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           タロットカードに学ぶ人生の苦難の解決法(『吊るされた人』)

 第13番目『吊るされた人』The hanged Man


 絵柄解説
 暗い森の中に、木に吊るされた人が描かれている。このカードは低い物質的欲望、価値観を変えて偽りの自己を死滅させ、真実の霊的自己を目覚めさせるプロセスを示している。沼に映った吊るされた人の姿は、偽りの自己の象徴だ。それは頭を上にしたまともな格好で映ってはいるが、おぼろげで、今にも消えてしまいそうな実体のない姿である。
 一方、吊るされた人の両足は十字に交わっている。十字は神との交流を象徴する。顔が苦悩よりは喜びに溢れ、後光が輝いているのもそのためだ。低い欲望を犠牲にしたことで、もっとすばらしい霊的境地を手に入れたのである。
 また、吊るされたことで、この世界を逆さまに見ることになる。霊的真実というものは、世俗社会とは正反対の価値を持つものである。人々が血まなこになって求めているものは霊的には価値がなく、霊的に価値あるものを人々は振り向かない。
 たとえば私たちは「得るためには与えなければならない」という事実に気がつかない。ただ奪い取ればいいと思っている。これは物質的な誤った考え方である。真実は、愛も富も幸福も、与えることによってのみ得られる。こうして価値観を変え、高い理想のために自分を捧げることができる者こそ、永遠なる霊的な生命を手に入れることができるのである。

 生殺しの状態を暗示する『吊るされた人』
 一般的な占いの解釈では、束縛される/不遇な状態が続く/犠牲になる/不当な扱いを受ける/裏切られる/処罰を受けるといった運命を暗示しています。確かに、現象的にはそのようなことが起こるかもしれません。
 しかし生命体の見地からすると、いったいどうしてこうした運命が生じるのでしょう。言い方を変えれば、進化を促進させる上で、こうした経験がなぜ必要なのか、ということになります。
 この『吊るされた人』のカードで特徴的なのは、文字通り「吊るされている」ということです。単なる不幸であれば、別に吊るされていなくてもいいのです。
 吊るされるというのは、むかしの処刑です。ただし首を縛って吊るしているのではなく、足が縛られて逆さまに吊るされているのです。そのため死にはしませんが、死んだも同然の状態、いわば「生殺し」の状態です。
 ここで、先の『塔』のカードとの共通点を見いだされることと思います。つまり、塔から落下している人も、『吊るされた人』も、逆さまということです。
 逆さま、というのは、いったい何を意味しているのでしょうか?
 これは、不運な状況から救われる道を暗示しているのです。
 すなわち、逆の発想や生き方をせよ、ということなのです。『塔』の場合、「私が、私が」という自己(エゴ)が否定されました。『吊るされた人』も同じです。エゴの否定なのです。ただし、『塔』が、突然急激にエゴを否定されるのに対して、『吊るされた人』は、じわじわと、長期に渡って不遇な時期を過ごすような形で否定されていくのです。

 不幸の原因であるエゴを消滅させるには
 そうして、二極分離の運動である「私が、私が」という生き方ではなく、反対の生き方、すなわち「あなたが、あなたが」という生き方、要するに、自分のためではなく他者のために生きることによって、苦境から脱出できることを説いているのです。
 これは、『塔』の項目で述べた五つのポイントの五番目です。すなわち「相手は自分に何をしてくれるのか」という発想ではなく「自分は相手に何をしてあげられるのか」という発想で生きることなのです。
 このことを、安っぽい道徳の説教のようにとらえないでください。ビジネスの世界で大成した人たちは、どの人もそれなりに社会や人への奉仕を説いています。長い間の経験によって培われた信念なのです。自分の利益しか眼中にない商売は、一時的には利益を得ることはあっても、長期的にはやがて顧客の信頼を失って衰退していきます。いつまでも顧客のことを考え、顧客の立場から営んでいる会社こそが、安定した利益と成長を遂げているのです。
 ところが、今までずっと「私が、私が」というエゴイスティックな発想で生きてきたのが、急に他者の立場になってものを考えなさいといわれても、現実にはなかなか難しいものがあるでしょう。
 このときにも、やはり大きな影響力を発揮するのは、占術師の人格的な力なのです。すなわち、それは「愛」です。もともと人間のエゴが増長させられたのは、エゴイスティックな人間との接触が大きな要因なのです。しかし同じように、人の愛が成長するのも、愛の強い人間との接触が大きな要因となるのです。
 愛の強い人になれというと、いささか躊躇してしまうかもしれませんが、難しく考える必要はありません。何も偉人や聖者のようにならなければならない、というわけではないからです。
 エゴは、対立物があるときに強化されるという構造をもっています。作用反作用の法則と似ていて、エゴがもつエネルギーは、それに抵抗する対象をもつときに自分に跳ね返って力を増すのです。簡単にいうと「戦う」ことによって、エゴはますます力をつけていくのです。もともとエゴは、戦うことを目的に作られた自己防衛本能的なメカニズムだからです。
 したがって、エゴイスティックな自我をもった相手に対しては、こちらはいっさいの抵抗も、戦う姿勢も見せない方がいいのです。「のれんに腕押し」ではありませんが、そのような姿勢で臨むことです。すると相手は、こちらに敵意のないことがわかり、自分を守る必要がないことを察して、エゴの力を緩めていきます。エゴという機械を作動させているエネルギーが減退してくるのです。
 このように、『吊るされた人』に対しては、占術師はうまく相手のエゴの力を弱めていくようにもっていく必要があるのです。それはテクニック的なアプローチというよりも、人格的な力によるものなのです。
 実際のところ、どのような世界であれ、本当に人間を変革させる力となるものは、技術的なテクニックなどよりも、人格的な影響力にあるのです。占術の世界、不運を幸運に変える方法だけに当てはまることではないのです。

