彼氏彼女の事情  3




Act.3  恩田 すみれ

んもう、こんなに気持ちのいい日に、仕事だなんて。
しかも事件の通報が無いので、みんな仕方なく銘々の席で報告書の類を処理している。 昨日の午後から内勤を言い渡されている可哀相な青島くんは、今日も朝から書類に埋もれて、そろそろ限界が近づいているみたい。午前中、傷害通報があった時も一人居残りさせられて、結構ブータレてたんだから。
余所の管内からみれば『空き地署』なんてありがたくない仇名を冠されている湾岸署でも、普段はそうそうヒマじゃない。しかし昨日の朝から、どういう風の吹き回しか事件の通報がピタリと止まってしまった。そりゃあ、事件が起こらないにこしたことはないのだけど、ここまで平和だと安堵感よりも無気力感の方が勝ってくる。
そういえば、昨日は青島くんの『ものもらい』の方が、通報のあった事件よりオオゴトだったのかもしれない。
朝、彼の顔を見たときは本当にビックリした。三日前に殴られて残っていた痣なんか全く気にならなくなる程、それは酷く腫れていたのだ。伊達に二児の父親ではない魚住さんの、普段職務を遂行する時よりも実に的確な判断で、青島くんは眼科へ行かされ左目に眼帯をして帰ってきた。それも、沢山の薬を持たされて。
あたしは処方箋をチェックしながら、青島くんの顔を品定めするように見た。
「ってコトは、昨日行ったクリニックの方、全くのヤブ医者だったんだ」
「そーみたい―――診察料、マル損ってやつ・・・かも」
情けない声を出した青島くんの後ろから、真下くんが話に加わった。
「それじゃ、ヤブ医者どころか土手医者じゃないですか」
「土手医者? 何それ?」
あたしと青島くんが同時に聞き返した。
「その心は―――『土手』は『薮』より下にある」
ナルホド・・・それで土手医者、か。
「でも、ヒモ医者じゃなくて、よかったですね」
「ヒモ医者・・・って、今度は何? 全然わかんない」
またしても青島くんと二人、首を捻っていると、真下くんがしてやったりという顔をする。
「ヒモ医者ってのは―――モノがモノだけに、こいつに引っかかったら助からない」
そう言って、顎の下あたりで紐を引っ張って首が絞められる仕種を真似た。
よく、そんな莫迦なコト、思いつくわねえ。
「つまんねーギャグ言ってないで、昼メシ、食いに行こうぜ」
青島くんは真下くんの頭を軽くはたくと、連れ立って刑事部屋を出ていった。
そしてその午後から、ついつい書類書きを後回しにしていた日頃の行いが、大きなツケとしてまわってきちゃったのである―――彼の最も苦手とする『内勤』という勤務形態をオマケにつけて。
そうはいっても、袴田課長の言い分にはあたしも同情する。確かに刑事として一番の使命は事件解決だけど、その『事件』が起これば書類書きも発生するのだ。課長が『内勤』を命じたくなる程、報告書を出していないアンタが、悪い。
言い返せないまま突っ立ってる後ろ姿に、つい口が滑った。
「刑事というものはだなぁ、書類書きの毎日だ―――全く、さっさとやらないから、こういう目に合うのよ」
振り向いた青島くんの顔が、思いっきり不満気に膨れてる。あたしは、
「こりゃ、失敬」
と逃げることにした。その後、強行犯係のみんなから諭されて、いやいや机に向かった青島くんは一応大人しく仕事をし続け、提出しなければならない報告書の数を確実に減らしていたようである。
でも、さすがにここへ来てあたしは青島くんが気の毒になってしまった。この、滅多に無い好天気にも拘わらず内勤させられているってコトもあるんだけど、まあ、それに関しては他の人も同じな訳で―――何よりも、今、室井さんが湾岸署に来ていて青島くんの目の前にいるというのに、至極尤もな理由で、この後二人っきりになるチャンスを絶たれてしまったのだ。
今思えば、この二人は随分前から両想いだったんだと思う。以前は同志として友人として、それ以外の含みは無かったのだろうが、いつからかその間柄は微妙に変化した。多分、お互いに想いを伝え、お互いの全てを受け容れたのだ。
