口笛が鳴ると地震が起きる。
 鴨川の方から、口笛が聞こえたと思ったら、地鳴りがして地震がきたという。噂が流れ始めたのはつい最近である。それは、インターネットの掲示板から広がり、ワイドショーでも取り上げられた。
 京都では今月に入ってずいぶん地震が増えた。決して大きな揺れではないが、気づかないと言うほどではない。
 初めのうちは、一週間に一回くらいだったのが、最近では一日に二回などというのも珍しくなかった。不安を抱き、夏休みを口実に他地方に脱出する住民も少なくなかったが、大半の人々は京都で、いつも通り暮らしていた。

 如意ヶ岳の霞む大文字の前を、サギがわたって鴨川に降りた。今川恭一は上賀茂橋の中程に突っ立って、流れる水の輝きの中に、じっと立ったままのサギを眺めている。ひょろりと背が高いその男は、剃り残したひげの間を流れる汗を、しわくちゃのハンカチで拭き取った。顔も長い。
 サラリーマンになって、休日が減り、折角の盆休みを有意義に使おう、そう思って外に出た。もっとも、その有意義な行動というのは、鴨川での口笛調査だったが……。
 夕方近くとはいえ、八月半ばの日差しはきつい。幾分涼しいはずの川風も一日溜め込んだ熱気はらんでいた。
 恭一はまた山々に視線を移す。ここからは、南東を見れば大文字が、北を見れば舟形が見える。ひとくくりに大文字焼きと言われがちだが、それは観光的につけられた名称であり、正式には「五山の送り火」と言う。一年でたった三十分ほど燃えるだけなのだが、京都での代表的な行事として認知され、五重塔と大文字をバックに立つ舞妓さんというのが、もっともステロタイプな京都のイメージと言えるだろう。
 実のところ、今はひとくくりに扱われているこの行事も、もともとバラバラに送り火の行事が行われていた。つまり送り火同士のつながりは特に無く、そのはじまりもまた、平安時代から江戸時代までそれぞれバラバラであった。それどころか、以前は「い」「一」「竹の先に鈴」「蛇」「長刀」といった送り火も行われており「五山」でも無かったのだと言う。
 とは言え、送り火の目的は再び冥府に帰る精霊を送るという意味は共通している。ちなみに盆の翌日に行われるこの送り火に対応し、八月の八日九日十日には六波羅蜜寺において、本堂内で灯芯で大文字を作り、精霊を迎える。
 今日は八月十四日の盆休み。恭一は、いつもより、幾分河原の人影が多い気がした。
 サックスが聞こえる。河川敷に目を移すと、犬の散歩をしている老人がいた。犬が、ベンチで寝転がる人の臭いをかごうとしたが、老人が無理矢理引っ張る。恭一は、その姿に目を細めながら「聞こえんな」とつぶやいた。
 口笛は鴨川のどこから聞こえてくるのかもわからないが、風が通り抜けるときに鳴るものがなにか有るのかもしれないと、調べてみたが、それらしいものは無かった。もっとも、そう言った専門知識が有るわけでも無かったし、本気でそこら中を調べるには時間がなかった。
 恭一は、階段を下って、河川敷におりた。公園として整備されている河川敷には、簡単な遊具も置かれているし、場所によってはテニスコートやゲートボール場もある。
 恭一は荒く削った石を二つ並べ、上に板を置いて作ったベンチに腰掛けた。日差しに焼かれたベンチはすこし熱い。サックスは止んでいた。サギが川の真ん中に立ち、川面にその余裕に満ちた立ち姿を映し出している。
 風が渡った。橋の上で感じた熱風ではなく、涼しい風だった。腕時計を見ると、もう五時過ぎだった。
 なぜか地震は夕方が多い。
「そろそろか……」つぶやいて、あおあおとした河原の草を眺める。もっと下流に行くとこんなにのんびりできない。繁華街があるからと言うのもあるが、何よりカップルが等間隔に並んでいるで、入る隙がないのだ。
 口笛の音はしなかった。
 それから、何をするわけでもなく、じっとしていた。サギのけたたましい鳴き声がする。やはり、もう少し下流だろうか。恭一は考えながら、ハンカチを取り出して、汗をぬぐい取った。
 そもそも、何か確信があって来た上賀茂橋ではなかった……。
 恭一は、唇をとがらせた。そして、口笛を吹く。恭一は我知らず目を閉じて、口笛を鳴吹き続けた。微かな風の音、木の葉のこすれ合う音、川の音、口笛の音。いろいろな音が恭一を包み込んで心地よかった。恭一の口笛では地震など起きなかった。多少期待していたのだが。
 聞き覚えのない老人の声で、呼ばれた。
「口笛、なかなかに上手ですな」
 目を開けると、そこにはスーツ姿の老人が立っていた。少しくたびれた黒いスーツは日差しを吸って、その色にすこし重みを加えている。あごから、白いひげがこれまたくたびれたように垂れ下がり、乾いた唇が緩んで、笑顔を作っている。皺の奥に刻み込まれた目からは、表情が読みとれなかった。
「ああ、いえ、とんでもないです」
 と、頭を掻いた。老人は、うなずくと細い目を、さらに細めた。
「儂の母親は口笛が好きだった。口笛を吹いては、天上の音楽だと言っていたそうだ」
 恭一は返答に困って「はぁ」とため息とも返事ともつかない息の抜ける音を出した。
「ああすまないね。ついついね」
 老人は恭一の隣に座った。話をするつもりらしい。
「君の口笛を聞いたらね、母親を思いだしてね。すまないね」
 恭一は、老人の顔を横目で見る。老人はじっと川を見ていた。
「いえ、とんでもない」
 老人は、ひげをなでて唸った。
「ずっと昔に死んでしまったからね。母親との記憶、あんまり無くてね。父親のことも、そんなに覚えていないけど、痛い目にはあわされたな」
 ごまかすように笑った老人の言葉に、恭一は頷いた。父親から虐待されていたのだろうか? ついこの間も、この京都で中学生の少女が死んだ。こちらは母親から暴力をはじめとした酷い虐待をうけていたのだと言う。
 その記事によると、少女は、家族のことをすっかり忘れてしまうほどの記憶障害を起こしていたと言う。原因は虐待のショックらしい。老人もそうかもしれないと思い、意地が悪いと思ったが、恭一の悪い癖で、聞かないと気が済まなかった。
「近頃は、子供を虐待する親が多いなんて言いますけど、昔からそういのってあったんですか? 酷いのになると殺しちゃったりするでんですよね……」
 老人は、ひげをなでると、つぶやいた。
「親の子殺しなんて、昔はめずらしくもなかったさ。その逆だって、当たり前の事だ」
 そう言った老人は、目を見開いていた。その瞳は、うつろで、ガラス玉のようだった。
恭一の表情を読みとった老人は、また普通の表情にもどった。
「じつは久しぶりの街でね。儂は愛宕山の方にすんでいるんだが、出不精でね。久しぶりに、千本丸太町に住んでる兄貴の顔を見に出て来たんだ……。まぁこの町も変わったね」
 恭一は、軽く汗をぬぐった。老人が一瞬見せた瞳の、冷たく冴えた、しかしうつろな輝きが、忘れられなかった。それでも何か言わないと、またあの目を見せられる気がして、喉を詰まらせながら、発声した。
「……お兄さんはお元気でしたか?」
 老人は、ひげをなでた。
「寝たきりだったよ……。ずいぶん前からね。ところで君はここで何をしてるんだい? いい若い者が一人で口笛なんか吹いていたら、そのまま飛びこみゃしないか心配じゃないか」
 話題を変えた老人は、恭一の背中を叩いた。老人とは思えない力で、酷く痛かった。
恭一は、それに抗議することも無く、語り始めた。老人の力で叩かれて痛がるようでは、恥ずかしいと思った。
「近頃地震が多いですよね? その地震が起きるときには口笛が聞こえると言う噂があるんですよ。それでそれが本当かどうか確かめに来たんです」
