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2/遠野
I.
1day / October 21(thur.)

 ―――夕暮れ―――

 秋の日は釣瓶落としというが、高台にあるこの屋敷にとっては平地にある家よりも少しだけ日が長いらしく、未だに西側からの柔らかくも刺すような朱い光に辺りが包みこまれ、染め上げられていた。
 夕映え射す部屋の中央には、僕には豪華としか言えないような低めのテーブルが置いてあって、その周りを柔らかそうなソファが囲んでいて、ちょっとした調度品や室内の様子とあいまって辛うじて団欒の場であると認識できるけれど……僕としてはこっちの方が気が張って落ち着けないような気もする。
 天井からはやはり豪華なシャンデリアが吊り下げられていて、そろそろ窓外の景色より暗くなってきた部屋の中、差し込む夕日から灯りを受け継ぐように淡く輝いている。


 ――そして、そんな紅と朱の光に包まれた部屋の中に、ふたり……見覚えのない、でも、僕のおもいでのなかに焼き付いた姿と重なる面影が、確かに残った……少女が佇んでいた。


────秋葉。

 秋葉は、僕よりもひとつ年下の筈なのだけれど、全体的な雰囲気が落ちついていて、酷く――大人びて見える。
 もっとも、脇の髪を押さえている白いヘアバンドが今風のワンポイントとなっていて、今彼女が着ているセーラー服と程よく合わさって品がよく可愛い印象になっているが。
 そのスマートな顔立ちは、長く伸ばした手入れのよい鴉の濡れ羽色の黒髪とあいまって着物などを着せるとまるで日本人形の様に見えるだろう。
 ただ、同年代の少女に比べてみると。やはり“可愛い”というより、そう……、“綺麗な”印象を受けるその姿は、僕の「妹」というより「見知らぬお嬢さま」といった感じで、到底こちらから気軽に話しかけられるような雰囲気じゃない。

 そんな少女──現・遠野家当主であり、僕の妹でもある遠野秋葉──が、小さい頃の印象とは程遠い、いつもであればおそらく強い意志を感じさせるであろう、ややつり気味の瞳を驚きに大きく見開いてカチンコチンに固まっていた。


 一方、その隣で立ちすくむ、もう一人の少女……どこか琥珀さん似の…いや、違う。これは表情が頑ななだけだ、輪郭といい、配置といい、本当に、琥珀さんにそっくりな顔立ちをした……メイド服の女の子は…というと── 一見、大人しく場の状況を眺めているかのようにも見えるけれど、ティーポットを手にしたまんまピクリともしない……それどころか、瞬き一つしないところから、息をするのも忘れるほど完全に硬直していることが見て取れる。
  彫像のように立ち尽くしたその娘……その胸もお腹も本当に動いていないように見えるのは、僕の気の所為だろうか────


────いや、これはもう、固まっている、というより“凍っている”と言う方が正しいだろう。

 ぽかーんと口をあんぐり開け、目を見開いたまんまのその格好は、どこから見ても良家のお嬢様とその使用人といったふたりの容姿と酷く不釣合いで、まるで漫画の一コマを見せられている気分になれる。もちろん、その漫画はバリバリのギャグ漫画だけれど。
 で。
 ふたりがどれくらい凍っているかというと。
 秋葉の手前、テーブルの上に差し出されたままのカップにメイド服を着た女の子が優雅な仕草でたぱたぱと注いでいた紅茶が溢れ、テーブルの端から床に滴り落ちているのに、ふたりとも――てんで、まったく、完全に気付いていないくらい。

「―――――――――――」
「―――――――――――」

 ふたりとも、それくらい…“志貴さまをお連れしました”そう言った琥珀さんが、僕を部屋に連れ込んだことで…少なくとも現状認識がどこかに飛び去ってしまうくらいには衝撃を受けているようだ。
 ……はっきりいって、お互いに思考は完っ全に停止してしまっている。
 真っ白な頭にはろくにかける言葉も浮かばず、ああ、とうなずく事すらできない。
 けど、それは分かるし悪いとは思うけど、そんな完全に硬直しちゃうなんて……ほんと、それだけは反則だ。
 そんな顔されたまま止まられちゃうと、本当に何もかもヒックルメテ僕が全面的に悪かったような、そんな気がしてどうしようもない気持ちになる――――

