HOME書庫「タロットカードに学ぶ人生の苦難の解決法」

           タロットカードに学ぶ人生の苦難の解決法(生命の進化と不運の訪れ)

 タロット・カードは、全部で78枚より構成されていますが、それは「大アルカナ」(22枚)と「小アルカナ」(56枚)に分かれます。そして、大アルカナのカードの中で、不吉と思われているカードが4枚あります。それは、『塔』、『吊るされた人』、『悪魔』、『死神』です。しかし、果たして文字通り、これらのカードは単純に不吉なことを予言しているのでしょうか? そうではありません。それは、人生につきものの苦難の意味、そして、その苦難をいかに乗り越えるかを示しているのです。

←左から『塔』、『吊るされた人』、『悪魔』、『死神』







 生命の進化と不運の訪れ
 生命体は生息領域を拡大するために進化する
 いうまでもなく、人間は生命体です。生命体には次のような特徴があります。
 一。環境に適合しようとする。
 二。生息領域を拡大しようとする。
 もっとも原初的な生命は、海水に生まれたアメーバのようなものだったといわれます。最初の生物は、流れに身を任せて漂うだけでした。アメーバは進化していき、やがて魚になりました。そして自由に泳ぎ回るようになります。とはいえ、海の中でしか生息できません。ところが生命体は進化を続け、エラ呼吸から肺呼吸ができるようになり、ついには海から陸へと生息領域を拡大していったのです。しだいに皮膚が厚くなって体内の水分が逃げないようになると、今度は砂漠に住む生命体も誕生しました。さらに、あるものは羽をもって空にまで生息領域を広げました。
 このようにして、現在、地球上には、非常に冷たい南極や北極にも、非常に厚い熱帯砂漠にも、生命体が生息しているのです。中でも、人間と呼ばれる生命体は、地球を離れ、他の星にさえ生息領域を拡大しようとしているのです。
 ところで、こうした生命体の進化は、決して生易しいものではありません。最初に水中から陸へ上がろうとした生き物は、おそらく呼吸ができずに死んでしまったことでしょう。呼吸ができるようになっても、身体がすぐに乾燥し、遠くへ移動する前に死んでしまったことでしょう。すぐには乾燥しない身体をもった後でも、食べるものがなくて死んでしまったかもしれません。外敵に捕獲されてしまったりもしたでしょう。
 このような、さまざまな「苦難」にも負けずに、生命体は、あらゆるものを消化吸収できるようになっていき(食物選択の幅を拡大させていき)、また外敵から身を守るさまざまな方法(身体にトゲを生やしたり、カメレオンのように色を変えて姿を見えにくくしたりなど)を獲得することで、適応能力を発揮し、生息領域を選ばなくなっていったのです。多様な環境にも住めるように、自分を作り変えて進化していったのです。

 生命体どうしは見えないネットワークで結ばれている
 この際、こうした「苦難」や「障害」は、単なる苦しみではありません。進化をめざす生命体にとって、それは貴重な「情報」なのです。「こうしたら、こうなった」という試行錯誤によって得られた情報です。
 人間的な表現を用いるなら「失敗から学んだ教訓」ということになります。
 ところで、ここで重要なのは、個々の生命体が得たこうした情報は、同時に、同じ種の全生命体の情報として共有されるということです。
 たとえば、一個の生命体が砂漠へ迷い込み、渇いて苦しんだとします。このとき「渇かないような身体が必要だ」と学んだのです。
 すると、その「失敗」で得た情報は、あらゆる生命体の情報として共有されるのです。その結果、他の生命体は、砂漠に行く経験をしていなくても、渇きに強い身体が必要なことを知り、長い時間をかけて、たとえば皮膚が厚くなるなど、渇きに強い身体へと進化していくのです。
 こうした情報伝達の手段は、大きく二つあります。
 ひとつは、文字通り、何らかの具体的な通信手段です。たとえば、ある種のハチなどは、一匹が蜜のある花を見つけると、その花のある方角を正確に示す八の字型のダンスをして、他のハチに情報を伝えるのです。
 それともうひとつは、生命は個々に分断されているように見えても、実はひとつにつながっており、個の得た情報は、実は全体の情報そのものだということです。
 これは、正確にいえば、情報が「伝達」されるのではないのです。最初から情報が共有されるのです。電波だとか、テレパシーのような信号が空間を伝わって他の生命体に伝わるのではなく、個の得た情報は、同時に他のすべての生命体の情報となるのです。
 こんな実験があります。AとBの二つのグループに分けたネズミに対して、どのくらいの時間で迷路を脱出できるか(脱出方法を学習するか)というものです。ネズミは、普通は試行錯誤を繰り返し、しだいに脱出方法を学習して脱出できるようになるわけです。ところが、この実験を続けていたある日、A群のネズミだけに脱出方法を教えたところ、B群のネズミまでが、迷路を脱出できるようになったというのです。
 個が得た情報(教訓)を共有しなければ、大変なロスとなるでしょう。生命体が進化するために、すべての個が同じ失敗をして教訓を学ぶなどということはできません。しかし情報を共有し合うことで、個の生命体がつかんだ教訓を、全体の利益のために活かしているです。そのような不可視なネットワークで、生命体は結ばれているのです。

