僕の大切なひとだから 8
―――天真楼病院へ、戻ってこないか?
まさか心の中から飛び出すなどと予想だにしなかったその一言は、石川に久しく顔を合わせていなかった仇敵を思わせるかのような緊迫感を覚えさせてしまっていた。
司馬の顔がみるみるうちに強張ってゆく。呆然としたまま、石川はその表情の変化を見守るしかなかった。
言おうと思っていたこととは全く別の科白だったが、別段、相手を怒らせるような単語がその中にあったとは思えない。にもかかわらず、なぜ司馬が凶悪な形相になったのか、さっぱり見当がつけられない石川は、すっかり途方に暮れてしまった。
こうなると、じっくり考えるよりも行動の方が先になりがちな、己の常日頃の習性を恨めしく思ってしまう。だが、一旦、口にしてしまったことは取り返しがつかないのだ。どうしたらいいか判らぬまま、石川は視線を落とした。
そんな相手の様子を目にして、司馬もまた困惑していた。他の元同僚ならともかく、石川が自分に向かってそんなことを言うとは微塵も思っていなかったのだ。聞いた途端に誰かから頼まれてきたのでは?と勘繰る方が普通である。そしてこの場合、こういう小細工をしそうな人物はどう考えても一人しかいなかった。
中川先生。大学時代の恩師であり、現・天真楼病院外科部長。おそらく今、一番、自分を必要としているに違いない男―――
最初、てっきり中川が言わせたのだと思った。今日、司馬を訪ねさせて、石川がどれくらい穏やかでいられるか試そうとするあたり、あのトボケた元上司が考えつきそうなやり方だった。しかし、それに乗じてこの男の口から天真楼への復職を持ちかけさせるとは―――
別に、もう一度中川から頭を下げてもらいたい訳ではない。いいや、そんな先生の姿は二度と見たくない―――!!!
なのに「戻ってきてほしい」と他人に、それもこいつに言わせるなんて・・・あなたが僕を必要とするのなら、その言葉は―――中川先生、あなた自身が直接僕に言うべきではないのか?!
だが、自分の前に座っている男のすっかりしょげきった様子を目にして、司馬は考えを改めた。
あの一言を口にした石川は、自分で自分の発言に戸惑っていたようだった。なぜ、そんなことを言う気になったのかまでは判らないが、ひょっとしたらあれは口にした本人も予期していなかった科白で、それ故に驚いていたのかもしれない。第一、仮に中川が司馬の復帰を交渉してくるよう命じたとしても、過去のしがらみからすれば、石川が素直に従うとは到底思えなかった。
とはいっても、確認だけはしといた方が、よさそうだな―――
司馬はゆっくりと口を開いた。
「・・・そう言ってこいと、誰かに、頼まれたのか・・・?」
思ったよりも柔らかな声色に、石川は慌てて顔を上げた。眼光の鋭さはそのままだったが、険の有る表情は司馬の顔から払拭されていた。
「いや・・・」
答えながら、無意識のうちに左右へ小さく首を振る。
一昨日の夜のこと、前野と石川は、天真楼病院へ司馬を呼び戻したいと思っていることを中川から直に告げられた。更に、昨晩、沢子が己に打ち明けてくれた諸々の過去を事実と考えれば、部長が彼を手許に置きたがる理由にも納得がいく。
しかし、自分は中川から頼まれた訳ではない。大体、そういう話は外科部長クラスでどうこう出来る類のものではないだろう。通常は、理事長や院長等の採用決定権を持つ上の人間から司馬へ打診される筈の案件である。
そう思えばこそ、石川には司馬が先程垣間見せた憤りの根拠がさっぱりつかめなかった。探るように、向かいの様子を窺っても、冷たく整った顔立ちからは何一つ得られそうにないままだった。
「別に、誰かに・・・他人に、言われたからなんかじゃ、ない。ただ、きみと―――」
司馬の瞳が黙ったまま続きを促した。
「きみと―――もう一度、一緒に働いてみたいな、と思って・・・」
照れくささからだろう、自分と目を合わせないようにしながらも必死に言葉を紡いでいる、以前のライヴァルの発言は、司馬の目を丸くさせた。
奇妙な沈黙が辺りを支配した。司馬がそのしじまを破った。
「――― 一体、どういう心境の変化、ですかね・・・? 石川センセイ」
石川は情けない気持ちでいっぱいになっていた。天真楼から司馬を追い出したのが、他ならぬこの自分だった事実は決して消えるものではない。そして再会するなり、その当人から「戻ってこないか」と請われれば、誰だって驚くのが普通である。司馬に怪訝な顔をされることくらい充分予想していたのだが、それでも面と向かって不審がられるとやはり心中穏やかではいられなくなる。