 で。
 この状況を作り出した肝心かなめの琥珀さんは、というと。
 ――流石にちょっとやり過ぎたと思っているのか“あららー”、と、困ったような笑顔で左手を頬に添えている……ただ、それだけ。

 そう。
 結局、この場に満ちているのは。


 誰かが身動きしただけで完全に破綻しかねない――危うく張り詰めた均衡状態。


 今、僕がこの眼鏡を取ったなら――この場は、前が見えないほどヒビワレタ『線』で満ちているんじゃないか、などと益体ないことをふと思ってみたりする。


 そんななか。



 “かーん”。



 庭の遠くの方で猪威しが奏でた音色が、微かに、しかしはっきりと部屋の虚ろな空間に響き……やがて静寂に消えていく。
――それも、僕がこの部屋に入ってからもうたっぷりと五回ほど。
 そんな状況が繰り返される中、他に時の流れを示すものは──カッチ、コッチと硬い音を立てる柱時計の秒針の音と、視界の端で僕と秋葉と女の子とに等分に視線を送る琥珀さんの、首振り人形ジミタ奇妙に規則正しい動きだけだった。

 でも。
 ──そんなにショックな事なのか。

 ……いや。普通ショックだろう。

 考えても見ろ、詩姫。例えばいま、仮に僕に兄がいたとして――長らく音信不通だった“兄”が、帰って来たら“姉”になっていたら――それは、流石に僕だって硬直するだろう。そう思わないか?
 それに。
 秋葉がこの八年間僕の事をどう思っていたのかはわからないが、小さい頃は……親父や執事のような大人たちの目が無いときは、いつも片時も離れず僕の後ろについてきては、袖を掴んで離さない程に懐いていてくれていたんだから……不肖な“兄”の事を慕っていてくれていた事は確かだ。もっとも、八年間も厳しい親父の下に置いて僕だけ逃げ出したんだから酷く恨まれているのかもしれない。
 でも、どっちにしても秋葉にとって今のこの状況は到底受け入れ難いものだろう。感動の再会をするにしても、募った恨みをぶつけるにしてもこれでは……これは、いくらなんでもこれは、余りにも手酷いしっぺ返しといわざるを得ない状態ではないか──

「────そ──」
「そ?」

 先ほど声をかけたにも関わらず凍ったままの秋葉を前に、琥珀さんと「どうしたものか」と困った視線で伝わっているのかどうにもよく分からないアイコンタクトを取っていると、ようやっと秋葉が動き出した。

「そんな――」

「──どうして────」
「どうして?」
 ──なにが、“どうして”なのか。
 わからない。

「――まさか――」
 そう。その、“まさか”。
 ──何故、“まさか”なのか。

 わからない、わからない。

 けど……でも、やはり凄く手酷い事を言われる気がする。
 それは、覚悟こそしてきたものの……いや、覚悟してきたとは言え、もうこの世に二人きりの肉親から拒絶されると言うのは……いま考えただけで背筋が寒くなる。

