第25回川中島合戦戦国絵巻  



                                       

 平成十五癸未年卯月廿日、それがしはまた、石和川中島の海津城にいた。なぜ毎年参陣してしまうのか、それがしにはよくわからない。
信玄公の威光のためであろうか・・・・・。
 今年は、鍋島飛騨守殿(→HP)、よっしー殿(→HP)と共に軍団を
編成し、総勢十九名となった。






 な、なんと、海津城において、突然、村上氏
旧臣・山浦雅之介殿(→HP)が謀叛をおこされた。
なぜであろう・・・。
















 今年も信玄公に拝謁がかない、とても光栄であった。それがしの兜の前立が、勝頼公が使用したもの(西光寺所蔵)と同じ形状であったためか、驚いておられた。
 ちなみに軍配の寸法は、信濃先方衆八十騎の将・相木市兵衛尉昌朝所用品(常源寺所蔵・長さ二尺二寸余)と同じである。




           我々は槍ぶすまを作り、謀叛人を追いつめた。この時の淀殿姉妹(→HP)の
          働きは見事であった。雅之介殿は勝算なしと解すると、自害して果てた・・・。
          あっぱれな最期であった。





          八幡原に着陣の後、越後上杉軍がどっと押し寄せてきた。本陣は持ちこたえる
         ことが出来るのであろうか・・・。  






             本陣前にて、信州伊奈春近衆の勇士・小笠原長義殿が立ちはだかった。
            乱戦のなか、石野殿、箱根少将殿は行方知れず、三浦介星友殿(→HP)は
            討死なされた。三浦介殿は数十人の敵(外人含)に囲まれながらも、よく
            奮戦されていた。おそらく後世の語り草となろう。






   それがしの陣所で一人で(爆)指揮をとっていると、上杉播磨守定景(→HP)と名乗る上杉氏の一族と
  思しき武者が斬りかかってきた。上杉殿は、弦月前立の筋兜に桶側胴具足を着用した出で立ちで大刀を
  背負っており、鬼播磨と異名をとるほどの武者であった。それがしは、とっさに軍配で大刀を払ったが、
  松永弾正殿(→HP)ら、ぞくぞくと敵の援軍が駆けつけたため、やむなく投降するに至った。
  な、なんという屈辱であろうか・・・・・(泣)





 
            あわわ・・・・・。捕縛され、石和千曲川の橋を引き連れられるそれがし。
           来年は、この無念を晴らすのだ!(笑)





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