とはいえ、ここ数日の間で自分の中へ形を為してきた司馬に対する感情をどう表現したらいいのかわからない石川は、困ったように瞬くのが精一杯だった。司馬は黙ったまま、自分を見据えている。相変わらず表情は無愛想なままだが、どうやら純粋な驚異に基づく好奇心へ囚われているらしいことは、間違いなさそうである。
石川はとりあえず、今の心境から話し出そうと思い立った。
「今まで、僕はきみの事を知らなすぎた・・・僕は、きみに謝らなければならないことが、沢山ある」
その言葉に、今度は司馬がはっきりした驚きの色を見せた。
形の良い瞳が軽く見開かれ、僅かに瞬いた。頬骨辺りの筋肉が引き締まり、更に精悍な印象を強くする。
「謝るって―――何を、だ?」
「例えば、笹岡さんのことや、他にも、きみを誤解してたこととか―――」
中川から聞いた話をどこまで白状していいものか、沢子の推測をどの程度信じていいものか―――
司馬との穏やかな会話に慣れない石川は、まず話のとっかかりとしてこの話題を持ち出したに過ぎなかったのだが、
「別に―――キミに謝られる筋合いは、ない」
とりつく島もない答えが返ってきた。
「過去の、ことだ。そんな話、もう、どうでもいいだろ」
司馬の眼がほんの少し眇められた。その表情に自分の狼狽を見透かされたような気がして、石川はなんだか落ち着かなくなった。
もう、どうしたらいいのか判らなかった。今まで必死に抑えつけてきた感情が溢れそうになっている。堪らなくなって想いを募らせた挙句、
「司馬君、僕はその―――きみと、やり直したいんだ」
またもや、とんでもない科白を口の端に乗せることになった。
言った途端、(しまった)と思ったものの、時既に遅く―――司馬がその顔に人を見下したような笑みを覗かせ、クックッと嗤い出した。
「人手が足りないんなら、そう言えよ。らしくないぜ?」
「違うよッ!!―――そりゃあ、第一外科が忙しいのは事実だけど・・・」
昔、二人が言葉を交わした時に漂っていたのと同じ空気がその場を蔽った。決して馴れ合おうとしない緊張を常に漲らせていたその気配は、お互いが相対した時でなければ生じないものだったが、それが今、無性に懐かしいものとして甦ってきた。
(色々説明しようとするから、話しにくくなるんだ。言おうと決めたことを自分の言葉で喋るしかない―――)
醸し出された雰囲気に背中を押されて、石川は覚悟を決めた。
「違うんだ。そんな理由で、戻ってきてほしい訳じゃない・・・僕は―――きみに話しておきたいことがある」
「へえ?」
司馬は表情一つ変えずに相槌をうつと、一呼吸置いてから言葉を続けた。
「わざわざ、出向いてくるほどの話か? 世の中には電話っつー便利なモンがあんだろーが」
「それは駄目だ。きみのことだから、途中で気に食わなくなったら、話が終わってなくても切るに決まってる」
(ああ〜また、失言だ・・・)
石川は先程から勝手に動く自分の舌を呪った。告げるつもりのなかった言葉が次々と飛び出し、焦ってしまう。
全く、どうして普通の話が出来ないんだ―――
何か言い返されるだろうと思い、ばつの悪い思いを噛み締めていたこちらの様子を目にしても、司馬は意外なことに肩を竦めてみせただけだった。その態度に助けられて、石川は再び口を開いた。
「とにかく―――人が来ないところへ行こう」
「ここでいいだろ。部屋の主は学会へ行っちまったし―――仮にも副院長室だ、いきなり入って来る奴もいないと思うが?」
「いや―――誰も来ないところでないと話せない。それに、その方がきみの為だ」
前にもこんなことがあったな、と思いながら石川は目の前の男を眺めた。シャープな顔立ちは最後に見たその姿と何ら変らず、八ヶ月近くも顔を合わせていなかった事実が嘘のようである。
「何で、僕の為なんだ?」
石川は黙ったまま、司馬を見つめた。ピンと糸を張ったような沈黙が辺りを支配した。これ以上この場では腹を割るつもりのないこちらの態度を訝しむように、司馬が石川の顔を覗き込んできた。
「何か、訳アリなようだねぇ―――石川、君?」
からかうように視線を合わせられる。鳶色の瞳が淡く瞬いて、石川の目をしっかり捉えた。
そのまま視線をずらした司馬は、部屋の奥へ目をやった。立ちあがって副院長席まで行き、机上にあった鍵束を白衣のポケットに入れる。
「まあ、いいか―――実はこっちにも話がある。ちょっとここではヤバいからな・・・強制的に半休取らされてるし―――いっそ、出ちまうか」
「ああ、そうしよう」
とりあえず自分の提案を司馬が受け入れてくれたことに気を良くして、石川も腰を上げた。と、その時―――バタバタと複数の足音が近づき扉が荒々しく叩かれたかと思うと、次の瞬間、誰も来ない筈の副院長室に内科医と外科医が一人づつ飛び込んできた。