「──まさか──」
 微かな吐息。

 僕が“志貴”でなくなってしまった──ただそれだけで、肉親の縁を切られてしまうかもしれないなんて。

「……まさか、だから……」
 わからない、けど。
 秋葉の顔色は、その名に反し、蒼白になったまま。

「……だから、お父様は……」

 そして、秋葉は昔の泣き虫のままのような、あの泣き出す直前のか細い震える声で────


――いや、僕自身の上に降りかかったこの出来事は、“それだけ”と言い切ってしまうにはあまりにも大き過ぎるものだったのだ。
 そうだ。考えてもみろ──

 考えてもみろ、もう八年も一緒に暮らしていて、そのあたりの事情をよく知っている筈の都古ちゃんでさえ──つい最近まで、いつも僕に“おにいちゃ〜ん!”と呼び掛けてタックルして来ては、啓子さんや文臣さんにたしなめられていたじゃないか。
――いや、それどころか。
 いまだに、まだ僕が“男”だった頃の印象が焼きついたまんま離れないでいるのか、おおきくなった今でもふいに僕の事を“お兄ちゃん――”と呼んだ後、自分が何を言ったか気付いて慌ててしまうことがあるくらいじゃないか。
――そうだ。
 そうだ──思い返せば。有間の家の人達も、僕がこうなってからの一年程は八年前に預けられた当初よりも更に割れ物に触れるように接してきていたではないか。それが、それなのにたったの一年程度でそれまでの関係に戻れたのは、あの家のおおらかな気質に負う所が大きいだろう。
 恐らく世間一般の家庭であったなら、今になっても僕は受け入れられていなかったのではないだろうかとすら思う。
 顔さえ合わせようとしなくなる父、どう接すればよいのか分からずヒステリックになる母。
 そんな、有りそうな場面を想像するだけで、ずん、と胃のあたりが重くなる。
――そして。
 そして、そんな環境にいたら、僕はあの有彦ですら近寄らないほどに自分は人の道を踏み外していたのでは………!

 あの日先生に出会えて。

 有間の家の人達に出会えて。

 乾有彦という悪友に出会えて。

 弓塚さつきという親友に出会えて。

 なかば養子という形で有間の家に預けられてから――そう、「志貴」から「詩姫」へと転じてからも。

 ……つい先日、今まで勘当同然に放っておかれた自分に、
   『今日までに遠野の屋敷に戻って来い』
 なんていう遠野家当主からの言葉が来て。
 そう。
 ……僕を。
 八年間も妹を、秋葉を放っておいた僕を、この屋敷に呼び戻す連絡が来て――そして今日、このときに至るまで。

 僕の……遠野詩姫の生活は、本当に平凡で……普通なら忘れてしまいそうな大切なものを暖めながら――とても穏やかなまま、ゆるやかに流れていた。

 そこまで思い至って、やっと。

 ――僕は。
 僕は――。

 っ―――何て、無様。

 あの時―――別れ際に先生が言っていたような特別な出来事なんか、今までまったくおこらなかったし、僕自身も、先生のくれたメガネをかけているかぎりあのデタラメな『線』を見る事がない。
 そう。
 だから。
 だから、都合よく忘れていた。
 今までいろいろな人たちに出会って、いろいろな人たちに支えられて、その人たちといろいろな経験を通じて……得られてきたものがあったからこそ、

―――今、この時に至る「僕」がある事を。

 それなのに。
 それなのに――遠野詩姫は、一人でもちゃんとやっていける。
 ……やっていけるんだ。
 そんなふうに、勝手に独り合点して。ただ自分のことだけを考えて……いろんなことから、逃げていた。

―――ああ、本当に、僕はなんてバカなんだろう。

 それなのに。
 それなのに――僕はさよならばっかりで。

 あの人以外の皆に、ありがとうの一言しか、伝えていなかった。

 それでも、許されてきた自分。
 それに甘えて、何もしようとしなかった僕。

 無様。―――何て、何て無様。

 そこまで思い至って、やっと。
 やっと……
 僕は――これまでの自分がどれだけ運が良かったのか、どれほど情けなかったのか……今更ながら深く、深く噛み締めた――─


 そんな僕の目の前で。
「……だから、お父様は……」
 記憶の中に残る姿と同じ、か細い震える声で───秋葉は、一言一言を、まるで噛締めるかのように言葉を紡いでいく。
「……兄さんの事を……」
 確かに僕は、一度はほぼ一族総出で勘当された身だし、一度は秋葉を置いて出て行ってしまった、ほんとダメなおねえちゃんだけれど。
 これで――こんなことで──いま、ここでわざわざ僕を呼び戻してくれた秋葉にまで拒絶されてしまったら、何をどうしていいのか……もう、本当に分からない─――


「……忘れろ、と──?」

──でも。

 秋葉はウツロナヒトミで――最後にただ一言、そうツブヤイタだけで。
 よろりとよろめくと、そのまま後ろのソファにくずおれるようにどさりと倒れこんだ。

――何が起こったんだろう。
 よく、わからない。

 僕に分かることと言えば。目の前で秋葉が力無くソファに埋もれるようにしていると言うことだけで。それはどう見ても疲れたから座ったとか、そう言うレベルじゃなくて。
 体の力が抜けたとか、眩暈を起こしたとかそういう時に僕が倒れこんでしまっているのに似ている気がする。

────僕が、倒れたとき?

