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             タロットカードに学ぶ人生の苦難の解決法(『悪魔』)

 第14番『悪魔』The Devil

 絵柄の解説
 不気味に笑う悪魔が、裸の男女を鎖で縛りつけている。この男女は、物質性にとらわれた知性をもつ、不自由な私たち自身なのである。このカードは、そうした知性の愚かさを悟ることで、偽りの自己を死滅させ、真実の霊的自己を目覚めさせるプロセスを示している。
 物質性(四大)を示す黒い足は地、下半身の鱗は水、コウモリの翼は風、たいまつは火を表す。この悪魔は、物質的な小賢しさの象徴である。目の不自由な人が象の一部を触って「これが象だ」と決めつけた逸話のように、私たちは限定された観念を、あたかも真実であるかのように思い込む。たとえば何か不思議な現象があると、自分の限られた知識の範囲内で解釈しようとし、それができなければ、現象そのものを否定してしまう。悪魔は、このような小賢しい知恵、そして傲慢さそのものなのである。
 悪魔の知恵は狡猾で利己的である。最初は甘美な自己陶酔を味わわせてくれる。しかし、これが大きなワナであり、知的傲慢さが頂点に達したとき、悪魔はあざ笑いながら態度を変える。そのとき人は運命の打撃を受け、自分の愚かさに気づく。
 しかし、自分自身が空虚であることを身にしみて悟り、偽りの自己が死ぬと、そこにすばらしい知恵を伴った真実の自己が生まれるのである。

 悪魔はこうやって人間を苦しみに突き落とす
 一般的な占いの解釈では、だまされる/犯罪に巻き込まれる/悪事に溺れる/束縛を受ける/悪い影響や誘惑を受ける/処罰を受けるといった運命を暗示しています。確かに、現象的にはそのようなことが起こるかもしれません。しかしながら、タロットが「生命の樹」に位置づけられることを考えれば、こうした運命もまた、生命進化のためのステップであるといえるのです。
 男女が縛られているのは、対極的な要素が縛られていることを意味します。つまり、進化に必要な両極性の統合を行うことができない状況にあるのです。
 悪魔とは、悪を勧める存在ではありません。悪に導く存在です。つまり、口先では「善いことをしなさい」などといったりするのです。むしろ、極端なくらい善や正義、純潔などを叫んだりします。善と悪を厳しく白黒つけようとする傾向があるのです。逆説的ですが、もっとも恐ろしい悪魔ほど、力強く「正義」を口にするのです。それは正義の名のもとに、国や宗教や個人が、いかに多くの残虐な行為を行ってきたかをみれば、すぐに理解できるでしょう。
 あるいは、悪魔は「純潔」を説きます。キリスト教では、性的な純潔といったことがかなり厳しく説かれます。殺人よりも性的に淫らな方が罪があると思われるくらい、性を汚らわしいもの、罪深きものと見なしています。しかし、ヒステリックに純潔を説く人ほど、実は醜悪な性的欲望を抑圧させているのです。そのため、何らかのきっかけによって力関係に歪みが生じると、表裏が逆転して、アブノーマルな性的行為に走ったりするのです。その典型的な例のひとつが、中世の魔女狩りに見ることができます。
 知性は、物事を分析し分類し、切り刻み差別することしかできません。両極性を拡大させていくだけです。もちろん、それは必要なことではありますが、それだけでは生命は進化できません。知性はあくまでも物質的であり、物質的な領域を超えたものを理解することはできないのです。知性が行き着くところは、しょせんは分離であり、争いです。
 私たちは、あまりにも知性ばかり偏重させてしまったため、何でも白黒つけたがるのです。極端に分離し差別しようとするのです。何でも分類し、レッテルを貼らなければ気がすみません。「すべてか、さもなければ無だ」といった具合です。完全や理想をめざします。
 それは一見すると立派に聞こえますが、この世に完全や理想などはありません。それらはあくまでも目標であって現実ではないのです。ところが、完全や理想をめざす知性は、努力しても完全にできなければ、すべてを放棄してしまうのです。結局、それで何もできないで終わってしまったりします。知性が膨張すると、神経症になります。たとえば、ちょっとでも手にバイキンがついているのが我慢できなくなります。そのため長い時間かけてひたすら手を洗い続けるのです。「赤面恐怖症」などは、人前で完全に振る舞えなければダメだと思っているのです。そう思うために緊張して顔がますます赤くなるのです。
「自分は神のように完璧でなければならない」
 知性ばかりを発達させてしまうと、やがてこうした傲慢ともいうべき思いが強くなってきます。「人間は完璧に生きなければならない」と。しかし、そのようなことは不可能だとやがてわかってきます。人間も人生も不完全で欠点だらけで、誰もが程度の差はあれ汚れており、罪をもっていると気づいてきます。
 けれども、知性はそれを受け入れることはできません。百パーセントでなければイヤなのです。完璧に生きられないのなら、自分には生きる価値がないと思ってしまいます。それで、ささいな欠点や汚点のために自らの存在を絶ったり、引きこもって人や世界から逃げたり、抑鬱になったりするのです。そして「ああ、自分は何という汚らわしい、罪深い存在なのだろう。何という悪い存在なのだろう」といって苦しむのです。悪魔はこうして私たち人間を不幸に陥れるのです。善や純潔や完全や理想を口にするという策略によって、その反対の悪や堕落や絶望に私たちを追いやろうとするのです。これが悪魔のやり方なのです。