闖入者二人が麻生一真と神崎俊太郎という、共にライヴァル意識剥き出しのはた迷惑な組合せであることを認めた司馬は僅かに眉を顰めたが、初対面の、しかし医者らしい男達が肩で息をしている様子を前にした石川は、ただ目を白黒させるばかりだった。
最初に口を開いたのは一真だった。
「司馬先生、505号室の西村さんの容態が急変した―――術後の癒着かもしれない」
その言葉を聞いて、石川は司馬の方へ顔だけを捩ったが、当人は軽く目を瞬かせたまま動こうともしない。
「よせ、麻生! 司馬は非番だ」
スポーツ選手のような体格の男が、ヌーボーとした方を居丈高な態度で諌める様子に、石川は慌てて息を詰めた。
神崎の発した言葉がまるで耳に届かなかったかのような風情で、一真は再び司馬へ訴え出た。
「今、再手術しなかったら、命にかかわるかもしれないんだ!」
「オレがオペする!」
尚も司馬に食い下がろうとしていた一真の身体は、神崎の強引な科白によって発言者の方へ向き直らせられた。
「お前がオペするって・・・おい、外来はどうする気だ?」
「そんなの、お前がやれ! 元々外科医だろうが!!」
あまりにも勝手な言い分に一真が絶句した。呆れと怒りが混ざった声音が神埼へ向けられた。
「ちょっと待て、内科はどうしろって言うんだ?」
「お前がトロトロやってるのが悪い! 早く、片付けろ」
「こっちだって落合先生がオフなんだ―――外来は、朝から俺一人なんだぞっ? 二人分の患者をそうそう簡単に診られるか! 大体、今、病院内にいるドクターに助けを求めて何が悪い?!」
「非番の人間に手術をやらせるのは、規律違反だ。外科医は、ただでさえ疲れるんだよ。手術で神経使うからな。オフはオフとして休むのも、外科医の仕事だ!!」
副院長室にいたことからすれば先客である自分と司馬を差し置いて、勝手に言い争い始めた二人の口論が落ちつく先を気にしながら、石川はチラリと隣の元同僚を盗み見た。司馬は無言のまま、ズボンのポケットに両手を入れ、どこまでも醒めた目で一連の成り行きを眺めている。その様子は、過去、天真楼病院でよく見かけられた姿と寸分も違わないものだった。
全く―――新しい勤務先でも、こうなのか・・・変わってないなァ、きみは。
不思議な既視感に浸っていた石川の心を一真の発した一言が抉った。
「何、ばかなこと言ってる! すぐ手術しなかったら、死ぬかもしれないぞ?!」
「だから、オレがオペする―――それで、担当医の司馬に許可を貰いにきたんだ」
「ばか、外来の患者はどうなるっ?!」
「だからお前がやれ、この、ばか!!」
堂々巡りの不毛な口論を続けている男達を尻目に、石川は司馬の方へ向き直り白衣の襟元に手をかけた。強く引き寄せ、噛みつくように叫ぶ。
「司馬君!」
突然、石川の採った行動を目にして、一真と神崎は驚きのあまり言葉を失った。
「何・・・すんだよ」
昔と同じように気怠げな声が、己の意識へ絡みついてくる。石川はゆっくりと、しかし絶対に譲らない口調で司馬へ命じた。
「行けよ―――行って、オペしてこいっ!!」
司馬が、二重の大きな目を眇めた。虹彩から放たれる柔かい色が溶け出して深い湖底に引き込まれていくかのような錯覚が石川の網膜を翻弄する。瞳の奥で見え隠れする一筋の光明へ縋るような気持ちになりながら、石川は続く言葉を絞り出した。
「助かるんだろう・・・? きみが再手術すれば―――クランケは助かるんだろう?!」
視線は外そうとしないくせに黙りこくったままのこの男を何とかしたかった。外面がどうであろうと、本当はちゃんとドクターとしての心を持っている筈だということを今ここでどうしても確認したかった。
「行けよ・・・あの時と違って、今回は『無駄なオペ』じゃ、ないんだろう? さっさと、行けったら―――!!!」
石川の中から迸り出た感情が、司馬の全身を直撃した。
「―――判った、よ」
諦めたように一旦目を瞑ると、司馬はゆっくり瞬いた。その様子に安堵したのか、首周りを締め上げていた石川の指から力が抜けていった。
「あんまり、近くで怒鳴るな。俺、別に耳、悪くないぜ?」
まだ至近距離にある、彫像のような顔から軽く吐息を吹きかけられて、石川は漸く我に返った。慌てて手を離し、呼吸を整える。早鐘の如くに打ち続けている心臓と震えそうになる声を必死に押し止めるのがやっとだった。
「あ、ああ・・・その―――僕は、この部屋で待ってるから・・・」
「好きにしろ」
軽く頭を振って背を向けた後姿からはもう司馬の表情を確認することは叶わなかったが、自分に向けられた穏やかな声を耳にして初めて、心の平安を取り戻せたような気がした石川は、やっと落ちついた気分になった。
「さて、と―――行きますかね、先生方?」
ポカンと口を開けて今だ固まったままの同僚二人に声をかけると、司馬は先に立って副院長室のドアを開けた。―――どうしました?
