「──居間で秋葉さまもお待ちになってらっしゃいますから。」
華のような笑みを浮かべながら先導する少女の後ろに着いて屋敷の中を歩く。
遠野の屋敷の中は、ロビーこそ見た事がある風景だったけれどそこを外れると全く覚えが無い。八年、と言うあまりにも昔の事の所為で忘れてしまったのか、それとも単に内装を変えただけなのか。
──わからない。
取り敢えずはっきりしている事は、遥か昔にここに住んでいたと言うのにまるで他人の家の様に酷く落ち着かないと言うことだけだ。
もし、こんな所で待たされたら、余りの落ちつかなさにきょろきょろしながら貧乏ゆすりでもしてしまうかもしれない。
もっとも、実際の所きょろきょろと物珍しげに見まわしながら歩いているのだけど。
「さて、御着きしましたよー?」
そう声をかけられて、はっとバカらしい思考から自分を引き上げる。
前を見ると少女が扉の前でやや苦笑いの混じった笑みでこちらを振り向いていた。
「あ────ありがとう」
落ち着きの無い自分を見咎められた気分がして頬に血が上る。
なんと言うか、とっても気恥ずかしい。
少女はそんな僕の様子にくすりとにこやかな笑みをこぼすと、居間に続くであろう木製のどっしりとした扉を軽く開け、その中に滑りこむ様に中に入る。
「秋葉さま、志貴さまをお連れしました」
少女がぺこりと頭を下げて、中にいた人物に告げる。
「ご苦労様、琥珀。……で、兄さんは……?」
僕の来訪を告げられた人物が、僕が見えなくて戸惑った声を上げる。
それはそうだ。少女──どうやらコハクと言う名前らしい──は、自分が通るに必要最小しか扉を開けていない上に、まるで通せんぼでもするかのように開けられた扉の前に立っている。僕から扉の向こうが見えないのに、向こうからこちらが見える道理はない。
向こうを向いているので分からないが、恐らく琥珀さんはこの状況を楽しむかのようにとても上機嫌ににこにことしているのだろう。
たったそれだけなのに、琥珀さんの基本性格が僕にはよく分かった。
と、すると、次に来るのは──
僕が先を予測するのと同時に、琥珀さんは僕の手を取った。
「あらあら、幾ら久しぶりだからって恥かしがっては対面も出来ませんよ? ささ、どうぞどうぞ」
「いや、別に──」
僕が隠れたくて隠れているわけではない。
それは確かに今の僕が、恐らくこの向こうに居るであろう秋葉に対面するのは物凄く勇気が居る。とても恥かしい。
だからって、その上でここまで御膳立てをしなくても……!
そんな僕の言葉にならない抗議なんかは当然の如く無視して、琥珀さんは掴んだ僕の手を引っ張った。重心を崩され、踏鞴を踏む様に部屋の中に引っ張り込まれる。
居間では、二人の少女が僕を待っていた。
「お久しぶりですね、にい……さ……」
夕方の淡い朱の光に包まれた豪華な内装の中で、その風景に溶け込みつつもそこの支配者として申し分無い、思い出の中の妹とは全く違う、それで居て面影を残したまるっきり良家のお嬢様が口を開き──僕を見て絶句した。
その隣に控える、どこからどう見てもメイドさん、と言った格好をした少女も僕を見て動きが止まっている。
と言うか、この部屋の、時が、止まってしまった。
────思った通り、魂が抜けているな──
いくら予測がついていたとは言え、こんなにストレートに反応されると申し訳無さすぎる。
僕は、イタズラが成功して極上の笑みを浮かべている琥珀さんを一瞥して溜息をつくと、この部屋の時間を再び進める為に勇気を奮って口を開いた。
「……久しぶりだね、秋葉」
どこからか吹いてきた風が、長い髪を揺らして沈黙の中さらりと鳴った。
────秋
夏の面影が見事に消え去ってしまった十月もなかばの木曜日。
僕は、八年ぶりに長く離れていた実家に戻る事になった。
八年前、普通なら即死と言う重症から回復した僕は、親元である遠野の家から分家筋である有間の家に預けられた。
そこにどう言う遣り取りや思惑があったのかは知らないけれど、ともかく僕は九歳から高校二年になる今までを殆ど養子と言う形で有間の家で暮らしていたという事になる。
恐らくは予測するに、怪我が治ったとはいえポンコツの身体のままでいつ死ぬか分からない僕が、名家である遠野家の後を次ぐのは無理だと判断された結果だと思う。
実のところ礼儀作法だの格式ばった事が嫌いだった僕は、どちらかと言うとそう言うことを強要されない有間の家での生活はとてもゆったりしていて心地がよかった。
「ところがつい先日、遠野家当主から直々に『今日中に戻ってこい』とのお達しがあってね。悩んだけれど、僕は結局実家に帰る事にしたわけなんだ」
きつねうどんをちゅるりと吸いこみながら、僕はそう締めくくった。
「ふーん、なるほどな。しかし、遠野クン」
僕の斜向かいで同じくきつねうどんをすすっていた乾有彦がやや首を捻りながら問いかけてきた。
「なんだい? 乾君」
僕もうどんをすする手は止めず、目だけでちらりとそちらを見ながら聞き返す。
「どうしてそんなに説明口調なんだ? まるでモノローグみたいじゃないか」
「それは、説明してるんだから説明口調なのは当たり前でしょう?」
僕が言葉を返すより早く、僕の隣でもこもことカツ丼を口に運んでいた弓塚さつきが口を挟んでくる。
いや、挟むというより、ツッコミだ。
学校の昼休み。食堂での全くいつもと同じようなやりとり。ちょっと違うのはいつものバカ話ではなくて、話題の中心が僕の引越しについてだっということだけだ。
「いや、弓塚、俺はそう言うことを言ってるんでなくてだなぁ──」
「でも、そう言うことだったんですね」
僕の正面でカレーを食べていたシエル先輩が、有彦の事はほっといてうんうんと頷く。
「ええ、そう言う事なんです」
有彦のボケになってないボケに突っ込む弓塚さんを苦笑しながら見遣りつつ、シエル先輩に相槌を打つ。
しかし、何時も思うのだが何とも不思議なメンバーが揃ったものだ。
まず、何故こいつが僕の知り合いなのか理解に苦しむ男、乾有彦。
オレンジに染めた髪と片耳にピアス。何時でも何処でも喧嘩上等とでも言いたげな良く言えば鋭い、悪く言えば三白眼の目。まともに制服を着た事なぞ知り合ってから一度も見た事がない反社会的な服装。
進学校であるうちの学校の中でただ1人だが別に希少保護を受けてるわけでもない自由気ままなアウトロー。
それが、今斜向かいでうどんをすすっている乾有彦くんである。
次に、別な意味でどうして僕と知り合いなのか疑問な女の子、弓塚さつき。
長い髪を頭の左右で結んでいるからか、その見栄えの良いちょっと丸めの顔が少し幼く見えるのがやや難点か。