 老人は、微かに鼻を鳴らした。サギがまた一羽けたたましく鳴いて、降り立った。鶴もそうだが、サギも鳴かなければ言いと思う。いつのまにかあたりが少しずつ薄墨に沈みはじめていた。
「好奇心かね」
「ええ……まぁ。好きなんですよ。幽霊とか怪奇現象とか、いわゆる京都の闇とか」
 老人は立ち上がって、埃をはらった。
「そうかね。奇遇だね。儂もそう言う歴史の裏側のような話、好きなんでね、ゆっくり話を伺いたいが、そろそろ帰らなくてはいけない。まぁしばらくこの辺に泊まっていろいろ観光しようと思っているから、また会うかもれないね」
 老人は、また微妙な微笑みを浮かべて去っていった。その歩みは不思議と速く、くたびれた黒いスーツは、一気に濃さを増した黄昏の夕闇に溶けていった。
 恭一は、ため息をついて立ち上がった。漠然とした不安が広がった。胸が重いような、異様な違和感だった。
 まだ背中が痛む。

 次の日の夕方近く、恭一は千本丸太町にいた。京都の地名は、南北の通り名と東西の通り名を組み合わせたものが使われる。
 つまり、千本丸太町とは、千本通りと丸太町通りの交差点である。
 京都は碁盤目状の都市と言われているが、千二百年前、四〇丈(一二〇メートル)×四〇丈の碁盤目上に整備された平安京はその後、豊臣秀吉の手によって再開発が開始され、正方形の中心に新たな道路が開かれ、かくして正方形は長方形に直された。これは政治都市から商業都市への変貌を反映したものである。つまり、都市の主人公が大邸宅を構える役人から、軒を連ねる商人へと変わって行ったことによる。あまり巨大な区画だと、通りに面して店を構えた場合に、その中心に空き地が出来てしまうのだ。
 そして、千本丸太町というのは、かつての都の中心、大極殿が置かれた場所である。そして千本通りというのはかつての朱雀大路。その先には、羅城門が当時は幅二八丈(八五メートル)という広大な道路だった。
 しかし、四車線とは言え、今はメインストリートとは言い難い狭い道である。
 しかし、噂では最近の群発地震の震源地はこのあたりだという。かつて栄華を誇った貴族たちの霊が地震を引き起こしていると言う噂もあった。
 恭一は、横断歩道の脇に設置された大極殿跡に関するプレートを見ながら、ため息をついた。かつて、政治の中心だった場所には、日焼けて曇ったショーウィンドウの時計屋と、日本再生を謳う政党のポスターがべたべた貼られた空き店舗、廃屋。かろうじて繁盛してそうな店は、ケーキのチェーン店と、やたらでかい男女の写真を看板にしたパチンコ屋ぐらいのものだろうか。
 錆と埃に覆われた街は、視界を茶色く染めた。東山通りのノスタルジックなセピアではない。寂れた茶色だった。近代からの歴史の積み重ねが無かったからだろう。
 京都の中心は、今では東側に移っている。京都御所のある京都御苑の脇を通る烏丸通りを朱雀大路とするなら、羅城門は京都駅となる。
 恭一は、かつての朱雀大路を眺め、当時を忍ばせるものなど何もないことを再確認した。交差点北西の時計屋裏にある大極殿跡の碑が建つ児童公園へと入っていった。
 公園は曇っていもいないのに、薄暗い。木陰が多いと言うだけではない。密集した家々に囲まれているのだ。それにパチンコ屋の裏と言うのも、光が入りづらい原因だろう。もしかしたら本当はそれほど暗くなく、建物に囲まれた圧迫感が、そう感じさせているだけなのかもしれない。まばらに置かれた錆び付いた遊具には、子供の影はない。
「大極殿遺祉」の碑は、小さな児童公園には不釣り合いに大きく、石垣の上に鎮座している。その直方体の姿は、どことなく墓石を思わせた。
 恭一は石垣に設置された階段を上ると思わず「なんだこれは」とつぶやいた。石垣の上は完全に、石を混ぜたコンクリートで固められていたのだが、しかしそれはひび割れ、隆起していた。それは地震によるものではない。石碑の脇に植えられた桜の根が持ち上げているのだ。木の力の強力さを、恭一はあらためて実感するとともに、このような事態を予想せず、コンクリートで固めた愚かさに腹が立った。

 そのころ鴨川の河原に、黒スーツの老人の姿があった。くたびれたスーツを着た老人は、また口笛を聞いた。老人はあたりを見回した。
 少女がいた。酷く痩せている。華奢と言うより、妙な痩せ方をしていた。こそげおとされたようだ。老人は少女を見て、我知らず頷いていた。
 少女の唇が穏やかな旋律を奏でている。その少女は、水に入れるように整備された階段の一番下、腰を下ろせば水がすぐ近くに見える場所に立っていた。少女はしかし、まるで存在感がなく、老人以外に美しい旋律に耳を傾ける人もいない。老人に曲名はわからなかったが、ポップスのたぐいだろうと思った。
「口笛、上手だね。天上の音楽だ」
 突然声をかけられて、少女はびくんと一回痙攣した。口笛をやめて、老人を見る。いぶかしむ風もなかったが、しかし瞳には恐れが宿っていた。
「すまない。口笛が好きでね、うまい口笛を聞くと、ついつい寄っていってしまう。儂の母親も口笛好きでね。天上の音楽だと言ってたそうだ。もっともお嬢ちゃんが吹いてるような、ちゃあんとした曲じゃない、もっと単調で抑揚の無い曲だ」
 老人は、くたびれたひげをいじった。少女は、老人を見つめると「そう言うの、たまに吹きます」と言った。
 しっかりとした声だったが、老人はその声には本当の快活さは無く、なにか作り事のような、うろんな声だと思った。
「良いものを聞かせてもらった。お礼をあげようね。あめ玉だけれどもね。うまいよ」
 老人はポケットから、透明なビニールに包まれた、銀色に輝くあめ玉をとりだした。
「お嬢ちゃんは、もうあめ玉よりも現金のお年頃かな」
 老人の冗談を聞いた少女は、一瞬顔をしかめたが、すぐに元の顔に戻り、あめ玉を受け取ると、包み紙を開けた。
 少女は老人の顔を伺うと、銀色のあめ玉をつまみ上げて、口に含んだ。老人は、そのやせ細った少女を見つめながら、頷いた。
「おいしいかね? それはね明玉(アカルダマ)といって、それを食べると、迷いと心の闇をうち破って、神様と一緒になることができると言われている。なにか悩みがあるなら、これを食べて元気になると良い。まぁいわゆる縁起物だ」
 少女は、目を伏せて口に手を当てた。血管が浮き出た手の甲には、生々しい傷跡があった。火傷の跡である。タバコだった。
 少女は、目を伏せたまま、微かに頬を赤らめた。
「あの……不思議です。美味しいけど、どんな味だってはっきり言えなくて、でもなんだか、その……体がざわざわする」
 老人は「そうかい」とつぶやいき、それから思い出したように緩慢な動作で頷き、噛んで含めるようにゆっくりと言った。
「食べ終わったらでいいから、儂に口笛を聞かせておくれ。天上の音楽を。渡る風のような音楽を……ね」
 老人は少女から目をそらし、橋を見上げ、それからその先の空を見た。
 それからしばらくして、空に吸い込まれるように口笛が響き始めた。口笛は老人の周りを取り囲み、それから天に昇り、風とともに軽やかに拡散していく。単調で抑揚はないが、心地よく包み込まれるその旋律に全身がざわめくのを感じながら、老人は「ああ……本当に、これは天上の音楽だ。初めて聞いた」とつぶやいた。

 石碑の前でうんざりした顔をしていた恭一は、不意に風の音を聞いた。その音は、息の抜けるような、弱々しいものだったが、しかしそれは微かな旋律を奏でていた。
 澄んだ、暖かい、しかし寂しげな音だった。その旋律をはっきり聴き取ろうと、耳が鋭敏になり、とぎすまされて行く。
