僕の大切なひとだから  7




正門を入って両脇に聳えている銀杏並木が金色の葉をはらはらと地面に落とし、晩秋は駆け足で通り過ぎようとしている。昔は山の手と言われた地域にあり、都心ながらもそれなりに広大なキャンパスは東都医科大学が由緒ある最高学府の一つであることを知らしめるのに相応しいものだった。
脇坂は日当たりの良い南側の一角に設えられた学長室で、いつも通り午前中の執務に携わっていた。昨日、一人で飲んだ日本酒が今だ胃へ溜まっているように思えるのは、気のせいだろうか。長時間付き合ってもらえるなどと思っていた訳ではなかったが、二十分足らずで自分の許を辞した司馬が最後に投げかけた冷たい一瞥は、己の中に刻まれた苦い過去を甦らせるだけの充分な威力があった。
司馬に説明を試みた言い訳は決して嘘ではなかった。年明けに予定されている会長選を前に、自分と佐伯との間では、勢力の均衡を保てるギリギリの駆引きが続いている。下手に動けばそのバランスが崩れかねない程、事態が微妙な状況であることに偽りはない。
だが、自分が本気で動けば、中川への手術依頼は回避可能であることを彼は見抜いていた。
脇坂は椅子に凭れ込むと、目を瞑った。口許から深い溜息が洩れる。
例えば循環器系の大家と言われる徳成教授や心臓外科の権威である剣望名誉教授など、世界的に名を知られている外科医はここ東都にも何人かいる。A国医師連盟会長が中川を指名してきたのは事実だが、その気になれば幾らでも首のすげ替えは可能だった。佐伯派が何と言おうと、東都医科大学側の事情として、中川ではない他の外科医―――尤も、中川本人が既に東都の人間ではないのだが―――を差し出すことは、必ずしも出来ないことではなかったのだ。その為には勿論、多少の金が入用になるだろうが・・・
しかし、A国から手術依頼が舞い込んだその時、脇坂は己の欲望に再び手を伸ばしてみたくなった。
既に司馬が天真楼から出されたことは聞いている。ならば、今度こそ、あの強情な男を屈服させられることが出来るかもしれない・・・
だが、彼は相変わらず人を寄せ付けようとしなかった。一度ならず、絶対的な力でねじ伏せたその身体にも、今回ばかりは触れることさえ叶わなかった。
ふと思いついたように顔をあげると、ちょうど数人の学生が談笑しながらキャンパス内を横切っていく姿が窓の外を掠め、脇坂の目に飛び込んできた。授業の合間ででもあるのだろう、なかには咥え煙草で歩いている輩もいるようだ。
いつの世でも、学ぶだけの存在とは長閑なものである―――脇坂の意識は数年前の記憶を手繰り寄せはじめていた。
確か、司馬を初めて見かけたのは、彼がまだ一回生の頃だった。自分が受け持っていた教養課程の講座を受講していたのだ。そして次にその名を気に留めたのは、各教授連中がポリクリ生の品定めをしていた時期だったろうか。口数は少ないながら、実にポイントを掴んだ質問を浴びせてくる。意地悪心を出して患者の前で質問責めにしても、動じることなくスラスラと正解を答えてのける、度胸の据わった男前がいると噂になったものだった。そして中川が司馬を連れて大学病院内を歩き回る姿がよく見られるようになるまで、それからふた月とかからなかった。
いつでも二人は一緒だった。
司馬に天賦の才能を見出した中川は、どこへ行くにも彼を放さなかった。そして、それが決して行き過ぎた贔屓ではなく、司馬がそうまで登用されるに足る、素晴らしい素質を持った外科医の卵であることは、様々な場所で披露され、認められてきていた。
もちろん中川という天才教授に目をかけられているということで、司馬に嫉妬や反感を抱く者もいることにはいたが、二人が数々のオペを成功に導く度に一研修医をそこまで重用することに対する批判は少しづつ減っていった。
やがて、中川が手術中、大動脈へメスを突き立ててしまった、あの『魔の日』が訪れた。
ミスを犯したのは第一助手を務めた司馬の方であるとの報告を上げた後は、たかだか研修医でありながら自分の技術を過信した故の結果と監督不行届きで共に謹慎を言い渡されることも覚悟していた筈の二人だっただろう。尤も当人達には意外だったかもしれないが、事をそう運ぶわけにはいかなかった。中川研究室のオペ記録に執刀ミスを残すことなど、断じて許されないのだ。死亡した政治家の周りからはいろいろ事実追及の声も上がったが、元々が重症のアンステーブルアンジェーロに分類されたクランケだったことが幸いして、脇坂が捏造した手術記録は容態急変による出血多量とされ、その死亡診断書を前に一般の疑問は鳴りを潜めていった。