成績も良く、見た目も良く、性格も良いという三拍子揃った女の子で、大体何時もクラスの中心的な位置にいる。クラスの男子の殆どは弓塚に熱を上げていると言う噂で、非公式に男子間で行われたミスコンでは隣のクラスを巻き込んで、二位と僅差で一位を取ったらしい。もっとも、二位の事はできれば忘れていたいのだけど。
凄く社交的な娘なのに、何故か良くこうして非社交的な僕や有彦と一緒にいることが多々有る不思議な娘。それが隣でカツ丼を頬張っている弓塚さつきと言う女の子である。
これに僕を加えた三人が、中学から何故かずっと一緒にいるメンバーなのだけれど。
その上に今日はシエル先輩までいる。
顔立ちが良く、眼鏡の似合うお姉さんで、影の生徒会長とまで呼ばれる凄い人で、とてもいい人。ショートカットがおっとりした性格とは正反対だけど、以外とテキパキと動く先輩には合っているのかもしれない。
僕もこれまで何度かお世話になっている……らしいんだけど、ついこの間まで直に顔を会わせたことが無いと思っていて、この間名前と顔が一致していなかった事を言ってしまって怒られた。どうやら先輩は僕が入学した頃からこっちを見知っていたらしい。
それからと言う物は、昼休みや休み時間にちょくちょくとこっちに来ては僕らとダベっていく様になった。
今日も、何処で聞いてきたのか(というかタイミング的にすぐそこで聞いていたのだろうが)僕が引っ越す事が初耳だったらしく、すわ転校かとばかりに乱入してきたのだ。
「しかし、済みませんねぇ」
「はい、何がですか?」
僕に突然謝られた先輩はきょとんという顔をした。
「突然混み入った事話しちゃって。退屈でしたでしょう?」
「いや、全くだな遠野。少しはデリカシーって物を理解しろ。お前は外聞がなさ過ぎる」
弓塚さんとのボケツッコミが終わったのか、突然有彦がうんうんと頷きながら乱入してくる。
全く大きなお世話である。
「おい、そもそもお前が──」
「いえ、そんな事はないです。興味深い話でしたよ」
気を使ったのか、僕が有彦を迎撃する前に先輩が割り込みをかけて否定してくれる。
どうせだったら迎撃後の有彦の反撃の方を封じてくれればいいのに。
「おお、流石は先輩、優しいですねぇ。生真面目な弓塚とは偉い違いだ。遠野、お前も見習えよ」
「もう、それどう言う意味よ」
槍玉に挙げられた弓塚さんが抗議の声を上げるが有彦は聞いちゃいない。
つか、聞くようだったら始めからこうはなってないだろう。
先輩はそんなことないですよー、とちょっと照れている様だ。
「へー、へー、わるぅござんした」
僕は適当に受け流しながら丼を持ち上げてずずっと汁を啜った。
麺物では汁を全部飲みきるのは礼儀に反する、とか聞いた事があるが、本当のところはどうなんだろう? もっとも、それ以前に僕は麺物の汁を全部平らげたことなんて一度だってないんだけれど。
「どうした遠野。何時もより反応が淡白だな」
有彦が揚げを咥えてちゅーちゅーと染みた汁を吸いながら、拍子抜けしたように尋ねてくる。
「うるさい。これでも結構色々と込み入っててブルー入ってるんだ。もう今日は口を開くな」
ぴしゃりと言って有彦をじろりと睨む。
「おおこわ。それにしちゃあ嫌にあっけらかんと説明してたじゃないか。俺たちはどう言ったものか言い澱んでたってーのに」
少しも恐そうに見えない素振りで肩をすくめた有彦は同意を求める様に弓塚さんを見やる。弓塚さんはそれを受けてうん、と頷いた。
「うん、前からそう思ってたけれど、この話をする時の遠野クンってかなりさばけてるよね。でも、ブルー入ってるって、やっぱりまだ迷ってるの? お屋敷に帰るの」
「いや、帰る事については全然迷ってない。自分で決めたことだから。それに、いざとなったら弓塚さん家や有彦の家って避難場所も有るしね。ただ、それとは別な問題がちょっと……」
弓塚さんに苦笑いを向けながら、丼を置いて一息つく。
──そう、問題は全く別のものだ──
いや、もしかしたら全くの同種なのかもしれないが、少なくともそれは根本だけであって外から見た場合は同じ物には決して見えない──
「おまえなぁ、何かイヤな事や困ったことがある度に俺たちの家に転がり込んでくる癖、いいかげんに直したらどうだ?」
「そうだよ。私、遠野クンのちょっと浮世離れしたところ好きだけど、もうちょっと家族に甘えてもいいと思うなぁ」
朝から悩んでる事にまたも沈みそうになったところで、有彦と弓塚さんが僕の言葉の中の、それとは関係ないフレーズに食って掛かかってくる。
どうしてこの二人って、何時もは反りが合わなさそうなのにこういう時だけ息ぴったりなんだろう? わからない。
とはいえ、二人の言う通りなので、僕は言い返せずに黙っているしかない。
「乾くん、弓塚さん。遠野くんってそんなに頻繁に二人の家に止まりに来るんですか?」
「ええ、そうです。遠野クン、家族に遠慮して長い休みになると居辛いからって私たちの家を渡り歩くんです」
「しかもコイツ、これで気立てがいいから俺の姉貴やら弓塚のお袋やらに気に入られてるもんで手ぶらで泊まりに来るんだぜ!!」
先輩の疑問に二人が息ぴったりのまま答える。即答だ。
有彦なんかはゆるせんとばかりに握りこぶしを振り上げながら力説している。
「確かにそういう時は手土産の一つでも持っていくのが礼儀ですね。」
先輩はにっこりと笑いながらトンチンカンな答えを返してきた。
「でも、乾くんのお姉さんや弓塚さんのお母さんの気持ち、なんとなく分かるような気がしますね。私も、遠野くんが転がり込んで来たんだったら手放しで泊めちゃうような気がします」
「え、本当ですか? 先輩」
俯いた顔を勢い良く上げて先輩の顔を見つめてみる。
恐らく今の僕の顔は天使にでも会ったような顔になっているはずだ。自分でも目が輝くのが自覚できる。
先輩の言うことが本当だったら、僕は多分安地を一つ増やす事になる。それは、これからの生活の中でとてもとても有りがたい事だ。
しかし、先輩はちょっと残念そうな表情をして言葉を続けた。
「でも、遠野くんは私の家の場所知りませんから転がり込めませんね。残念です」
ああ、そう言えばそうだ。僕は先輩の家の場所など知らなかった。
これから頭が痛くなることが待ち構えている中での一筋の光のように感じていたから、何だか必要以上に落ちこんで知らないうちにがっくりと俯いた。
「ああもう、またそう言う顔をする! 家の場所くらい幾らでも教えますからそんなに落ちこまないで下さい!」
先輩が、はぁ、と言葉に溜息を混ぜながら慌てたように前言を撤回する。
……そんなに情けない顔だったんだろうか?
