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マリア・マグダレナ・ソフィア
三宅きみ子先生を偲んで





同窓会の会報より三宅先生の追悼文を
抜粋して紹介させていただきます。



小林聖心女子学院旧職員 三宅 幸子
旧職員、源氏物語講読講師 濱本 博子
小林みこころ会二十三回生 志立 栄子


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小林聖心女子学院旧職員

     三宅 幸子


神に召されてから一年に満 たない今、寂しさはまだ一入 ですが、小林の聖堂・校舎、 シスタ|ス卒業生の皆様方、 活気に満ちている学院などを 思い巡らしますと心が和みます。それは、叔母が生涯愉し く精魂込めて生活させていただいた場であり、お祈りとお心細やかな愛の数々をお与え下さる皆様方のお陰でございます。

叔母、マリア・マグダレ ナ・ソフィア三宅きみ子は、 聖堂下の聖母子像の台石に書 かせて頂いた「神のいつくし みは永遠」を写し刻んだ長尾山の墓碑に、永遠の眠りについております。

聖心への道に導かれ、小林 で四十年を温かく、我が家の ように過ごさせていただきま した。聖心に生涯をお捧げに なった外国からの、また日本 の修道女の方々のお姿に心を 打たれ、そのお祈りとお導き により洗礼を授かりました。 私が女学生だった夏休みに帰 省した叔母は、黒光りのずる 大黒柱の側で、「九月になっ て学校へ行ったらずぐ洗礼を 授かるのよごとさもうれしそうに話しました。マザー岩下とおっしやるすばらしい方に神様のお話を伺い、洗礼のお許しをいただいたとのこ と。マザース、シスタースの厳しいお捧げとお祈りの日々。星野萬先生のこと。生 徒さん達の礼儀正しく躾けら れ優しく可愛いことなど、私の知らないことを色々話してくれました。暑い中、着物を解いて洗い張りし、仕立てている姿がいそいそとしていたことを思い出します。私もその様な神様のみ教えのもとに教育されている学校に勤めさせていただきたいと、教員への道を選びました。

終戦後、欠員があるからす ぐ来るようにと言われ、十月末小林の坂を上りました。銀杏の葉が鮮やかな黄色に輝い ている日でした。マザー伊藤に叔母とお目にかかり、べー ルに長い掘を引かれた修道服 のお姿にびっくりいたしました。翌日から、マザー三好に公教要理を教わり、衣一年後ク リスマスの後に、大竹先生とご一緒に叔母の代母で洗礼を授かりました。

二人三脚のような形で生活を共にし、お勤めさせていただきました。叔母はお世話になりご恩を受けた方々のこと は、とても勿体なく感謝し、日々事に話しました。若かっ た戦争中、郡の体育大会で賞 をとったこと、皆さんと楽し く遊んだことなど昨日のこと のように話していました。

六時三十分に出て、北口発の電車の同じ席に座り、一歩 一歩踏みしめて坂道を上って いました。土曜日の午後、心斎橋まで書道の稽古に行き、帰って仮名の大字を勢いよく書き練習し、展覧会作品も作 りました。

聖心の愛に包まれ、厳しさ と礼儀正しさ、他人を思う優 しさのある学校での生活から離れられなくなり、マザース、 シスタースに倣い、先生方保護者の方々に親しく支えら れ、生徒の皆さんを子供のよ うに思う日々を幸せに過ごし ました。

晩年には、みこころ会から のクリスマスのお便り、プレ ゼントをお懐しく感謝し、喜 んでお受けしておりました。 小林聖心で巡り会った方々、日々の仕事は、神様からの賜物でございます。このような道に導かれましたことを心から感謝し、神のみもとで聖心女子学院のみ栄えと、愛する卒業生の皆様方の聖心へのご奉仕をお折りしていることと存じまず。主の慈しみを、とこしなえにと讃美と感謝の中に。

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小林聖心女子学院旧職員
源氏物語講読講師

  
     濱本 博子


「お手をお膝にお置きなさ い。」きみ子先生からこの言葉 をきいた人たちはどれほど いるでしょう。隠やかであり ながら凛とした声がひびいて きました。それを機に自分を 見つめ直す時をいただきまし た。ご自分は平常と変わらぬ 姿、思慮深い温顔、素敵な先 生でした。

