健吉は美代の左の腿に萎れた右手を置いた。
 美代は俯いていた顔をゆっくりと上げて、窓の外を見やった。


 庭に面したこの部屋には午後のあらゆる輝きが充満していた。朝、いつもの時間に来た美代が障子を開け放した時、健吉は切れ長の大きな目を瞬いて溜め息をついた。
「今日も賑やかですね。平日でもしんとしなくていいですね」
「そうだね。しかし、入る店は大体決まってるからね。うちなんかには、目当ての店からあぶれたような客ばかりだ、来るのは」
 健吉の長男が営む天麩羅の店は、平日は確かに賑わってはいないけれども、それでも常に半分ほどテーブルが埋まっていた。季節の野菜や魚を使った天麩羅のセットが気軽な昼食メニューとして定番になっている。健吉の長男の健史と嫁の比沙子、そして夫妻の娘で大学に通いながらアルバイトに来ている、理沙子。彼らの快活で忙しそうな声がかわるがわる聞こえていた。
「なあ、美代さん、あんた、天麩羅は好きかい」
 美代が初めてヘルパーとして派遣されて来た日から、健吉は口癖のように同じことを訊いた。旦那はどうしてる、何の事故で死んだ、遊び盛りの娘との生活はうまくいっているか。
「ええ。好きです。お野菜のものなんか特に」
 美代は丸い頬を優しく緩めて答える。健吉は頷いて、目の前にある壁や窓をぼんやりと眺めるのだった。  

「美代さん、あんた、歳はいくつになった」
 健吉は、美代の腿に置いた掌にじわりと力を込めた。
「私ですか? 四四になりました」
 美代は窓の外を見たまま、うっすらと微笑んで答える。
「四四か…。その歳で、あんたぐらいの器量よしだったら、もっと実入りのある仕事探したらいいだろうに」
 美代は小さく笑って応えた。
「新しい旦那が欲しいとは思わないのかい」
「…亡くなった主人一人で手一杯ですから」
 健吉の乾いた掌から音を立てて、不思議な湿り気が美代の腿の柔らかな肉に染み込んでいくのを彼女は感じていた。その湿り気はあっという間に、彼女の全身を潤した。けれども、見ると健吉の手は乾いて皺だらけのままだった。
「そうかい…。あんたさえその気になれば、見合いの口ぐらいいくらでもあるんだがね。もったいないね」
 健吉は、庭の隅の物干しで軽やかに風に揺れる色とりどりのきらめきを、じっと食い入るように見つめた。美代はまた小さく笑った。
「…なあ、美代さん」
 健吉は急に手を仕舞うと、美代には既に馴染みのある種の表情をした。美代は頷いて、ベッドの下にある尿瓶を取った。
 

 健吉の妻の辰子は、八〇歳の誕生日を次の月に控えたある日、梅雨のさなかに亡くなった。雨が何日も降り続いて、見舞いに来る人々の足も重くなり始めた頃、容態が急変し、数日して息を引き取った。
 健吉は参道で煎餅屋をしていた父と喧嘩をして、店を継がずに隣町で会社勤めをしていた時に辰子と知り合い、結婚をした。辰子は健吉の両親をよく労わり、すぐに親子のわだかまりを解いた。まるでお手本のようにいい妻、いい嫁だった。結局店を継いだ健吉と一緒に働いて、大往生で亡くなった舅と姑もしっかりと看取ったし、上野の料理屋で勉強をした長男の代で店が天麩羅屋になってからは、夫婦で隠居をし、自分は琴を教えた。
 糖尿病の影響で、隠居をしてまもなく不自由になった健吉の世話は辰子がみていた。七十代のほとんどを夫の介護で彼女は費やした。そして七七歳の夏、脳梗塞で倒れた。入院とリハビリ通院を繰り返し、七九歳の春に併発した肺炎が治らず、そのまま亡くなった。
「いいおばあさんだったねえ」
 辰子の葬式の席では、誰もがそう言って涙をこぼした。
「働き者で、気立てが良くて、ねえ…」
 辰子が倒れてから派遣されていたヘルパーの二人、特に若い方の美代を辰子は気に入って、時折琴を出させては舌の回らぬ口を開いて簡単な曲を教えたりしていた。
 彼女の死後、美代は健吉のところへヘルパーとして改めて派遣された。夕方、帰る途中参道の店で買物をしていく美代に、会う人たちは言った。
「お辰さんは美代さんをそりゃあ気に入ってたから。健吉さんの世話も見てもらえて、きっと喜んでるよ」
「あんたも偉いね、若いのに。いくら仕事だからって、できるこっちゃないよ」
 美代は少女のように首を傾げて、困ったように笑うのだった。