 無意識のうちに耳に神経が集中されていく。恭一が音が聞こえてきた方向を、吸い寄せられるように東だと特定したとき、足下から地鳴りが近づき、そして一気に周りに広がった。地震だ。
 恭一はその場に立ちつくした。立っていられる程度の揺れではあった。長かったのか短かったのかわからなかったが、揺れが収まった瞬間、恭一はその長細い体をくたくたと折り曲げて、その場に座り込んだ。
 恭一は地鳴りの向こうに、もう一つ違う音を聞いていた。牛の鳴き声にも何か巨大な機械の唸りにも似た低いその音は、短く二度、恭一の耳に届いていた。
 しばらくそれがなんなのか考えていたが、分かるはずもなく、とにかく口笛の主を捜さなくては、と思った恭一は、乗ってきたスクーターで東に向かった。堀川通りを越えて、烏丸通り、京都御苑の堺町御門を通り過ぎ、丸太町橋の近くにスクーターを止めて、橋には徒歩で向かった。生ぬるい空気をかき分けて進む。
 丸太町橋の真ん中には、張り出しがある。そこに立って北を見ると、川の向こうに貴船や鞍馬と言った信仰の山々が見える。遠く霞むそれらの山々は、上賀茂橋と違って遠くに有るため、山としてもリアリズムよりも、ファンタジックな、いわば異界を感じさせる。
 山をゆっくり眺める訳にもいかず、恭一はすぐに河川敷に目を移した。上賀茂橋周辺よりも、ずいぶん前から整備されていたらしく、古びた公園の風情がある。橋のすぐ下の川に降りる階段のところに、黒いスーツが見えた。子供と一緒である。あの老人だ。遠くからだったが、確信があった。恭一はすぐに河原に降りて行った。
 案の定、それはかの老人であった。老人は恭一が声をかける前に気が付き「やぁ。地震、きたなあ」と言った。
「ええ。口笛も……聞きました」
 老人は、頷いた。
「ところで、お孫さん?」
 恭一は少女の方を見て、軽く頭を下げた。ずいぶん痩せてる。
「いや、この子も口笛、上手なんでね。ついつい声をかけてしまってね。君よりずっと上手だ。すばらしい。レコードデビューしたらい良いと思うなぁ」
 老人は、少し薄くなった白髪の頭を撫でた。
「美山祐子です。おじいさんにはあめ玉もらいました」
 ほほえんだ顔には、儀礼的な媚びが見えた。そして、その目を見たとき、恭一は一瞬顔を険しいものにした。老人と同じ、焦点の定まらない、しかしそのくせすべてを見通すような、……まるで鏡のような目をしていた。
 恭一は、すぐに表情を戻し「今川恭一です」と名乗った。祐子は軽く頭を下げた。
 美山祐子……似た名前を知っているような気がしたが、思い出せなかった。
「ミヤマって漢字は?」
 漢字を聞いたら思い出すと思った。
「美しい山です。あとユウコはカタカナのネに右の祐と子供の子」
 聞いたがしかし、思い出せなかった。恭一の悩みを知ってか知らずか、老人が口を開いた。
「君は今川君か。覚えておくよ。あめ玉、君のは無いんだ。悪いね。ああ……儂は火山(ヒヤマ)だ。名乗ってなかったな。確か」
 と、ひげをいじった。それで、我に返った恭一が、祐子に突然質問を浴びせる。
「祐子ちゃん、さっきも口笛吹いてた?」
「ええ、吹きましたけど? なにか?」
 祐子は不思議そうに訪ねた。火山が恭一が答える前に口を挟んできた。
「ははは、地震と口笛か。君は地震の時どこにいたんだ?」
 恭一は「千本丸太町」と答えた。
「常識的に考えて、ここから千本丸太町に口笛が届くとは思えんがね」
 火山の一言に、恭一はひるまなかった。
「だから怪現象なんですよ」
 火山は、一瞬吹き出して、祐子を見た。
「たしかに、このお嬢ちゃんの口笛は、天上の音楽だ……でも怪現象などと一緒にしたらいかんねぇ。それはさておき、君は千本丸太町にいたんだったね。本来あそこが中心地のはずなのに、なんであんな風に、ただの街になっちまっていると思う?」
 火山の問いに、恭一は頷くと語り始めた。試されていると思った。
「京都……と言うよりも平安京はその成り立ちを風水で説明することが出来ます。北の玄武、そして東の青龍、西の白虎、南の朱雀、すべてがそろった吉相の地です。つまり、玄武は丹波山から鞍馬山に続き北の山々、そして青龍の東山山系、白虎は嵐山、最後に朱雀は鴨川と桂川が合流して淀川となるところです。それが龍脈によって流れる気を生かすポイントです。ついでに言うと、四神相応の地形は同時に天上と符合します。つまり古代、北極星を中心として、四つの星座が考えられていた。それが四神です。北極星は天の帝王の居所です。それは穴(ケツ)と呼ばれ、それが千本丸太町です。大極殿の大極とは、北極星のことです。でも……その大極殿は帝の居所ではなく政治の中心でした。これはおそらく、帝の人間化によるものでしょうね。平安の昔、天皇は人間宣言するまでもなく人間だったんですよ。それはさておき、京都を気の流れである龍脈を中心に考えると、まず左大文字から船岡山を目指し、南に流れ下る。そして穴である千本丸太町から地上に吹き出し朱雀大路を流れ下る。最後に羅城門と東寺・西寺によって跳ね返り、飛び散ったエネルギーを左右の青龍と白虎はそれが漏れないように守り、気は街の中に充満します。古くなった気は、鴨川と桂川によってゆっくりと押し流されます。これによって、京都は天を再現した理想の都として、栄えるはずでした。しかし、なぜか京都の西側は寂れ、東側が栄えた」
 そこで、恭一が息をついた。そこを補うように、火山がしゃべった。
「左様。右京、つまり西側は平安京ができて四十年もしないうちに寂れ始めた。これからが本題だ」
 嬉しそうに語る火山の後を受けて、恭一は続けた。長細い顔が興奮で紅潮し始めている。
「職人や商人、市も右京に移動させたけど、結局失敗しました。一方左京はと言うと、平安末期には白川に平家が密集して住んだ。室町時代には銀閣寺あたりに幕府が勢力を張る。ついには秀吉が左京に寺町などを作り、中心を移しはじめる。さらに一二二七年の大内裏の焼失を境に、もはや内裏を再建するだけの財力を持っていなかった天皇は公家の屋敷を転々とし、最終的に現在の位置に移りました。なぜ都は右京に移ったのか、その原因も風と水です。つまり、東に火の手が上がれば西は必ず延焼し、南に盗賊が現れれば北は流れ矢が避けられない。そんな風に言われていました。つまり火の手が上がれば被害が集中するのは京都の西側だった。現に、鴨長明が『方丈記』においても記述している太郎焼亡において、御所の南東樋口富小路から発火し、北西に燃え広がって大内裏焼き尽くし、都を一晩で焼き払いました。ちなみに愛宕山は火伏の信仰と関わっていて、愛宕神社には火の神であるカグツチノカミがまつられています」
 火山の眉が少し動いたがしかし、口を挟むことなく、黙って頷いている。
「そして、水。右京の南側はじめじめして水はけが悪かったと言います。しかし、左京の方には、茶道や菓子と言った水が重要なものが発展しました。清水寺が有るのも左側です。さらにその名水は、伏見で酒造りに使われています。つまり風と水に恵まれない右京は寂れ、反対に風と水の祝福を受けた左京は栄えたと考えられます」
 火山は「詳しいじゃないか。実は儂もいろいろ調べているんだ」と言った。祐子は意味がわからないと言うよりも、興味が無いのだろう、座って川面を見ている。恭一と火山は、立ち話をしていたことに気が付いて、その場に腰を下ろした。
 沈黙が続いた。恭一は疲れて口を閉じたままだ。辺りは暗さを増してきた。恭一が気づいて空を見上げて、星を探したとき、火山が口を開く。
「しかしね、それだけじゃないと思うんだ」
