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ガブリエル
島上逸雄先生を偲んで


お知らせ
8月3日(土)2:30より
池田カトリック教会にて
ご家族主催の追悼ミサが行われます。
どうぞ、ご参加くださいませ.

同窓会の会報より島上先生の追悼文を
抜粋して紹介させていただきます


想い出

小林聖心女子学院教員 西本 裕
小林聖心女子学院教員 前田 高男
小林聖心女子学院教員・六十回生 池田 真木子
小林聖心女子学院教員 山崎 千枝
小林聖心女子学院教員 凪 美歩子
小林みこころ会四十七回生 津田 由貴
小林みこころ会七十一回生 片岡 友美(珠 あゆら)


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小林聖心女子学院教員

         西本 裕


 島上先生、先生はその性格から来たものかすこし日早く道を急がれました。

 先生は1969年4月より聖心に奉職、その数年前に御受難会のウォード神父との出会いにより、カトリックの受洗をされ人生の大きな転機を迎えておられます。

 若い頃、共に授業のあり方を、クラブを、熱心に話し合い実践する日々でした。先生の考えは教育界にありがちな空理空論は避けておられ実践を重んじ、且つ弱いひとたちへの思いやりにはいつも心を注いでおられました。

 生徒への指導は愛情あふれたもので、生徒は先生を慕い、卒業後もよく相談にのり、行事の日など職員室の前で卒業生と談笑して、そこには温かい、和やかな雰囲気が常に漂っていました。

 最近は、主に高等学校での生徒の指導に当たられながら、学校の中心的存在として、国際交流、体験学習、入試対策と学校の教育理念を具現化するための委員会などに従事し新鮮で改革的な提案をなさってこられました。時代の流れの中で学院の将来に向けて真の聖心女子学院らしさを大切にしながらの教育の在り方を考え続けておられました。

 2年前、病をえられてからも学校に戻りたい、教壇に立ちたいと言う強い願を持ちつつ、病気と闘ってこられ2001年4月にもその強い願いで高三の日本史の授業に全力を尺くし、まわりの心配をよそに5月半ばまで頑張られました。そのがんばりの滞は元気になりたいという先生の強い意志だったと思います。入院中は勿論、退院をなさった後も、卒業生の訪問が絶えなかったようです。

 30年余りの間、聖心で先生のまかれた種は大きく育ち、少しずつ実りを迎えつつあります。

 家族をこよなく大切にし、奥様と三人のお子様への深い愛情はまわりにいる私たちにも感じられました。手術後も少し元気になるとご家族との小さな旅行を楽しみ、想い出をいっぱい残されていました。
 先生は亡くなられた8月3日、ご家族に見守られて病院を出て、お家に帰られる前に大好きな聖心のお聖堂へ来られ、祭壇の前で帰ってきましたよと神様に報告されました。

 島上先生、どうかその温かいやさしい目で天国から、残されたご家族を始め、私たちを見守って下さい。


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小林聖心女子学院職員

            前田 高男


 私が大学を卒業し、小林聖心に勤め始めたのが約27年前だった。先生方の話し言葉、生徒達の終礼時や先生方への話し方の丁寧さに少なからず驚いた。しかし、放課後運動場から聞こえてきた大きな怒鳴り声を聞いて、又驚いた。何とも教室での雰囲気とは大きく違っていた。もちろんその声の主こそ島上先生であった。見た感じとは異なりとても周りに気配りのきくその魅力に何人もの若い先生が引きつけられ、一緒に食べたり飲んだりすることがあった。そこではクラブ活動や生徒のことなど、教育談義に花が咲いた。私が教師になってからの考え方に大きな影響を与えてくれたのは島上先生だと思っている。同じ学年を担任することはなかったが、学校の他の職務では、よく一緒に仕事をした。学校行事、カリキュラム、中学校の入試対策、これらの委員会や会議での発言など様々な場面で、彼のアイディアと実行力に多くの事を学ばせてもらった。

 私が彼から強く感じとったものをいくつか挙げると、1.被差別部落、在日朝鮮人、韓国人、身体障害者などへの社会的な問題意識の強さ。2.学校外の研修会で知り合った人達、生活している地域や所属していたソフトボールチームの人達など様々な機会に積極的に人と知り合い、そのネットワークの広さ。そして、その人達の特徴や名前をしっかり記憶していること。3.ギャンブル好き。これは一獲千金というのではなく、自分の推理に対して・艮かったか、悪かったのか判断力ヘの欲求だと思う。それもできるだけ早く結果が出るのが好きなようだった。随分前になるが、彼を中心によく麻雀をした。この時彼から、「ついているものとは勝負するな。自分がついていると思ったらどんどん勝負にで、つきがなくなったらすぐにおりる。」 ということを聞いた。これは自分自身だけの考え、思い込みだけではなく、常に周りの環境に気を配り、流れを的確に読むという優れた才能だと思った。学校の始業前に、お茶を飲みながら、先生の話が聞けなくなったのがとても寂しいかぎりである。

 最後に不可解なこと。それは虫と蛇を極端に怖がっていたことだ。天国に虫や蛇がいないことを願っている。
 

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小林聖心女子学院教員
みこころ会六十回生


          池田 真木子



 「おもしろいビデオがあるから見に来んか?」 8年前の冬、先生に誘われ高三日本史特講の授業に飛び入りし、絵巻物に関する番組を生徒気分に戻って]見たことを思い出します。

 ちょうど次の春、京都国立博物舘で源氏物語絵巻が展示されることを知り、興味開かれた私は実物を見に行くことにしました。そこでまた先生に偶然お会いして、解説つきの充実した見学をすることができ、その後も公私にわたる様々な機会に史跡について、或いはそれに留まらず、物の見方、捉え方をたくさん教えて噴くこととなりました。