―――・・・え・・・
―――沢子くんと喧嘩でも、した?
―――・・・・
―――司馬君、すぐに顔に出ちゃうからねぇ・・・少し、気をつけないと、ね・・・
―――そ、そんなこと・・・ない、です・・・
―――はは、冗談ですよ。君の表情を見抜けるのはボクくらいなもんでしょう。何しろ、殆ど一日中、行動を共にしているんですからねぇ・・・調子がいいのか、悪いのか・・・自然と判るようになりますよ、ね?
中川は、司馬に向かって微笑みかけた。
―――君だって、ボクがどんな状態か、顔見ただけで、簡単に判っちゃうでしょ?
愛弟子は恥ずかしそうに頭を掻いている。
言葉に窮すると、いつも困ったように淡く微笑む青年は、中川にとって誰よりも可愛く、大切な存在だった。
初めて出会ったのは、彼がまだ専門課程の学生だった頃だったろうか。
講義の後、やや遠慮がちながら、受ける方も真剣に答えざるを得なくなるような質問を浴びせてくる一人の熱心な学生の存在は度々中川に舌を巻かせ、医師免許さえ取れればいいと思っている大半の学生とは異なる強い印象をこの若い教授へ植え付けた。
医学の勉強を始めてまだ日が浅い筈なのに、幅広くアンテナを伸ばし随分と専門的な知識を身につけている若者相手に交わす、学術的な打明け話―――話題になっている学説や各科学会での新しい発見等を交えての会話は、中川にとっても刺激的で楽しいものとなっていった。更に学年が進んで、実習の際に司馬が垣間見せたその器用な指先にも、強く魅せられた。
なかなか豊富な知識と、その課程で学んでいる学生の平均からすれば遼かに手慣れた技術を身につけている青年を前にして、身内に医者でもいるのかと思ったが、それは全くの外れだった。父親を植物人間にされ、長い闘病生活の上で失っていたことを打明けられるほどに二人の間が親しくなったその頃、天才教授はこの学生が自分と同じ外科医を目指していることを初めて知った。
出来ることなら、彼を手許に置きたい・・・そして、自分の手でこの青年を育ててみたい―――
いくら東都医科大学が国立で、司馬が奨学金を貰えるほどに優秀な医学生だとしても(実際、彼は奨学生だった)、国家試験合格後、実家に経済力の無い研修医が大学へ残ることは不可能に近かった。
東都系列の民間病院で職を得ることが司馬に出来れば、これからも自分があの優秀な外科医の卵と接する機会はあるだろう。だが医師免許を得て研修医としての一歩を踏み出してからは実践的な知識を身につけることに追われ、また自分を鍛えてくれる指導医やその病院でのしきたりに慣れるだけで精一杯になる筈だ。大学の研究室に所属する教授と、医療の現場で第一歩を踏み出したばかりの研修医が、今までのように知的好奇心を満たす為の時間を繰り合わせることは、どう考えても難しいと思われた。
中川が司馬を自分の研究室に迎え入れ、己の許に配するためには、大学に残れるよう―――つまり自分同様、将来的には研究者としての道を歩むことを前提にして、博士過程を受講させるしかなかった。その為にはその学費が必要であり、中川はそれを援助することに決めたのだった。
自分の提案を告げた時の、司馬の驚きようは殊の外大きく、中川を充分愉しませてくれた。
「先生、いけません―――それじゃ、僕だけ特別扱いになってしまいます・・・」
一旦、嬉しそうに顔を綻ばせたものの、冷静に考えればそれに甘えてはならないと思い直したらしい真摯な瞳が戸惑いながらも辞退する様に、中川は愛しさがこみ上げてくるのを禁じえなかった。
「司馬君は充分、特別なんですよ。君の、その才能をお金の問題で諦めるだなんて、とてもボクには出来そうにありませんねぇ」
何度か説得を繰り返し、漸く自分の決意を受け入れさせた。そうしてやっと、司馬を己の研究室に所属する研修医として得た時から、二人の天才はその手を常に相手の手の中へ置くようになった。
中川の目に狂いは無かった。どの世界であろうと一流と言われる人間は厳しい鑑定眼を持っているものである。決して贔屓目ではなく、司馬の持つ天性の資質がかなりずば抜けたものであることは明らかだった。
