<1>

「おい!」
暗い夜道で突然声をかけられて、ヒロシは心臓が止まるかと思った。塾の帰りという事もあり、時間は既に午後9時を回っていた。
この道は、昼間は小さな商店を利用する人で幾らか人通りはあるのだが、こんな時間ではめったに人は通らない。まして、都心を遠く離れたベッドタウンのこの町では、9時以降出歩く人はめったにいなかった。
ヒロシは、空耳だと自分に言い聞かせ立ち去ろうとした。
「おい!」
空耳では無かった。ヒロシはその場から逃げようとした。が、腰が抜けたらしく、その場に座り込んでしまった。
「た、助け…。」
「なんだよ、大丈夫かよ?」
思いもよらないやさしい言葉に、少しは気を取り直し、ヒロシは辺りを見回した。
「ここだ、ここ。」
声をする方を見た。しかし、誰もいなかった。見えるのは商店の錆びれたシャッターだけだった。
「何だよ、分からないのかよ。
しょうがないな。ほら。」
その瞬間、ヒロシは、声の主が分かった。確かに、そこには声の主が居た。いや、あった。
その声の主は、自分に取り付けられたライトを点滅させて挨拶した。
「そうだよ、俺だよ。自動販売機だよ。」
ヒロシは、四つ這いのまま、一目散に逃げ出した。

朝になった。ヒロシは、昨日の事を母親に話そうとベッドから飛び起きると、台所に向かった。しかし、母親は既に仕事に出かけており、テーブルの上に朝食と千円札が一枚置かれているだけだった。ヒロシの中でいつもの様に何かが凍り付く音がした。
ヒロシの両親は1年前に離婚しており、現在ヒロシは、母親と二人暮らしである。母親は、東京でインテリアデザイナーの仕事をしており、いつも12時過ぎにならないと帰って来なかった。休日も仕事の時が多く、ここ1月近くロクに口も聞いていなかった。ヒロシは仕方なく、いつもの様に一人で朝食を食べ、学校へと向った。
ヒロシは、授業が始まっても昨日の事が気になり身が入らなかった。その為、何度か先生に注意をされる羽目になってしまった。学校が終わり、塾に行ってもそれは同じ事だった。ヒロシの態度に気づき、塾の先生が呼び止めた。
「どうしたんだ、今日は? そんなことじゃ、志望中学に入れないぞ。」
「別にいいですよ。」
「なんだ、志望中学に入りたくないのか?」
「別に。受験だってみんながやっているからやっているだけですし…。」
「目標はないのか!?」
「そんなの、なるようにしかならないじゃないですか。」
その後、憤怒する先生を残して、ヒロシは家路についた。ヒロシは、今日はあの道を通らないつもりだった。随分と遠回りになるが、怖い思いをするよりはマシだと考えていた。
駅前通りを抜け、住宅地に入る。住宅地を抜ける手前で右に折れるとあの道だが、今日は真っ直ぐ住宅地を抜けた。
しばらく行くと、公園が見えてきた。あまり、この道を通った事が無いので、こんな所に公園があるとは知らなかった。公園には中学生らしい3人組みがたむろしてた。ヒロシは嫌な予感がして足早に通り抜けようとした。
「おい、待てよ!」
「なんで、逃げんだよ。」
中学生たちに声をかけられ、ヒロシは立ち止まった。中学生たちは、ヒロシの方に近づいてきた。ヒロシはその3人を見た事があった。町で評判の不良グループだ。
「お、こいつ、知ってるよ。家の近くのマンションのやつだ。
こいつの母親、金持ちだって噂だぜ。」
「ふーん、じゃあ小遣いたくさんもらっているんだろうな。」
「俺たちビンボーなんだちょっと恵んでくれよ。」
「そうそう、少しでいいんだぜ。財布に入ってるぐらいでな。」
その言葉で中学生達は馬鹿笑いをしだした。ヒロシには、なにが面白いのか解らなかったが、とりあえずヤバイ状況だということだけは解った。前を塞がれ、後ろに逃げるしかなかった。だが、後ろは…。
ヒロシは、ポケットから財布を出した。しかし、手が震えているのか財布を落としてしまった。
「ほら、さっさと渡せよ!」
ヒロシは、財布を拾い上げると同時に地面の砂利を握り、中学生達の顔目掛けてぶちまけた。そして中学生達がひるんだ隙に、ヒロシは駆け出した。
「くっそ、待ちやがれ!」
ヒロシは、一生懸命に走った。しかし、中学生たちの足の方が早く、その差は徐々に縮まっていった。そして、とうとう中学生たちに追いつかれてしまった。
「へ、捕まえたぞ!」
「このくそガキ、なめやがって!」
中学生達は、ヒロシを捕まえると取り囲んで殴りかかった。
「警察だ!こら、お前達なにしてる!」
「わ、ヤベ!」
「逃げるぞ。」
中学生達は、その声で慌てて逃げ出した。取り残されたヒロシは、呆然と辺りを見回した。
しかし、思った通り回りには誰もいなかった。そして、ヒロシを助けてくれた恩人はライトを点滅させていた。
「大丈夫か? 危ない所だったな。」
ヒロシは、小さな声でいった。
「あ、ありがとう…。」
「おう、気にするな。」