 自分の個性を発揮して生きることが生命体の進化
 また、生命体の進化において、忘れてはならない大切なことがあります。
 それは、生命体は「多様性をめざす」ということです。
 たとえば、海から陸、陸から空といったように生き物は進化を続けてきたわけですが、だからといって、海の生物よりも陸の生物の方が高度かというと、必ずしもそうではありません。イルカは海に住みますが、陸に住む昆虫やネズミよりも高度です。つまり、あらゆる環境に生息すること、つまり多様性を、生命体はめざしているのです。
 これを人間的な言葉で表現するならば、「個性化」ということになります。
 ひとつの価値観やライフスタイルなどに人々を押し込めて没個性的にすることは、生命体の進化プロセスと逆行しているのです。私たちは、自分の個性を活かすべきなのです。ある人は「魚的」な個性をもっています。ある人は「鳥的」です。他の生命体の存在を脅かさない限り、生命は独自の個性を発揮し、個性的に生きるべきであり、それが自然な生命体の本能なのです。
 私たちは、自分らしく、自分の個性をどんどん発揮して生きるべきであり、さまざまな多様な個性と価値観をもった人々との共存をはかっていくべきであり、また、それが本来の人間存在のありかたなのです。

 人間はどのような試練を受ける運命なのか
 さて、そうなると、個性をもったあなたが進出する生息地によって、あなたの受ける苦難や障害は異なってきます。水中に進出する者と、空に進出する者とが受ける苦難は違います。水中に進出する者は、溺れる危険があります。空に進出する者は、墜落する危険があります。個性によって、遭遇する障害や試練は異なってくるわけです。しかしいずれにしろ、それらはすべて共有される情報(教訓)となるのです。
では、具体的に、人間はどのような個性をもち、また、その個性が進出する領域があるのでしょうか?
 これを象徴的に表現したのが、四つのエレメントということになります。
 すなわち火・風・水・地です。ちなみに東洋などでは、地・水・火・風・空、あるいは木・火・土・金・水といった五つのエレメントを数えています。
 よく誤解されるのですが、これらのエレメントは、相対的な要素であって、絶対的に固定化された要素ではない、ということです。つまり、火や風といった固定的なモノがあるのではなく、何かと比較した際の性質にすぎません。たとえば、蒸し暑い梅雨の季節は、冷たい冬の季節と比較するなら「火のエレメント」となりますが、渇いた真夏の季節と比較するなら「水のエレメント」になるのです。
 ですから、あなた自身がどのエレメントなのか、ということは、厳密に決めることはできません。自己主張の旺盛な人は「火のエレメント」となるでしょうが、それは日本の中だけであって、もっと自己主張の激しい西洋の国に行けば、控えめな「地のエレメント」になるかもしれません。同じモノや人間でも、何と比較するかによって、違うエレメントになるのです。
 もちろん、人間の個性は、存在する数だけあるわけで、すべての個性を四つや五つのカテゴリーに収めてしまうのは無理があるのですが、あくまでも広大な視野からの分類と考えていただければと思います。
 さて、あくまでも相対的な意味において、あなたが「火」の個性をもち、「火の領域」へ進出していったならば、あなたには「火の試練」が待ち受けているでしょう。
 同じように、「水」の個性をもち、「水の領域」へ進出していったならば、「水の試練」が待ち受けています。状況によっては、あなたは「風」や「地」の個性となって、その領域に冒険に挑んでいくかもしれません。

