第24回 川 中 島 合 戦 戦 国 絵 巻



 平成十四年四月十四日、我々は昨年に引き続き石和川中島合戦に参陣した。今年は武州一騎合衆・鍋之介殿を軍師に迎え、その献策により武田氏の部将で海津城代の香坂弾正忠虎綱様の被官になることに成功した。お屋形様(信玄公)の名声は諸国に轟いているとみえ、京を始め尾州・三州・武州・相州より猛者が馳せ参じた。兵数は、侍三(注1)、足軽十(注2)の計十三人であった。この画像は海津城内(石和北小学校)で撮影したものである。

注1 古毛(こげ)管領 殿、鍋之介 殿、宮下帯刀左衛門尉
注2 三浦介星友 殿、石野真琴 殿、某(号 龍馬)殿、
小笠原土佐守長義(猛馬飼育係)殿、米倉丹後守重継(およね)殿、大庭景平(小田原北条氏援軍・号 東方賓従者)殿、鈴木土下座衛門 殿、某(号 つっちー)殿、
某(Y.N)殿、某(S.M)殿


 昨年の我が出で立ちは足軽用の畳具足であったため、お屋形様に拝謁することが許されなかった。そこで今年は、江戸期の紺糸素懸威伊予札二枚胴(熊毛植金箔押下散)を着用し、旗指物には白地に「信州伊奈片切之内 御射山(みさやま)大明神」と墨書したものを用いた。その甲斐あってか念願が叶い、信玄様並びに伊奈郡代・秋山伯耆守信友様に謁することができた。まことに身に余る光栄であった。
 拙者は日頃、具足を身に包むことがないため、袖の上部がめくれたり佩楯がずり下がったりと、不格好な姿を呈してしまった。残念なことである・・・。




 我々は香坂弾正忠様に従い、海津城を出て八幡原に陣を張った。西条山を見上げると、上杉政虎軍一万三千が布陣していた。精強そうな軍兵ばかりである。
 その後、我々香坂軍は「啄木鳥戦法」の別働隊となり、飯富兵部少輔・馬場美濃守・小山田備中守・甘利左衛門尉・真田弾正忠・相木市兵衛・芦田下野守・小幡尾張守様と共に西条山攻撃に向かった。



 な、なんと・・・。西条山はもぬけの殻ではないか・・・・・。上杉軍が「車懸かりの戦法」にて本陣に襲いかかり、お屋形様のご舎弟・典厩信繁様や室住豊後守・初鹿野源五郎・油川彦三郎・安間三右衛門・三枝新十郎様らが討死されたという。お屋形様はご無事であろうか・・・。


 我々は急ぎ山を下り本陣を守衛した。お屋形様は、どうやらご無事のようであった。上杉軍が退却を始めた頃、上杉影虎と名乗る影武者と思しき武士が、ただ一人にて本陣に突撃してきた。拙者は朱鞘より白刃を抜き放つやいなや一刀のもとに切り捨て、そしてとどめを刺した。見事な最期であった。合掌・・・・・。
 こうして第四回川中島合戦は、多大な損害を受けながらも味方の勝利で幕を閉じた。拙者は、次回も懲りずに参陣したいと思う(笑)。皆様、この度はお世話になりました。また来年、石和川中島合戦でお会い致しましょう!




※ このページで用いた画像はすべて掲載許可を頂いております。下の橋の画像は松永弾正様のご厚意により使用させて頂きました。



第23回 川 中 島 合 戦 戦 国 絵 巻 参 陣 レ ポ ー ト
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