昭和十八年、国民学校五年 の担任は三宅きみ子先生であ
った。前年、三人の担任のたらい回しに遭い、学校不信に陥っていた私達を先生はキビキビと指導して下さった。太平洋戦争開戦から一年半、戦局は膠着状態で、日常生活にも翳りが見え始めていた。
「日本は神国也」と真顔で教 えた時代、ミッションスクールは当局から白い眼で見ら
れ、連合国国籍の修道女は、すでに国外退去か、収容所送
りとなっていた。国策に対して、学校側は今ひとつ腰が引
けている、と感じていた私達 は先生に引率され、アッツ島玉砕者の遺族弔問を皮切りに、村の出征兵士を送る壮行会や大詔奉戴日の神社参拝な
どに参加するようになって、 胸のつかえがおりた気分だっ
た。
翌年も先生の持ち上がり担任だった。非常袋と防空頭巾を肩に、モンぺ姿で通学。避難訓練は現実となり、警報と共に埃臭い地下室に入って、
本の朗読を聞くのが授業だっ た。空襲で焼け出される方も
出始めた。「打倒せよ鬼畜米英、撃ちてし止まむ」の標語
に血の騒ぐ私などは、厄介な生徒であったらしい。 ある日先生は級全員に、「お説教」
なさった後、「『これも私の信仰が足りないからでございます』と校長様にお詫び申し上
げました」と沈痛な面持ちで おっしゃった。が、何を叱ら
れたのか、私にはよく解らな かった。
当時、聖心が「視学官一行 の中から『毛唐の経営する学校など不要!』と声があがり、校長以下言葉なく・・・」という
窮地にあった事を小林みここ ろ会報で知ったのは、数十年
も後である。厳しい言論統制下、生徒の耳には国の建前報道しか届かず(大人にはその裏の真実が透けて見えても)、教育現場でキリスト教の理念
を口にするのはタプーであっ た。その中で,精一杯踏み込
んだ先生のお教えだったに違いない。戦時中、削り取られた校歌の一節「愛に境は無き
ものを」を再び歌えるように なった時、私はその事に気づいたのである。
戦前、戦中、戦後と大変な 時代に私達を慈しみ下さいま
したこと、深く感謝しつつ、心よりご冥福をお祈り申し上
げます。
|