刑事課はもちろん湾岸署の人間なら殆どの人が、青島くんと室井さんの階級差をものともしない『友情』のことは知っている。だから今でも、仕事絡みの電話で室井さんに食い下がっている青島くんの姿を見かけても、誰も何とも思わない。だけど青島くんと背中を突き合わせた席に座っているあたしは、気がついている―――青島くんが、どれだけ室井さんの置かれている立場を考えて行動するようになったか、ということに。
自分と付合いがあることによって、上を目指している室井さんがこれ以上不利にならないようにと、青島くんは今までよりも気を配るようになった。その一つ一つはあまりにさり気ない所作だから、傍目には何ら変化が無いようにみえるけれど。
参事官の室井さんがウチの署に来る用件は資料捜しの一言に尽きる。連日事件に追いかけられて、席にいないことの方が多い青島くんは多分知らないだろうが、普段、捜査資料を捜しに来るときの室井さんの行動は実に無駄が無い。隙あらば接待しようとチャンスを窺っている課長に余分な口を一切差し挟ませず、資料室の鍵を奪い取るようにしてこの部屋を出て行く。確かに一旦、ウチのスリーアミーゴスに捕まると、最低でも30分は離してもらえない。多忙な参事官としては、そんなことで時間を取られたくないのは当たり前だ。
だが、今日はそういう訳にはいかなかった。
左目に眼帯をして書類の山に埋もれている少々情けない態の青島くんに気をとられた一瞬の隙をつかれて、室井さんは袴田課長にペースを奪われてしまった。そうこうしているうちに森下くんが呼んできたウチの強力な接待コンビ、神田署長と秋山副署長に後ろから追いつかれて、今や無接待でここを抜け出すのは不可能に近くなってしまったのである。
そして脳天気な署長の口から飛び出た「お帰りの際には是非ウチでお車を」の一言が「青島君、キミ、今までにも室井さんの運転手やってるよね?」と続いた後の二人の顔はちょっとした見ものだった。青島くんは(え、いいの?)と嬉しさ丸出しの笑顔を見せるし、室井さんの瞳の奥からもさっきまでの剣のある表情がスッと消えたんだもの。でも、すぐに眼帯をしている顔を心配げに見遣ったけれど。
その二人の束の間の幸せは、和久さんと魚住さんのマトモな心配と真下くんの若干嫉妬の入った横槍と雪乃さんの決定的な一言(でも、コレは当然のことだ)で実にあっさりと潰されてしまったのである。ああ、合掌。
「青島君が駄目なら、誰か別の人、運転してよ」
新たな運転手の人選を始めたスリーアミーゴスに放り出されたまま、室井さんは溜息を吐いていた。
本当だったらすぐにでも青島くんの傍に行って眼帯のことを訊ねたいのを必死にこらえているに違いない横顔が、とても痛々しく見える。青島くんも室井さんの様子を気にしていて―――一瞬だけ室井さんに向けられた青島くんの瞳が切なく濡れているような気がして、あたしはドキンとした。
大体、人のプライヴァシーに踏み入るのは趣味じゃない。自分がされたくないことは人にもしちゃいけない、というのがあたしのポリシーだ。
だけど―――
ただでさえ同性同士の恋愛は難しいところへきて、二人は共に警察官である。並大抵の努力じゃ乗り越えられない事の方が多いと思う。それでも手を取り合うことを選んだ二人の将来がどうなっていくのか、あたしには見当もつかない。青島くんも室井さんも、お互いの気持ちを受け止めた時に一応の決心をしたのだとは思う。だけど、時を重ねていくうちに一度も相手を、未来を疑わないでいられると信じて歩き始めた訳じゃないだろう。ガラスのように脆い足場や霧の向こうにある未来を憂えるんじゃなくて、今自分達が共にいられることに感謝して、少しでもその瞬間が長く続くことを祈って―――その為に強いられる忍耐や努力なら、この二人は決して惜しんだりしないだろう。
あたしは、青島くんと室井さんの未来が同じものであることを心のどこかで祈ってやまない自分に気がついている。
何故かは解らないけど、二人には上手くいってほしい、と思う。幸せであってほしい、と思う。
だから、こっそりと応援してあげたいという気持ちがむくむくと頭を擡げてきて―――そしてあたしはその時、とってもイイコトを思いついてしまった。
スリーアミーゴスからの接待直撃弾を喰らって暫く脱力していた室井さんが、蘇生した。大きく息を吸い込んで袴田課長に向かって話しかける。
「お心遣いには感謝しますが、帰りの車は必要ありません。とにかく、資料室の鍵をお貸しいただけませんか」