 恭一は「交通の点も考えられますね」と付け加えた。
「確かに、それもある。今だって、新幹線と東海道本線が右京を嫌うように南に行ってしまっている。だがね、儂はもっと根本的に平安京は、その繁栄を約束されていなかったと思うんだ。風水は、墓作りにも応用されるのは知っているね? 風水の理想の形を表す言葉『局』は女性の局所と同じこと。つまり、死者は自然の母胎に返してやることで、安らかな眠りを得る。それによって、子孫も繁栄するだろうと……そう言う考えなんだが、日本人にとって京都は心のふるさと、母親と言っても良いだろう、そんな風に言われているが、どこかその扱いは墓地に似ている……いや黄泉の国と言っても良い」
 恭一が口を挟んだ。
「つまり、異界であったり、魔界であったりという京都の裏を読み解く方法ですね」
 火山は、しかしそれを完全には肯定しなかった。
「いや。裏だけじゃない、表だってそうさ。京都と言えば寺社仏閣、昔ながらのたたずまい。まぁ……観光地だから仕方がないのかもしれないが、つまり死者が築いた文化を未だに守る。つまりさ、死者の都さ」
 恭一は、火山のひげを見た。風にたなびいて、情けなく揺れている。
「でも、京都の人は新しもの好きだって言いますよ? それに伝統をふまえた新しい試みだっていろいろとあるじゃないですか?」
 火山はその言葉を待っていたかのように、口元をゆるめた。
「それが京都人が、今の自分を肯定するために必死の努力をしている。そうさな……俺は親父の遺産を食いつぶしているんじゃないって必死になっている若旦那みたいなものかもしれない。守る反面、否定しなければ自分の存在価値を失う。京都人はさ、自分が単なる墓守になってしまうかもしれないと言う恐怖と戦っているのかもしれんな」
 火山は、だいぶ暗くなった周囲を眺めて「とは言え、こうして街は日々変わっているし、住民の……おそらく大半は呼吸している」とつぶやいた。それから、また話を続ける。
「今川君、話を戻そう。京都が黄泉の国だったとして、死者が埋まるのは龍穴。つまり、千本丸太町だ。だがもし、そこに埋まっているのが死者ではなく、元来街を満たすための気を吸い取る何かだったとしたらどうする」
 恭一は、いきなり飛躍したので、はぁ? ととぼけた声を出して、火山の方を見ようとしたが、その前に、いつの間にかすぐ前に立っていた影に気が付いた。見上げると、祐子だった。そのうつろな目が、恭一に向けられている。祐子は、黄昏の薄い闇の中で、口に張り付いたような笑みを浮かべた。その笑みは恭一の頭の中にまで入り込み、まるで四方八方から見られているような、逃げ場のない違和感と危機感がわき上がり、体が固くなっていく。合わせ鏡の恐怖だ。どこまでも続く合わせ鏡の世界が、祐子の目の中にある。祐子の唇は青白く、その肌は薄暗いなかで白々と輝いて見えた。この少女も本当はかわいらしいんだと、恭一は思った。しかし痛々しいまでに痩せたその姿は、恭一の心を恐怖で責め立てる。恭一の目の先で、青白いく緩んでいた唇に、不意に赤みが差したとき、言葉を紡ぎ出した。
「ククノチが眠っている」
 恭一は、その声に背筋を凍り付かせた。先ほどまで自分を包んでいたけだるい暑さが一気に冷めた。恭一はそのとき初めて自分が喉が渇ききっているのに気が付いた。
 鼓動が速くなり、恭一は祐子から目をそらしたいと思ったが、しかし、そらした瞬間自分の命が吸い取られるような気がして、なんとか目を逸らさずに、やっとのことで、粘る口を開いた。
「そっそんな風水用語、はじめて聞いた」
 その問いに答えたのは、火山だった。
「風水と言うよりも、……神道だな」
 祐子は、うろんな瞳をそっと閉じ、それからゆっくりと口を開いた。
「ククノチは垂れ込める空を押し上げた」
 その言葉一つ一つが、旋律を奏でている。
 そして、先ほどの恐怖の意味がわかり始めていた。祐子の言葉が奏でた旋律は、恭一が千本丸太町で聞いた口笛に似ていたのだ。
 何も言えない恭一の背を、火山が叩いた。やはり痛かった。しかし、その痛みは恭一に現実を実感させてくれ、むしろ嬉しかった。
「もう遅いから、儂は帰ろうかな」
 そう言うと、立ち上がって夕闇の中に溶けていった。祐子は、恭一に初めてあったときの愛想笑いを浮かべて「じゃぁまた」と言って、火山の後を追うように夕闇に消えていった。
 恭一は、去っていた二人の姿を見送る気にもなれず、その場でため息をついた。

 そして、十六日の昼過ぎ。二日酔いもあり、目覚めは酷く悪かった。恭一は、家に帰ってから酒を飲んだ。あの二人のことを、忘れようと思ったがダメだった。酷い頭痛だった。
 Tシャツとトランクスが寝汗で湿っている。
 恭一は、本や雑誌、脱ぎ捨てた服などとにかく色々踏み越えて、カーテンを開けると強い日差しが差し込んできた。窓を開けて、空気を入れ換えようと思ったがやめた。布団が寝汗に湿っている。恭一は台所に行って、麦茶を飲んだ。
「ククノチ……」
 その言葉が口をついて出た。大学進学の時に京都に来て、卒業しても居着いてしまった。京都という街が気に入ったからだ。その街が実は本当の繁栄をできぬままにいるという。あの不気味な二人に関わるのはもうやめようと思ったが、恭一がそれを強く思えば思うほどに、火山と祐子が投げかけた謎が、頭のなかに居座って、胸に異物感を生じさせる。
 埋まっているものの伝説として、将軍塚の人形(ヒトガタ)伝説がある。これは、桓武天皇が都の平安を祈って、八尺の人形に鎧兜を着せて埋めたという。以来、国家に異変があるときには、将軍塚は鳴動してそれを知らせると伝えられている。
 記録では鎌倉時代以来、たびたび鳴動してきた将軍塚、最近では太平洋戦争の時にも鳴動したとか……。鳴動伝説はその他にも多数あり、後白河天皇の御廟、天智天皇の墓である山科陵、石清水八幡宮の男山などの記録が残っていると言う。
 しかし、千本丸太町鳴動伝説は無い。それが今になって鳴動を繰り返している。
 恭一は床の上にその置いてあるノートパソコンを引き寄せた。ディスプレイを起こすとスリープさせてあったパソコンがすぐに復活した。
 ブラウザを立ち上げて、インターネットに接続する。HOMEに設定しているYahoo!! のトップページの検索フォームに「ククノチ」と入力した。記述自体はかなり多く、恭一は自分の知識不足が悔しかった。。

ククノチ:古事記では「久久能智」日本書紀では「句句遒馳」
ククは茎の意味、チは霊威、つまり力を表す。樹木の祖神である。イザナギ・イザナミが国を産み終えた後に、産んだ神の一柱。ククノチが生まれた頃、天空はまだ低く垂れ籠めていたので、立ち上がってこれを押し上げたと言う。

「そんな巨大な神が、千本丸太町の地下に埋まっているのか!?」
 恭一は、一人叫んでいた。本棚から古事記を取り出す。ククノチが登場するのは、ほんのワンフレーズ「次に木の神、名は久久能智神を生み」と、それだけである。日本書紀も同じようなものだった。ククノチが登場する部分は、神名を羅列した系図形の神話である。まず住居に関する神が生まれ、次に海や川に関係のある神々と、灌漑の神の誕生が記述される。そして風・木(これがククノチ)・山・野の神、さらに山野の土・霧・谷の神が生まれ、船の神・穀物の神が生まれ、最後に火の神が生まれたところで、イザナミはホト(陰部)を焼かれて神避(カムサ)る……つまり死ぬ。
 もしも、祐子と火山が言うように、天を押し上げる巨人が千本丸太町に眠っているとして、群発地震がそいつが復活する予兆だとすると、京都全体が一瞬のうちに踏みつぶされる!
