を全摘してしまった人間に炭酸はマズイだろうということを沢子先生が知らない筈ないと思うのですが、なんとなくこの軽い飲み物が似合いそうで、スプリッツアーを使いました。本当はこれ食前酒だったと思いますが、雰囲気で読み飛ばしてください(笑) 実はカクテルやお酒に関してはあまり詳しくなくて(飲むのは好きなんですが・笑)いろいろ間違ってたらスミマセン。
司馬が中川の頼みを断れなかった理由の一つに学費援助を持ってきましたが、これは実のところ、医学部や理工学部しかもランクが上の学校であればあるほど、学期中にアルバイトなどしている余裕、ないそうです。「医大生が家庭教師のアルバイトできる時間なんて、まずナイね」と言いきった医者の友達(某国立医大出身)の言葉が頭にこびり付いて離れなかったので…東都医科大を国立大学ということにした理由の一つはそこにあります。私立だったら学費もベラボーだと思うので、中川先生が援助したくらいじゃ焼け石に水でしょうし。
そして国立大でなければならない事情(?)はもう一つありまして―――そっちの方も、おいおい明らかになると思います。