<2>

「へぇ、自動販売機さんって都会から来たんだ。」
「おう、都会も都会、都会の中の都会ってやつさ。」
ヒロシは、体育座りで自動販売機に背も垂れていた。暗い路地裏で奇妙な二人(?)の会話は盛り上がっていた。
「俺が前いた場所はな。都会の繁華街の中央でな、街で一番華やかな所だったのさ。」
「へー、すごいな。」
「まわりにライバルも多かったけどな。俺様の種類の豊富さには敵わなかったぜ。」
「ふーん。あ、これ知っている。お母さんが持っている奴だ。」
「お、パーラメントの1mgBOXタイプか。お前の母ちゃんは
オシャレなもん吸ってんだなぁ。さしずめ、キャリアウーマンって奴だな。
ガハハハ!」
「どこが面白いか解らないよ。それに、僕はお前じゃないよ、ヒロシだよ!」
「おう、すまんすまん。ところで、ヒロシ、お前なんで連中に追われていたんだい?」
「うん、お金を取られそうになったんだ。」
「へぇ。だけどな危ない目にあうよりは渡しちまった方が良くなかったかい?」
「嫌だよ!」
「なんでだい?」
「なんで、僕があんな奴等に金を渡さなきゃいけないんだ。」
「そうか、そういうもんか。でも、えらいな。ヒロシは泣かなかったもんな。」
「僕、泣いた事無いもん。」
「えらい!」
自動販売機は、取り付けられているすべてのライトをチカチカさせた。
「うわ、まぶしいよ!」
「えらいぞ、ヒロシ! うん、久しぶりに俺は感動したぜ。チクショーめ!」
「なんか知らないけど誉めてくれてるんだね。ありがとう。」
「おう、ヒロシ。その通りだ。男は簡単に涙を見せちゃいけねぇもんだぜ!」
「そんなもんなのかな?」
「えらい、えらいぞ!」
自動販売機は、再び取り付けられているすべてのライトをチカチカさせた。
「もう、まぶしいったら。」
目をかばって腕を前に出した時、ヒロシは時計が10時を回っているのに気が付いた。既に、1時間以上も経っていた事にヒロシは驚いた。こんなに時間が早く感じられたのは始めてだった。
「あ、もうこんな時間だ。帰らなきゃ。」
「そうか。引き止めちまって悪かったな。」
「ねぇ、自動販売機さん。明日も来ていいかな?」
「別に構わねぇよ。」
ヒロシはニコッと笑うと、鞄を肩にかけて自動販売機の手を振った。
「じゃあね、自動販売機のおじさん!」
「おいおい、せめて、お兄さんにしてくれ!」
「じゃあね、おじさん。」
そう言うと、ヒロシは家へと走り出した。
家に戻ると、ヒロシの母は既に帰ってきていた。ヒロシは、ただいまと挨拶するとリビングに向った。リビングでは、母がソファに座り携帯電話をかけている所だった。仕事の段取りの話らしく、時々、声を荒げていた。母親はヒロシが帰ってくるのを見ると、電話が終わるまで待っててくれというジェスチャーをしたが、電話が長そうなので、ヒロシは自分の部屋に戻って眠る事にした。