「先輩、あんまり遠野を甘やかさない方がいいぜ。てゆーか、コイツのその顔と満面の笑みは、俺の姉貴も陥落させた女殺しの武器だからな。って──もしかしてもう遅いですかね?」
「なっ────!」
ニヤリと笑いながらトンデモナイ事を言う有彦に、僕はギロリと睨みを利かせる。幾ら有彦のトンデモナイ発言には慣れているとは言っても、流石にこれは顔が熱くなっていくのを感じた。
おお、こわこわ。と有彦は余裕でもって僕から視線を外した。
「あ、でも、それは言い得て妙ですねー、ねぇ、弓塚さん?」
「ええ、そうですよねぇ。シエル先輩」
そんな僕を見ながら女二人はニヤニヤだかニコニコだかとても判別のつき難い笑みを浮かべる。なんだかトテモイゴコチガワルイ。
つーか、とってもこっぱずかしい。
「な、なんで皆で納得するんですかっ! 女殺しだなんてっ、ぼ、僕は──」
「何言ってるんですか、遠野くんは」
先輩はアヤシイ笑みを顔に浮かべたまま、説教でもするかのようにぴっと人差し指を立てて、ずいと身を乗り出してきた。
「遠野くんは実は私たち三年生女子の間でも人気が高いんですよー? 私はこうして遠野くんと親しげに話してますから、良く羨ましがられるんです」
「えぇ──?!」
先輩の言葉に絶句する。
嘘だ。それはきっと嘘だ。でなければきっと悪い夢だ。お願いですから冗談だと言って下さい先輩。
でも、先輩は嘘なんてついてませんとばかりにニコニコしてるままだ。
そして呆然とする僕に向けて、弓塚が追い討ちをかけてくる。
「そう言えば、あの非公式のミスコン──」
弓塚さんは、前に彼女自身が一位を取ったクラス内ミスコンテストの事を持ち出してきた。あのミスコンは結構大規模なものになったため、非公式とは言え結果は関係者の周知の事実だ。何で皆あんなに白熱していたのかは、謎。
弓塚さん、お願いですからそれ以上は言わないで下さい。それは僕にとって触れられたくない事柄ナノデス。
しかし、僕の願いもむなしく、弓塚さんは天使のような笑顔で言葉を続ける。
「僅差で私が一位だったけど、もう一クラスが参加してたら、きっと遠野クンが一位だったよ?」
「ぐぁっ!」
思い出したくも無い古傷を抉られて、口から呻きともつかない空気の塊が漏れる。
弓塚さん、それはクリティカルだよ。
僕は二人の言葉で既にグロッキーだ。そして居て欲しくないときに限って、類稀で独特なセンスを持つヤツが傍に居たりするものだから────
「まったく、女殺しの上に男殺しか。両方合わせて人殺し。えらく物騒なヤツだよなオマエは。──なぁ、歌姫ちゃん?」
「それは意味が違う──!! っていうか、うたひめ言うなぁっ!! 僕はしきっっ! 詩姫だあぁっ!!」
八つ当りの様にバァンとテーブルに手を叩きつける様に置いて、有彦の方にずいと迫る様に立ちあがった。机が酷く揺れて、巻き込まれた隣のテーブルで高田君が食べていたラーメンの汁が零れたようだけど、そんな事は関係ない。
「わっわっ。もう、遠野くんは女の子なんですからそんな大きな声を出したらはしたないですよっ」
僕の動きを予測したのか、いち早くカレー皿を自分の手に避難させた先輩がぷんすかと抗議してくる。
ちなみに、弓塚さんはもともと丼を手に持っており、有彦は既に全部平らげているので被害なしだ。
「────はぁ────」
あんまりにもタイミングのいい──あるいはズレたとも言う──先輩の抗議に、僕は脱力して溜息を吐きながら椅子に崩れ落ちた。
────5年前の夏。
遠野志貴はそれまでにもそうだった様に、体の不調で倒れて入院した。
だけど、何時も何時も原因不明で倒れては治って退院していく僕を毎回検査していて、今回もそうだろうと半ば投げやりに僕を調べた時南医師は今回ばかりは驚いた。
遠野志貴の体の中に、これまでは発見されなかった異常が見つかったのだ。
それがどうして今まで発見されなかったのかは全くの不明なのだけれど、それは確実に僕の中に存在していた。
これまで僕の不調に原因らしき原因を見出せなかった時南医師は、この異常が原因の一端を担っているのではないかと見て僕に手術を受けるように言って来た。
──女性仮性半陰陽。遺伝子的には女性でありながら、胎児期のホルモンバランス等の崩れによって外性器が男性器として発達してしまうもの。形成的には異常であるが、病気とは言えないもの。とどのつまりは、女でありながら男の外見を持ったもの。
それが、僕が告げられた身体の異常の名前だった。
僕はその中でも女性としての機能が一時衰退及び半消滅し、第二次性徴前にその機能が急速に正常育成時の状態に復活するというとても特殊な構造になっていたようだ。
難しいことは分からないが、そういうことも有ってしまうものらしい。まったく生命の神秘と言う物は僕にはとてもわからない。
結局僕は、二つ返事で僕を女の子に戻す手術を受けた。
遠野の一族間では長男が実は長女であったことで結構な大騒ぎだったようだが、結局のところ、元々勘当されていた僕は、遠野志貴から遠野詩姫になったくらいで生活にこれといった変化はなかった。
なかったどころか不調で倒れる事が極端に減ったことを考えると前よりも良くなったと思う。
有間の家が中途半端に学区の境にあったお蔭で、遠野志貴を知る子供のいない中学校にすんなりと進学すると同時に、二次性徴前であったことも重なってわりあいあっさりと女の子の生活に移行できてしまった。
親しい友達なんてものを小学校で作れなかったことも大きい要因だと思う。
これを幸運と見るか不幸と見るかは人それぞれだが、それによって不都合を被ったことは今のところないので僕としては幸運の範疇なんだと思っている。
──いや、思っていた。
親父が死んで、遠野を受け継いだ妹の秋葉からの『戻ってこい』という手紙が『遠野志貴』宛てになっていたことを知るまでは──
「はあ……」
溜息が知らず知らずの内に口から吐き出される。
とても気が重い。
屋敷に帰ることは余り問題ではない。問題なのは、何故か遠野家当主となった秋葉がどういうわけか遠野詩姫がまだ遠野志貴のままだと思っているらしいことだ。
親父が隠していたのか、それとも幼かった秋葉が理解できなかったのかはわからないが、秋葉は確実に勘違いをしている。
鬱に入る気を晴らす為に水飲み場の水道でバシャバシャと顔を洗ってみるけれど、顔を上げたところで鏡の中、夕日に照らされた自分の顔を見てまた気分が落ちこむ。
あまり真面目に手入れをしてはいないが結構質が良いとちょっとだけ自慢の長い黒髪。バランスは取れているがいまいちぱっとしない目鼻立ちで、良く人に優しそうだとは言われるが、自分から見るとやや泣きそうな情けない表情が何だか板についてしまっている見慣れた少女が鏡の中から僕を見つめていた。
──きっと、今の僕を知ったら、秋葉には拒絶されてしまうんだろうな──
自虐的な思考にふっと口元が歪む。
それを知っていながらもあそこに戻ろうと決めたのは、一重に秋葉が心配だったからだ。
もともと僕は遠野の本家から外れた人間だ。はっきり言って男のままだったとしても戻るつもりなんか更々なかった。
でも──
子供の頃の秋葉はそれは本当に大人しくて、いつも何かを我慢しているように怯えているように見える子だった。
僕があの屋敷を逃げ出した後、あの堅い親父が泣き虫だった妹を厳しく躾たのは想像に堅くない。あの父親の元では何一つ自由に過ごせなかったに違いない。
恐らく、今も何かを我慢して泣きそうに育ったか──もしくは、えらく捻くれたかどっちかだろう。 秋葉を置いて逃げ出した上自由に暮らしていた僕としては、秋葉に対して酷く申し訳無い。
それに、親父は厳しくて僕は苦手だったけれどそれでも肉親には変りがないし、なにより、苦手だった僕だって親父の事は嫌いではなかったのだ。まして秋葉は、なついてとまではいなかったとはいえ、僕と違って親父の言いつけを良く聞く言い子だった。
親父が死んで気落ちしているだろうと思う。
だが、そんな秋葉が、こんな姿になってしまった僕を認めてくれるだろうか。
逆に、傍に居た唯一の肉親が死んでしまった上に、家なんて言う重荷をその小さい肩に背負わされてぐらついている秋葉を突き崩してしまう事にはならないだろうか。
でも、それでも、僕は一人残された秋葉が心配で、家に帰る決断を下したのだ。
もっとも、家に帰る理由はもう一つ有る。
僕の髪の先を飾るお気に入りの白いリボンをちらりと見やる。
幾ら大事に使っているとは言え、もう五年も使っているために汚れが落ちきらずにやや黄ばんだリボン。これを見ていると二人の子供を思い出す。
一人目は、僕が子供の──まだ志貴だった──頃、屋敷の庭で僕ら兄妹と共に駆け回った一人の女の子。
何時も何時も元気一杯で、なにか新しい遊びを始めるときは何時も彼女が先頭だった。僕らしか子供がいなかったあの屋敷の中で、何処でも明るく可愛らしい笑いを振りまく彼女は恐らく最も周りから愛されていたに違いない。