何にも媚びない毅然とした方、人の心を大切に して根気よく耳を傾け、歯に 衣着せず丁寧に助言して下さ る方でもありました。その心 の源は神さまの存在だったこ とは言うまでもないことでし ょう。がもう一つ、ご自分に もひとにも求められた「お手 をお膝にお置きなさい」とい う「形」から生まれる人間の 心の世界、謙虚、静かな平安 と深い思い、誇り高い人間性 の尊さなどを大切になさった 力でもいらっしゃったと思います。

「形」を崩さないという 先生の生き方を通して、自我を捨ててあるぺき声に従い、大いなる方以外のものは畏れず、ご自分の歩むべき道を貫 く人生観に到達なさったのだとも思います。

隠れた反面、 「お茶目さん」で「あわて者」 で「ミーちゃんハーちやん」 でもいらっしゃいました。長谷川一夫の舞台での流し目に酔っていらっしゃる知るられざる一面もお持ちでした。感じやすい柔らかな心とすべて捧 げ尽して怖いない毅然とした強さとをないまぜた一生を生き尽してゆかれました。

お通夜で先生のお写真を一目見た時、心が震え涙が溢れました。 「敬礼」していらっしやるで はありませんか。すべてへの お別れのご挟拶か、先生らしい感謝の思いなのか、童女のような明るさが伝わってきて、ご自分らしい人生を貫いた人の終焉の花を心に刻みま した。死の暗さよりむしろさ わやかな明るさが漂っているのでした。

お目にかかった日からお別れのその時まで、多 くを与えて下さったことに心から感謝とお礼を申し上げたいと存じます。ほんとうに有難うございました。

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小林みこころ会二十三回生

     志立 栄子


  昭和十八年、国民学校五年 の担任は三宅きみ子先生であ った。前年、三人の担任のたらい回しに遭い、学校不信に陥っていた私達を先生はキビキビと指導して下さった。太平洋戦争開戦から一年半、戦局は膠着状態で、日常生活にも翳りが見え始めていた。 「日本は神国也」と真顔で教 えた時代、ミッションスクールは当局から白い眼で見ら れ、連合国国籍の修道女は、すでに国外退去か、収容所送 りとなっていた。国策に対して、学校側は今ひとつ腰が引 けている、と感じていた私達 は先生に引率され、アッツ島玉砕者の遺族弔問を皮切りに、村の出征兵士を送る壮行会や大詔奉戴日の神社参拝な どに参加するようになって、 胸のつかえがおりた気分だっ た。

 翌年も先生の持ち上がり担任だった。非常袋と防空頭巾を肩に、モンぺ姿で通学。避難訓練は現実となり、警報と共に埃臭い地下室に入って、 本の朗読を聞くのが授業だっ た。空襲で焼け出される方も 出始めた。「打倒せよ鬼畜米英、撃ちてし止まむ」の標語 に血の騒ぐ私などは、厄介な生徒であったらしい。 ある日先生は級全員に、「お説教」 なさった後、「『これも私の信仰が足りないからでございます』と校長様にお詫び申し上 げました」と沈痛な面持ちで おっしゃった。が、何を叱ら れたのか、私にはよく解らな かった。
 
当時、聖心が「視学官一行 の中から『毛唐の経営する学校など不要!』と声があがり、校長以下言葉なく・・・」という 窮地にあった事を小林みここ ろ会報で知ったのは、数十年 も後である。厳しい言論統制下、生徒の耳には国の建前報道しか届かず(大人にはその裏の真実が透けて見えても)、教育現場でキリスト教の理念 を口にするのはタプーであっ た。その中で,精一杯踏み込 んだ先生のお教えだったに違いない。戦時中、削り取られた校歌の一節「愛に境は無き ものを」を再び歌えるように なった時、私はその事に気づいたのである。
 
戦前、戦中、戦後と大変な 時代に私達を慈しみ下さいま したこと、深く感謝しつつ、心よりご冥福をお祈り申し上 げます。





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更新: 2000年5月25日
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