 「自分の目で本物を見る」ことの大切さを知っておられる方でした。遠くホンジュラスの地まで足を運ばれたり、震災の折りに自らバイクを駆って被災地の生徒を見舞われたことも、根底にその信念がおありだったのだと思います。社会が混迷の色増す今、先生の炯眼が偲ばれます。
   


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小林聖心女子学院教員

             山崎 千枝



 鳥上先生が天国に召されてから、はや半年。いまだに時々 「おい、何してんねん。」とお声をかけていただけそうな気がします。本当にお世話になり、可愛がっていただきました。小林に来て二年目に高校所属となり、先生の学年
に入れていただくことが多かったです。仕事をひとつひとつ丁寧に教えていただく中で、教師とはどういうものか、人として良く生きるとはどういうことなのか、身をもって示して下さったように思います。私が初めて担任をさせていただいた時、しつかりしなければと、気持ちばかり焦っていました。先生はそんな私に気づいて下さって、「生徒と気持ちが近いことが何よりの強みだよ。」 と、励ましてくださいました。最後まで、「生徒との出会いが宝物、教師になった自分は幸せ者だ。」と、おっしゃっていました。先生に少しでも近づけるよう、良い教師になることが何よりの御恩返しだと思います。どうか先生、天国から見守っていて下さい。


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小林聖心女子学院教


           凪 美歩子



島上先生が最後に担任をされた平成11年度、同じ学年(高校2年) を担任させて頂きました。その時から先生とお話する機会が増え、的確なアドバイスもたくさん項きました。先生は常に生徒の立場に立って考えることの大切さを口にし、実践なさっていました。その様子を間近で見ることができ、私にとって大変意味のある一年を過ごすことができました。

 先生は、この年度の途中に入院、学年末に復帰されました。三月には、六日間の修学旅行にも参加されました。バスでの長距離移動は、体力が回復していないお体にはこたえたと思いますが、ずっと生徒と共に行動されてました。私を含む引率者や生徒達にとって忘れられない思い出となりました。

 先生はよく 「(最近) 何かいいことはありましたか。」と話しかけて下さいました。今となってはその言葉が懐かしく、また寂しく思い出されます。先生には書き尽くせないほどの思いを頂きました。ありがとうございました。

   


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みこころ会四十七回生

           津田 由貴



 長く薄暗い廊下の向こうから、大股でゆっくりと大きな影が近づいてきて、「おう」と手を挙げてくれる。今でも聖心に行くと、もしかしたらと思うのは私だけでしょうか。

 中学一年の私たちを大学を卒業したばかりの先生が担任れたのが、33年前のことです。当時、若い男の先生方の登場で学校じゅう興味津々だったことは言うまでもありません。島上先生と相澤先生の男らしい関西弁がグラウンドに鳴り響き、何もかもが珍しく楽しい毎日でした。

 多感な時代を先生と共に過ごしたことは卒業後も私たちの夫々の人生の大きな下地となり強い絆で結ばれていた気がします。仕事、結婚、子育て、親しい人との別れ、嬉しい時も辛い時もいつも付き合ってくださる先生でした。そんな安定剤のような先生が倒れられ途方に暮れた私たちでしたが、御闘病を通じて、今自分に出来ることを精一杯やること、ユーモアを忘れないこと、素直な心になることを教えていただいたように思います。病院でお目にかかった時、「本当にいい娘なんや」と御長男の結婚式の写真を見せてくださった安堵の笑顔と、元気になってきた私の息子の話を聞いて流された涙が忘れられません。

 聖心が大好きで生徒と過ごす時間が何よりも幸せと言っておられた先生が、「どの子も輝きを持っているはず。隅っこにいる子にこそ光を注いでやりたいんや。みんな人生の主役なのだから」 と話された言葉の中にこめられている愛の心と、最後となった同窓会で一緒に歌った「ふるさと」を大切にしていきたいと思っています。


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みこころ会七十一回生

       片岡 友美(珠あゆら)



 あの日、終演後、聖心の友達から沢山メールが入っている島上先生がお亡くなりになられたという悲しいメールでした。

 先生の第一印象は、グラウンドで大きな声を張り上げていらっしゃるお姿から、『何だか怖そうな先生だな。』 でした。でも、高二の時担任になって頂いて、全く先生の印象が変わりました。いつも穏やかで、笑いの絶えない、温かい先生でした。今でも島上先生というと、あの明るい笑顔が思い出されます。

 私が宝塚音楽学校に合格した時、先生は 「教師の立場としては、何故卒業迄待てなかったと言いたい。でも、僕個人としては、片岡は一年早く卒業してゆくと思っている。卒業一番のりだと思っている。」 とおっしゃって、私の合格をとても喜んで下さいました。聖心に行った最後の日、「片岡の最後の制服姿の写真をとってあげようと思って…。」 と、きれいに咲き誇るしだれ桜の下で、写真をとって下さいました。私にとっては、先生のやさしさ一杯の大切な大切な写真です。

 今になって思う事は、先生は、いつも一人一人の生徒のことを考えて、その生徒に一番艮い様に接して下さっていたという事です。何か相談したら、いつも私の立場に立って、真剣に相談にのって下さいました。心から先生を信頼でき、心強かったです。

 私の舞台を観にいらした時も客席から、先生の大きさ、優しさ、温かさ、すべてが滲み出ている笑顔で見守って下さいました。きっと今も、私達を、あの笑額で見守り続けて下さっていると思います。

 島上先生、たくさんの愛をあリがとうごぎいました。

   

先生がお好きだったお言葉です。
私たちも先生に出会えて幸せでした。
安らかに。


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更新: 2002年5月25日
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