流石にあの時の様に駆け回る事は出来ないが、思い出話くらいはしたい。
あんなに仲がよかったのに、何故かもう名前も思い出せないけれど──
そして、もう一人。このリボンの本当の持ち主。
その娘と僕が遊んでいた子は、双子だった。
でも、双子の典型というか、双子なのにというか、全く正反対の性格の娘だった──らしい。
らしい、というのは、僕はその娘と直接話した事は一度しかなかったからだ。
その娘は何時も二階の窓際に立って、僕らが遊ぶ様を悲しそうな目でぼんやりと眺めていた。僕はいつもちらりちらりとそちらを見ては一緒に遊ぼうと目で誘っていたけれど、彼女は一回も外に出てきたことはなかった。
──もしかしたら体が弱かったのかもしれない。
でも、僕が有間の家に行く日。あんまりにも急だった為か、僕を見送ってくれたのはその娘だけだった。
──貸してあげるから、返してね──
帰ってきてね、という遠まわしな願い──
それが、その娘と話したたった一度きりの、オモイデ。
でも、それがなかったらもしかしたら僕は有間の家で酷い事になっていたかもしれない。帰る気は無くても、このリボンは先生の眼鏡と共に遠野詩姫を支える大事なものだったのだ。
もっとも、貰った時にはこうして使う事になるとは思いもしなかったのだけれど。
それを、返しに行く。僕はもう大丈夫だから、借りたものだから、返さなければ──
それが、もう一つの理由。
皆が詩姫になってしまった志貴を受け入れられるとは到底思えない。でも、それでも僕は一度あそこに帰らなければならない──
「あ、ここにいたんだ」
不意に声がして、振り向くと夕日に染まった弓塚さんが立っていた。
「先輩は鍵置いてから来るから、私達は先に昇降口に行っててって」
「うん、わかった」
僕は脇に置いといた鞄をもつと、弓塚さんと並んで夕日で真っ赤な廊下を昇降口に向かって歩いた。
「でも、今日は本当に落ちこんでるね。どうしたの?」
「ん──いや、ちょっとね……」
顔を覗きこんでくる弓塚さんに、苦笑いしながら曖昧に答える。
付き合いが長い弓塚さんも、詩姫が志貴だった事は知らない。
隠している訳ではないが、言い辛いことも事実。
弓塚さんは心配そうな顔をしながらもふーん、と頷いた。
それっきり、会話らしい会話もなくまったりと二人で廊下を進む。
昇降口につくと、既に先輩が待っていた。
「ちょっと遅かったですね。私はもう全部終わらせてきましたよ?」
「あ、済みません。ちょっと花摘みに寄ってて」
申し訳無いな、と頭を掻くと、先輩が苦笑したような驚いたような顔をした。
「今時そんな古風な言い回しする人いませんよ。普通お手洗いですよ」
「うん、ですよねー。遠野クンって本当、どっかずれてるって言うか、まあ、似合ってるからいいんだけど」
弓塚さんも、苦笑を浮かべながら先輩に同意する。
「…そう、ですかね」
何だか気恥ずかしくなって、早々に靴を履いて外に出た。
外に出ると、真っ赤な夕日が目に差し込んでくる。なんだか、世界が真っ赤になってしまったかのようだ。

「ですね。こういう綺麗な夕日を見ると、秋なんだなーって実感しますね。ほら、こんなに空が高いですよ」
「ほんとだ。あれ鰯雲ですね」
僕の後ろからきていた二人が、街中とは言え見事な景色に感嘆の言葉を漏らす。
そのまま、取り止めの無い会話を交わしながら校門へ向かう。
けど、確かに、酷く綺麗な景色。
でも、この景色は実は苦手だ。眼球の奥に朱が染みて来そうで、吐き気がするほど綺麗な景色──
どうも、自分は血を連想させるものに弱いらしい。というか、血自体に弱い体質になってしまったと言った方が正しい。
八年前、遠野志貴はそれはそれはすごい事故に巻き込まれて、胸に傷を負ってしまい、何日か生死の狭間をさまよったのだという。
本当は即死でもおかしくなかったのだが、医師の対応がよかった為か奇跡的に命は取り留めた。
もっとも、当人である僕は、あまりにも傷が重すぎて全然覚えていない。
その時の傷はまだ残っていて、これは一生ものでついてくるらしい。なんでも大きなガラスの破片が体に突き刺さってしまったとかで、胸の真ん中と背中には火傷の跡のような傷痕がある。
おかげでスクール水着以外の水着を着たことはないが、有彦や弓塚さんに言わせるとそれはそれで萌えらしい。萌えがなんだかはしらないけれど。
ともかく、良く助かったものだと自分でも本当に呆れてしまう。
以来、僕は良く貧血に似た症状を起こしては倒れこんでしまって、周りに迷惑を掛け捲っている。
もっとも、月に一度三日ほど必ず倒れるのだけは辟易する。まあ、こればかりは仕方ないのだけど。貧血でだるいのに慣れている分皆よりはマシなのかもしれない。
「さて、ではここでお別れですね」
「うん、そうですね。バイバイ、シエル先輩」
二人の言葉ではっと我に返る。
いけない。景色に見とれている間に校門についてしまったらしい。慌てて別れの挨拶をする。
「あ、はい。じゃあ、またね。シエル先輩」
「はい、遠野くんも弓塚さんも気をつけて帰って下さいね」
先輩はぺこりとお辞儀をするとにこにこしながら帰っていった。
「じゃ、遠野クンもまたね」
弓塚さんもにっこりと笑って別れの挨拶をする。
僕らは何時もこの校門前で別れる。先輩と弓塚さんの家の方向は、校門を挟んで九十度ほど逆方向なのだ。僕の家──有間の家だが──は、この校門より裏門から出た方が本当は早かったりするのだけど、弓塚さんや有彦と一緒の時はここから帰っている。
もっとも、有彦が一緒の時は街まで一緒だけど。
でも、今日からは。
「違うよ、弓塚さん。今日からは僕もそっちだよ」
「え? あ、そうか」
一瞬あれ? と首を捻った弓塚さんが、ぽんと手を叩いて納得するようにうんうんと頷く。
「本当は、遠野クンは丘の上のお姫様だもんね。でも、遠野クンってそういうのぴったりな雰囲気だよね」
「…自分では似合わないって思ってるんだけどなぁ」
クスクス笑う弓塚さんから泳がすように瞳を逸らして鼻の頭を軽く掻く。
今日から僕が帰るのは遠野の屋敷だ。
遠野の屋敷は、住宅地を通り抜けた所の急勾配の坂の上にある。そして、その住宅地が弓塚さつきの家があるところなのだ。
「じゃ、途中まで一緒だね」
「うん、そう言うこと。じゃあ、行こうか」
弓塚さんは歩き出した僕ににっこり笑ってうん、と頷くと僕と並んで歩き出した。
「それでねー」
「うん」
弓塚さんと他愛の無い事を話しながら帰り道を歩いていく。
いつも思うのだけど、弓塚さんはこれと言って特徴の無い事をとても楽しそうに話す。
大抵そんなに印象に残るような話ではないのだけれど、話している時は僕にとって確実に穏やかで楽しい時間だ。
いつも和やかで雰囲気が柔らかくて、一緒にいると安心できる。所謂和み系と言うやつかもしれない。
話しながら夕日に映える弓塚さんの横顔を見やる。
こうやって見ると、弓塚さつきという女の子は本当に可愛い。確かに今時の部分もあるのだけれど、容姿とか仕草とかそう言う部分ではなく基本的に可愛い子なのだ。
僕がまだ男の時の感じがあるからかどうかは分からないけれど、男のままだったら友達としてではなくこの女の子を好きになってたんじゃないかと思う。
ただ、有彦にはよく僕と弓塚さんが長らく友人をやってられることを不思議がられるのだけど。でも、それを言ったら僕と有彦が長らく友人をやれること自体不思議だ、と返したら、あのヤロウ『俺と遠野は友人じゃなくて好敵手と書いてともと読む』なんて抜かしやがった。なんのこっちゃ。
閑話休題。
ともかく、弓塚さつきと言う女の子が男子に結構な支持を持たれている理由がなんとなく分かる。それでいて女の子の間でも特に悪い噂も出ないのだから、かなり良い子なのだ。
そう言えばシエル先輩もお気に入りだと言っていたし、女の子からの人気も高いことが伺える。
考え事をしつつも話しは進んでいて、今は中学校の頃の思い出話に花が咲いていた。
「そう言えば──二年の時の冬休み、覚えてる?」
「──ん?」
ふと思い出した様に問いかけられて僕は首を捻る。
中学二年の冬休みのころといえば、家にも有彦の家にも居辛くてわざわざ補習を受けに行った上に学校に残ったりしていた頃だ。
覚えているかと言われればそこはかとなく覚えているけれど、わざわざ問い掛けられるような事はなかったような────
「やっぱりねぇ。遠野クンの事だから綺麗さっぱり忘れてて、全然覚えてないと思った。遠野クンって昔から人の事覚えてない人だったし」
弓塚さんは考えこむ僕の様子を見てくすくすと笑った。
「ほら、あの中学校って倉庫が二つあったでしょ? 一つは部員が沢山居た運動部が使う新しくて立派な倉庫で、もう一つはバドミントン部とかの小さな部が使っていた古い倉庫。で、この古い方が問題でね、建物自体が歪んでたのか、扉が開かなくなることが何回もあったの」
古い倉庫……体育館裏に鎮座ましましていたコンクリートの建物…?