 慢性的な不運から脱出する方法
 ここで、『吊るされた人』に関連させながら、不運を幸運に変えるポイントについてご紹介してみましょう。二極化を統合されるという原則はそのままでありますから、『塔』の項目で紹介した五つのポイントも、当然、ここでも適用されることになります。 ただし『塔』の場合、その不運は非常に突然で激しいもので、かなりのショック状態にあります。そのため、すでにエゴがガタガタになっていて、短期間で崩壊して統合的な人格が覚醒し、運命的にも比較的早く幸運に向かう傾向があるのです。
 仮に、これを急性の病気だとするなら、『吊るされた人』は慢性病ということになります。そのため、症状的には『塔』の場合ほど苦しくありません。その点では、救われているといなくもないのですが、逆に苦しくない分、いつまでもエゴが生き延び、ずるずると不運な状況から抜け出せないという問題も生じるのです。事実、長期的に見るなら、人生の大半をダメにしてしまう致命的な不運となりかねないわけです。
 視点を変えていうならば、生ぬるい苦しみなので、本気になって自分を救おう、運命を変えようという気が起きないのです。『塔』の場合、それがあまりにもショッキングなので、本人は自殺を考えるなど、一時的にはかなり危ない状況になります。
 ところが『吊るされた人』は、いつまでも「生殺し」のような状態に甘んじてしまい、本人も心のどこかで「このままでいいや」といった気持ちさえもっていたりします。
 この点をどう改革していくかが、『吊るされた人』の相談者に対するアドバイスの難しいところなのです。「いつまでもずるずる…」タイプの不運です。本人が奮起していないという点で、『塔』よりもやっかいだといえます。

 慢性的な不運をどのように幸運に変えるか?
 慢性的な不運は、進化に向かうエネルギーが欠如して、飽和状態に達しています。いわゆるマンネリ状態です。同じマンネリでも、生活に問題(経済や健康など)がない状態でマンネリであればいいのですが、何らかの問題を残したままマンネリになると、その問題から抜け出せなくなるのです。一定の収入がある状態で進化エネルギーが不足しマンネリになると、せいぜい仕事をする倦怠感に悩むだけで、経済的に困るということはありません。しかし、大きな借金を抱えたり失業した状態でエネルギーが不足すると、その状態のままマンネリになり、いつまでも抜け出せないことになるのです。病気の場合も同じですし、恋愛問題でも同じです。恋愛の面でマンネリ状態になると、いつまでたっても恋人や結婚相手に恵まれません。
 こうしたことは、進化へのエネルギーが不足しているのです。換言すれば、生命体のエネルギーが不足しているのです。そこで、生命のエネルギーを増強させ、進化運動を巻き起こさなければなりません。
 では、いったいどうすればいいのでしょうか?
 すでに、その回答となるポイントはご紹介しました。すなわち、二極化を進めるのです。対極的な要素を分化させ、それをなるべく拡大させていくのです。プラスの電気とマイナスの電気との電圧差を大きくするわけです。
 具体的に何をするかについては、それほどこだわる必要はありません。何でもいいのです。問題は、何をするにしても、極端なまでにやる、ということです。
 極端な行動をするのです。もちろん、これは諸刃の剣であり、一歩間違うととんでもないことになる危険が伴う冒険です。しかし、慢性的な不運状態を打ち破るには、冒険が必要なのです。「いつか幸運がやってくるだろう」という期待は、ほとんど裏切られます。運気の流れそのものが停滞しているので、幸運など訪れはしないのです。
 聖者や求道者といわれる人たちは、進化のエネルギーを得るために、極端なことをしたのです。それが苦行と呼ばれるものです。真冬に滝を浴びたり、何日も断食をしたり、千日間休みなくひたすら山を歩いたり、一年も沈黙したり、眠らなかったり、お経を唱えたり、座禅をしたりしたわけです。何でもよかったのです。極端なことをすると、その対極的な要素との間にアンバランスが生じて、そこにある種の「エネルギー差」が生じます。エネルギー的な緊張状態が作り出されるのです。そして、それが高まった時点で両者を統合させるときに、強大な進化のエネルギーが発生します。これが慢性的な不運の状態を打破し、運気の流れを作って幸運の流れを呼び込んでくるのです。