 恭一は、そのあまりのばかばかしいスケールに笑うしかなかった。あり得ない。ダイダラボッチじゃあるまいし。
 恭一は『怪談百鬼図絵』に載せられた、山と山の間から、顔を出した、黒い巨人の図版は何度か見たことがある。焦点の合わない目と、長い舌がユーモラスでもあり、酷く不気味でもあった。
 ダイダラボッチの伝説はとにかく桁違いである。足跡だけで長さ六〇メートル、広さ四〇メートル、小便をした穴の広さも直径四〇メートルと言う記述もある。
 富士山を背負おうとして踏ん張ったときに凹んだ足跡が相模国の大沼になったとも言う。わらじに付いていた土がこぼれただけで塚が出来たとも言う。
 つまりひとたび動けば、地形が変わるのだ。
 彼らはもっぱら山作りに情熱を燃やし、富士山も彼の作品と伝えられている。土を掘っては運び、掘っては運び、できあがった山は富士山で、その分凹んだ穴は琵琶湖になったというのだ。
 その他にも、静岡県の秋葉山を富士山より高くしようとして失敗した話しや、山に光を遮られて村人が困っていたので、その山を動かしてあげた話など、壮大なスケールに度肝を抜かされるばかりである。
 しかし、その大きさがバラバラなのは何故か。巨人が何体もいたとは考えにくい。だとすれば、大きさを自在に変えられると考えられた。たしかに見越入道をはじめ大きさを自在に変える巨人の話は多数伝わっていたが、狐狸の類の仕業という結論もまた多い。
 ただ、巨人が大きさを変えるというのは、解決としては妥当だと恭一には思われた。
 恭一は、あまりのばかばかしさに、その場に寝転がった。頭痛がまた酷くなってきたせいもあった。
 すぐに睡魔が訪れて、そのまま寝てしまった。それからどれだけ寝たのかわからない。ただ延々とどこかを彷徨い歩いているうちに、なぜか不意に太い道に行き当たり、何が起きたのかわからないままに、ぽかんと口を開けていると、町家風の建物やら、コンクリートのマンションやらが立ち並ぶその向こうに、なにやら巨大な固まりが立ち上がり「ククノチが埋まっているにしろいないしにろ、地震と口笛は本物じゃないか」と言った。それを聞いた恭一が飛び起きた時、もう五時を過ぎていた。
 飛び起きた恭一は、あぐらをかいてうんざりと、ほおづえをついた。
 と言っても何か手がかりが有るわけでもない。口笛の線から調べてみようと思い立った、恭一はパソコンに向かうと検索フォームに、半ば冗談のつもりで「美山祐子」と入力した。

 そのころ、千本丸太町に火山と祐子の姿があった。
 二人は交差点の南東の角、つまり大極殿の石碑の有る公園の反対側に立っていた。そこにも大極殿に関するプレートが設置されている。
 火山は、少し雲が出てきた空を見上げると「では、はじめようかな」と呟いた。
「ねぼすけを起こしてやろうかい。では祐子ちゃん、君にイザナミノミコトを降ろすぞ」
 祐子の髪が風に揺れた。
「はい」
 頷いた祐子の、ほっそりとした顔を見て火山もまた頷いた。火山は祐子を見つめたまま、唱え始めた。
「アハリヤアソバストマウサヌアサクラニイザナミノオオカミオリマシマセ」
 抑揚の少ない天上の音楽の旋律を守りつつ、発音される言葉を聞いた祐子の青白い顔に、ほのかな赤みが差した。
「アハリヤアソバストマウサヌアサクラニイザナミノオオカミオリマシマセ」
 火山は高まる興奮を抑えながら、唱え続ける。火山の目にほのかな赤い光が宿り、その光を祐子の瞳が映し出す。祐子がふるえ始めた。
「アハリヤアソバストマウサヌアサクラニイザナミノオオカミオリマシマセ」
 三回目を唱え終わったとき、祐子の力が不意に抜け落ちて、火山が素早く抱き留めた。道行く人が奇異の目を向けるが、それ以上構う気は無いらしく、足早に通り過ぎていく。
 祐子が力を取り戻したので、火山は手を離した。そして、大極殿跡の方を見据えた。
 口笛を吹き始める。単純で抑揚のない、しかしあたたかな旋律の反復が交差点を満たしていく。空気の振動が寂れた街を揺さぶった。
 やがて、その口笛は、信じられないような大音量を発生させ、蜘蛛の糸の様に張り巡らされた電線を震わせる。夏のぬめった空気の振動は一気に高まり、天に届きそして地をも揺さぶっていた。
 そしてその音は、とっくに地下に眠る者の耳に届いていた。
 それは、その音を聞いた。今まで、夢の中で微かに聞いたその音がはっきりと自分の体を振動させているのを感じ取った。
 それは、巨大な振動を地中に吐き出した。それは喜びだった。歓喜の叫びだった。
「ハ!」「ハ!」
 平安の昔から応仁の乱、戦国時代、そして幕末、明治維新、現代。都に眠る死者達が、その叫び声を聞いて一気に地上に飛び出した。山から、森から、庭から、アスファルトのわずかなひび割れから、吹き出した霊の群れを見た人々は、ある者は卒倒して、ある者は念仏を唱えた。
『都にもはや安住は無い!』
 霊達は口々に叫んで、大路小路を流れ下った。盆が終わり、帰り支度をしていた精霊達も、その流れに押し流されて逃げまどう。
 百鬼夜行どころではない、幾千幾万の霊達が、一気に吹き出して逃れていく。
「ハ!」「ハ!」
 その叫びは、地鳴りとなって大地を揺さぶり空気を揺さぶり、短音の口笛に愛おしそうに絡みついていく。

 口笛と地鳴りが織りなす異様なアンサンブルは、恭一の耳には届いていなかった。恭一は放心していた。
「そうか……そうだったのか」
 呟いた瞬間、千古の都全体が鳴動した。恭一は、落ちてきた本が頭を打って目を覚ました。
 口笛か聞こえた。
 そして、千本丸太町で聞いた地鳴りの中に混じっていた音の正体を知った。「ハ・ハ!」と、叫んでいたのだ。
 揺れは収まる気配を見せず、恭一は落ちてくる物に押し流されるように外に飛び出した。千本北大路の自分の家からも、南に立ち上る巨大な幹が見えた。
 無数の粒子で構成された木には、葉は無かった。ただどれだけの大きさか、想像が付かないほどに太く背の高い木は天に向かって一直線に伸びていた。
「あれが……空を押し上げた木」
 しかし、その幹はすぐに崩れはじめた。まるで伸びた幹が再び縮むように地上に吸い込まれていく。それは幹では無かった。巨大な物体が地中から吹き上げた土砂だったのだ。
「あのじいさんやりやがった!」
 恭一は走り始めた。土砂が降ってきたが構わず走った。あふれ出した霊達も逃げまどっている。束帯が居た、十二単が居た、鎧武者が居た、軍人が居た、丁稚が居た、警官が居た、サラリーマンが居た。彼ら霊達は、恭一の周りを逃げまどっている。恭一はそれを微かな景色のゆがみから知覚してはいたが、それが何なのかはわからなかった。幸か不幸か彼には霊感がなかった。土砂が収まり、恭一は自分の視界に飛び込んだ物体を見て、立ち止まった。
 銀色に輝く巨大な人型の物体だった。ずんどうな丸い筒の上に、それを小さくした筒が、一個乗っていた。小さな筒には赤々と光る目が二つ付いている。その目の下には、黒い長方形がまるで口の様に配置されている。肩から伸びる二本の腕は、これまた円い筒を組み合わせたもので、胴の太さには不釣り合いに細長く伸びている。
「まるでロボットじゃないか……」
 その巨大な人型はまた、声を上げた。
「ハ・ハ!」
 恭一は走った。今出川を超えたあたりから、道も家も土砂で埋め尽くされていた。所々に放心した人、泣き叫ぶ人……人々は、突然起こったあまりにも異常な事態に、どうすることも出来ずにいた。
 体力に自信はなかった。しかし、恭一はそれでも走れた。
「ハ・ハ」の声が、体の震動として、内蔵を揺さぶる重低音として感じられるようになった頃、口笛の音も最高潮を迎えていた。
 その猛烈な音の奔流をかき分けて進むとその先に、火山と祐子が居た。土砂に埋め尽くされた千本丸太町に、二人は平然と立っていた。
 パチンコ屋は見る影もなくつぶれ、小さな時計屋もそれと運命を共にしていた。その他の建物も、まっすぐ建っているものは無く、皆傾いたりつぶれたり、悲惨な状況であった。火の手は上がっていなかったのが不幸中の幸いだった。
「おお、来たのかね。危険だ。儂らと一緒にいたまえ」
 火山は、嬉しそうに手招きをした。くたびれたスーツは、土をかぶっていなかった。
「あれがククノチだ」
 近づいてきた恭一の後ろを指さして言った。大きさはどれほどなのかわからない。百メートルの京都タワーより巨大なのは間違いない様に思われた。
 祐子は、口笛をやめて叫んだ。
「ククノチ! ククノチ! 私はここにいます!」
 明らかな金属の固まりは、向きを変えた。不思議なことに、それによって地震が起きることは無かった。スムーズな方向転換は、巨大な物体が、浮き上がっていることを示している。円筒形の胴に隠れて顔は見えなかった。
「ハ・ハ!」