たしか、あの学校の七不思議には必ず出てくるくらい不気味な雰囲気の建物がたしかに存在していた。
「ああ、あの不気味な……。たしか、生徒が一度閉じ込められてから使われなくなった」
「そうそう。で、その時閉じ込められてたのがバドミントン部の二年生」
「──うん」
そう。確かにそんな事があった。
あれは、年を越したばかりのとても寒い日の出来事だった。
流石に大晦日から三が日までは大人しくしていたけれど、それを越したら非常に有間の家に居辛くなった僕は、わざわざ補習を受けに行ったり学校に残ってもおかしくないような手伝いを申し出たりして、その甲斐あって学校を閉める午後五時頃までは残っていることが出来た。
けど、流石に先生方も帰るというので僕は教室から追い出された。
年明け頃といえば冬の真っ只中。
五時頃には既に日は沈み、辺りは夜の闇がしんしんと降り積もる。
その日は夜間から雪が降ると予報されていた日で、雪の白と夜の黒のコントラストを眺めたい気もしたけれど、そんな事をすると明日から風邪で寝込むことが大決定してしまうような寒さだった。
だから、今日ぐらいはまっすぐに家に帰って温まろうと思った時、校舎裏の旧倉庫から鉄の板を叩くようなガンガンと言う音が聞こえてきて、様子を見に行ったんだっけ。
──誰か居るんですか?
そう問いかけたら、中から数人の女の子の声が聞こえた。
話を聞いてみると、部活動の後片付けの時、風が入ってきて寒かったので扉を閉めたところ、開かなくなってもう二時間ほどここに閉じ込められてるとの事だった。
窓はあるにはあるが、天井近くの明り取りしかなくてとても出られたものじゃない。扉自体どうやっても開かなくて、できれば先生に助けを呼びに行ってほしい、という。
でも、もう先生達は全員帰っていて、今から電話で呼びつけても一時間以上はかかるだろう。
既に雪が降っていてもおかしくない寒さの中、体操服のままで二時間も倉庫に閉じ込められていた女生徒たちの事を考えると、更に一時間も待たせるのはあまりにも酷いと思った。もし手違いでそれ以上かかってしまったら、救急車を呼ばなければいけない可能性もあるかもしれない。
ふと扉を見ると、レールと扉の間に小石が挟まっているのを見つけた。
風が強ければころころ転がるどころか飛んで行ってしまいそうな、指先ほどの小さな石がつっかい棒の役割になって扉が開くのを阻害しているらしい。
見れば、扉の周りは結構砂利が集まっていて、中には完全に扉が噛んでいる石さえある。
そう言えば、まだ夕日がまぶしかった時間。風が窓をガタガタ鳴らすほどに強かった。恐らくは風が砂利を巻き上げてレールに乗った所で扉を閉めてしまったのだろう。
ただでさえ開かないと言われている扉にこれでは開かないわけだ。
僕は周りに人が居ない事を確認すると眼鏡を外し、愛用のナイフで扉の線を切った。
扉は見事にばたんと倒れて、中から涙で目を真っ赤にした女の子が5人ばかり飛び出してきたんだっけ────
「そう言えば、そんな事もあったんだっけ。でも、良くそんな事知ってるね。あれ、バトミントン部の部長が『部の存続に関わるから絶対に誰にも言うな』って僕に脅しをかけてきた上に、部員にも緘口令をしいたくらいなんだけれど。あれの細かい事を知ってるのは僕と──」
「遠野クン。一緒に帰ろうって放課後私を待ってたとき、迎えに来てくれてたのは何部のところだった?」
「────あ」
それは、目下話題のバトミントン部ではなかったか。
そう言えば幾度か足を運ぶうちに、落ちついたのか部長さんがあの時脅したのを謝ってきた事も有ったけ────
「じゃあ、あの時──」
「うん、私も中に居たんだよ。もう、遠野くんって本当に抜けてるんだからね。人が困ってるのは気になっても、それが誰かなんて全然気にしてないんだから」
でもそれが遠野クンらしいところだけど、と弓塚さんは笑った。
「…本当に間抜けだなぁ…」
友人と共有した過去の一部が記憶で繋がらないなんて、間抜けを通り越してる気がする。
「あの時はね、本当にもう駄目かと思ってた。今にして思えばただ倉庫に閉じ込められただけなのにね。周りは暗いし寒いし、お腹だってぐうぐうなってて、もう本当にダウン寸前だった。このままここで凍死しちゃうんだーって、皆本気で思って泣いてたんだから」
「それは、うん、酷く大変だったね」
忘れていた事実に照れ隠しをするようにやや曖昧な返事を返してしまう。
でも、弓塚さんは気にした風も無く遠くを見つめるように話を続ける。
「そうして震えてる時にね、遠野クンが来たんだよ。何時もの、自然で気負いの無い、まあ、あの時には何て危機感の無いのほほんとしたって思ったけれどね。そんな口調で『誰か居るんですか?』って。部長がカッと来てバットをドアに投げつけて『見て分からないのかーっ!』って」
「うん、それは覚えてる。ドガンってすごい音がしてびっくりした」
実は私、アレで更に泣いちゃったんだよー、と弓塚さんは笑った。
「でも、先生達はもう皆帰っちゃったって聞いて、私達本当に絶望したんだから。もう本当に耐えられないのにこのまま明日まで閉じ込められちゃうのかって。そうして私達が世を儚んでいる時にね、またコンコンってドアがノックされて『内緒にしとくなら開けられない事も無いよ』って」
「うん、覚えてる。そしたらまたドガンって音がして『簡単に開けられたら苦労しないわーっ!!』って怒鳴られた。」
「あははは、うん、主将は私達が閉じ込められて責任感じてたから余裕がなかったんだ。ほら、責任感の塊みたいな人だったから」
僕は記憶の淵から主将のひととなりをひっぱりだして頷いた。
「うんうん。それは見ててすぐ分かったよ」
「だよね。だからいい人だったんだけど。……で、だけどすぐ扉が開いたんだよ。皆は部長のバットが効いたって喜んで飛び出したけれど、私は扉のそばでぼーっと佇んでいた遠野クンをちゃんと見てたよ」
そう言って、弓塚さんは温かい眼差しを僕に向けてくる。
今でこそ友達だけど、あの時はまだ単なるクラスメートだったし、こっちにとっては何でもない事だから、そう感謝されると照れる。
「その時ね、私はすごく泣きはらしてはれぼったい目で、顔なんてもうくしゃくしゃ。もしかしたらそれで遠野クンが覚えててくれなかったのかもね。流石に別人だったから」
くすり、と弓塚さんは苦笑して言葉を続ける。
「で、そんな顔の私に遠野クン、何て言ったと思う?」
「う…ん……忘れちゃった。何て言ったの?」
本当に覚えてないので忘れた事を認めて聞いてみる。
弓塚さんはぷっと吹き出してから、本当におかしそうな笑みになって僕を見た。
「私の頭にぽん、と手を置いてね。『早く家に帰ってお雑煮でも食べた方がいいよ。でも、ぜんざいは太るから気をつけてね?』って」
そこで我慢できなくなったのか、弓塚さんはあはははははは、とおなかに手を当てて笑い出した。
「あ……う…」