 これまでのライフ・スタイルと逆のことを徹底的に行う
 たとえば、活動的な人は、徹底的に休みます。死んだ人のように、一週間ほど、食事とトイレ以外はベッドに横になっているのです。これは森田療法というセラピーで実際に行われています。逆に、活動していなかった人は、徹底的に活動します。身体を動かさなかった人は、徹底的に身体を動かして運動するのです。場合によっては、そのために健康を害したり、最悪の場合は死んでしまう可能性もないとはいえません。
 しかし、それを覚悟して行うのです。占術師としては責任はもてませんから、こういう方法があるとまでしかいえません。あくまでも自分の責任において実行するのです。
 四国の霊場八十八カ所を歩いて回るという試みなどはいいかもしれません。むかしは、いつ死んでもいいように(のたれ死んだらそのまま埋めてもらうように)、死装束を着て、墓標を杖にして巡り歩いていました。そのくらいの覚悟をもって、今までとは違う極端なことをしてみるのです。最初は抵抗があるでしょうが、思いきってやってみると、今までの慢性的な不運が嘘のように幸運に変わってくるはずです。
 ただし、極端な方向に運動して、それが限界レベルに達して統合の動きが生じたときに、『塔』で述べたような試練に遭遇することがあります。しかし、それは一時的なもので心配はなく、それを通り越すことで、幸運が舞い込んでくるのです。
 とにかく、慢性的な人は、多少強引なくらいに運気を動かさなければダメです。何だっていいのです。少しくらい社会からはみだしたっていいのです。とらわれず、自由に大胆に、極端な行動をしてみるのです。そうして運気に対して風を巻き起こし、運気に流れを起こすのです。その結果、もっとひどい状態になってしまう危険性も否定できません。だから、それは冒険なのですが、しかし一か八かの冒険をしない限り、停滞した運命は好転しないものなのです。

 本気になって幸運を招くのだと決意する
 ところが、慢性的な不運に悩む人は、こうした思いきったことが、なかなかできないのです。そして、できないという言い訳ばかりしたり、「やはり私はダメな人間なんだ」とクヨクヨするだけで、「いつか魔法のような奇跡が訪れて人生がパッと開け、何もかもがすばらしくなる」といった夢想をしていたりします。
 しかし、「天は自ら救う者を救う」といいますが、本人が自らを変えようと本気で思わなければ、他者がどのようにアドバイスしようと何の効果もありません。
 もしも背中に火がついたら、それこそ熱くて苦しくて、できないという言い訳や、自分はダメなんだなどとクヨクヨしている余裕はないでしょう。すぐに行動を起こして必死で火を払おうとするでしょう。この必死さ、真剣さ、本気さが、慢性的不運に悩む人が運命を好転するためには、何としても必要なのです。
 また、自分自身を変えて運命を変えるには、ある程度の時間が必要なのですが、慢性的な不運に悩む人は、たいてい忍耐力が不足しています。持続できないのです。そのため、たとえ大胆な冒険に踏み出せたとしても、それでめでたし、ということはなく、すぐにもとに戻ってしまうケースが多いのです。
 そうして結局は、「そのままのあなたでいいんだよ」などという自己変革に対する弱さを弁護してくれるような「癒し系の本」を読みながら、不運を幸運に変えるよりも、インスタントに幸運がもたらされる魔法にいつか出会えるという夢を支えに、いつまでも「吊るされた」状態のままグズグズと慢性的な不運に甘んじてしまうようになります。
 しかし、もしも、そのような単なる慰めにすぎない生活を変えて、本当に幸運をつかみ取りたいというのであれば、心の底から本気になって、運命を好転させるのだという決意をしなければなりません。
 決意とは、「こうなったらいいな」という単なる願望ではありません。「何としてもこうするのだ」という覚悟を決めた強い意志なのです。この強い意志がないから、すぐにあきらめてしまうのです。というより、あきらめることができるのです。
 しかし、固い決意があれば、強い忍耐が自然に生まれます。いかなる障害があっても、決して、決して、決してあきらません。あきらめることができないのです。
 幸運を望んでいながら、いつまでも幸運になれない人は、この決意が不足している傾向があるのです。
「堅い決意をするには、どうすればいいのですか?」
 などと質問してはいけません。これは形を変えた言い訳にすぎません。「どうすればいいのか?」と考えている限り、実行しなくてすむからです。決意をするための方法などありません。今すぐに決意をするか、しないか、どちらかなのです。
 決意ができないとするならば、あなたの抱えている「不幸」は、実はそれほど不幸ではないということなのです。ですから、その不幸を変えようなどと思わないことです。

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