 生命体にとって「失敗」は存在しない
 こうした四つの試練を、全部で二二枚あるタロット・カードの大アルカナのうち、もっとも不吉と見なされている四枚のカードに当てはめるなら、次のようになります。
 『塔』=火 『吊るされた人』=風 『悪魔』=地 『死神』=水
 すでに述べたように、これは相対的なエレメントの位置づけです。カード全体として見れば、「吊るされた人」は水と地が混入していますが、これら四枚のカードに限定して比較するときには、風となるのです。他のカードも同様です。
 さて、これらのカードは、一般的な占いの象意では、不幸なこと、よくないことを暗示する凶意として、もっとも忌み嫌われています。
 しかしながら、単純にこれらが不幸な、悪いカードという否定的な意味でとらえてしまうと、生命の本質にかかわる大きなあやまちを犯すことになるのです。
 というのは、繰り返し述べたように、生命体はすべて、生息領域を開拓していく本能(フロンティア・スピリット)をもっているのであり、異質な環境に自らを適応させて多様化していく存在であるからです。
 未知なる、また異質な領域に踏み込むわけですから、当然、これまでのルールや手段では通用しないような事態に遭遇します(これまでのルールや手段が通用する領域では開拓とはいわないでしょう)。
 そのため、さまざまな障害や苦難や失敗や挫折に遭遇することになるのです。これは必然的な遭遇とでもいうべきものです。苦しい体験かもしれませんが、決して「不幸」でも「悪いこと」もありません。
 たとえば、ビジネスの世界に進出したとします。どんなに勉強を積み才能を積んでも、予想さえしない事態が必ず起こります。これまでその領域に生息することはできない構造をもった者が、あえて異質な領域に踏み出したからです。
 そして実際、大半の人が大きな挫折や失敗をするのです。ところが、これは生命体の進化のプロセスから見たならば、むしろ非常に健全なプロセスなのです。なぜなら、環境に適合するための、また未知なる領域を開拓するための「情報」を入手することができるからです。
 恋愛などの人間関係でも同じことです。異性という、自分とは異なる心身の構造をもった相手との交際は、いわば異質な世界に踏み込むのと同じで、これまでのルールは通用しません。本などの知識は、多少は役に立ちますが、恋愛は本来、体験的なものですから、体験的に学ばない限り、異性と良好な関係を築くための新たな心身構造へと進化することはできないのです。ですから、恋愛においても、最初のうちは失敗ばかりということになります。しかし、それでいいのです。そうして体験的に情報をつかみとっていくうちに、やがて未知なる領域に生息環境を踏み出すべく、自らの心身に構造的な変容が訪れるからです。
 ですから、ビジネスであろうと恋愛であろうと、真の意味で「失敗」などというものは、実は存在しないのです。ただ私たちが勝手にそれを失敗と決めつけているに過ぎません。あえて失敗というものがあるとすれば、失敗したことを悲観して、失敗から何も学ばず、冒険する魂が失われて意気地なしになってしまうことです。
 私たちは、生命体の本性上、常に前向きに未知なる領域、多様な領域に冒険をしていかなければならない存在なのであり、そのように運命づけられているのであり、また、そのような冒険的な人生によって、生きるエネルギーを強化していくのです。