司馬は稀なる玉だった。強く打つほどに、その能力が高められていった。何もないところからスタートし、己の才覚と技術だけを頼みにしつつ目の前へ拡がる未来へ全てを賭け続けて、結果的に今の地位を得た中川が、若き日の自分と同じ才能を司馬の中にも見つけたことは無上の喜びとなった。
普通の研修医には厳しすぎるほどの鞭を揮い、中川は遠慮無く司馬を鍛え上げていった。絶対に妥協せず、司馬が師である自分に百点をつけさせるまで、同じ箇所を繰り返し繰り返し叩き込んだ。
教えたことを驚くべきスピードで吸収し、見えないところで血の滲むような努力を重ね続けてものにしていく教え子はまさに自分が渇望していた素材だった。その司馬を何れ己の後継者にするべく、中川は自分の持つ全ての知識と技術を伝授する決意を固めた。
こうして、今までよりも更に厳しい指導のもと、司馬という逸材は手を切られるように冷たい清流の中で益々磨かれていった。その結果、中川研究室のトップである世界的にも名前の知られた天才教授と、その天才仕込みの腕を持ち今や第一助手を務めるまでになった愛弟子という、東都医科大学始まって以来の輝かしいペアが誕生したのである。
あの栄光の日々が、いつまでも続くと思っていた訳じゃない―――だが、あんな終わり方をすると思っていた訳でもなかった。
今でもあの時、司馬に跪くべきではなかったと、後悔している。
なぜ、彼の前で土下座などしたのか―――
深く考えてのことではなかった。血漬しになったオペ室を無我夢中で片付け、拘わったスタッフに厳重に口止めした後、これからどうするか―――というより、何をどうすればいいか判らない、ということをどうするか―――という思いを一人で抱えていられなくなって、司馬を呼び出した。あの瞬間、何が起こったかを一番間近で見、おそらく目前で繰り広げられた悲惨な光景を一つ残らずその記憶へ縫い止めてしまった第一助手しか、自分が縋れる人間はいなかったのだ。
白いドアの向こうから小さく足音が響いてくる。その音が天上から少しづつ砂を零すような微かさで中川の上に降り積もる。そして、気がついた時には―――身体が勝手に動いていた。自分が床に正座したのと扉が開いたのは、ほぼ同時だったような気がする。
―――頼む・・・司馬君・・・
いつも自分を真っ直ぐに見つめていた柔らかな瞳が、苦しそうに瞬いた。司馬は何も言わない。彼のひたむきな眼差しだけが中川を貫いた。やがて強く口元を引き結んだ教え子は、ゆっくりこちらへ歩み寄り、自分を立たせてくれた。
翌日、奇跡の指を持ち天才と謳われた高名な教授と、その後継者として評価されつつある研修医は、共に全てを欺こうと決心した。ミスを犯したのは執刀医ではなく第一助手だったということにして、中川研究室の指導教諭であった脇坂へ報告も上げた。
だが中川自身はこの事件を境に、脇坂が自分と司馬の二人を共に切り捨てるだろうということを薄々感じ始めていた。
名誉教授である彼が、どういうつもりで自分に最年少教授の席と研究室を与えたのか、いくら大学内での出世に興味のない中川でもその真意に気がついていた。脇坂本人から面と向かって言われたことは終ぞ無かったが、彼の政治的な思惑に協力する代償として、思う存分研究に没頭できる環境を得られたことは自分にとって何ともありがたいことだった。あの、取り返しのつかない手術ミスをしでかすまで、野心家の名誉教授と研究熱心な天才教授とは互いに依存し、それぞれの立場をより良くする為利用しあうことで何ら問題の無い共存関係を築いていたのだから・・・
司馬と入れ替わりで名誉教授の私室へ請うじ入れられた中川は、爬虫類のように暗く瞬いた脇坂の双眸を前にして、彼が今後取るであろう行動へ思い至り、背筋を寒くした。学長選を前にした今、天才師弟コンビの予期せぬ墜落が脇坂にいかなダメージを与えることになり得るかを中川は司馬よりもきちんと理解していた。そして、名誉教授自身の手により問題の手術記録が捏造され、中川研究室のオペ記録が永遠に無傷となったことを知って尚更、研究室は閉められ自分達二人は大学を追われるという筋書きを確信したのだった。