だが、学長選を控えた学内の空気はこの事件を機に大きく流れを変えようとしていた。
医学部の中でも最高峰であり、また国立大学として常に上位ランクの一角へ位置する天下の東都医科大学の学長席は大学内部の意向だけでは決まらない。普通の国公立や私立大学の学長席とは、その地位の持つ重みと影響力が天と地ほどに違うのだ。
何しろ、直轄である文部省や医療とは切っても切れない厚生省の意向が確実に絡んでくるポジションである。候補者に対する条件は表向き一律とされているが、その実、後ろでは政治的駆け引きが横行し、関係各庁の官僚達があらゆる意味で自分達に都合のいい人物をその椅子に据えるべく跋扈するのはごく当たり前のことなのだ。
また、候補者側もそれをよく心得ていた。いかに己が利用価値のある人材か、官僚達へ印象づけることを一番大きな命題とし、その為にありとあらゆる手練手管を駆使する。そうして、大学内最高のステイタスを手にする訳だ。
脇坂はもちろん、多くの教授がその席の獲得へ向けて凄まじい意欲を迸らせた。だが、中川だけは権力を手にしたいと切に願う俗物達と一線を画したままだった。
中川の興味は、自分を頼ってくる患者を助けるべく思う存分にメスを揮い、まだ克服できぬ新しい術式を研究し試みて己のものとする、医療全般と手術の限界に挑むことのみに向けられていた。
彼が最年少で教授の末席に名を連ねることとなったのも、中川自身が処世術に長けていたからではなかった。その天才性を見抜き政治的に利用できると判断した脇坂の強力な引立てによって実現したものだった。
助手、講師、助教授、教授と昇格していくためには、もちろん実力も必要だが、時の運が大いにものを言う。自分に昇格のチャンスが回ってきた時に、在籍している大学のそのポストが空いているか否かで運命が大きく分かれるのである。
多くのケースがそうであるように、大学院在学中、教授から声をかけられた院生がそのまま研究室に残る。修士号を得た後も博士課程を受講しながら研鑚を積み、博士号を取得するのが一般的だ。別に博士号が無くても、講師にまではなれる。だが助教授、教授と昇っていくには、博士号は必要な資格なのだ。
しかし、たまたま機会に恵まれて、研究生になってからすぐに助手へ昇格出来たとしても、今度は博士号を取る為の勉強が遅れてしまう。逆に博士号を手にして次なるステップへ進もうと息巻いていても、講師のポストに空きがなければ、ずっとその場で待機である。どうしても母校でなければという拘りがない限りは、他校の空席を得てそちらで講師になるのが一般的なのだ。それは助教授や教授へ就任する時でも全く同じであり、まず空きポストありきなのである。
別に在籍校への拘りさえなければ、ある程度のスピードで昇格することは可能だろう。だが、人間の心理として多くはランクの高い大学に籍を置きたがるものであり、東都医科大学ともなれば、その地位を望む者ほぼ全員が母校での教授昇格を夢見ていると言っても過言ではないのが、根強く横たわっている現実だった。
脇坂は中川の為、その空席を常に用意してきた。あらゆる権力、金、その他諸々の汚い手口を使い、中川を最年少で教授席へ座らせる為に、"運"の部分を切り開いてきた。
自分の配下に奇跡の指を持つ天才・中川を得ることで、どれだけ世間的に箔がつくかをただの優秀な脳外科医でしかなかった脇坂はよく心得ていた。世界中から指名され、各国の外科学会にも招かれるような技術の持ち主である男に自分を恩師と言わせることが、己が東都医科大学学長、更に日本医師連盟会長へと駒を進めていくのに遍く有利に働き、学長選出を牛耳る陰の力に対していかにツブしが利くかを本能的に察知していたのである。
そして、中川が司馬という研修医を得たことも、脇坂の野望を一際大きなものにしていった。司馬の中に、己と同じ奇跡の手を持ち得る能力があることをいち早く見抜いた中川は、彼を我が子のように可愛がり、その持てる知識と技術の全てを伝授してゆく。結果、中川の愛弟子として仕込まれた、司馬という、これまた天才と言っていいほどの技術を蓄えた外科医が誕生するのは時間の問題だったのである。
若き天才教授中川と、その彼が、まだ研修医ながらも自分の後継者に指名したも同然の秘蔵っ子、司馬―――この二人の行くところは常に注目を浴び、脇坂の予想以上に大きな影響力を持ち始めていた。
だから、あの手術ミスが起きた時、脇坂は考えに考えを重ね、いかに自分の将来へ水がさされないようにするかを検討した。