<3>

それから、2,3日がたった。塾の帰りの「自動販売機」のおじさんとの会話はヒロシの一番の楽しみになっていた。「自動販売機」のおじさんは、ヒロシにいろんな話をしてくれた。目の前で繰り広げられた銃撃戦や、一組のカップルの出会いから別れ、そして、おじさんが見初めた一人の異国の少女の話。ヒロシは、「自動販売機」のおじさんの話を聞いているうちに、凍っていた何かが解けていくのを感じていた。

そんな、ある日、学校で大変な事件があった。

飼育小屋が、夜中のうちに何者かに荒らされ、飼育小屋で飼っていた動物たちが惨殺されたのだった。飼育小屋では、各クラス一匹ずつウサギを飼っており、当然、ヒロシのクラスもウサギを飼っていた。
ウサギの亡骸は、黒いビニール袋に入れられ、焼却炉で焼かれる事になった。各学年各クラス順番にウサギにお別れを告げる事にした。その日、クラスでは乱暴者で有名なクラスメートもおいおい泣いていた。ヒロシは、泣きじゃくるクラスメートを不思議な気持ちで眺めていた。なぜなら、ヒロシは面倒な飼育当番がなくなって良かったという気持ちしか湧いてこなかったからだ。
「なんで、お前は平気なんだよ!」
一人、平然としているヒロシを見て乱暴者のクラスメートが突っかかってきた。
「なんの事?」
「ピョン吉が死んだんだぞ! 少しは泣けよ!」
「別に。悲しくないもの。」
「この野郎!」
そう言うと、クラスメートが飛び掛かってきた。二人のケンカをクラスメートが煽った。
だが、ヒロシの味方は一人もいなかった。
「やめなさい!」
先生が止めるまで、ヒロシはクラスメートに殴られ続けた。
「二人とも職員室に来なさい!」
先生は残りの生徒は自習にし、二人を職員室に連れていった。ヒロシは、なんで自分まで呼出されるのか不満で仕方なかった。

「おじさんはどう思う?」
「おう、良くねぇな。」
「でしょー。良くないでしょ、うちの先生。
おまけに、ヒロシ君は冷たすぎるなんていうんだ。こーんなに目をとんがらせてさ。
だいたい、なんで僕まで怒られなきゃ…。」
「違ぇーぜ。ヒロシが良くねぇと言ったんだ。」
「えー、どうしてだよ。」
「解んねぇのか?」
「だって、僕なにも悪くないもの。悲しくないのに泣かなければいけなかったの!
だいたい、悲しいってなんなんだよ? そんなの知らないよ!」
「違ぇな。」
「じゃ、じゃ、じゃあ、どうして?」
「そうか、解らねぇのか?」
「解らない!」
「じゃ、さよならだ。」
「え…。」
「……。」
「おじさん?」
「……。」
「おじさんってば!」
「……。」
「嫌だよ、おじさん。おじさん、返事してよ!」
ヒロシは、とてつもない不安にからげて自動販売機を何度も叩いた。
「ごめんよ、おじさん!」
「ねぇ、ごめんたら!」
「プハァー!」
「え?」
「いやぁ、長ぇこと息止めるとしんどいわ。」
「おじさん!」
「はは、びっくりしたか?」
「うん、びっくりした。」
「悲しかったか?」
「え、よく解らないけど、おじさんに会えなくなると思うと怖かった。」
「そうか。」
「うん。」
「あのな、ヒロシ。その何十倍、何百倍の気持ちを、今日お前のクラスメート達は味わっていたんだ。」
「え? そうなんだ…。」
「悲しくないのに泣くことはねぇさ。だがな、悲しみにくれるクラスメートを思いやる気持ちは忘れちゃいけねぇぜ。」
「ごめん、おじさん。」
「誤る相手は俺じゃねぇな。」
「う、うん。」
「よし、じゃあ。今日はもう遅いから帰ぇれ。」
「うん。」
「おっと、驚かせて悪かったな。」
「ううん。平気。」
「じゃあな。」
「うん。じゃあね。」
ヒロシは、トボトボと歩き始めた。しかし自動販売機から10m離れた所で振り返った。
「おじさん!」
「なんだい?」
「絶対、いなくなっちゃ嫌だよ…。」
「おう、どこにも行きゃしねぇよ!」