 僕が倒れると言うことは、それはいつもの貧血に似た症状を起こしているからだ。
 貧血で倒れる、と言うのは頭に血が回ってなくて脳の活動が停止──いや、そうじゃない。これはただ単に、秋葉自身想像だに出来なかった、受け入れるにはあまりに厳し過ぎる現実にいきなり直面させられて、精神的に参ってしまっただけなんじゃないだろうか。
 そう言えば秋葉は昔から精神的に細いところがあったから、無理も無いことだと思う。もし僕が今の秋葉だったら間違い無く倒れている位じゃ済まないんだろうな、うん。

────ちょっとまて。
 でも、何れにしてもそれはそれで、結構拙いんじゃ……?

 と。
 そこまで僕の考えが及んだ時。



 “か、ぽ〜ん”。



───庭のむこうで、猪威しが…また間抜けな音を立てた。

 その音でふと我に帰って回りを見回すと、琥珀さんは笑顔のままで固まっていて。
 メイド服の女の子に到っては、先程固まった姿勢のまま…今度は驚きに目を見開いて秋葉をじっと眺めたままだ。
 周囲の状況を把握した瞬間、僕は思わず唐突に倒れた秋葉に駆け寄っていた。

「──秋葉!」

「秋葉さま!」
「秋葉様!?」

 僕が上げた声で我に返った琥珀さんも、やっと硬直が解けたらしいメイド服の女の子も血色を変えて秋葉のほうに急いで寄って来る。
 ――確かに。 衝撃だろうとは思っていたが、よもや倒れる程の衝撃だったとは――─
 いや、先程の自分が考えていたように、これは倒れて然るべき衝撃なのだ。
 僕は秋葉の細い肩に手をかけて抱き起こすと、無事を確かめる為に顔を覗きこんだ。

──途端。

「触らないでっ!」

 ぱしん、と肩にかけた手に軽い熱さが走る。
 驚いて手を離し目線を上げた途端、僕は目の前の秋葉にキッとキツイ目で睨み付けられた。
「──秋葉、何を──」
 突然の出来事に呆然とする僕をじとりと藪睨みしたまま、秋葉は僕を押しのけてゆらぁりと立ちあがった。そしてまるで僕を下から見下ろすような姿勢で胸を反らし、腕を組むと……改めて刺すような視線を向けてくる。ただ睨まれただけなのに、室内の気温が心なしか三度ほど下がったような気がした。

「…………」
「貴女などに、軽々しく名前を呼ばれる謂れは有りませんっ!」
「……………………」

──なんて、事だ。

 完全に、拒絶されてしまった。
 さらにアナタナドニ、ときたものだ。あまつさえナマエヲヨバレルイワレガナイときた。

 ……まあ、こうなることを考えていなかったといえば――嘘になる。現に朝からずっとこの事だけで頭を抱えていたほどだ。
 琥珀さんが僕の事を知っていたことで安心してしまったとはいえ、屋敷の門をくぐった所から既にくるぞくるぞと身構えてはいた。いたけれど、まさかここまで直球、それも時速160km野茂の剛速球ばりに志貴イコール自分であることを否定されるとは──
 流石にこれは、ガードとか心構えとかなんか、そういう次元の問題ですらない。
 ここまでストレートに拒絶されると、もう、何を考えていいのかすらワカラナクナル─――
 でも、押しのけられたまま硬直する僕を見て秋葉は何やら“うっ”と一歩後退ると、それ以上は何も言わずにそのキツイ目線を琥珀さんのほうにギロリと向けた。
「──こ・は・く?」
「はい?」
 秋葉の底冷えをするような視線を受けても、琥珀さんは相変わらず頬に手を当てて困ったように微笑んでいた。
 あまりの展開に表情を変える余裕すら無いのか、それともただ単に、秋葉にこの視線を向けられる事に慣れているだけなのか――─
 わからない。
 わからない。
 取り敢えず言えることは、この人はきっとこの状況の中で一番周りを冷静に把握していそうだ、と言うことだけだ。
 現にもうひとりのメイド服の女の子などは、可愛そうなほど怯えてしまって、まるですがる様についさっきまで手にしていたティーポットを抱きかかえたまんま、一歩二歩と後退ってしまっている。おかげでまた顔色が変わっていて、まるで横断歩道の信号のようで忙しそうだ――─
「これは、一体、どう言うことなの?」
「どう言うも何も、先程言った通りなのですけれどー」
“冗談でしたー(てへ♪)”とでも言おうものなら、容赦はしない……そう、言外に語る秋葉に向かって。
 何と琥珀さんはぽややんとした笑顔のまんま、あはー、と続きそうなほどあっけらかんと秋葉のキツい問いかけを受け流してしまった。
──どうやら、慣れの方らしい。