「ク・ク・ノ・チ・ノ・ハ・ハ!」
 恭一は、改めてその巨大さに恐怖した。自分の矮小さが実感として押し寄せてきた。
「火山さん! 何をするつもりですか!!」
 火山はククノチを見上げた。
「そもそも、アメノナカヌシノカミ、タカムスヒノカミ、カムスヒノカミをはじめとした高天原の神々は、この星を自らの手で治め、楽園にするつもりだった。それを任されたのが、儂の両親であるイザナギとイザナミだった。しかし彼らは、この星に降り立ったとき、それに反対したんだ。この星にはすでに、我々とは全く異なる形の生命の息吹があったからな。だから、基盤を整えたら、それ以降はもう、介入を最小限にとどめようとしたんだ。ところがだ。高天原の神はそれを許さず、軍勢を差し向けてきた。だからイザナギ・イザナミはそれを押し返すためにククノチを生んだ。そして、戦いの最中、儂は生まれ、母は死に、儂もまた死んだ」
 恭一は、その異様な神話に顔をしかめた、滅茶苦茶だ。
「あんた自分がカグツチの神だとでも言うのか!」
 火山は、鼻で笑った。
「君ならとっくに分かっているものと思っていたよ……まあいい。ククノチは、戦いが終わったとき、母が居ないのに気が付いたんだ。ククノチは、自分を置いて母が天に昇ったのだと思ったんだ。だからククノチは高い山を作って、天に行こうと思ったんだ。母が聞かせてくれた天上の音楽あふれる高天原に行こうと。だが、いくら高い山を作っても高天原は見えなかった。何しろ遠い遠い宇宙の果て……それどころか、我々の居る次元には無いかもしれん。山なんかいくら作っても無駄さ。八ヶ岳で失敗したとき、ククノチは、いつか戻ってくる母をあきらめて待つことにした。それまでは気が通り抜けるこの地を母に似せた地形を作ってその真ん中で眠りについたんだ。そして、流れ込んでくる気を糧にして、ずっと生きていた。……この土地は、ククノチが作った母の模型なんだよ」
 口笛は相変わらず鳴っている。ククノチは母を呼んでいた。
「火山……いや、カグツチの神、ではなぜ天孫降臨したんですか」
 カグツチは、髭を撫でた。
「君がわかりやすく言うと、アマテラスオオミカミは、高天原に和平交渉に行ったんだ。高天原の神々は最終的にアマテラスの交換条件を飲んで、この星の独立を認めたんだ。つまり、アマテラスは高天原に住むこと……命の源である、恒星のエネルギーを持つアマテラスは高天原の神にとっても重要な娘だったから、どうしても手元に置きたかったんだな。そしてもう一つの条件は完全に基盤が整ったとき、神の血を引く人間を作り出して、それを地上に遣わすこと。これが天孫降臨だ」
 振動も地鳴りも収まっていた。人の姿はどこにもなかった。静寂が訪れ、その中をただ、口笛だけが優しく空気を揺らしていた。

 ククノチは、静かに口笛を聞いている。
「……話は分かりました。それで繋がりました。たしかにあなたは愛宕山に居たカグツチかもしれない。いや……こんな所行は人間業じゃない。でも神様、祐子ちゃんは祐子ちゃんでしょう。その娘はもはや生きていないはずの人間でしょう? どうして死者に平安をあげないんです。彼女は悲しいけどやっと平安を得たはずなんだ」
 カグツチは、恭一の言葉に口をゆがめた。恭一はその顔に軽蔑と嘲笑がこもっているのがありありと分かった。
「今川君。魂と肉体は別物だ。現に儂の肉体だって、極小の……細胞レベルの機械から成り立っている。祐子ちゃんもククノチもそうさ。つまりは器は何だって良いんだよ。ククノチは最初木の神として、大木の姿で生まれた。しかし、それでは高天原を押し上げることは出来ない。だからあの巨体が用意された。大地に沈み込まないように、常に浮き上がり、場合によっては大きさまでも自在に可変させる、兵器としての体がね。たとえば古い道具に魂が宿るって言うだろう。そう言うことだ。魂さえこの世にとどまれば、体はいつでも用意できる。高天原で最初に生まれた神々はみな、形が無く、姿を現さなかった。それは宿るべき体を持たなかったし、そのような物は彼らには不要だった。覚えておくと良い、高天原は、人類では絶対に到達し得ない高度な機械文明なんだ」
 祐子は、恭一を見た。その目には、ほのかな赤い光が宿っている。
「私はイザナミです。その魂を降ろされました」
 恭一は、祐子をにらみつけた。
「根の国に行って黄泉戸契(ヨモツヘグイ)した魂がそう簡単に呼び出せるものか!」
 ヨモツヘグイとは、黄泉の国の食べ物を食べることであり、それをしてしまえば二度と地上には戻れないことになっている。
「祐子ちゃん。君はイザナミなんかであるもんか! 君は美山祐子だ。君は……君はね、君は……悲しいけど、……もう生きていないんだ」
 祐子の目の色が、不意に変わってうつろなものに戻った。
「美山……」
 カグツチが、そのガラス玉の目を見開いた。
「やめろ!」
 しかし、遅かった。祐子は、忘れていた記憶を取り戻していた。

 祐子の両親はいわゆる「できちゃった結婚」だった。経済基盤も整わないままに結婚した二人は、喧嘩が絶えなかった。物心が付いたころから祐子は、常に二択を迫られるようになる。それこそ朝食のメニューから、スリッパの色まで、両親の意見が対立するたびにどちらかを選ばなければならなかった。
 さらに悪いことに、選ばれなかった方は、祐子に暴力をふるう事もあった。そのたびに選ばれなかった方は言った。
「おまえが悪いんだ。おまえが居なければこんな事にはならなかった」
 祐子は、自分が生まれた事が間違いなのだと思い、自殺未遂もした。焼いた火箸を足に当ててみたこともあった。そのたびに両親は、祐子をめちゃくちゃに怒鳴りつけた「なんの当てつけだ」と。
 食事は、給食があるからと言っていつも少ししかもらえなかった。父親も母親も仕事を転々としていた上、二人とも浪費家だった。
 祐子は他人を信用しなかった。だから友達も出来なかった。愛想だけは良かったが、空虚な愛想の良さは、すぐに嫌がられるようになった。よく嘘をついた。両親のことをごまかし、思い出せない記憶をつくろうためにほとんど無意識に嘘をつくようになっていた。
 口笛だけは好きで、いつも吹いていた。両親は嫌がるので、いつも近くの鴨川で吹いていた。
 今年の夏、終業式が終わって家に帰った祐子は、両親に通知票を見せた。
 体育が2以外はほとんどは4と5で、数学にだけ3があった。父親は「数学に一個だけ3があるな。これなんとかしろよ」と言ってそのまま出かけてしまった。飲みに行ったのだ。
 母親は、その言葉が自分に向けられたものだと思った。
「祐子は出来るのにわざと手を抜いたんでしょう? お父さんに私が酷いこと言われる様に仕向けたんでしょう」
 祐子は否定したが、母親は「もう我慢できない」と言った。
 母親は、祐子の頬を平手で打った。その場に倒れこんだ祐子の腹蹴った。母親は、逃げようとして這っていく祐子の髪をつかむと「あんたみたいに卑怯で薄汚い子供を作ったこと、私もお父さんも一生かけて後悔しなきゃいけないんだ!」と叫んだ。
 祐子はもう逃げなかった。それを聞いた瞬間、全身の力が抜けたのだ。祐子は母親にすべて投げ出した。
 その態度が、母親にさらに火をつけた。病院に行くところまでは覚えている。母親は泣いていた。父親と母親が病院の廊下で喧嘩して、お医者さんに怒られているところも見た。警官が来て、両親を連れて行った。
 それ以来祐子は、鴨川の河川敷で過ごしていた。自分が何者なのかよく分からなくなっていた。でも口笛だけは好きだったので、たまに吹いていた。

 祐子は耳を塞いでその場にうずくまってしまった。一気にフラッシュバックした記憶の前に、祐子はそうするしかなかった。口笛が止んだ。静まりかえった。
 カグツチは、祐子の姿を見下ろし、それからゆっくりと恭一に向き直った。ガラス玉の目が、見開かれた。
「なんて事をしてくれた。神罰を下すぞ」
 恭一は、カグツチに詰め寄った。
「何が神罰だ! あんたは根の国にも下らずに、父親に殺された恨みをまだ忘れずに、こんな事をてるのか!」
 カグツチは、その顔までも憤怒の形相に変えた。もとから刻み込まれた皺は密度を増し、深さを増した。白い髭が燃え立つような赤色を帯びていく。
「確かに儂は、この儂の役割故に、誕生の時自分の炎で母に大火傷を負わせ、母は死んだ。父はその私の首をはねた。儂は生まれるべくして生まれ、母は殺されるべくして殺された。そして父は儂を殺すべくして殺した。すべては運命であり、儀式だった。儂……つまり火の力を押さえなければならなかった。だから父は私を斬った。だがな、父は……イザナギは、儂を殺すとき泣いていた。」
 恭一の背中を、冷や汗が流れていく。もしかしたら自分は重大な間違いを犯したのではないか?