 失敗や挫折は名誉なこと
 このように、生命体というものは、とにかくひたすら生息領域を拡大し続ける本能をもっています。この意味で、すべての生命体は「冒険家」なのです。私たちはみんな冒険家なのであり、冒険的に人生を生きるべきなのです。どんなに気弱で平凡を愛する人であっても、心の奥底では冒険を愛しているのです。
 視点を変えていえば、生命体は、今までとは異なった生息環境に遭遇しても、しだいにそこに適合できるように、生息条件の幅を拡大させていく本能をもっているのです。ひらたくいえば、どのような環境でも生きられる身体へと、自らを作り変えていく力をもっているのです。
 すべての生命体と同じように、私たち人間もまた、常に進化していかなければならない存在です。そのためには、失敗と挫折を経験していかなければならないのです。
 失敗や挫折のない進化はあり得ません。進化の道を歩んでいる人は、ある意味では失敗と挫折の連続なのです。もちろん成功や勝利もあるでしょうが、成功や勝利だけではないのです。成功や勝利だけの人生などは、原理的にあり得ないのです。
 したがって、失敗や挫折は、不名誉なことでも恥ずかしいことでもなく、成功に向けた一時的な教材であり、プロセスにすぎません。その意味ではむしろ、非常に名誉なことだといえるわけです。何もしない人は、決して失敗も挫折もしないからです。何もしない人(挑戦も冒険もしない人)というのは、生命体としては死んだも同然であり、生命体としては「落ちこぼれ」なのです。
 しかし、仮にやることなすことすべて失敗や挫折だったとしても、生命体として見るなら、それは非常に意義のある人生だったといえるのです。
 なぜなら、そのような個の生命体が経験を通してつかんだ教訓は、他のすべての生命体に共有されて有益な情報となるからです。生命のネットワークによって共有されるのです。その人が失敗してくれたおかげで、後に続く他の人が、同じ失敗をしないですむのです。たとえば、他の生命体は「こうしてはダメだ。こうすればうまくいく」ということが、直感的にわかってくるのです。そうして、困難という迷路から脱出できるようになってくるのです。苦難や挫折や失敗を多く経験してきた人というのは、それだけで、他者や世界にとっての最大の貢献者といえるのです。

 苦しみを解決するもっともよい方法
 ところが、人生で起こる苦難や試練を、悪いもの、不幸なもの、忌むべきものとし、それ以外のものでしかないと考えてしまったら、そこから何も学ぶことはできないでしょう。単に苦しいだけで終わってしまいます。
 こうなると、三重の意味で損害になってしまいます。ひとつは苦しい思いをしたことで損ですし、そこから何も学べないという点で損です。そして、苦難を悪いもの、避けるべきものと見ていると、実はいつまでも苦しみから解放されないという点で損なのです。小手先のテクニックで、一時的には苦しみから逃れられるかもしれませんが、しばらくすると、また似たような苦しみが訪れてきます。根を根絶していないからです。
 しかし、苦しみを幸福のためのプロセスと考えると、三重の意味で得になります。
 ひとつは、苦しみを経験しても、(そのすべてとはいわないにしても)後になると、懐かしく思えるような、誇りとさえ思えるような体験に変わること。そして苦しみから貴重なことを数多く学ぶことができること。さらに、このような態度こそが、実はもっとも早く、根本から苦しみを解決する道であることにおいてです。
 苦しみから逃れるもっともよい方法は、苦しみから逃れようとしないことなのです。もちろん、これは心理的なことをいっています。貧乏や病気などで苦しんでいたら、お金をもつように、健康になるように努力しなければなりません。
 ところが心理的には、貧乏から逃げたい、病気から逃げたいと思わない(逃げることに意識を向けない)方がいいのです。
 できれば、苦しみを愛することです。難しいことではありますが、貧乏を愛するとき、病気を愛するときに、苦しみは変容するのです。
 人生の幸福は、しばしば不幸の仮面をかぶってやってくる、などといわれます。「美女と野獣」の童話は、その意味では非常に暗示的です。主人公の美しい女性が醜いケダモノにキスをしたとき(愛したとき)、野獣は美しい王子に変わりました。というより、もともと野獣などは存在せず、野獣は王子だったのです。
 苦しみを幸福に変容する唯一ともいうべきものは、愛なのです。ただし、ロマンチックな感情に流されていい加減なことをいっているのではありません。ちゃんと理由があるのですが、これについては後に触れることにします。