はっきりしていることは、二人を大学へ残しておくわけにはいかない、ということだった。
オペした患者が助からなかったことは別段珍しいことでもなんでもなく、また責められる謂れもない。だが、そこにあった真実が暴かれてはならない―――
もしも、中川が手術恐怖症にかかってしまっていたら・・・そしてそれが何かの拍子に明るみに出るようなことになったら。せっかく築いてきた上への階段は砂上楼閣の如く崩れ去っていってしまう。後でどう説明をつけようと構わない。二人を除籍するしかなかった。
中川と司馬というカリスマ性を持ち合わせた手駒を失う以上、脇坂に必要なのは多額の金だった。金をばら撒き、代議士の支持を取りつけ、この学長選を乗り切る―――事実、脇坂が学長の椅子に腰掛けるには、それ以外に方法が無かった。
そして、二人を出来るだけ高い値で買ってくれる民間病院を探すのが、脇坂の命題となった。表向きはミスを犯したのは弟子である司馬の方になっている。中川の名声は揺るぎ無いものであり、一研修医の執刀ミスなど、東都医科大学出身者ともなれば取るに足りないもので通る。
そんな時、まさに幸運としか言いようのない抜群のタイミングで、天真楼病院の理事長から空席になる外科部長の後任を探しているという話が飛び込んできた。天真楼と言えば、元々は東都寄りの大病院である。あの二人を押し付けるのに、これ以上適格な場所はないように思われた。
即日、理事長と密談を持った脇坂は、中川の愛弟子である司馬の執刀ミスにより二人が引責辞職に追いこまれる可能性をチラつかせた。案の定、理事長は色気を見せ―――中川本人にはもちろん、「司馬」という名前にも反応を示したことに、脇坂は軽い驚きと共に確かな勝算を覚えた。
この時ほど、中川の為すがまま好き自由にやらせておいて良かったと思ったことは無かった。彼がいつも司馬を連れ歩き、行動を共にしていたからこそ、この二人の組み合わせは業界内に於いて『天才師弟コンビ』としてはっきりと認められるまでになっていたのである。
ただ問題は、天才教授がメスを握れなくなってしまっている事実を知ってもなお、病院側が二人を引き取りたがるかどうかということである。如何に中川ブランドが凄まじい威光を放っているにせよ、実際にその手となるのはまだ若い研修医の方だということは、最低でも彼らが新しい職場へ赴くまではひた隠しにしておいた方がいいに決まっている。何れバレることかもしれないが、今は素知らぬ振りをしておくべきだろうと脇坂は判断し、商談を進めていった。
翌日には早くも理事長と中川を引き合わせ、それぞれの反応を見、申し分無い手応えを感じた。
このままいけば、執刀ミスをした本人及び監督責任を取っての指導教授辞任というシナリオは、大学当局にも容易く受け入れられるだろう。となると、司馬を中川に付けなければ意味がない。幸い、あの若者は恩師の罪を被るつもりのようである。だが、それを確固たるものとし、司馬に中川を裏切るようなことが出来ないように叩き込まねばならない―――
人よりも遼かに知恵がまわることを『悪魔のように頭が切れる』という。その時の脇坂は、まさにそういう状態だった。
脇坂はある一つの案を思いついた。弟子が恩師を庇っているのは既に疑いようもないことだった。いっそのこと、そこにつけこんで、どうやっても司馬が中川を庇うしか道を選べなくしてやろう。そうすることによって、自分に対する恩義をも持たせ、ついでに少しイイ思いをさせていただくとするか―――
元々、この業界では倒錯した嗜好の持ち主も多い。だが、脇坂自身はそうしたものと無縁だと思っていた。しかしあの二人を見ていると、何故かむらむらと激しい嫉妬の炎が己の身体を焼き尽くすかのように駆け巡ることもまた、自覚していた。
華々しい活躍に彩られ、天才として賞賛されるに値する才能を実際に持ち得た教授が片時も手放さない、天賦の原石を内に秘めた若くハンサムな愛弟子。二人の間にある、誰もが割り込むことを躊躇わせられる親密な感情。天才同士だけが分かち合える様々な手術の成功と達成感―――自分も一度は望んだが、手を拱いて遠くから眺めているしかなかったものをあっさり手にしている二人が、ただただ羨ましく妬ましかった。
だから脇坂が司馬を欲したのは、共に手を携え輝ける未来を夢見ていた二人をそれぞれに貶め、己の前に跪かせてみたいという、邪まな欲望故だったのかもしれない。既に中川はその奇跡の指を失い、震えの走る右手を前にして絶望に打ちひしがれていることだろう。ならば、弟子の方にも屈辱を味あわせてやって、何が悪い・・・?