「じゃぁあなたは、イザナギノミコトを恨んでいないのですか? ならばなぜ破壊するんです。火伏どころか太郎焼亡の様な大火を引き起こしたのも、あなたじゃないんですか? そして今回も、ククノチみたいな化け物を呼び出して、今度は日本中、いや世界中を破壊するつもりですか!」
 カグツチは、握りしめた拳に炎を生じさせた。暗くなり始めた辺りを
「破壊であるものか! この街を世界の首都となる資格がある。だからそうしてやろうと思ったまでのこと。ククノチがここに眠るとき、儂もまたここでククノチを見守ることにした。なぜなら儂は火山をも司る神であったし、私の死体から山の神が生まれたくらいだから山にもまつわる神だ。私は火の神だが、火伏の神でもあるから、山を火事から守ることもできる。ククノチは木の神だが、山は木をはぐくみ、また木は山の自然には欠かせない。木は根によって土の流出を防ぎ、落ち葉は腐葉土として次の命をはぐくむ。それだけじゃない。腐葉土の栄養を含んだ水は、海草や微生物をはぐくみ、魚を養う。母は海だけじゃない。山もまた重要なのだ。山と木の相互作用によって、この星の命ははぐくまれる。私は、眠るククノチを見守りながら、時を過ごしていた。しかし……人類は、両親が設計したメカニズムを破壊しはじめた。高天原の神々はもうこの星への興味を失っているのかもしれない。どんな危機的な状況にも介入しなかった。だれも手を下さないなら、儂が手を下して理想郷を建設をする。その為の世界の首都。それがこの街だ。それをお前は、台無しにしたんだぞ」
 恭一はもはや、助かる見込みが無いことを知った。カグツチに触れられた瞬間、自分は跡形もなくなる。
 それほどに、神の拳は赤熱していたのである。恭一は退かなかった。退いても結果は同じだと、本能で分かっていたのかもしれない。
「神様はエゴイストなんですね! そのために、祐子ちゃんの傷ついた魂を無理矢理地上に押しとどめ、偽りの母親に仕立ててククノチを操ろうとしていた。そんなもの相互作用であるもんか。そんな事をして本当に理想郷が作れると言うんですか! だいたいなんですか、理想郷って! 世の中仏教徒だってキリスト教徒だってイスラム教徒だって居るんです。真実は、あなたの言う通りかもしれないが、あなたの理想郷は、おそらく人類全体の理想郷じゃない」
 そう言った恭一の頭上を光線が走った。静まっていたククノチが、母の口笛が聞こえなくなった事で、動き始めた。光線は、全天を覆い尽くし、ククノチを中心に、光線の傘が展開される。夕暮れは、一転真昼になり、一気に周囲が見えなくなるほどの強烈な光となる。
 恭一は両目を覆ったが、閃光が手を通過して、網膜に飛び込んでくる。
 光線はすぐに収まった。
 恭一は、眩んでしまって、見えなくなった目を無理矢理開いた。最初に見えたのは、カグツチの放心した顔だった。次に見えたのは、うずくまって泣いている祐子だった。そして、次に見たのは、上階が消し飛んだ街の姿だった。爆発音もなく、崩壊する音もない、強烈な熱で瞬時に蒸発してしまった。
「ハ・ハ!」
 内蔵を揺さぶる重低音に、嘔吐感を覚えながらも恭一は、カグツチに向かって叫んだ。
「鎮めてください! お願いします。ここにあなたの理想郷を作ったって構いません。あれを鎮めたら、きっとキリスト教もイスラム教もみんなやめて神道になります! お願いです」
 あっさりと前言を撤回したのは、その威力を目の当たりにしたからである。あれが好き勝手に暴れ回ったら、世界は三日と保たない。
 カグツチは、赤熱させていた手を元に戻していた。
「この惨状は君が招いたんだぞ。今川君」
 そう言われた瞬間、恭一は、ひょろ長い体を躍動させて、カグツチの頬に拳をたたき込んだ。しかし、金属を叩いたような、甲高い音がして、痛んだのは恭一の拳だった。
 たまらず声を上げた恭一を、カグツチは鼻で笑った。
 ククノチがまた、「ハ・ハ!」と叫んだ。天にその巨大な腕を伸ばしている。銀色の巨体が、微かに振動していた。すっかり暗くなった空に、赤い光の筋が二本伸びている。おそらく、ククノチの目の光だろう。
「お前さん。神をも恐れぬ強者だな。だがね。君のその勇気には感心したよ」
 腫れ上がったこぶしを掴んで、痛みに堪えていた恭一が、顔を上げた。
 カグツチは恭一の肩に手を置く。
「確かに、君の言うとおり、少々勝手が過ぎたのかもしれないが、何にせよもう遅いんだ。ククノチは世界を滅ぼすかもしれない。ククノチは暴れ出したら手の着けようがない。じたんだを踏めば湖になるし、山を叩けば奇妙な形に破壊される」
 恭一は、その場に座り込んだ。
「あなた方が呼び出したんだから、元のところに戻すなり、どこかに埋めるなり、海に沈めるなり……なんとか、なんとかならないんですか。言葉、通じるんでしょう?」
 カグツチは、恭一を見下ろした。髭が揺れる。祐子の微かな嗚咽が、二人の耳に届いた。
「通じるが、あいつは祐子ちゃんが偽物だって薄々感づいているかもしれない。この場は一応静まるかもしれないが……それ以上は難しいな」
 恭一は、横で泣いている祐子の背中さすってやった。神が与えた機械の体は、痛々しく繊細で、しゃくりあげるたびに震えて、崩れそうだった。
 しかし、恭一のぬくもりを感じてか、嗚咽は静まった。
「じゃあ、イザナミノミコトが居る根の国に行ったらどうです? イザナギノミコトもスサノオノミコトもオオクニヌシノミコトも黄泉比良坂から行ったでしょう? たしか、出雲にあるはずですよね?」
 カグツチは、頷いた。
「たしかにそこにある。儂もそこに行きかけたが、引き返した」
 恭一の顔に、希望が宿った。
「でもな……あそこに行くには、道しるべが必要だ。でないと迷ってしまう」
 恭一は、しばらくうつむいていたが、腕時計を見て立ち上がった。
「道しるべならありますよ。もうすぐ八時だから点火されるはずです」
 恭一は、東の空を眺めた。送り火の代表格と言われ、その起源が平安時代とも言われる、東山如意が岳の大文字である。高い建物が排除された今、その姿は、ここ千本丸太町からもはっきりと見えるはずであった。
「よし……良いだろう。私は、この街を破壊しようと言うのではないんだ。こうなってしまったからには、仕方あるまい。とにかくあれが点火されたら、儂が説得する。祐子ちゃんは、口笛を吹いてくれないかね?」
 祐子は、答えなかったが、頷いた。恭一は、祐子の肩を抱いて、立ち上がらせた。頼りない肩だった。
「祐子ちゃん、口笛を」
 祐子は、涙でぐちゃぐちゃの顔を拭こうともせずに、口笛を吹き始めた。夜空に吸い込まれる音を聞いたククノチが、胴体を傾け、恭一達を見つめた。目から発せられる赤い光が、スポットライトのように三人を照らした。
「ハ・ハ……」