 悪魔の本当の目的とは?
 しかし、悪魔はもともと神の使いでした。この世のすべては神という一元から誕生したのですから、悪魔といえども神の創造物であり、神の使いなのです。神の使いとは、要するに神の働きを助ける者ということです。しかし悪魔の場合は、逆説的な手段で助けるのです。
 すなわち、人を悪や堕落に陥れることによって、善や清純なもの(すなわち神的なもの)へと向かわせようとするのです。それが「悪魔という神」の仕事なのです。
 では、どうすればいいのでしょうか?
 すべてを分断してしまう知性ではなく、すべてを統合する意識を覚醒させなければなりません。それは、ある種の直観、ないしは感性(センス)です。知性が科学者なら、この直観や感性は芸術家です。私たちは芸術家にならなければならないのです。
 芸術家は美しいものを「創造」するのであって、物事から「美しいもの」と「醜いもの」を「分離」するのではありません。芸術家にとって「醜いもの」は存在しません。たとえば音楽家にとって「醜い音」は存在せず、画家にとって「醜い色」は存在しません。ただ、音と音、あるいは色と色との「組み合わせ」や「関係」によって、同じ色でも美しくなったり醜くなったりするのです。ドとミを一緒に鳴らせば美しい和音となりますが、ドとレを鳴らせば不協和音となります。いかに美しい色でも、絵画全体の色彩に溶け合わない色が使われたら、それは単なる「シミ」という汚点です。
 同じように、善も美も、すべては関係性によって決まるのであり、「善いもの」「悪いもの」「美しいもの」「醜いもの」という、絶対的で固定的な「もの」があるわけではないのです。
 しかし、このような関係性を座標とした見方は、知性ではできないのです。繰り返しますが、知性は何でも切り刻んでしまうからです。
 善とか悪、美とか醜、右とか左といった対極的な物事を、関係性においてひとつに統合する直観ないし感性をもったとき、人は不幸を幸運に変えることができます。苦しみを喜びに、失敗を成功に変えることができるのです。
「不幸はイヤだ、苦しみはイヤだ、不幸なんか避けて幸福だけを得たい、苦しみを避けて楽しみだけを得たい」
 こう考えるのは知性(悪魔のささやき)なのです。実際には大部分の人がこう考えてしまうのですが、だからこそ私たちは、悪魔の思うつぼになっており、タロットの絵柄が示すように、鎖で縛られているような不自由な状態になっているのです。
 そうではなく、次のような見方が必要なのです。
「不幸とは、もっとも小さな幸福なのだ、悪とは、最低レベルの善なのだ」
 不幸とか幸福という二つのものがあるのではなく、同じベクトル上の二点であるという発想、つまり、悪は善へ進化している途上であり、善はより偉大なる善へ進化している途中の状態のことなのだと見る感性です。「善い人間」だとか「悪い人間」という「人種」がいるわけではない。「悪い人間」とは「善人の初心者」にすぎないという、そんな感性です。

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