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三月の頃、金忠(かねただ)は豊雄夫婦に向かい
「名所の吉野の春はすばらしいですよ。都の辺りには及ばないでしょうが紀の国よりは勝るはずです。三船山、菜摘川など、いつ見ても良い所ですが、春はまた格別です。一緒に出かけようではありませんか」
真女児(まなご)は微笑んで
「よき人のよしとご覧になった所は、都の人も見ない事を残念に思うと聞いておりますが、わたくしは幼い頃より人の多い所や長い道のりを歩くと、気がのぼって苦しむ病がございますので、悲しい事ですがお供ができません。山のおみやげを楽しみにお待ちしております」と言うのを
「それは長く歩けば病も出ましょう。車こそありませんが、あなたに土は踏ませませんよ。あなたが残られたら豊雄がどれほどさびしいことでしょう」
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と夫婦がすすめれば、豊雄も
「こんなに頼もしく言ってくださるのだから、病になっても行かなければ」と言うので、心ならずも出かけたのでした。
人々は華やかに装って出歩いておりますが、真女児の上品な美しさには比べるべくもありません。
日頃からつき合いがあった僧坊を訪れると、主人の僧が迎え
「この春は遅くおいでになりましたな。花もなかばは散り終わって、鶯の声もいくらか遠のいたようですが、それでもまだ見られる所にご案内しましょう」と寺の清浄な夕食をもてなしてくれます。
夜が明けて、空は春霞に煙っておりましたが、次第に明るくなるほどに見渡せば、この坊は高みにあって、ここかしこの僧坊がはっきりと見下ろされるのでした。
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