ヒロシが家に戻ると、母親はまだ帰っていなかった。それから1時間後に、母親は仕事から戻ってきた。
「どうしたの?」
玄関で出迎えたヒロシを見て母親は目を丸くして驚いた。
「お、おかえり。」
「珍しいじゃない。ヒロシが起きて待ってってくれるなんて。
いつもは眠くなったら、とっとと寝ちゃうくせに。」
ヒロシは、ブーツを脱ぐ母の背中に抱き着いた。
「大好きだよ、お母さん。いつも、ありがとう。」
ヒロシの母親は振り返ると、優しくしかし力強くヒロシを抱きしめた。
「ごめんね。いつも一人ぼっちにして。」
ヒロシの母は、ヒロシの耳元で涙声で言った。
「くすぐったいよ、お母さん。そうだ、お願いがあるんだ。」
「なに?」
「今日は一緒に眠ってもいい?」

翌日、久しぶりに朝食を母親と食べたヒロシは、いつもより早くに家を出た。向った先はケンカしたクラスメートの家だった。しばらくすると、クラスメートが出てきた。
「な、なんだよ。昨日の続きでもやろうってのか!?」
ヒロシは無言でクラスメートに近づくと頭を下げた。
「昨日はゴメンね。」
クラスメートは驚いたが、笑顔で右手を出した。二人は固い握手を交わすと一緒に学校へ向った。

<4>

「本当なんだってば!」
「うん、ヒロシが嘘言う様な奴じゃないとは思うけどさ…。」
ヒロシとクラスメートは自動販売機に会うため、学校が終わると路地裏に向った。
駅前通りを抜け、住宅地を抜ける手前を右に入る。そこには、「自動販売機」のおじさんが待っている…はずだった。
「ほら!」
ヒロシの指差した方向には、何もなかった。
「なんだよ、自動販売機なんてないじゃないか。」
クラスメートの声もうわの空に、ヒロシは商店に駆け込んだ。悪い予感がした。
「じ、自動販売機は!?」
「え?」
商店のおじさんが、驚いたように聞き返した。
「表にあった自動販売機どうしたんの!?」
「ああ。なんかね、最近ここいらにたむろしている中学生が夜中に公園でたばこを吸っているんで、おまわりさんが補導したら表の自販機で購入したっていうんだよ。」
「それで!?」
「で、役場で問題になってね。どうにかしろってんで、もともと廃品同然で置き場所の無かったのを業者から安く譲ってもらっただけだったから、いいよ、持っていってもって
いったら役場の奴、とっとと持っていっちまいやがったよ。」
「役場だね!」
そう聞くと、ヒロシは役場に向って走り出した。心の中の悪い予感が、どんどん膨らんできていた。ヒロシは、役場につくと窓口に駆け込んだ。
「今日、持っていた自動販売機は!?」
「え?」
「自動販売機はどこ!?」
「あ、裏のスクラップ工場…。」
「!」

悪い予感は的中した。
ヒロシが、スクラップ工場についた時には、既に「自動販売機」のおじさんはプレスされた後だった。ヒロシは、四角く変形した「自動販売機」のおじさんを、ただ茫然と眺めていた。
「ヒロシ!」
心配したクラスメートが追いかけてきてくれた。
「なんで…。」
「え?」
「なんで、たった一握りのルールを守れない人の為にさ普通に暮らしている人が壊されなきゃならないんだろうね。」
「ヒロシ…。」
「なんでなんだろ…。」
ヒロシは、目から熱いものが流れてくるのを止める事ができなかった。それは、ヒロシが久しぶりに流した涙だった。