しかし、実際に司馬を呼び出してみて、それだけではない何かを脇坂は感じてしまっていた。中川の名前を出すたびに、僅かに苦しそうに歪められる瞳。どんなに辱めても耐えるその頑固さ。身体はいいように蹂躙されても決して屈服しない心―――
何故だ、ナゼだ、なぜだ―――
「私は君達二人を助けたい、と思っているんだがねぇ―――」
いくら水を向けても決して口を割ろうとしない、鋼の精神は脇坂をひどく当惑させた。
司馬の警戒心を解こうとしたものの一向それが叶わなかった名誉教授は、言葉で懐柔することを諦め即座に実力行使へと移った。コーヒーに混ぜてあった薬もそろそろ効きはじめる頃だろう。
「素晴らしい師弟愛だねぇ・・・そんなに中川君を庇いたいのかな・・・?」
被疑者本人から事実を聞き出そうとしていた猫撫で声は、いつの間にか嘲るような嫌味へと変貌していた。
それでも司馬は抵抗し続けた。
自分の隠微な嘲笑にも歯を食いしばって耐える若い研修医のあられもない姿は、脇坂の征服欲を煽り続けた。
「・・・せ、んせい・・・の・・・ミス・・・じゃ、ない・・・僕、が・・・―――」
既に官能の熱に身を焼かれているのは一目瞭然だが、司馬の意識は信じられないほどに頑なだった。
こんなにまで己の身体を辱められても、心を痛めつけられても、それでも庇い通すつもりなのか? この青年にとって、そんなにも中川は大切な男なのか―――?
服用させた得体の知れない代物により、今や抵抗する力は完全に奪われている。更に両腕を後ろで縛られ、全裸のままベッドに投げ出された若い肉体の中心に手が添えられる。弛みなく快楽を与え続けながら、脇坂は激しい嫉妬にかられていた。
「もしや、中川君とも・・・?」
その言葉に反応した視線が、次の瞬間、まるで硝子の欠片が虹彩へ突き刺さったかのように凍りついた。唇を強く噛んだ司馬の瞳には、はっきりとした憤りと蔑みの色が現れた。
(おやおや、プラトニックだったのか・・・なのに、ここまで抗うとは―――相当心酔しているらしいな・・・)
まあ、それならそれで構わない。お初はいただけるというものだ。
それが、取引の全てだった。
司馬が脇坂へ身を任せる代わりに、中川が手術をしなくても怪しまれないような一般の大病院へ二人をセットで出す―――彼が今持っているものといえば、一流の技術を身につけた外科医としての将来性と己の身体一つだけだった。見返りは、充分過ぎるくらいである。
司馬には断れる筈も無かった。拒否すれば手術の出来ない恩師と二人、路頭に迷うだけだ。いくら東都医科大学の教授であるといっても最年少で座ったその椅子は、所詮脇坂が用意したものである。中川が外科医もとい研究者として持っている叡智と才能面は他者の追随を許さなかったが、世渡りの才覚はせいぜい並がいいところだった。そんな男に、執刀ミスを犯した教え子を抱えての一般病院への移籍交渉など、上手く対処できる筈がない。
脇坂は司馬を陵辱しながら、僅かに疑念を抱いていた。中川が惚れ込んだという、外科医としての素晴らしい腕と素質については何ら疑うつもりなどない。だが、ここまでの頑迷さと強固さは予想していなかった。ただの、見栄えのする研修医なんかではない。司馬という男は、それだけではない何かを持っている―――
それから数ヶ月の間、脇坂は闇の手腕を余すところなく発揮して、二人の受け入れ先となる天真楼病院外科部長席および第一外科との調整を着々と進めていった。表向きは学長選に向けて関係各界への挨拶や学会への出席、担当研究室への指導等等、当然こなさなければならない渉外業務を消化しながら、大学側から天才師弟コンビへ下される筈の処分について、誰にも異議を差し挟ませぬよう根回しし、疑念を起こさせぬよう心を砕いた。
その間にも、己が二人の為に暗躍する当然の代償として脇坂は司馬を呼び出し、その身体を貪った。嫌々ながら応じる度、ほんの一瞬だけ辛そうに歪められるも決して屈しない瞳が、名誉教授をより深い虜にした。だが、司馬はその心の扉を開ける鍵だけは頑として渡そうとしないままだった。
二人の天真楼病院移籍が正式に決まった夜、度々そうしていたように司馬へ連絡を取り、逢引きを強要した。既に脇坂はこの青年の醸す翳りのある美しさと情事の最中に見せる妖艶な媚態にすっかり囚われていたが、当の司馬はその間に着々と一矢報いるための手筈を整えていたようだった。