 夕方、美代がマンションに帰宅すると娘の佐紀が玄関まで出迎えた。
「早いじゃないの」
「今日バイトお休みだもん。朝そう言ったでしょ」
 佐紀は少々機嫌悪そうにそう言うと、食卓のあるリビングに入ってテレビを点けた。ほんの少しブラウンに染めた長い髪が、蛍光灯のあかりを反射して滑らかに光った。
 都心の大学の仏文科に通う佐紀は、二年生になり、二十歳の誕生日を向かえようとしているこの頃、急速に変化していた。細めの四肢や胸、腰の周りがどことなく優しい呼吸をするようになった。その変化は美代にも覚えがあるものだった。美代が信彦と結婚したころとそっくりな女に、佐紀はなろうとしていた。

 信彦は五年前の冬、会社の後輩たちを引率して行ったスキー旅行で、夜道で車をスリップさせガードレールに激突し、死んだ。カメラのフィルムをコンビニまで買いに行くと行って出かけ、戻らなかった。美代が急報を受けて信州にある病院に着いた時には、もうとうに信彦は息を引き取っていた。激突した時に木々が生い茂る斜面に投げ出され、傷だらけになっていた。いつまでも泣きじゃくる娘の背を撫でながら、美代は呆然としていた。東京へ帰り、葬式も済ませた頃になってようやく、涙が流れた。その涙は空が曇ったといっては流れ、爪が伸びたといっては流れ、料理の塩加減を間違えたといっては流れた。先に立ち直ったのは娘の方だった。
「ママ、これからどうする?」
 ある日佐紀は台所で背中を丸めて糠床をかき混ぜている美代のそばにしゃがんで言った。
「ヘルパーだったら資格持ってるでしょ。一日中家になんかいないで、働いたらどう」
「…でも、お金だったらしばらくは大丈夫なのよ。パパは保険にも入ってたし、佐紀の学資だったら貯めてたし」
 美代は糠を掴む手に力を込めた。
「違うの。うざったいの。ママが暗い顔してずっと家にいるのが」
 佐紀はそう言うと二階にある自分の部屋に入った。
 ヘルパーの資格は信彦の母が心筋梗塞で倒れた時、介護の助けになればと思って取ったものである。結局それを役立てる前に義母は亡くなっていた。
「義母が不自由していた時、おろおろしてばかりで何もできませんでしたから」
 面接を受けた時、美代は言った。
「おんなじように不自由してらっしゃるお年寄りのために、私のような者でも助けになればと思いまして」
 彼女は夫と娘と三人で暮していた広い家を売った。東京の郊外の静かな暮しよりも、人間が密集して生活する賑やかな土地での暮しに惹かれた。それは、自分自身を心の奥底にある暗い小部屋に閉じ込めてしまう前に外からあれやこれやと干渉される生活、それぞれが違った人生と生活を抱えている人々が絶えず目の前をちらついている生活、それに憧れたせいかも知れなかった。
 美代は、先輩にあたる初老の女性と二人で週に三日、映画の舞台に使われてすっかり有名になった江戸川のほとりの、賑やかな参道沿いにある天麩羅屋に通った。派遣会社から歩いて一五分、美代の自宅からも歩いて二〇分だった。