 人間は悪いことをする時期があってもいい
 ところで、苦しみはよいことだというと、次のような疑問を寄せてくる方がいるかもしれません。
「本人の性格や生き方が悪いために、苦しむ場合もあるのだから、性格や生き方を変えるように反省するべきではないのか?」
 確かに、その通りです。
 人生には、自分の性格や生き方とは関係なく不幸が起きることもあります。多くの人は偶然と考えます。仏教的には前世の因縁ということになるのでしょうが、たとえそれが事実としても、現在のその人の性格や生き方に問題があるわけではないのです。
 一方、明らかに本人の性格や生き方が招いたような苦しみもあります。約束を破ってばかりいれば、やがて誰からも相手にされなくなるでしょうし、暴飲暴食を続けていれば病気にもなるでしょう。そういう場合は、もちろん、性格や生き方を改めなければなりません。
 しかしながら、人生において悪いことは何もしない善男善女であれば、偶然的な不幸は別として、幸福になれるかというと、実はそうでもないのです。
 ここが微妙なところです。
 決して悪を勧めているわけではありませんが、しかし生命体というものは、進化をするためには、意図的にバランスを崩さなければならないときもあるのです。
 たとえば、空を飛びたいと思って、高い所から飛び降りてみようと考えて、山に登る者がいたとします。周囲の者は「空を飛ぼうなんて、なんて傲慢な奴だ。謙虚にならなければダメだ」と非難するかもしれません。実際、落ちて怪我をするかもしれません。
 しかし、そのような「傲慢な試み」によって、もしかしたら空を飛べるようになるかもしれないのです。もう少しで鳥になる段階まで進化していたら、あとはこうした「傲慢な試み」が、大きな飛躍のチャンスになるのです。「謙虚な気持ち」では、この限界は破れません。
 あるいは、森にある食べ物を、なんでもかんでも食べたがる者がいたとします。周囲は「なんて貪欲な奴なんだ。慎みがなければダメだ」と非難するかもしれません。
 しかし、なんでも食べてみる中で、病気を治したり、もっと元気にしてくれる食物を発見することができ、それで仲間に貢献できるかもしれないのです。そのような発見は「貪欲な試み」によってこそ達成できるのであり、「慎み深さ」ではありません。
 その意味では、常識的な社会の枠組みにおとなしく適応した「善男善女」では、実は生命体の進化は達成されないのです。
 少しくらい悪い人間であるとか、社会からはみ出したくらいの人間の方が、大胆な冒険に踏み込んで、大きな進化をもたらすことがあるわけです。
 もちろん、だからといって、傲慢さや貪欲を野放しにしてもいい、というわけではありません。それでは個人にとっても全体にとってもマイナスになってしまいます。バランスを取るべく、謙虚さや慎み深さを求めて反省しなければなりません。
 しかしそれでも、生命の進化というのは、バランスを取る運動そのものにあるわけで、バランスを取って制止してしまっては、進化は達成できません。バランスを取ったら、再びバランスを取る運動を行うために、バランスを崩さなければならないのです。
 このことは、表現を気をつけないと、単なる利己主義者の格好の言い訳にされてしまうのですが、要するにこういうことです。ときには人間は、悪いことをする時期があってもいいのです。ただし、結果的に、ということで、これから悪いことをするように勧めているわけではありません。
 少し悪いことをしてきたくらいの人は、悪人の気持ちをよく把握できますし、猛獣使いのように、そういう人たちの扱い方も手慣れています。人間は誰しも多少は悪いことをしてきているのですから、あまりにも善良で潔白すぎると、そういう人間を毛嫌いし差別して、敵対することになります。こうなると本末転倒です。
 どのような人間もおおらかに受け入れる懐の深い人格の持ち主を通してこそ、結果的にはこの世界から悪を消していく大きな解毒剤となるのです。そのような人間は、生まれたときから無菌室のような環境で生きてきたというよりは、むしろ悪や汚濁の環境で生き、自らも多少は悪を経験してきた傾向があるのです。
 ただし、これはもちろん、諸刃の剣と同じく、一歩間違うとそのまま悪の道で終わってしまう可能性もあります。本当に悪に染まってしまうと、抜け出すのは容易ではありません。一時的に放蕩や悪に手を染めた経験をもつ人は、実際のところは、心のどこかに善意や正義、真面目さや正直さを失うことなく胎動させてきた人ではないかとも思われます。