弟子を庇った師が多少の処罰を受けつつも大学へ生き残ってその地位を上げれば、いつかは追われた者をも呼び戻せるようになる。今までのように二人一緒のまま、事態が収まるのを遣り過すことはまず許されない。だが、中川が踏ん張り今以上の力を蓄えれば、そしてその間司馬が耐え忍んでくれれば、数年後に再び並んで歩ける日々がやってくる筈だ―――熟考して得た結論では無かったが、咄嗟に頭へ浮かんだ考えにしては実現可能なことのように思われた。だからこそ、誰よりも可愛がっていた息子のような存在を一時的に踏み躙る決心をしたのだった。
司馬には、たった一人で責を負わされるようなことになっても必ず助けてみせるからと、くどいくらいに約束した。尤もそう言われた教え子の方は「あなたに、無理をしてほしくない」と言い通しだったのだが。
己の中に芽吹いてしまった致命的な欠陥のことはともかく、中川は司馬に頭を下げた時点で、それが可能だと信じて疑わなかった。だが、野心的な策略家である脇坂の方は、そんな甘い考えなど最初から頭に無かったようである。
これで、お終いだ―――自分が司馬の前で土下座しようがしまいが、おそらく結果は同じだった。それならば、あんなことをするべきではなかった―――
あの時、多分な激情にかられたとはいえ、中川は己の衝動から出た行動を後々まで呪うことになった。
脇坂の部屋を辞した後は、自身の処世術の無さに臍を噛む思いだった。謀略や策を弄することが苦手だったからこそ、周りの人間から自分の素質を『一流』と評された時点で研究者の世界へ身を投じる決心をしたのもまた事実だったのだ。
知的好奇心を刺激するに足る新しい事実の発見や、まだ世の中に認められていない新説を組み立てることなど、自己の持てる知識のフル活用と常に飽くなき探求心を持ち続けることだけに心を砕いていればいい学問の世界は、社会の荒波に揉まれ心身ともに擦り減らされていく世間一般の日常に比べたら、ある意味で楽なものだと思う。尤も権力や名声を欲する者は何処であれ数多く存在していて、寧ろそれらを得ることに熱心な連中は、学者として評価されずに二流か三流と見なされるのがこの世界の倣いだった。学者面だけは保ちつつも己の頭脳で勝負できない人間に対し、憐れみを感じこそすれ、羨んだことなど過去に一度もない。
だが、今となっては心底、その力が欲しかった。それがあれば、自分と司馬を守ることが出来る。彼の手を離さないで、済む。
冷静に考えれば、中川が己のミスを正々堂々と認め、一人でその責任を負えばいいことは歴然としていた。そうすれば司馬は他の研究室へ移ることになるだろうが―――何しろ今まで天才教授が手塩にかけて育ててきた人材である。引き取りたがる研究室は後を絶たないだろう―――大学に残れる。けれども、中川にはそれが出来なかった。
思いはただ一つ―――司馬と離れたくなかった。あの、優秀な愛弟子をどうしても失いたくなかった。
何人もの医学生と過ごしてきた中で漸く見つけた万に一つの逸材は、中川を狂わせ骨抜きにした。司馬の資質からしたら、出来の悪い指導医に当っても、彼自身の研鑚によってそこそこの腕を持つまでにはなっただろう。しかし、自分が仕込めば、最高の医者になり得る―――
そう思ったからこそ、学費も都合した。研修医には早いと言われる難しい手術にも機会ある毎に立ち合わせた。その代わり、こちらの教え方はスパルタ式も裸足で逃げ出すくらいの厳しさを極めた。だが、司馬はそれにきちんとついてきた。自分が百を要求すれば、百五十―――悪くても百二十のものを返してくる。こんな素晴らしい教え子を手放すことなど、もはや中川には考えられなかった。
司馬は自分が丹精こめた作品のようなものだ。だから己の傍に縛り付けておきたいと思ったのかもしれない。
そして自分が彼に頭を下げたもう一つの理由に気がついて、中川は自嘲する。司馬に捨てられたくなかった―――結局はそういうことなのだ。
別に学費の件で恩を着せるつもりは毛頭ない。自分はあの青年を実の息子以上に可愛がってきた。母子家庭だったからか、彼は年齢の割にしっかりしていた。苦労している分、同年代のヒヨッ子どもに比べて遼かに人間が出来ている。それに勉強の嫌いな息子から常日頃「医者なんて、むずかしいことはきらいだよ」と公言されている身からしたら、赤の他人であっても司馬が己の大事な息子であることに変わりはなかったし、彼もまた中川を実の父親以上に慕ってきていることが当たり前に信じられた。