 食事を終え、キッチンで美代が後片付けをしていると、佐紀が来て隣に立ち、美代が洗った皿を布巾で拭き始めた。
「ねえママ、あたし下宿したい。大学の近くにいいアパートがあるんだ。家賃も安いし」
 佐紀の爪は美しく手入れされて、淡いピンクのマニキュアで艶やかに光っていた。
「下宿って、ここからだって通えるでしょう。不自由ないはずよ」
 美代がそう言うと、佐紀は肩からなだらかな胸に流れてきた髪をちらりと見て、皿を拭く手の動きを少しだけ早めた。
「不自由って程じゃないけど、乗り換えが何度もあって面倒なのよ。バイトだって、学校の近くで探せば家から遠いし、家の近くで探せば学校から遠いし。やりにくいんだ」
 二人分の皿を洗い終えて流しもきれいにして美代がリビングに戻っていくと、佐紀は手早く皿を拭き終え追いかけるようにして来た。
「ママだって、都心でもっと違う仕事探したら? その方がいいよ」
「あらなあに、ヘルパーやったらって言ったの、あんたじゃないの」
 美代は笑った。
「だってたまたまママが資格持ってたの、ヘルパーでしょ。…まだ四四だよ、ママ。もうちょっと歳いってからでもいいんじゃない? 地味すぎるよ。それに」
 佐紀は大きく伸びをして、溜め息をついた。
「それに、何?」
「おばあさんと二人の時はよかったけど、あのおじいさん一人になってから、なんでママだけが行くの? もう一人一緒に行ってたヘルパーさんに代わってもらえばいいじゃない。ママは仕事にも慣れたんだろうし男のヘルパーが人手不足ならしょうがないけど、なんか、やだな」
 それだけ言って、佐紀はまたリビングを出て部屋に入っていった。ソファに残された美代は、虚しく騒ぐテレビの画面を見つめて、何度か小さな溜め息をついた。


 日曜、健吉は区の施設へデイサービスを受けにいくことになっていた。
 朝、美代は健吉に肩を貸して車椅子に座らせ、庭から出て川沿いの道へと向かった。健吉はすっかり細く縮こまってしまった足を見下ろすように項垂れて、ゆっくりと深い呼吸をしながら時折、顔を上げて前方を見た。
 寺の横の道路に出ると、もう川の土手が青々と見えていた。その上には夏の盛りの空が燦燦と輝いていた。健吉は大きな麦藁帽子を被っていた。後ろに立って車椅子を押す美代には、帽子の下の顔は見えなかった。
 土手に上がって、アスファルトの道をゆっくりと進む。ガラスの破片をちりばめたようにひたすら光っている川面は、遠くに見える渡し舟とそれに乗った人々とをその光の中にすっかり飲み込んでしまっていた。
「舟は、出てるかい、美代さん」
「ええ。日曜日だから、定員いっぱいに人が乗ってますね」
 舟で川を渡るともう隣の県で、向こう岸には一面に葱の畑が広がっていた。そちらの方には、岸から歩いて行ける距離に有名な文学碑がある。渡し舟に乗るのは、ほとんどが観光客だった。
「美代さん、知ってるかい。あの舟も、今じゃあモーター積んでばたばた動かしてるんだ。船頭も少なくなったからね。たまにしか乗っちゃいないよ」
「そうですか…そういえば、船頭さんいませんね」
 舟の上にはぎっしりと定員いっぱいに乗客がいて、なるほど船頭が立って舟を操る姿はなかった。
「おれが若かったころは、日に焼けた気のいい船頭がいつでも乗っててな、ぎいこ、ぎいこ、漕いだもんだ。モーターの舟には乗る気がしねえな」
 健吉は溜め息をついた。
「なあ美代さん。あんた、旦那はどうしてる」
 いつもの質問だ。美代は頬をほころばせて応えた。
「五年前に、自動車の事故で」
「そうかい。…生活はどうだい。娘さんと二人、楽じゃなかろう」
「いいえ、学資はなんとかなってますし、娘もアルバイトしてますから」
「…そうかい…」
 健吉が車椅子を停めるようにとの手振りをしたので、美代はゆっくりと、停めた。健吉の麦藁帽子は川の方、渡し舟の方を向いた。
「じゃあ、あんたの旦那、あっち岸にいるね。これが三途の川だとしたら、あの舟に乗って、あっち岸に行ったね」
「まあ、…三途の川だなんて…」
 美代は小さく笑った。健吉の声は少しも笑わなかった。
「旦那に、会いに行きたいと思うことはあるかい」
 初めての質問を健吉はしてきた。美代は、とっさに答えられずに黙って舟を見た。
「あっち岸に行けば、いるんだ。あんた、旦那に会いに行きたいと思うことはないかい」
「それはありますけど、…私には娘がいますから。あの子がちゃんとした人のところへお嫁に行って、可愛い赤ちゃん産んで、幸せになってくれないと」
 美代は懸命に、固まろうとしていた頬を緩めた。麦藁帽子は後ろを振り返った。それでも、広いつばに隠れて健吉の顔は美代には見えなかった。
「そうだね。…あんた、まだ若いね」