それは確かに僕が言いそうな恥かしい台詞だ。
当時の僕の真意はわからないけれど、コウシテ言われて見ると酷く恥かしい。ぼっと顔に血が上った。
弓塚さんは暫く笑ってから、ようやく落ちついたのか息を整える。
「多分、家に帰ってお雑煮を食べれば体が温まるよって言いたかったんだと思うんだけど、その一言で皆のそれまで絶望してたのが一辺に吹きとんじゃってね。出られた喜びもあいまって、怒るのを通り越してその場で皆で笑い転げちゃったんだよ」
「うん……それは覚えてる……」
今まで泣いてた人達がきょとんとした顔になって、突然爆笑の渦に変った中、取り残されておろおろしてる僕がいた事はえらくはっきりと覚えていた。
あんまり鮮明で恥かしかったので僕は俯いてしまった。
「ふふ……でもね、その時思ったんだ。学校には頼れる人は居るけれど、いざと言うときに助けてくれるのは遠野クンみたいな人なんだなって」
「……そんな事はないよ、僕はそう大した事が出きるわけじゃないし……」
弓塚さんの言葉にかぶりを振った。僕ができる事って言うのは、本当にそう大した事じゃない。 「ううん、そんな事無い。私、あの時からずっと遠野クンを見てたから分かるよ」
「──え」
その言葉に顔を上げると、夕日に照らされた弓塚さんの真剣な瞳に目が合った。
「中学生の時の遠野クン、いつも一人だったでしょ? そりゃ、結構乾君が傍に居たけれど、根本の所で遠野クンはいつも一人だった。遠野クンは目立つから、皆の目が遠野クンに向くけれど、でも、皆は近づきがたいって思ってた」
「──うん、それは知ってる。だから僕もあんまり他の人と近づかなかったしね」
近付き辛いと思われている人間が、わざわざ輪に加わろうとする必要は無い。元々僕は一人でぼんやりしている事も多かったから話の輪に加われなかった事はそれほど苦ではなかった。
それに、僕は皆と違うんだっていう無意識の壁が、周りに人を近づけなかったんだと思う。女の子としての生活はすぐ慣れたけれど、あの時はまだ、やっぱり僕は男だったから──
「知ってた? 遠野クンってね、中学生の時皆に恐がられてたんだよ? 問題こそ起こさなかったけれど、近寄りがたい雰囲気だったし、傍に有彦君が居たし。それに、鉛筆削る時に何処からともなく折りたたみナイフを取り出してすごく刃物に慣れた手つきで削るでしょ? 刃物が必要なときは大体同じナイフだし。だから、実は裏番張ってたんじゃないかとか言われてたんだよ」
──それは、初耳だ。
でも、いわれて見ればそう思われても仕方の無い事を色々やっていた気がする。
「でもね、遠野クンってここ一番って所になると、すごく自然に現れて、すんなりと解決して何でも無かったようにさらっと戻ってくの。些細な事が多くて皆はあんまり気付いてなかったみたいだけど私はずっと遠野クンを見ててそれに気がついたんだよ」
弓塚さんは真剣な眼差しで僕を見つめながら言葉を続ける。
なんだか、真剣過ぎて視線を熱く感じてしまうほどに──
「だから、私遠野クンにずっと憧れてたんだ。さらっと人を助けて気負いもしないでいつも自然体で。あんな風になれたらいいなって思ってた」
本当に憧れるような瞳がじっと見つめてくる。こんな目を向けられたら視線を外せない。
僕は無言で弓塚さんの瞳を見詰めつづけた。
「でもね、見てるうちに気が付いたんだ。ああ、この人は本当は何も持ってないのかもしれないって。何でそう思ったのか自分でもわからないんだけれど、そう思ったんだ。そうしたら、すごく恐くなっちゃってね。えと、何が恐いかはわからないんだけど。この人は放って置いちゃいけない、誰か傍に居ないとって。だから、私、居ても立っても居られなくて遠野クンに言ったの『友達になって』って」
弓塚さんは熱に浮かされたように畳み掛けてくる。
──弓塚さんが友達になろうって言って来た時の事はよく覚えてる。
春もそろそろ顔を出してきて、でもまだまだ寒かった終業式間近の日。
僕が朝学校に登校して来たら、まるで待ってたように物凄い勢いで近づいてきて、がっしと僕の両手を取って『友達になって!』って言われたんだ。
あんまりにもすごい剣幕だったんで僕は思わずうんって首を縦に振って、弓塚さんはまるで告白が成功したみたいに飛び跳ねて喜んでた。
それから、いつのまにか弓塚さんは有彦と共謀して僕をアッチコッチに引っ張りまわすようになった。
僕ら三人が良くつるむようになったのはそれがきっかけだ──
それから結構長く一緒に居るけれど、あの剣幕にそんな心情が隠されていたとは予想だにしなかった。
「有彦君も、シエル先輩も結構似た様な事を思ってると思う。────だから、今日の遠野クン、なんだか見てられ無くて、みんなであんなに騒いだんだよ」
「──あ」
言われて思い返せば確かに今日はみんなややうざったいくらいに騒がしかった。それは僕が遠野家に帰る事で頭を悩ませていたからそう感じていたんだと思ったけれど、違ったんだ。
みんな、僕が自覚してないとは言えあんまりにも塞ぎ込んだ顔をしていたから、せめて皆と居る間は騒げる様にわざと騒がしくしていたんだ。
僕は馬鹿だ。弓塚さんに言われるまで、そんな事にも気が付かなかったなんて──
「…………ごめん…」
その気使いが痛くて、僕は謝っていた。こんな僕の為に皆に気を使わせていたのが申し訳無い──
でも、弓塚さんはゆっくりと首を横に振って柔らかく笑った。
「ううん、謝る事なんて無いよ。私達が勝手にやったことだもん。でも、遠野クンって何でもかんでも自分一人で背負おうとしちゃって、こっちが勝手にやらないといつのまにか潰れちゃいそうなんだもん。そりゃ、迷惑かけたくないのは分かるよ。でも、力になれないかもしれないけれど、私達だっているんだよって、忘れないで欲しいな」
にっこりと微笑んだその瞳に、でも真剣な光が本当に僕を心配してくれているんだって事が凄く分かった。それが、とてもありがたかった。
「うん……ありがとう──」
だから、精一杯の感謝を込めて精一杯笑ってお礼を言った。
弓塚さんの言葉で、これから僕がしなければならない事に対する悩みが霧散──とまではいかないけれど、何とかやっていこうって、やっていけるって思えたから。
僕の悩みを打ち明けるのはまだちょっと憚られるけれど、でも、それでもこれだけ気が楽になったんだから────
「あ……あはは、御礼なんていいよ」
一瞬何故か動きが止まった弓塚さんは、ちょっと頬を赤らめて笑いながらぱたぱたと手を振った。
「何に悩んでるのか聞けなかったのは残念だけど、遠野クンのいい笑顔が見れたからそれでいいや。貸しにしとくから、かわりに私がまた何かピンチの時は助けに来てね?」
照れた顔を見られたくなかったのかちょっと俯いた弓塚さんは、僕の胸にぽすん、と拳を軽くぶつけてきた。
何が貸しなんだか良くわからないし、僕はそんなに頼れる人間ではないのだけれど──