しかし、今回の事件は、互いの寄せる信頼と敬愛を大きく揺るがせるものになりそうだった。
中川は生まれて初めて不安を覚えた。教え子の持つ鋭い目は、恩師の身に起こった衝撃を正確に理解し、天才と崇められた指を操る奇跡の腕が二度と使い物にならなくなった事実を見破っていることだろう。大人同士で当然のように交わす建前が堂々とまかり通る脇坂を相手にするのとは違い、今まで何一つ隠し事をする必要のなかった司馬の前では、事実を誤魔化し通せるなどと、はなから思わなかった。
メスを握れなくなった先生からは、もう教わるものなど何もない―――
司馬がそんな薄情な男でないことは、中川自身が一番よく知っている。だからこそ、確かめたかった。彼がずっと自分についてきてくれることを―――実の親子なら、『血』という繋がりだけで安心できるものが、君と私の間にはない。それが苦しくて、淋しくて、確認したくなったのだ―――
だが、脇坂との接見で得た感触を前に、その行為はしなければ良かったことの最たるものになってしまった。結果として、負わなくていい枷を彼に強いてしまうことになった。
中川は頭を振ると、考えを切り替えた。
さて・・・これから、どうしたものか―――
二人でここを追われるのなら本望だ。手術が出来なくなったって医者は続けていける。司馬と二人で、地道にやっていけば良い。医師免許剥奪さえされなければ、この業界の末席にいようと、いつか陽の当たる瞬間が巡ってくることだろう―――自分はともかく、己の仕込んだ最高の外科医である司馬には、その機会が必ず訪れるに違いない。
しかしその後、事態は意外な展開を見せ―――数日後、脇坂に取り計らわれて天真楼病院の理事長と顔を合わせた中川は、一度奈落の底へと突き落とされた自分と司馬、二人の未来に『僥倖』という名の奇蹟が起こりつつあるのを素直に喜んだ。もちろんこれがただの移籍人事でないことは百も承知である。天才師弟コンビを譲り渡すことを条件に、今回の学長選で必要な分の金を脇坂がせしめたことは、火を見るより明らかだった。
着任数日前に再び脇坂から呼び出されて、当たり障りのない話を前振りに新しい赴任先に於ける注意事項がそれとなく仄めかされた。
「理事長は君の『名声』に多大な評価を置いている。尤も、司馬君の『技術』とて君のそれに引けをとらないだろうが―――」
やはり、そうだったか―――遠回しに言われても、中川には判ってしまった。己にあるのは傀儡としての価値のみだということをこの恩師は見破っていたのだ。それにしても、看板に偽りのあるまま堂々と自分達を売ったとは―――中川は目の前の人物をねめつけたい衝動に突き上げられたが、辛うじて思いとどまった。相変わらずの凄腕には唸らされる。今となっては自分も、この名誉教授が己の上にいてくれた幸運を神に感謝しなければならないだろう。
一応、心配しているらしい素振りを鼻であしらうかのように、中川はしゃあしゃあと言ってのけた。
「司馬君もここでの汚名を返上するために、尚一層の活躍をしてくれることでしょう。指導した人間としては、切にそう願うだけです」
今までに何度も、老獪な恩師から「ミスしたのは君の方ではないのかね?」と詰め寄られていたが、中川は頑としてそれを認めなかった。自分が秘密を共有する相手は司馬だけだ。名誉教授が何を勘繰ろうと勝手だが、当事者である己の口から真実を告げるつもりは絶対に無かった。
「全く―――君達、師弟には頭が下がるよ」
脇坂が軽く溜息をついた。諦めたような風情を漂わせながらもニヤリと笑うその表情に、中川はとてつもない嫌悪感を覚えたが、それが何に根ざすものかはまるでわからなかった。
「弟子も弟子なら師も師だ―――どうやっても、口を割らないんだからねぇ・・・せいぜい、あちらさんにバレないよう、気をつけ給え」
中川の体内を奇妙な歓びが駆け巡った。司馬が自分と同様、嘘をつき通していることが無性に嬉しく、心に暖かいものがこみ上げてきた。
―――やっぱり、思うところは一緒、なんですねぇ・・・司馬君・・・
