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                 地上脱出のための3条件 (パート1)

 パート1

 聖者たちが説いたのは「地上からの脱出」
 釈迦、イエス、ソクラテス、プラトン、プロティノスといった、歴史上、多くの聖人たちが説いた教えは、表現手段において若干の違いはあるにしても、本質的には共通しています。それを一言で表現するならば、「地上世界から脱出せよ」ということになります。
 この教えの背景には、人間の本質は魂であり、地上という場所は、魂がほんらい住むべき世界ではなく、高い霊的世界こそが、魂の住むべき世界であるという思想があります。
 そして、ほんらい住むべき霊的世界から比べるなら、この地上世界は不潔な牢獄のような場所であり、苦しみに満ちていて、それゆえに、できるだけ早くこの地上世界から脱出する生き方を、人生の第一優先にするべきだと説いているのです。
 「地上世界からの脱出」という、「脱出」の意味ですが、キリスト教では、死後に天国に行くことであり、また仏教などは、輪廻転生を土台にして、二度と地上に生まれ変わらず、高い霊的世界に行くことを意味しています。
 どちらにしても、善良にして徳を養う生き方を地上世界において行うならば、死後に天国に行く、あるいは、二度と地上に生まれることなく高い霊的世界で暮らすようになる、ということです。そうした世界こそが、私たち人間がほんらい住むべき領域だからです。
 逆に、地上人生において悪行を行い、徳を養う生き方をしなかった魂は、キリスト教では永遠の地獄に堕ちると説き、他の聖人は、霊界の低い階層で長いあいだ苦しみながら過ごした末に、再び地上に生まれてきて、そこでまた自分の犯した悪しき行為の報いを受けて苦しむ、というように説かれています。
 地上と霊界では、時間の尺度が異なります。たとえば、地上での1年は霊界では十年とか百年に感じられるといわれています。正確なことはわかりませんが、とにかく、霊界での生活は非常に長く(感じられ)、それに比べると、地上生活など、ほんの一瞬の短い間にすぎないというのです。

 地上の人生は短い
 事実、地上人生など、短いものです。長くても百年です。もっと早く死んでしまう人もいます。本当にあっという間です。そんな一瞬の短い地上人生において、たとえ大成功して巨万の富や名声に恵まれたとしても、じきにそんなものは、死によってすべてが完全に失われてしまいます。死ぬ直前には、そんな生活は、まるで夢を見ていたかのような感覚でしかなくなってしまうでしょう。この世の物質的な富や名声など、空虚なものでしかありません。
 しかし、この短い一生を、徳を養って人格の向上に努めた善良な人は、死後、千年だとか、あるいはもっと長い時間、地上の幸せとは比較にならないくらい幸せな生を送ると言われているのです。
 仮にそれが本当だとしたら、考えてもみてください。仮に百年の間、いろいろ苦労があり、お金や名声などにまったく恵まれない不遇な人生を送ったとしても、徳を養って善良に生きたならば、死後、何千年も幸せに生きられるのです。
 ならば、この地上人生は、ただひたすら善良に生きること、徳を養うこと、つまりは人格の向上ということを最優先にして一生懸命に生きた方が、どれほど得でしょうか。どれほど割に合うでしょうか。どれほど賢明でしょうか。
 しかも、その幸せの度合いはまったく比較にならないといわれています。
 たとえば、この地上人生において「これ以上、幸せなことはない!」と思われることでも、霊界の幸せに比べれば、まったく味気ない、幸せとは呼べないような、つまらないものに感じられるらしいのです。それほど、霊界の幸せは想像を絶するほどすばらしく、地上の幸せと霊界の幸せとは、文字通り天と地との開きがあるのです。
 しかし、不幸なことに、私たち凡人は、善良で徳を養った人が待っている霊界のすばらしい幸せを知らないから、地上世界のはかない欲望を追い求めることに腐心し、ときに悪いことをし、徳を養おうなどということは、発想さえ思い浮かべることがありません。まるで依存症患者のように、肉欲や物欲を求め、それが手に入るうちはいいですが、世の中、そう甘くはありません。欲望は叶えられないことの方が多いのです。そうなると、失意、悲しみ、絶望感、計り知れない苦悩を味わうことになります。私たちは、苦の種をわざわざ撒き散らして生きているのです。
 そうなってしまうのも、この物質的な地上世界だけが唯一の世界だと錯覚しているからです。

 地上世界は牢獄である
 しかし、聖人たちは、地上世界というものは、霊的世界からすれば、ある種の虚像に過ぎず、きわめて限定された不完全な世界であることを悟ったのです。それはまるで牢獄に閉じ込められたようなものです。一方、はるかに広大な世界、すなわち霊界の存在と、その世界のすばらしい幸せをも、かいまみたのです。
 人間というものは、比較対象するものがないと、そのものの価値がわかりません。
 貧しい国の人々は、みんなが貧しいから、それが当たり前のように感じて平気でいられるのでしょうが、一度、豊かな国の豊かな生活を知ったら、とても今までのような貧しい生活などしたいとは思わなくなるでしょう。
 同じように、ほんの短い地上人生の期間、徳を養って人格を向上させたならば、その後は、いつまでも豊かな国に行って至福の生活ができるとわかれば、およそどのような苦労であろうとも、全身全霊で人格の向上に努める生き方をするはずです。
 くり返しますが、魂にとって、この地上は牢獄そのものです。すぐに病んでは苦痛をもたらし、やがては老いて自由がきかなくなり、醜くなって、ついには死んで腐敗してしまう肉体に宿ることは、まさに苦しみです。しかも、肉欲や物欲はきりがありません。決して満たされることはないのです。満たされなければ苦しみを味わいます。つまり、肉体をもってこの地上世界に生きることは、それだけで苦しみであることを意味しているのです。この地上において、完全かつ永続的に幸せになることは、原理的に不可能なのです。
 それよりも、そんな牢獄から脱出して、永遠の幸せを得る方が、どれほどすばらしいことでしょうか。私たちは、この短い人生を、牢獄から脱出するために生きるべきなのです。牢獄生活をよいものにしようといくら努力しても、しょせん牢獄は牢獄であり、限界があります。それよりも、牢獄から脱出することを考えるべきなのです。
 では、地上世界という牢獄から脱出するには、どうすればいいのでしょうか?
 一言で表現すれば、すでに述べたように、徳を養うこと、つまりは「人格の向上」です。これによって、私たちは死後、高い霊的世界に移行することができるのです。
 では、人格を向上させるには、どうすればいいのでしょうか?
 それには3つの条件があります。3つの条件すべてを満たす生き方を通して、人格は向上していきます。どれかひとつでも欠けたらうまくいきません。
 次に、この3つの条件について説明したいと思います。言い換えれば、「地上脱出のための3条件」ということになります。

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