声からは、我慢に我慢を重ねていることがありありと判る。
「まあまあ、室井参事官、そうおっしゃらずに―――是非、ウチの車でお帰りくださいよ」
署長達のメゲない性格には常々、あたしも感服してるんだけど・・・いい加減にした方がいいわよ、もう。室井さんは青島くんが運転するんでなけりゃ、ウチが出す車で帰る気なんか無いんだから。
あたしは立ち上がって課長席まで行くと袖机の方へまわりこみ、一番上の抽斗から資料室の鍵を取り出した。そのまま、まだ『お帰りの配車』案を諦めていない接待トリオと、すっかり毒気を抜かれている青島くんと、堪忍袋の緒をかろうじて握り締めてるに違いない室井さんを見渡せる位置まで行って、口を開いた。
「室井さん。はい、これ・・・資料室の鍵。で、何件、捜すご予定?」
心の中で密かに祈る―――まさか1件ってコト、無いよね。室井さんがあたしの質問に首を傾げた。あたしは目だけで訴える―――ね、答えて。
「―――5件ほどだが?」
5件もあるなら、誰か助手がいた方がいいでしょ? 室井さん、今日お一人みたいだし。どうせ内勤命じられてるんだから、青島くん、室井さんのお手伝いしてくれば? 朝からずっと座りっぱなしで、気分転換したいんでしょ?」
あたしの科白に関係者約三名が固まった―――青島くんと、室井さんと、真下くん。
一番最初に室井さんが覚醒した。そりゃ、そうだろう―――この部屋で接待攻勢を受ける羽目になってから、ゆうに15分は無駄な時間が経過している。室井さんはあたしから鍵を受け取ると、スリーアミーゴスに向かって言い放った。
「それでは、鍵と『青島君』をお借りします」
そのままくるりと踵を返して廊下へと出ていった室井さんを慌てて青島くんが追いかける。
「あっ、じゃあ、俺、室井さんの手伝い、してきますんで・・・」
そそくさと、それでも嬉しそうに走り出ていく後ろ姿が、単に書類書きから開放されただけではない悦びに満ちていることに気がついているのは、あたしと真下くんだけだろう。
その真下くんが、凄く恨めしそうな目であたしの方を見た。
ゴメンね、真下くん。
他人のプライヴァシーに関与しない主義には反するんだけど、青島くんも室井さんもあまりに可哀相で、つい―――
このままにしといたら、いつ室井さんが資料室に行けるか解らなかったし、青島くんの報告書作成に向けられる集中力ももう限界だったし・・・
あたしは真下くんのガックリした顔から視線を外すと、青島くんの机に散らばっている未処理の報告書の件数を素早くカウントした。
何だ、残り3つじゃない・・・
書類に目を走らせて、そのうちの2件はあたしも応援に駆り出された事件のものであることを確認した。
うん。これなら、手伝ってあげられる。
あたしはその2件の報告書を自分の手許に引き寄せ、席に戻った。
せっかく二人っきりにしてあげたんだから、お礼を要求する権利があるとは思う。でも、あたしが青島くんと室井さんの関係に気付いているのは内緒―――あの二人にはそれを知られない方が、絶対いい。
だから青島くんが正々堂々とあたしに何か奢らざるを得なくなるような理由が必要なのよね。その為にもこの2件の報告書、仕上げといてあげよう。
接待対象がとっくに資料室に行ってしまったにもかかわらず、まだ署長は足掻くのを止めようとしない。
「そういえば、袴田君。室井さんにお茶、お出ししたの?」
「いえ・・・それが」
課長の情けない声を聞いた副署長が、まるで鬼の首を捕ったように続けた。
「まずいよ、袴田課長。帰りの車が駄目でも、お茶とお菓子はお約束でしょう」
何が、お約束なんだか。室井さんに限らず、ウチにきた本店の人達でレインボー最中、おいしそうに食べた人見たことないわよ。
「あ、お茶なら僕、持って行きます!」
真下くんの声に、書類にペンを走らせていたあたしの手が一瞬止まる。でもここで再びあたしが動いたら、あの二人の関係を匂わせることになってしまうかもしれないと思い、グッと我慢した。
いくら二人っきりでいるといっても署内の資料室なんだから、節度を持って行動してるよね?
あたしは彼らの常識をどの程度信じていいものか、ちょっとだけ心配になった。



 へ戻る



ところで、スリアミの接待を心から喜ぶ本店の人って、いるんですかね。
最後は、室井さんに語ってもらいます。