「幾らで、僕達を売ったんです・・・?」
部屋に入るなり、司馬が醒めた声で訊ねた。その時のことを思い出すと今でも、首筋にスッと匕首(あいくち)を突き付けられたかのような冷たい感触が甦る。
「中川先生と僕を天真楼病院に売ったお金で、学長選を乗り切るおつもりでしょう? 政治家連中の囲い込みも済んでいる。僕達の都落ちが今や何の障害にもならないところまで、貴方の勢力は拡大された筈だ」
人を射るような眼差しが脇坂の全身を貫いた。
「もう、僕達に用は無いでしょう・・・?」
ディアブロのような瞳がゆっくりと瞬いた。脇坂は己を冷静に保とうと努力したが、果たしてどの程度それができたのか、今だによく判らない。
この時まで、脇坂は目の前の美しい獣を手放すつもりはなかった。そこらの娼婦よりも遼かに香しい色気を隠し持つ浅黒い肌は、その濡れたように輝く瞳と滅多に聞くことの出来ない悩ましい喘ぎ声に彩られ、征服する歓びを余すことなく感じさせてくれるのだから。
「天真楼の理事長は、真相を知らない・・・手術ミスをしたのはあくまでも君だ、ということになっている・・・私が事実を告げれば、君達二人は―――」
「それが、なんだというんです?」
底冷えするような声が室内に放たれた。
「そう、執刀ミスを犯したのはこの僕だ・・・理事長もご存知でしたよ? その分、君には頑張って貰うと言われました。中川先生という『ブランド名』と僕の『技術』で、天真楼病院第一外科の名前を世に轟かせてくれ給え、とのことでしたが・・・?」
その科白を耳にした途端、脇坂は自分の負けを悟った。
なんと司馬は、理事長へ中川がメスを握れなくなっている可能性を示唆したのだ。病院側が高い金を支払って得たのは二人の天才ではなく、堕ちた偶像とまだ多分に未知数の研修医でしかないことが、既に知られてしまっているとは―――切り札が、ジョーカー自身の手であっさりと引き千切られたようなものだった。
もしも、事が荒立てられれば、あの辣腕で知られる理事長のこと、黙って引き下がりなどしないだろう。中川に商品価値が無いことを暴露せずとも、多額の金を都合させられた現実を逆手に取って、政界のお偉方を逆に味方につけることくらい易々とやれるに違いない。基本的に大学内での覇権争いしか知らぬ自分と、幅広く各界にパイプを持つ実業家である天真楼の理事長とでは、どうにもならぬ。まともにやりあったら最後、勝ち目は無いことくらい、脇坂も自覚していた。
やはり、侮れなかったな―――
脇坂は司馬を見る目を眇めた。
容姿に騙された訳ではなかった、と思う。司馬が今、見せているのは、自分が知らなかったもう一つの彼の側面なのだと、懸命に己を納得させようとした。
そんな自分の心中など察するはずもなく、司馬がつい、と一歩前に出た。
「いいですか、脇坂教授―――僕が貴方としたのは、『取引』だ・・・」
殊更ゆっくりとした口の動きに、吸い寄せられるような錯覚を感じる。
「ちゃんと代価は支払った。貴方はもう僕に構う権利はない。それでも、まだ望むのなら、今度はそれなりの報酬を用意すべきです」
脇坂の本能が警告した。司馬を敵に回さない方がいい。これ以上、彼に固執するのは危険だ―――
「・・・なるほど―――参考までに聞いておきたいのだが・・・一回、幾らかね?」
司馬がその形の良い眉を上げた。しかし直ぐに元の冷たい表情に戻る。
「―――百万」
「・・・覚えて、おこう・・・」
「ビタ一文、負けませんよ・・・?」
その言葉を最後に、しなやかな身のこなしで、司馬は自分の脇をすり抜けて行ったのだった。
残された脇坂は、ソファに身を沈めると、両手で顔を蔽った。自分が司馬の身体を嬲り背徳の美酒に酔いしれていた間に、あの精悍な顔つきをした若者は虎視眈々と逆転のチャンスを狙っていたのだと思うと、いいようのない畏怖が己の全身に漲った。
中川が司馬を研究室に迎え入れた時に、彼がかなり苦労してきた奨学生であったことを脇坂も知った。一分一秒たりとも無駄にしまいと、必死に食らいついてくる熱心さが、どれだけ清々しく思えたことだったろうか。中川の隣にいる時の司馬はいつも柔らかな笑顔を見せていたが、その苦しい家庭環境から察するに、様々な辛酸を舐め世間の底辺から這い上がってきた筈である。寧ろ人生に於ける暗い経験を得ていればこその、和やかな物腰だったのかもしれない。だとしたら、司馬にあのような明るい表情をさせておいてやれる中川という男は、なんと貴重な存在なのか。