でも、こんなに僕の事を気にしてもらって何もしないというのは人として駄目だと思う。
だから、こんな頼りない僕だけど、力強くうなずいた。
「うん、分かった。僕にできることなら力を貸すよ」
「ん、ありがとう。──ずいぶんと遅くなったけれど、あの時助けてくれてありがとう。あの時の言葉、嬉しかったよ」
にっこりと笑って言って、弓塚さんはぴたりと足を止めた。
つられて僕も立ち止まる。
「ふふ、私も胸にしまってた事言って何だかすっきりしちゃった。おかしいね、私が遠野クンを元気付けてたはずなのにね」
「ううん、いいよ。僕も気が楽になったしね。改めてありがとう、弓塚さん」
「うん、よかった。やっぱり遠野クンはそうやって笑ってるほうがいいよ」
そう言って、弓塚さんは静かに僕から離れた。
「じゃあ、またね、遠野クン。このまま話しこんだら私まで一緒にお屋敷に行っちゃうからそろそろ帰るよ」
ふと気がついて辺りを見回すと、既に遠野の屋敷への坂が見えるところまで来ていた。
弓塚さんの家はここで交差点を曲がらないと遠回りになってしまう。
「うん、じゃあまたね、弓塚さん」
「うん、また明日。学校で会おうね」
ばいばい、と手を振って弓塚さんは夕日に染まる住宅街の中を駆けて行った。
僕も手を軽く振って見送る。
弓塚さんが朱い景色に溶けて見えなくなってから、僕は遠野の屋敷に続く坂道を登っていった。
歩く分には息を切らせる程ではないが、自転車なんかでは到底乗って登れないような急な坂道をゆっくりと登っていく。
あんまりにも勾配が急なのと屋敷が近くて人家が少なくなった所為で、前を見て歩くと空しか見えなくなる。まるで、自分が空に向かって歩いて行っているようだ。
テクテクと歩いていくと、やがて忽然と現れたかのように大きな門が立ちはだかる。
「──でかい」
思わずそんな言葉が口を突いて出る。
こんな高台にあるというのに遠野の屋敷は不必要なまでに大きい。
実用なのか美観なのかは良く分からないけれど先端が槍の様に尖った高い鉄柵が囲む敷地は、小学校の一つ位ならグラウンドと体育館とプール込みで丸ごと楽々入りそうなほどに広い。
庭は木々に囲まれており、あまりの広さに既に森の様相を呈している。その森に囲まれた真ん中に洋館──と言うよりは城のようだ──の本館があり、やや離れたところにはまだいくつかの屋敷がある。
有間の家も広い方だったけれど、それでも一般家庭の許容範囲には入っていた。
それに比べるとこの広さはもはや犯罪と言ってもいい。
──でも、八年前まではここに住んでいたんだなぁ。
それがあまりにも古い記憶なのでしっくり来なくて、久しぶりに改めて見た屋敷の迫力に圧倒されたように、暫くぽかんと口をあけてバカの様にただ屋敷を眺めた。
でも、ずっとこうしていても話は始まらない。
頭を振って不意に訪れた不安を振り払うと門に手をかけた。
門には鍵がかかっていなかったようで、力をこめるとやや軋んだ音を立てながら簡単に開いた。 門を抜けて、屋敷の玄関に向けて歩いていく。
屋敷は玄関も大きく、扉が重々しく来訪者を威圧している。恐らく鉄でできた両開きの時代がかった扉の脇に、あまりにも不釣合いの現代風のそっけない呼び鈴がついていた。
覚悟はしてきたとは言え、やはりいざここまで来てみるとえらく緊張する。心臓が早鐘を打つようにドキドキとなって自然に息が荒くなる。
──しっかりしろ、詩姫。僕はただ、家に帰って来ただけなんだ────
すー、はー、と深呼吸をして気を落ちつける。
「うん──」
意を決して呼び鈴をぐっと押しこむ。
予想に反して、ぴんぽーんという何処か間の抜けた音も、ぶーっというどきりとするような音も、りんごーん何ていう時代がかった音も何もしない。
ただ、重苦しい静寂だけが流れる。
まさか呼び鈴が壊れてるのだろうか?
思わずそんなことを考えてしまい、もう一度押そうかと逡巡した所で扉の奥からぱたぱたと慌しくやってくる人の気配がした。どうやら音はきちんと鳴っていたらしい。ただ、余りにも奥で鳴った為に聞こえなかっただけで。
緊張に喉がゴクリとなる。
「お待ちしておりまし──た?」
ガチャリと扉が開く。
開いた先に見えたのは、なんとなく覚えのあるロビーと割烹着を着た少女の姿だった。
「あ〜──と〜────」
見たところ大体僕と同じ位の年だろうか? 大体僕の首辺りの位置から琥珀色の瞳が見上げている。でも、弓塚さんといいシエル先輩といい、いろんな意味で年相応に見えない例もあるからもしかしたら僕より年上なのかもしれない。少なくとも年下ではないだろう。
「え〜──う〜────」
肩の辺りで無造作に、でもきちんと切りそろえた髪で、着物に割烹着何てアナクロな物が結構良く似合う。後ろの方で大きなリボンを結んでいるけど、それがまたアンバランスにバランスが良くてきっちりとワンポイントになっている。
「ん〜──」
「……ええと……どうしたんです……?」
僕はなんとなく居心地の悪い思いに囚われながら、ドアを開けた姿勢で固まって唸っている少女に声をかけた。
まあ、恐らくこの娘は屋敷の使用人で、遠野志貴が来ると思って待ち構えていて、ドアを開けたら見知らぬ女の子が立っていたもんで混乱しているのだとは思うけれど……。
少女の反応がこれからの前途を全て示しているようで気が重くなった。
少女は僕が声をかけたことではっと我に返ると、そそっと姿勢を正してこほんと可愛い咳払いをした。客人の前で醜態をさらしてしまったのが恥かしいのか、夕日に照らされた以上に頬が赤くなっている。
「ええと、どちらさまでしょうか……?」
困ったように首をかしげる少女の言葉に、僕は先ほどの推測が正しかったことを知る。
溜息と共に、消沈してしまいそうな心に勢いをつけるために深呼吸もして、姿勢を正して口を開いた。
「ええと、僕は遠野詩姫といいます。遠野秋葉に今日中にこの屋敷に戻るよう言われて有間の家から来たのですが……」
「は────」
僕が名前と要件を告げると、少女はぽかーんと口を開けてまた固まった。
「──あー、ええと──そう言う事なのでお取次ぎ願えませんでしょうか……?」
苦笑いを浮かべながら言うと、少女はぽん、と両手を合わせてあーあーあーあー、と何か納得したように何度も頷いた。
「はい、聞き及んでおりますよ。ああ、良かった。あんまり遅いから迷ってるのかなって心配しちゃって、日が落ちてもいらっしゃらなかったらこちらから迎えに行こうかと思っていたんですよー」
今度は僕が面食らった。
一転、少女は得たりと言うような満面の笑みを浮かべて何事も無かったかのように話を進めてきたのだ。本人を確認する為にもっと色々と面倒な手続きやら何やらさせられるとばかり思っていた僕は、この展開は寝耳に水だった。
「あー? あの……そんな簡単に信じちゃってイイんデスカ……?」
一瞬で信じてもらえた事は嬉しいが、幾らなんでもこれは無用心すぎないだろうか?