大学内で下手な噂が立つのを避ける為、二人で会うのはおろか連絡を取り合うことすら脇坂に禁じられている今、司馬がどうしているか何を考えているか、中川が直接知る手立ては皆無に近かった。この、蛇のように狡い男は、中川が沢子に近づくことさえ許さなかったのである。
司馬と沢子の同棲は周知の事実だった。一緒にいるところを見られでもしたら、即座に司馬と結びつけて考える輩は沢山いるに違いないからと、言いがかりにも等しいような理由を持ち出してまで、脇坂は中川を最大級に脅かし、彼女から遠ざけさせていた。まさか自分とのことを司馬が恋人に話すとは思えないが、あの女は結構観察眼に長けている。司馬の様子をこと細かに中川へ語られでもしたら、何かの拍子にこちらの非道な行いがバレないとも限らぬと考え、それを避けたい一心から講じた策だったのだろう。
もしも中川が、自分の大切な愛弟子が受けた仕打ちに気づいたらどうするか―――こればかりは、脇坂も想像したくないことだった。普通の俗物であれば損得勘定で算盤を弾き、どんなに悔しくともせいぜい泣き寝入りするのがいいところだろう。だが、権力や名声に興味の薄い男が、この世で一番大切にしている存在を汚されたと知ったら、憤るだけでは済まないに違いない。なまじ世俗への執着が無いだけに、捨て身で脇坂にぶつかってくる可能性が高かった。
それが何に因るのかは依然として解らぬものの、司馬を抱くようになってからの脇坂は、あの二人の間に横たわる特殊な感情がどういう種類のものであるかを朧ながらも理解しはじめていた。自分とは無縁の、どうやっても手にすることの出来ない、ただ純粋で穢れのない思慕と尊敬とを交わしあえる間柄―――だからこそ、引き裂きたくなったのかもしれぬ。
中川を護る為なら、彼を信奉するその心以外、何であっても司馬は惜しげなく差し出せるのだ。そしてまた、司馬を踏み躙った者を中川は決して許さないに違いない。なりふり構わず刺し違える覚悟で、脇坂を破滅へと追いこむことだろう。
引き攣ったような笑みを顔に貼りつけた名誉教授の心中を余所に、中川の心は穏やかな凪で満たされていた。
今まで通り手を携えて、司馬と二人、共にやっていける―――この時、中川はその予感を確かなものとして感じた。しかしそれが幻想のような願いに過ぎなかったことは、二人が天真楼病院に赴任した日から運命づけられていたのである。そんなことなど思いもよらぬまま、幸せな瞬間に縋りつくようにして、天才だった教授はゆっくりと家路についたのだった。
To Be Continued・・・・・
(1999/12/5)
へ戻る
−第8話に対する言い訳−
今回の暴走ヤローは山川記念病院のお騒がせコンビ、麻生一真と神埼俊太郎の二人です……(死) あああ、もう、あんたらはーーー!!!
第2話の石川サイドで持ち出した『振り奴』本放送第一話の『無駄なオペ』云々ですが、再手術すれば助かるクランケだったら決して無駄なオペにはならないだろうと、どうしてもそこに拘る私は、石川にその想いを託しました。こういう言われ方をしたら司馬も動かざるを得ないだろうな………と思ったんです。
そして、中川先生の心理が明らかにされた訳ですが―――実は、こんなに長くなる筈じゃなかったんです(号泣) 本当はこの回、次回(第9話)とセットで1話の予定でした。でも例によって止まらなくなりまして……(死) 今まで字数的に冷遇していたからでしょうか、"のほほんオヤジ"中川に思いっきり語られてしまいました(大爆笑) と言っても中川サイドも重要であることには違いありませんので、なるべく全部入れましたが。
ちょっと解りにくいかもしれないので補足しますと、司馬と中川はもちろん脇坂もまた、ミスした張本人は中川だという真相に気がついています。けれども、それを当事者達が認めるかどうかは、別の問題ですから。(脇坂へ)バレているだろうとは思っているものの、司馬も中川も脇坂に対して嘘をつき通しているんですね。そして脇坂も(自分が真相に気付いていることを知っているくせに)二人が嘘をついていることを判ってまして……一種の公然の秘密となっている、という訳です。