脇坂は唇を噛んだ。
彼の執刀ミスさえ、無ければ―――
自分の浅ましい欲望に気づくこともなかった。あの天才師弟コンビをただただ眩しいものとして眺めて、二人が己の掌中の珠であることに満足していられた。手に入らないものに対しての諦観にも、きちんとけじめをつけることが出来た筈なのだ―――
学長の椅子へ座るようになってからは、司馬と中川に思いを馳せることも減っていった。今や盟友である、かの人物からごくたまに天真楼内でのゴタゴタを聞かされることはあったが、それとて既に自分の手を離れた問題であり、全ては理事長本人の裁量に委ねられていることだった。
だが、石川というカンザス帰りの若造が現われたことによって、最終的に司馬が職場を追われる羽目になった経緯と、それでもなお、理事長としてはほとぼりが冷めた後に彼を連れ戻す腹積りでいる事実を知って、東都医科大学学長の心中は穏やかでなくなっていった。
なぜなら脇坂の目には、理事長がその復帰を望んだというよりも、司馬の方からいずれ天真楼へ―――中川の許へ戻る気持ちがあって働きかけたかのようにしか映らなかったからである。尤も、真相の方は、全くその逆だったのだが。
あの青年が理事長を骨抜きにした手管については、詮索したくもなかった。金か色目か、はたまたその両方か。自分もその甘い汁を啜っておきながらどこか疚しい気持ちがあるせいだろうか、他人の身に起こったこと(そのような事実があったと仮定しての話だが)へ嫌悪すら感じる己を脇坂自身勝手だとは思うが、どうしようもない感情だった。
それにしても―――そうまでして師の傍に寄り添おうとする教え子の気持ちが、どうしても理解できぬ。
ただの恩師ではないのか? 一体、司馬と中川の間に、どんな絆があるというのか―――
あの二人の間に肉体関係が無かったことは、もはや明白だった。下手な恋愛感情で繋がっていた仲なら、とっくに破綻している筈である。
だからこそ、今回の冠状動脈肺動脈起始症手術依頼を前にして、脇坂はわざと動かなかった。
それが過去、中川と司馬の手で鮮やかに片付けられた症例だったのは紛うかたなき事実だが、当時の二人が共に奇跡の指を駆使したからこそ成し遂げられた偉業なのである。あの時とは違い、今やその技術を持つ者は司馬ただ一人だけなのだ。
日本医師連盟の名誉からすれば、確実に成功させなければならないオペである。もしも中川の名前が挙がらなかったなら、自分は司馬が指摘したように他の優秀な教授連中へクランケを回していたことだろう。
だが、敢えてA国側の要請を受け入れ、中川へその患者を押し付ければどうなるか―――あの司馬が目の色を変えるに違いない。そして、ひょっとしたら今度こそ、自分の前に跪くかもしれないのだ。
しかし、獣は獣のままだった。一段と鋭さを増したその姿は、脇坂に近寄ることを許そうとしない黒豹を思わせさえした。そして、彼は自分の腕だけで執刀するという危険な道の方を選んだのだ。
決して譲り渡すつもりのない崇高なプライドを今更ながらに見せつけられたような気がした。
いいだろう、司馬先生―――お手並みを拝見させてもらおうかね・・・
口許に老獪な笑みを浮かべた学長は、一頻りくぐもった忍び声を洩らすと、書類の山へ再び目を向けた。

副院長室へ足を運んだ司馬を待ち受けていたのは、天真楼病院第一外科に勤務するドクターであり、自分が執刀した患者でもある石川だった。
室内を一瞥するなり憮然とした表情になった司馬を目にして、石川は少し悲しかった。確かにいつも対立してばかりだったが、久しぶりに顔を合わせたのだから、もう少し笑ってくれたってよさそうなものなのに―――
そんな石川の気持ちなどお構いなしに、司馬は応接セットの前を突っ切ると、椅子に座ったまま何やら書類に目を通していた、心臓外科の天才と言われる小柄な女性の前に立った。
「何か、御用ですか?」
副院長の天野智子は、かけていた眼鏡の位置を優雅な手つきで直すと、司馬を見上げた。