 施設へ着き、そこの療法士に託される時も、健吉は帽子の下に顔を隠したまま、美代に声だけ聞かせて建物の中に入っていった。美代は手を振った。


 天麩羅屋から火が出たのは、その日の夜遅くのことだった。

 火は意外にも健吉の寝所から出て、その部屋を焼き、長男夫妻の部屋も焼いて、店の油に引火し瞬く間に店舗ごと全焼させた。木造家屋ばかり密集する地域だったので、近隣の者は皆が起きてきて手に手に消火器を持ち、懸命に消火作業を手伝った。結局両隣は庇と壁を少し焼いただけで済んだ。
 天麩羅屋は、主人夫妻と娘は着のみ着のままで逃れたけれども、火元の部屋で寝ていた健吉を助け出すことはできなかった。焼け落ちた家の柱の下に、真っ黒に焼けてカリントウのように小さくなった健吉が発見された。健吉は、寝る前に、蚊がうるさいと言って嫁に蚊取り線香を焚かせた。その線香のほんの小さな火が、どこかに引火したのだろうと、消防署と警察では言った。嫁は泣いた。
 美代のところには、会社から急報が行った。彼女は寝巻きから手早く着替えると参道まで駆けつけ、消火作業を手伝った。あたりは昼間のように明るかった。その明るさの中で、美代は荒れた髪と煤で汚れた顔を晒し、同じような姿で消火器を持つ人々と一緒になって懸命に努めた。右の手首をやけどした。火の熱さに彼女は気がつかず、隣にいた人が濡れた手拭をあててくれて初めて、自分がやけどしたことを知った。

 美代は手当てを受けながら、火の粉を雨のように散らして燃える火を黙って見ていた。何を慌てているのか、その火はほとんどがむしゃらになって家を焼いていた。
 煎餅屋から天麩羅屋に代わる時に建て増しをした木造の家は、あっけないくらいに容易くくずれていった。油への引火で勢いを得た火は、四方から浴びせられる水の勢いと争うようにして踊り狂っていた。柱が一本倒れる度、板が一枚落ちる度に、細かな火の粉は花火のように舞った。
 美代は、深呼吸をしてその火の粉を胸一杯に吸いこんでみたい思いに駆られた。吸い込んだところで、自分の体の中にある不思議な水分は、熱を得て煮えたぎることなどないように思えた。だからそれを繰り返すことで、目の前の炎を全て消してしまうことさえできるような気がした。しかし彼女は俯いて、小刻みに呼吸をしてしばらくの間目をつぶり手の傷みを思い出そうと努めていた。

 火が収まると美代は焼け跡の奥へ踏み込んで、健吉を捜した。消防署員が倒れた柱を除けると、そこに小さな黒いかたまりがあった。美代は、手を合わせるのも忘れてそこに呆然と立ち、焼け焦げたそのかたまりを見下ろした。
 そばにはやはり真っ黒に煤けた車椅子があった。それは溶けて爛れたシートに座って車輪を押せば、焼けたことなど忘れてまた動きだすかのように、庭の方を向いて静かにじっと何かを待機していた。