「……っ! 私は“兄さん”の出迎えを命じた筈よっ! ……どこの馬の骨とも分からない“女”を呼んで来い、等と命じた覚えはありませんっ!」
「ええ、ですから“ちゃんと”詩姫さまを出迎えて目の前までお連れしたじゃないですかー」
 暖簾に腕押し、ぬかに釘。烈火の如く髪を逆立てる勢いで詰め寄る秋葉に対して、琥珀さんは永久氷壁の様に揺るがずに受け応える。
 何と言うか、頼もしい限りだ、うん。
 ……。
 ……“馬の骨”のほうは、否定してくれないみたいだけど。
「な……っ! それで何でこんな馬の骨がここにいるのよっ! 兄さんからの使いだったら用件を伺ったらさっさと帰って来いと言伝させて──」
 また馬の骨だ。
 馬の骨、うまのほね、ウマノホネ。
 また一段と目の前が暗くなる。やっぱり、どうあっても秋葉は僕を認める気は無いらしい。
 もっとも、これが普通の反応と言う奴かもしれない。が――
 秋葉は、僕を認めてくれない。
 この現実が……。
──あんまりにもショックだった所為か、倒れる直前みたいに眼球の裏から闇が染み出してくる─――─



『――遠野くん』

 ……?
 真っ暗なイシキの中でダレカのコエガスル。

『遠野くん、遠野くん!』
――し、シエル先輩? 何故!?
──って、こんなところに先輩が居る筈がない。……これは幻覚、そう、幻覚に違いない。
 あまりに目の前が暗くなった所為か、ココロのシエル先輩(当然天使のわっかつき)が僕に語りかけて来ただけなんだ!
『める&しー! 遠野くん、どんなに辛くとも、今は耐えるのです。これはきっと神様が遠野くんに“愛”故に与えた試練デスヨ!』
 あぁ、先輩、そうは言ってもいくらなんでもこれはチョット辛過ぎます。お願いです、できることならココから僕を逃がす方法を教えて下さい、お願いします!
 僕のココロからのお願い……つ〜か、ほとんどお祈りじみた嘆願をひととおり聞き終えると。
『――何言ってるんですか、遠野くんは』
 そういって、腰に手を当てて溜め息を吐くシエル先輩。
 ……。
 は──はいぃ?!
『いいですか? 遠野くん』
 先輩はピッと人差し指を立ててチッチと振ると、そのままキッとワザトラシク眼鏡を治し、
『……ここから、逃げてはいけません。今はどんなに辛く耐え難くとも耐えるのです。この試練に耐えきった暁には、きっと妹さんも遠野クンの事を認めてくれる、筈です……多分。──恐らく、きっと、万が一!』
 僕のココロのシエル先輩(しかも、何故か女教師っぽい衣装)は、何ともココロの中っぽく器用にウインクなんかかましながら無責任きわまる台詞を、力強くのたまわってくれた。
 ――その上、いかにも可愛いっぽくガッツポーズのオマケ付きだ。

 つーか、シエル先輩。それ……マッタク元気付けになってません。
 てーか、そんなことしないでいいんで、早いトコこの辛い現実から僕を連れ出してください、えぇ、ホント今すぐに!