「司馬先生、お昼は済まされました?―――そう、良かった。では今から、そちらの患者さんを診察してくださいな」
こちらに背を見せている司馬がチラリと石川に目を向けたが、直ぐに天野の方へ顔を戻した。
多分、視線だけで疑問を投げかけたのだろう―――司馬の声は聞こえてこなかったが、それに答えるべく天野が再び口を開いた。
「天真楼病院から、是非にと頼まれたんですよ」
そんなことを依頼しようと思いつき、また、患者本人にこの山川記念病院へ行くよう命じることの可能な人物はたった一人しかいない。司馬は心の中で舌打ちした。
「彼を診るだけなら、そんなに時間は要りません。今日この後、僕は外来担当ですから、終わったら本来業務へ戻らせていただきます」
「その必要はないわ。午後の外来は、神崎先生にお願いしてあります―――診察が終わった後は半休扱いにしておきますから、旧交を暖められたら? 世紀のライヴァルだって聞いたわよ?」
天野の目が悪戯っぽく笑った。彼女は中川の大先輩だと聞いている。司馬は諦めて天井を振り仰いだ。
「じゃ、私は東日本外科感染症フォーラムの公聴会へ行ってきますからね。なんでしたら、ここで診察してもいいわよ。出る時、部屋の鍵を麻生先生に渡してくれますか? この本棚にある学術書を見たいと言っていたのでね」
壁際のコートラックから上着とショルダーバッグを取った天野は、応接用のソファに腰掛けていた石川の背後で一旦足を止め、
「それじゃ、石川先生―――ちゃんと診察してもらってくださいね。今から4時間は通常でしたら司馬先生の勤務時間に相当しますから、それ以前に彼を解放しては駄目ですよ」
と、はっきり司馬にも聞こえるように言い置いて出ていった。
そして、後にはやや気まずい沈黙とともに、二人が残された。
司馬がゆっくりした動作で石川の向かいに腰掛けた。煩そうに頭を振り、一服しようとしてその手を止める。胃の無い自分に気をつかってくれていることが判って、石川はなんだか無性に嬉しくなった。
表情は不機嫌そうなままながら、漸く司馬が口を開いた。
「で?」
「中川部長から、これを預かってきた」
鞄の中からA4大の封筒を取り出すと、石川は言葉を続けた。
「ついでに、術後経過を看てもらってくるように―――と」
手渡された書類は、毎月天真楼から送ってもらっている、目前の男の術後経過報告だった。
―――ったく、どこまでトボケりゃ気が済むんだ、あのオヤジ・・・
大学時代から数えても、かれこれ十年近い付き合いである。伊達にコンビを組んでいた訳ではない。中川がこの男を自分の許へ寄越した理由はただ一つ、石川の司馬に対する拒否反応がどの程度緩和されているかを試す為であろうことは、簡単に見当がついた。
例の手術に向けて、今、中川は司馬を連れ戻そうと必死で動いていることだろう。前野はともかく峰や沢子といった外野は、いざとなれば外科部長としての権限で黙らせることが可能だ。看護婦や他の科に至っては、考える必要も無い。
だが、石川だけは、確実に押さえておかなければならない人間なのだ。何しろ余命幾ばくもないと思われていたあの頃に、あれだけのエネルギーを注いで余計な騒動を起こした男である。石川の了解無しに司馬を呼び戻せば、今度は中川自身の馘が危なくなる可能性が出てくるやもしれぬ。
「ふ・・・ん、そういうことか・・・」
小さく呟いた後、始終黙ってカルテをめくり続ける執刀医の手許を石川は何とはなしに見ていた。時々、ゆっくりとした所作を見せながら、ある一定の律動に操られているかのような指先の動作は、なかなかに美しいものだった。尤も優秀な外科医であればあるほど、指の先端にまで神経が行き渡るのが普通であるから、当然のことなのかもしれないが。
この指に助けられたのだ・・・僕はきみの手で、助けてもらった―――
そう思うと、身体の奥が熱くなってくる。もしも僕が今思っていることを口にしたら、きみはどんな表情を見せるだろうか。
呆れられるかな? (何言ってんだ、こいつ)って顔されるのがいいところか―――それとも驚くのかなぁ? まさか怒り出しはしないだろうな・・・
何やら楽しそうな表情になっている石川の存在を視界の隅に認めながら、司馬は素早く目を通していった。