 人生の悲しみを知らなければ人生の喜びも知り得ない
 それはともかく、このような視点から人生を見つめ直すとき、人生において多少の悪いこと、不健康なこと、放蕩や恥ずかしいことを経験することも、実は生命体の進化において意義のあることなのです。
 現在、あまり褒められない行為、落ちぶれていたり、堕落していたり、社会的に不道徳であるとか、狂信的になっているとか、道を誤ったりしていても、そうした体験が、今後、どんなにすばらしい善への反発力となるかわからないのです。というより、その方が潜在的な可能性が高いのです。
 さらにいうならば、私たちは進化し成長するために、ある程度、悪に手を染めたり、誘惑に負けたり、失敗するように「計画」されているのです。
 進化とはダイナミックなもので、決して静的に進行していくわけではないからです。部分だけを切り取って見れば悪い行為でも、進化の遠大な全体プロセスを見通したときには、悪い行為も偉大なる善のための跳躍板であったことがわかったりするのです。
 したがって、不幸に苦しむのは、過去生の悪い行為(カルマ)が原因であるというように、単純な図式で説明しきれるものではないのです。闇を知らなければ光も知り得ないように。ある程度、悪を学ばなければ、善を理解できる人間にはなり得ません。人生の悲しみを知らない人には、人生の喜びを知ることもできないのです。
 ですから、人生における悪も、不幸も悲しみも、それらはすべて偉大なる善へ、偉大なる幸福や喜びへと向かう種を宿しているのです。
 そして、その潜在的な可能性である種を開花させるかどうかは、悪というもの、不幸や悲しみというものを、どのように見るかによって、天と地ほどの差が生じてしまうのです。
 繰り返しますが、悪は善の種子であり、不幸は幸福の種子です。「失敗は成功のもと」なのです。今さら、このようなことをいうのは陳腐でさえあるのですが、理屈でわかっていても、心を乱すとわからなくなってしまいます。ですから、このことはどんなに強調しても強調しすぎることはありません。

 根本から悲しみを癒すために必要なこと
 今まで悪いことをしてきた人は、いつまでも自責の念に縛られていてはいけません。いくら自責の念に苦しんだところで、他者の誰に貢献するわけでもなく、しょせんは姿を変えた自己満足にすぎないからです。自分を責めるという自慰的な依存癖をいっさい断って、本当に罪滅ぼしの気持ちがあるのなら、今までの悪行為を補って余るくらいの善へと、すべてのエネルギーを向けるべきなのです。
 いつまでも悲しみに沈んでみたところで、何がどうなるわけでもありません。悲しむことは心を癒し、悲しむことが必要な時期もありますが、いつまでも悲しみ続けると、悲しみの依存症(中毒)になってしまいます。いわゆる「自己憐憫」です。
 根本から悲しみを癒すために必要なのは、悲しみに意味を見いだすこと、悲しみを意味そのものに変えることです。すなわち、悲しみをきっかけにすばらしい業績を築いて、「あの悲しみがあったからこそ、こんなすばらしい業績を残せたのだ」といえるように、ひたすら力いっぱい生き抜くことなのです。
 その種族の全体の生命体は、一定の割合で、いくつかの個に対し、特定の役割を担うように働きかけるのです。こういってよければ、「悪への使者」「苦しみへの使者」を選ぶのです。アメーバが触手を伸ばすような具合です。そうして、その個が得た情報を共有し、全体の生命体に貢献させようとするのです。
 言い換えれば、悪人とは、情報収集のためにその役割を引き受け、悪の世界に挑んでいった者のことです。不幸に苦しむ人も同じです。こうした人たちのおかげで、私たちは悪に手を染めたり、苛酷な試練に苦しんだりすることなく、貴重な情報を入手できているのです。