―──でも。
 このココロのシエル先輩は、当然僕のゲンジツトウヒが生み出した先輩の幻影だから、いつもの様にどんな難問でもあっさり即解決とは流石にいかない様で…テキトーな事を言うだけ言って「ではこれでーっ(は・ぁ・と )」とばかりに手を振ると、さっさとどっかに行ってしまった。
 ……やっぱり、幾ら認めたくないような痛い現実に直面したからといっても、辛さの果てに現実逃避のあまり出てきた幻覚にすがったところで、結局は何の力にもならないようだ─――



―――頭を振ってゲンジツに戻ってみると、秋葉と琥珀さんはまだ口論の真っ最中だった。


「………………ですから、落ちついて話を聞いてください、秋葉さま」
「だからっ! “コレ”なんかはどうでもいいから早く兄さんを呼んできなさいっ!」
「あのー、秋葉さま。それは確かにこんなナリにこそなってしまっていますけれど、“コレ”は本当に詩姫さまなんですよー」
「だからっ! “コレ”なんかはもうどうでもいいからさっさと兄さんを呼んできなさいとっ!」
「ですからねー、何度もいっていますけど………………」


──ああ。
 やっぱり──戻ってこない方が良かったのかもしれない。この痛い現実に。
 しかも、いかな口論の勢いとは言え、僕、指差された挙句「コレ」扱いされている始末だ。……それも、秋葉だけならばまだしも、僕にとって心強い、唯一の味方だと思っていた琥珀さんにまで。
 それは、その場の勢いなのは分かっているけれど。
 けれど――なんだか、ずっと味方だと思っていたひとに手酷く裏切られた挙句、背中からバッサリ斬り殺されちゃったよあぁん、って気分がして……なんか、凄く、悲しい。


────弓塚さん、ごめん。僕……頑張れなかったみたいだ。
 折角元気付けてくれたのに、どうやら無駄になっちゃったみたいだよ。

────有彦。
 ……は、まぁ別にいいけど。でも、ちょっとは気を使ってくれたよな?

────シエル先輩も。
 トウヒ先に待っててくれた上、先輩なりに一応は励ましてくれたよね? そりゃ確かに、まったく励ましになっていなかったけど。

────文臣さん、啓子さん……そして、都古ちゃん。
 僕にとって、あなた方は家族そのもの……家庭の温もりを教えてくれた、本当に父さん、母さんと呼びたいひとたちでした。
 でも、結局。僕、都古ちゃんの…お兄ちゃんにも、お姉ちゃんにもなれなかったよ。

────先生。
 先生。ごめんなさい。
 これ、僕がオンナノコになった後最大のピンチだと思ってたテーソーのキキとか、とっくに通り越してます。
 つ〜か、僕にとって想像出来ない地点です。しかも引き返すことも逃げ出すことも出来ません。
 詩姫ちょん、ここまでぴんちになると頭の中真っ白で、もう――何も考えられません。



 ……ごめんね、本当にごめんね、みんな。
 僕、自分で言うのもなんだけど、ここで出来ること、精一杯頑張ったよね?

 僕はひとりきりじゃなかったから、今までやってこれたけど。

 もう一度だけ、がんばってやり直してみようと決めて帰ってきたこの屋敷で。
 みんなの元気な姿を見れて、すこし、嬉しかった。
 琥珀さんとあえて──秋葉ともう一度会えた今日。

 結局、僕はなにひとつやりとげる事が出来なかったけれど……

 けれど──もう、耐えられそうにないみたい。
 だから。

 だから、もう――


────もう、僕、ゴールしていいよね?



 ――ダレも、シキがココニイルコトヲミトメテクレナイノダカラ。



「あ……ええと、その……」


 そんな、絶望と諦観のあまりゼンマイが切れたのか……静かに緩んでいく心音を数えながら、僕がこの辛い現実から本当に逃げ出して──小さな秋葉に手を引かれて、それこそ永遠の地にでも逝ってしまおうとしているうちに。

「──私もまだ事情を把握できていませんが、そう…どうかお気を確かにして下さい」

──どうやら、いつのまに立ち直ったのかメイド服の少女が僕の側に来ていたらしい。

 気が付くと、心配そうな表情を浮かべた彼女に、下から顔を覗き込まれていた。
 つい先程までの、壁際に彫像のようにただ立ち尽くしているだけ――といった印象とはまったく懸け離れたその表情。
「あ────うん、僕は大丈夫」
 彼女のその顔があんまり心配そうだったので、僕は自分に振りかかっている事柄を全部放り出してにっこりと笑って見せた。
 けど、僕の思惑とは反対に女の子は更に心配そうな顔になると、まったく無駄の無い優雅な仕草で取り出したハンカチを、さっと僕に差し出してきた。

