種 掲載日 本支社 行数
記 1998/01/06 東京 58
スキー複合の森敏、親子3代の夢かなった! 腰痛乗り越え「長野代表」に内定

 長野五輪ノルディック複合の日本代表6選手は、きょう6日に正式発表されるが、代表の一人に内定した森敏(さとし)(野沢温泉ク)の父・行成さん(55)は"一族の夢"の実現に感慨深げだ。
 祖父・敏雄さん(故人)、行成さん、敏選手と続く三代の親子は、ともにスキーの国内トップ選手。だが、五輪代表を目指す一族の戦いは、不運の連続だった。
 祖父は、1935年のジャンプ全日本選手権で優勝するなど、国内ジャンプ界の草分け的存在だった。しかし、選手として全盛期だったガルミッシュパルテンキルヘン五輪の日本代表選考会で転倒、惜しくも代表から漏れ、以後、代表には縁がなかった。
 父は、アルペン選手。60、61年とインターハイを連続制覇するなど活躍し、64年のインスブルック五輪の有力選手となった。だが、五輪前年の大会で転倒し骨折。夢は破れた。
 敏は、飯山北高三年時にインターハイの複合で優勝、95年のシーズンまで荻原健らとともにW杯Aチームで世界を転戦していた。だが、遠征中の食中毒事故で入院。以後、原因不明の腰痛に悩まされ、代表チーム落ちの苦しみを味わった。腰痛が和らぐに従い、昨年暮れからスタートしたW杯第2ピリオドから2年ぶりにAチームに復帰、今回の内定を射止めた。
 敏を支えたのは、やはり家族の支援だ。野沢温泉村の村長を務めたこともある敏雄さんは、86年、同村に日本初のサマージャンプ台を建設するなど、先進的な考えの持ち主だった。孫の五輪での晴れ姿を見ることなく、敏雄さんは、95年に他界している。内定の報に行成さんは「一族の悲願が達成できた。敏は、元来、おとなしい子ですが、昨夏は表情が引き締まっていた」と感無量の表情だった。
 


種 掲載日 本支社 行数
記 1998/02/01 東京 106
[いま長野に](2)ノルディック複合・森敏 一族の悲願ついに実現(連載)

 ◆戦火に消えた祖父たちの「札幌」 父もけがで果たせず 父の実家 眼前にひのき舞台
 森敏のノルディック複合五輪代表決定を報じる新聞記事のスクラップに、父・行成さん(55)は毛筆で「一陽来復」と書き添えた。一族が五輪出場を目指して半世紀。悲願を達成した万感の思いがこもっていた。
    ◇
 敏の祖父、敏雄さんとその弟、史郎さんは、ともに国内のトップ選手だった。
 史郎さんは、旧制飯山中(現長野県立飯山北高)時代に全日本選手権のジャンプで連覇するなど、1940年に予定されていた札幌五輪への出場は確実視されていた。だが、戦争の影響で五輪は返上。出場できなかった。
 史郎さんは、3年後の43年に学徒出陣で土浦海軍航空学生隊に入隊。45年の5月11日、特攻隊員として鹿児島県鹿屋市の基地から零戦で飛び立ち、帰らぬ人となった。22歳だった。
 史郎さんは、死の2か月前、一度だけ故郷の長野県野沢温泉村に帰ってきたという。1週間ほど実家に滞在し、連日、スキー板を担いで山に出た。最後の夜、家族に「満足した」と話したが、当時は皆その言葉の意味がわからなかった。前年の秋、特攻隊に志願していたが、それを家族にも話していなかったからだ。
    ◇
 敏雄さんは、35年の全日本選手権で優勝するなど、国内ジャンプの草分け的存在。36年のドイツ・ガルミッシュパルテンキルヘン五輪の有力候補だったが選考会で転倒。札幌五輪での兄弟出場も戦争に阻まれた。
 だが、故郷に帰って、42歳まで競技は続けた。体の限りまで飛び続けたのは、亡き弟への弔いの気持ちからだろう。
   競技引退後、野沢温泉村の村長を務め、国内初のサマージャンプ台を作るなど全国的に有名な「スキーと温泉を中心とした町づくり」の基礎を作った。その施設で育った河野孝典がノルディック複合団体で金メダルをとるなど五輪で活躍。だが、ついに孫の敏の晴れ姿を見届けず、95年に他界した。
    ◇
 父、行成さん(旧姓・中村)はアルペンのトップ選手で、60、61年とインターハイ大回転で連覇、インカレや国体でも優勝。64年のオーストリア・インスブルック五輪の代表候補に挙がった。だが、前年に骨折。一族の夢はまたも破れた。
 スキーの縁で野沢温泉の森家に婿養子に入ったが、実父の実さんは昭和初期、白馬で最初に民宿を開いた人だった。息子の大会での活躍を唯一の楽しみにしていたが57年夏に亡くなっている。
    ◇
 民宿は、今は大きなホテルになった。その「五竜館」の目前に、五輪のジャンプ台が建てられた。
 「昔は、何もなかった場所。そこで息子が日の丸を背負って飛ぶなんて」。行成さんは、不思議な縁に驚きを隠せない。
 実さんの仏壇がある五竜館の4階の窓からは、ジャンプのスタート位置が見える。「敏は、そこから飛び降りるのです。3人の"祖父"が守ってくれるかもしれませんね」
 鎮魂の五輪は、もうすぐ始まる。(下山田郁夫)
 



「森家3代の夢」五輪出場果たす ノルディック複合

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 十九日のノルディックスキー複合団体戦の前半でトップバッターとして日本チームを引っ張った森敏選手(野沢温泉ク)は、祖父、大叔父、両親、森ら兄弟と三代続く野沢温泉村のスキー選手一家に育った。個人戦に続くこの日、そのだれもが果たせないできた五輪出場という「森家の夢」を白馬の大空に描いた。
 森が一歳の時、父の行成さん(55)が机の上に立たせると、スキーのジャンプをするような格好をした。周りの人が笑った。「おじいちゃんの後継者だな」

 おじいちゃん―母方の祖父の敏雄さん(二年前に死去)は、国内のジャンプ競技にいち早く取り組み、明治大で名ジャンパーとして鳴らした。一九三六年のガルミッシュ・パルテンキルヘン大会(ドイツ)の有力候補だったが、直前の選考会で転倒。次回四〇年に予定されていた札幌大会は戦争のため返上され、五輪出場の機会を逃した。

 敏雄さんの弟の史郎さんも返上された札幌大会の有力候補だった。その後、学徒出陣で入隊。終戦直前の四五年、特攻隊員として鹿児島県の基地を飛び立ったまま消息を絶った。

 父の行成さんは、アルペンのトップ選手だった。六四年のインスブルック大会(オーストリア)の代表候補だったが、大会直前に骨折して夢が消えた。

 母の喬子さんはインターハイ大回転の元チャンピオン。兄の晃さん、弟の徹さんも現役選手。そうそうたる経歴のスキー一家だが、これまでただ一つ無かった"勲章"が「五輪出場」だった。

 森は「おじいちゃんの代から五輪を目指していたということは知っているが、夢を果たしたという意識はない」と話していたが、この日は「楽しいですね」と地元五輪をすっかり満喫。行成さんは「敏が努力でつかんだ五輪代表の座。親として、はしゃぐつもりはない」と言っていたが、この日は敏雄さんの口癖をまねて「いやあ、まだまだですね」と結構はしゃぎ、笑顔だった。

(1998年2月20日 信濃毎日新聞掲載)


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