「ええ、大丈夫です」
おろおろとする僕とは対象的に、少女は自信満万に頷いた。
「聞き及んでいた、と言いましたでしょう? 志貴さまの上に起こった出来事は、わたしはちゃんと分かっておりますからねー。それに、わたしは時南医師からこちらにいる時の志貴さまの健康管理も任されておりますから、ちゃあんと細かい話も聞いてるんですよー」
少女はそう言いながらぴっと指を立ててにっこりと微笑んだ。
──ああ、そうなのか。時南さんから話を聞いているのだったら頷ける。
時南さんは、僕が八年前に事故を起こした時から僕の主治医をしてもらっている。昔は遠野家付きの医師の助手をしていたらしく、その縁で良く貧血で倒れるようになった僕を任されるようになったのだ。遠野志貴が遠野詩姫になった原因を発見したのもこの人だった──
「そっか……。じゃあ、秋葉ももう僕の事を知っているんだな──」
僕はほっと胸をなでおろした。どうやら遠野志貴が実は遠野詩姫だったことは、遠野家では周知の事実らしい。これなら、志貴と詩姫の違いで色々と悩まされる事もなさそうだ──
だけど、秋葉の名前を出したとたんに少女は困った顔になって宙に視線を漂わせ始めた。
「あ……ええと、その事なのですけれど………」
非常に話し辛い。そんな雰囲気が挙動から見て取れる。
そんな少女を見て、僕は浮かびかけた気分がまた沈むのを感じていた。
「もしかして……?」
恐る恐る声を出した僕に、少女ははい、と神妙な顔で頷いた。
「秋葉様は──まだ、志貴さまが女の子である事をお知りになっておりません──」
ガン、と後頭部を叩かれたような衝撃が走る。
何てことだ。
覚悟はしていたとは言え、やっぱり秋葉は僕の事を知らなかった──
「志貴さまの事を秋葉さまに話す事をとめたのは、槙久さまなんです。それに、今の志貴さまの事は遠野一族の方でも当主とその周りの数人しか知りません。ここ数日は槙久さまが死去されて、ごたごたしておりましたからこの事を秋葉さまに話す暇も無くて……。やっと落ちついたと思ったら秋葉さまが志貴さまを呼び戻すと一方的に言い出されて、また色々と慌しい事になってしまって。わたしの怠慢ですね……」
少女は申し訳ありません、と言ってぺこりと頭を下げた。
困った。
秋葉がやっぱり僕の事を知らないのは確かにショックだけど、一応それはそれとして始めから覚悟していたことで、別にこの娘が悪いわけではない。そりゃあ、言ってもらっていればありがたかったことは確かだけど、人間ってものは聞いた話と実際見ることは全然別のことだからやっぱり秋葉には驚かれてしまうんだろう。
だから、ここで頭を下げられても困ってしまう。
「あ──いや、いいよ。こっちの家ではだれも僕の事を知らないことも想定してたから、君みたいに事情を分かっている人がいると凄く助かる」
わたわたと両手を振って少女に謝らなくてもいいことを何とか伝えようとする。
ああ、もどかしい。どうして僕はこういう時は決まって不器用なのだろうか──
けど、どうやら向こうは分かってくれたらしくて頭を上げるとまたにっこりと微笑んだ。
この娘が笑うとそれだけでどんな場も和やかになってしまいそうだ。
「あ、そうですか? ありがとうございます。じゃー、私は責任を持って志貴さまの弁護に回らせていただきますね」
少女はふん、と気合を入れるように両手を拳にして胸の前でぐっと力を入れた。
なんだか放って置くとそのままぐるぐると両手を振りまわしてえいえいおーとかやってしまいそうな雰囲気だ。
なんだかつられてこっちまで気合が入ってしまう。
「あ──ありがとうござ──」
気迫に押されつつ御礼を言おうとすると。
突然少女が右手を振り上げて。
「いち、に、さん、だあぁぁー!!」
やったよ、ヲイ。
しかも間違ってる。間違っているよ。思いっきりマチガエテマスヨソレ。
「あ……あの……そんなに気合を入れなくても……」
押され気味どころか完全に少女に押されてのけぞりながら苦笑する。
これがもしマンガなら、きっと絶対に僕の頭の後ろには大きな汗のマークと縦線が浮かんでいるはずだ。
でも、少女はそんな僕の様子は気にもとめないで、まるで母親が子供にめっと言っているようなポーズを取ると。
「甘いですよー、志貴さま。ここだけの話し、秋葉さまは理解不可能な事があると凄い頭が堅いんですからねー? 気合をいれてかからないと返り討ちにあっちゃいます。ですから、志貴さまも存分に気合を入れてかかってもらわないと」
等とのたまった。
どうやら秋葉は僕の考えもつかないような育ち方をしてしまったらしい。
これは、別な意味で前途多難だ。
どうしよう、どうすればいいんだろう。わからない。
これはもしかして先生が言ってたピンチの一つなんだろうか。
ならば、まず落ちつけ。そして良く考えろ────
等と変な方向に現実逃避をしていると、少女があっと声を上げてそそっと姿勢を正す。
「──と……すみません、何だか変な方向に話しが行っててころっと忘れていました」
少女は照れたようにぺろっと舌を出すと、満面の笑みになってお辞儀をした。
「御帰りなさい、志貴さま。どうぞ、今日からよろしくお願いしますね」
少女の挨拶は本当に華のような笑顔だった。
「あ──うん、こちらこそ、よろしく」
僕はそれに気のきいた言葉も返せず、おずおずとありきたりな返事を返しただけだった。
というか、僕は彼女に押されっぱなしだ。ここまで押されたのは弓塚さんとシエル先輩と都古ちゃんと──後は八年前の──
「────あ」
ここまできてやっと思いついた。
もしかすると、この少女は──
「もしかして、君、昔僕達と一緒に遊んだ──」
ぶわり、一瞬強い風が吹いて僕と少女の髪をまきあげる。
夕日に照らされる荘厳な洋館の玄関、まるで陳腐な映画のワンシーンのような再会──
だけど、少女は僕の言葉には答えず、ただ本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべただけだった。
──が。
びくり、と何かに反応するかのように一瞬だけ少女の体が震える。
「…………?」
少女の目線。何を見つけたのかじっと僕を凝視して──
でも、それは本当に一瞬だけのことだった。
余りに一瞬で、何を見ていたのかも気付けなかったくらい────
「さ、お疲れでしょう? 遠慮せず上がってくださいな。ここは志貴さまの家なんですから」
何事も無かったかのような少女の言葉にはっと我に返ると、少女に招かれて、僕は見なれたロビーに上がりこんだ。
「さ、行きましょう。──居間で秋葉さまもお待ちになってらっしゃいますから」
華のような笑みを浮かべながら先導する少女の後ろに着いて、僕は屋敷の中を歩いていった。