 進化とは男と女がついたり離れたりするようなもの
 地上の物質的な世界は、すべて対極的な要素のバランスに成り立っています。プラスとマイナス、光と闇、天と地、男と女、表と裏、昼と夜といったように、正反対の性質をもった要素で成り立っているのです。
 しかも、これらの要素は固定化され、静的に存在しているのではなく、常にダイナミックに絡み合っています。昼がくれば夜がくるように、また、男と女がついたり離れたりするように、一瞬たりとも止まることはありません。
 プラスの要素とマイナスの要素とが、付いたり離れたりを繰り返すことによって、この宇宙、そして生命は進化しているのです。いわば統合と分離の繰り返しによって進化の運動が促進されているわけです。
象徴的に図式化するならば、一本の芽から、やがて左右に双葉が出るようなものです。双葉が出ると、次にそこから一本の茎が伸びていき、再び左右に枝葉を伸ばしていくのです。このようにして一本の樹木に成長していきます。ユダヤの神秘主義カバラでは、これを「生命の樹」という象徴図によって示しているわけです。
 二つの対極的な要素をひとつに結び付ける運動、これを私たちは「愛」と呼んでいるのです。論理的には決して「ひとつ」にはなり得ない排他的な対極的要素をひとつにすることができるのは、ただ愛だけです。
 愛によって、両者はひとつになります。けれども、それで運動が終わるわけではありません。生命は常に運動し活動しているのですから、運動が止まるということはないのです。「ひとつ」になったものは、さらに偉大な「ひとつ」に向けて進化しようとします。いわば、ワンランク上の「ひとつ」に向かおうとするのです。
 そして、そのために、再び対極性へと分離するのです。
 ひとつになった「あなたと私」は、再び二者になろうとします。そのときの運動が、いわゆるエゴです。「私が、私が」という自己中心性です。
 この運動が、人間的なレベルでいうところの不幸や悲しみ、悪をもたらすのです。
 ところが、この二極分化がある一定のレベルにまで拡大すると、まるで伸びたスプリングのように、今度は反対の方向へと縮まる力が働いてきます。二極をひとつに統合させる運動です。これが愛なのです。
 
 苦難を通して人間は本当の自分を目覚めさせる
 ですから、愛とは、単なる気まぐれでロマンチックな感情ではありません。排他的で決してひとつに統合され得ない対極的な概念を、何の矛盾もなく「ひとつ」として認識する、ある種の超論理的意識のことなのです。単純に、直感もしくは直知といってもいいかもしれません。当然、このときには、「あなた」と「私」という自他の差別意識が消滅しています。ひらたくいえば、エゴが消滅しています。
したがって、分離した対極性を再びひとつに統合させるとは、端的にいえば「エゴを消滅」させることなのです。エゴの消滅と愛は、同義語ということになるわけです。偉大なる高次の愛へと進化するために行われるのが、エゴの消滅なのです。
 つまり、エゴの消滅のために、さまざまな苦しみが訪れるわけです。
 それを暗示しているのが、今回取り上げた四枚のタロットカードです。
 すなわち、『塔』、『吊るされた人』、『悪魔』、『死神』です。
 確かに、エゴにとってみれば、こうしたカードは不吉以外の何ものでもないでしょう。ところが、生命の本質は分離した自己中心性ではなく、個性であると同時に他者の生命と結び付いた全体性なのです。これは、生命の本質は愛であるということです。したがって、苦難というものが、エゴを消滅させること、つまり愛を覚醒させることを目的に訪れるという点で、苦難とは、まさに人間の本質が目覚めるチャンスなのであり、生命の進化からいえば、すばらしい幸運であるとさえいえるのです。
 それでは、これら四枚のカードを一枚一枚見つめながら、引き続き、生命の進化と苦難の関係を考察してみることにいたしましょう。

このページのトップへ