「書類上では、至極良好な経過に思えるな―――問題無し。本人を目の前にするのは八ヶ月ぶりくらいか・・・まあまあ、元気そうだな」
司馬は手許の書類を左脇へどけると、グッと身を乗り出した。やや上半身を屈めて、正面から掬い上げるように石川を見据える。
「顔色、あんまりよくねーな。夜勤、外してもらってんだろ?」
「あ、ああ」
急に顔を近づけられて、石川は慌てた。もっとよく確認しようとしてか、司馬の腕がスッと伸びて石川のおとがいに手を添えた。軽く上向かされるように下顎を持ち上げられて、なぜか、鼓動が早くなる。
昔はよく胸倉を掴み、至近距離で見ていた顔じゃないか・・・何をうろたえてるんだ、僕は? 落ち着けったら―――
このまま無言で見詰められていたら、心臓が口から飛び出してしまいそうである。自分の狼狽を悟られまいとして、気がつくと夢中で口走っていた。
「み、みんなには悪いと思ってるんだ。僕が健康体なら、オペ件数も夜勤も・・・ちゃんとした戦力として使ってもらえるのに・・・」
「そんなん、しょーがねーだろ―――おまえは、まだ、クランケでもあるんだぞ」
石川の顔から手を離した司馬はソファに身体を埋めると、呆れたように―――しかし、随分と優しい口調で言った。
「そう、だね・・・」
はにかんだように微笑む石川を前にして、この笑顔を自分が見るのはひょっとしたら初めてなのかもしれないな、と司馬は思った。おそらく自分以外の人間なら、見慣れている表情なのだろう。だが、司馬には、自分と対峙しながら穏やかな笑みを見せている石川の存在が眩しく、新鮮に感じられた。
そんな感情を認めたくなかったのと、いくら中川から命じられたとはいえ、のこのこ自分に会いにくるほど石川の性質が麻痺したとは思い難くて、司馬はそっとつついてみることにした。
「で―――まさかコレだけの用で、わざわざここまで来た訳じゃねーだろーな?」
「あ、ああ・・・」
このままお茶を濁していても始まらないと思っているのは、石川も同じだった。
覚悟を決めた筈だ。言うべきことは言わなければならない―――
「司馬君・・・」
だが、口をついて出たのは自分でも思ってもみなかった一言だった。
「天真楼病院へ、戻ってこないか?」

To Be Continued・・・・・

(1999/11/23)



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−第7話に対する言い訳−
うわー、何てこと言うのよお〜石川先生!!!!!
最後の一言に、作者はもう、どうしていいか分かりませ〜〜〜ん(大爆笑)←ホント、笑うしかない
前回に引き続き、暴走王・石川の発言をなんとかしようと格闘していたんですが………負けました
(T_T) 私、本当に作者なんだろうか……(しくしくしく)
大学内部の事情については、旧帝大系の某大学某研究室にいる従兄弟(専門は都市工学)の知識にすべて頼りました。博士号取得を目前にしている彼から、説得力のある裏話をいろいろ教えてもらって、もう感謝、感謝です〜! 尤も、その話をこんな小説に使っていること知られたら、縁切られそうですが(苦笑)
教授時代の中川先生の処世術については、この従兄弟の一言が大きいです。「マスコミに露出しているキョージュは二流、三流。一流の教授はね、研究以外のことに手を取られてる時間、無いんだよっ!!!」―――あああ、怖かった。そんなに怒らなくても……実際、第一人者であればある程マスコミ等へのコメントを出すことさえ嫌がるんだそうです。下手に発言してしまうと、それがその教授の通説となって流布されてしまい、後々に学説の変更がきかなくなったりするからだとか。だから、学内で(上に昇る為に)政治的手腕を発揮する輩は、学者としては評価されないそうでして……それで、中川を天才教授とする為に、脇坂という俗物的な権力欲の強い人物を登場させました。
文中に出てくる"ディアブロ"は悪魔を意味します。えーい、ツッコマれる前に書いちゃいますが、元ネタは『トライガン』
3巻で〜す。モネヴ・ザ・ゲイルと対峙した"台風"ヴァッシュが本性を現すあのシーンから頂きました。
そして、やっと対面した二人ですが、司馬の方は石川の訪問を知らされてなかったことになっています。その辺りの事情は、次回以降で説明する予定です。