 ククノチは微かに首を傾げた。祐子はそれに答えるように頷いた。
「儂は、父母を恨んでいたのかもしれない」
 と、カグツチが呟いた。
「でなければ、父母が築いたここを作り替えようとは思わなかったような気がする。儂は、この子を待っていたんだ……傷ついた魂を」
 カグツチは、ククノチの目を見つめていた。恭一は、カグツチの言葉に、直感した。
「まさか……」
 カグツチは、恭一の言葉を遮った。
「まだかね。いまククノチは大人しいがそんなに長くは保たないぞ」
 八時十五分過ぎても大文字山は点火されなかった。それどころか、他の送り火も点火されない。八時十五分なら、妙法と舟形、左大文字が点火されているはずである。
「どうしたんだ」
 今日は八月十六日のはずだ。と……唇を噛んだ恭一は、簡単なことに気が付いた。
「こんな騒ぎの最中に、点火できるわけがない!」
 カグツチが、口の周りの皺が伸びるほど口を開けた。
「そっそうか……それはそうだ」
「大地震があろうとゴルフ中継流すようなテレビ局とは違うんです!」
 恭一は、言いながらも、次の手を探している。しかし、焦燥感ばかりが頭をもたげて良い案が浮かばない。恭一が「くっそぉ」と呟いたそのとき、カグツチが、手を打った。
「儂が行って点火してこよう。ククノチの説得は君がするんだ」
 恭一は、声を震わせた。
「そっそんなこと出来るんですか?」
「やるしかないだろう。言葉は通じるよ大丈夫だ。とにかく説得を始めなさい。私がすぐに点火するから」
 そう言うと、カグツチは返事も聞かずに走り去った。一瞬のうちに視界から消えた。
「祐子ちゃん……」
 祐子は、唇をとがらせたまま、恭一を見た。恭一は、唾を飲み込んで、それから声を上げた。
「ククノチの神よ! 聞いてください。あなたのお母様であるイザナミノミコトは、ここには居ません!」
 その一言がまずかった事に、恭一は発音してから気が付いた。
 ククノチの目が輝きを増したのである。恭一は、はやばやと失敗した。祐子はあきらめずに口笛を吹いている。その旋律を聴いていたせいか、一気に混乱しかけた恭一の精神は、平静に近づいた。
「しかし、これから、あなたのお母様の居場所をお教えします。だから落ち着いて聞いてください」
 ククノチの目の色が少し薄くなった。恭一は、このキレやすい神様をどうなだめるか、それを考えなければいけないと思った。出来るだけ、間をとって話さなければならない。そのためには、ゆっくりと、ゆっくりと話さなければならない。
「あなたのお母様は、高天原にもいません!」
 ククノチが微かに頷いた。それは知っていると言うのだろう。本当は知らないのだろうが、いくら努力してもいけなかったので、そう思ったのだろう。
「あなたのお母様は、火の神カグツチをお産みになったとき、そのホトを焼かれて、根の国に下られたのです。いまお母様、イザナミノミコトは、根の国にいらっしゃるのです」
 ククノチの目から、液体が流れ出した。死んだことが分かったのだ。同時に目の赤みが増した。
 さらに、悪いことに口笛がとぎれがちになってきたのである。祐子の体力が限界に近づいていた。恭一は、東の空を眺めた。しかし、まだ明るくなる気配は無い。
 恭一は、涙がでそうになりながら「火の神だったらさっさと点火してくださいよ」と心の中で思った。まさかカグツチは完全な火伏の神になって、点火の能力が薄れているのか……? 恭一は、カグツチの赤熱した拳を思い出して、大丈夫だそれは無い、きっと無いと心の中で反復する。
 恭一は、汗でどろどろになったズボンで、手の汗をふき取った。
「いいですか、これからあなたがお母様がいらっしゃる、根の国に下る方法をお教えしますから、聞いてください!」
 祐子は限界だった。口笛の音がかすれだしていた。ククノチは心の平静を失いつつあった。
「これから、東の空に火がともります、それを目印に体を捨てて飛んでください。その体は捨ててください。良いですね。捨てるんですよ!」
 言い終わった瞬間、口笛が消えた。ククノチは「ハ・ハ!」と叫び声をあげた。恭一の言葉を聞いていなかったのかもしれない。
 ククノチは、体を銀色から、一気に赤い輝きに変えた。その熱が一気に顔に昇のが分かった。
「おちついて! お願いだ! あとすこしですから! お願いです! お願いだから! 頼みます! 勘弁してください!」
 恭一は、ほとんど泣き叫んでいた。柏手を打ってみた。
 そのとき、東の空がぼんやりと明るくなった。そして、中心から五つの方向に、オレンジ色の炎の線が延びて、一気に「大」の字を形成していく。
 空を微かに照らす、大文字の光から煙が上がる。その煙が炎を霞ませ、その光をより美しく幻想的なものへと変えていく。
 しかし、ククノチの発する光も頂点に達しつつあった。恭一はもうダメだ。と目を閉じていた。
「ククノチ! 付いてきなさい!」
 その声を、聞いて恭一は目を開けた。空にぼんやりとした光が浮いている。その光を、赤熱したククノチも見ていた。
「ハ・ハ!」
 その瞬間ククノチの頭から、薄い緑色の光が飛び出し、ククノチを呼んだ光と共に、大文字に向けて飛び去っていった。一瞬の出来事だった。何が起きたのかは分からなかったが助かったのは分かった。
 恭一は、赤熱していたククノチの体が、砂のように崩れ去るのを見た。地鳴りと振動が、廃墟を揺さぶった。
「祐子ちゃん、助かったなぁ」
 と言って、振り返ったがそこに祐子の姿は無かった。月の光だけが頼りの青暗い闇の中で、恭一は足下に転がる銀色の玉を見つけた。手に取ると、その玉は生きているように振動している。恭一は、それをポケットに入れた。
「祐子ちゃん……」
 傷ついた魂は、根の国で癒されるのだろうか? 恭一は、夜空にぼんやりと輝く大文字を眺めた。
 カグツチはどうしたのだろうか、恭一はぼんやりと考えながら、ポケットにしまっていた玉をまた取り出した。
「儂も根の国に下ることにするよ。その明玉は君にあげよう。極小の機械を製造するものだ。口に含めば儂らと同じになれる」
 頭の中で、カグツチの声がした。
「勝手な……」
 恭一は、明玉をまたポケットにしまい込んだ。鴨川に捨てようと思い、東に向かって歩き出そうとした時だった。
 噴出音がして、ククノチが立っていた場所から、黄色い光が立ち上った。天に上るかに見えたその光は、噴水のように重力に従って地面に落ちて、一気に千本通りを流れ下った。
「気だ」
 京都が本当に、四神相応の都として成り立った瞬間だった。京都はククノチのかりそめの母ではなく、むろん墓でもなく、人々を暖かくはぐくむ母になった。
 そう思ったとき、景色はまた元の闇に戻った。
 恭一は、東に向かって歩き出した。
 明玉は鴨川に捨てた。