「──?」

 その意図がワカラナクて僕が首をかしげると──
「だからっ! この、“コレ”を──」
 琥珀さんと言い合いをしていた秋葉が、こちらを向いてギョッとした顔になる。
 見ると、秋葉に釣られてこちらを見た琥珀さんも驚いたような顔をして僕を凝視している。
 みんな、一体ドウシタンダロウ?
 わからない。


──ワカラナイ。


 わからないから、眼鏡を少し上げて袖口でぼんやりと見え辛くなった目元を拭った。
 溜まっていた水が布の繊維に吸いこまれて、袖口が少し濡れた。

──ああ、そうか。

 あんまりにもタエラレナカッタから、遠野詩姫は何時の間にか泣いてしまっていたんだ。
 だから、メイド服の女の子がハンカチを差し出してくれて――それで秋葉と琥珀さんが言い争いを止めてこちらを凝視していたんだ。
 そして。
 僕がコドモミタクくしくしと袖口で目元を拭っていると、メイド服の女の子がそっと僕の手をどけて……手に持ったハンカチで柔らかく涙を拭ってくれた。頬に伝わるその子の優しい、柔らかい指先の感触と、何時かのような心遣いがココロに沁みて──だけど、涙は止まらなくてぽろぽろぽろぽろとあとからあとからとめどなく湧き出してきた。


 静かになった部屋の中に、暫くの間――僕がしゃくりあげる音と、柱時計が規則正しく時を刻む音だけが流れていた。






§







「──……あー……で、ですからねー、秋葉さま」
「──……え、ええ……」
 結局、僕が泣き止むまで二人とも止まったままで……僕が泣き止んだのを確認してしばらく後に、ようやく話が再開された。もっとも、どういうわけか二人ともすっかり毒気を抜かれてしまった様で、先程までの勢いは微塵も残っていなかったけれど。
 その間、琥珀さん似のメイド服の女の子は、まるでタイミングを見計らったかのように、持っていたティーセットを片付け、テーブルから床にこぼした紅茶を拭い始末し終え、今は僕の傍らに控えている。
「これは冗談でも何でも無くて、本当の事なんですよ」
 こほんと咳払いをひとつして一転、真面目な顔になった琥珀さんが…静かに言葉を紡ぎ出す。

 ソレをぼんやりと聞きながら、僕は……ついさっき出会ってから、今までに見た琥珀さんの姿と交わしたやり取りから、琥珀さんが秋葉とどのように接してきたかを想像していた。

―――琥珀さん。


 たしかに思い出せる。


 屈託のない性格で、屋敷のみんなから可愛がられていた女の子。
 いつも明るくて、見ているだけでこっちまで元気になってくるような女の子だった。
『シキちゃん、いっしょにあそぼ。そんなとこにいたらかびが生えちゃうんだからね』
 そういって、昔、部屋に閉じこもりがちだった自分を外に連れ出してくれて───それ以来、僕達と毎日のように一緒に遊んでいた女の子。
 彼女はよく笑って、内気だった秋葉の手をとって僕らと遊ばせようとしていた。
 あの子は僕たちや秋葉が遊ぶように手を取らせる半面、いざ僕らが遊びだすと少し離れて僕たちの様子を見守っていてくれた。
 ……あれは、今思うと。
 親父に対して何か、含むところがあったのだろうか。 あのころ秋葉の教育係だった厳しい執事さんも笑って、口だけは仕方なさそうに『―――が一緒ならかまいません』なんて言って、親父の目を盗んでは、秋葉をこっそり外に出してくれたことがある。
 そして、一緒に庭を駆け回った子供の頃のあの日以来──僕がこの屋敷から去ったあの夏の日からずっと、今まで秋葉にとって忠実な使用人として、また親しい友達として、時には厳しくも優しい姉のように振舞ってみせて来たであろうひと、琥珀さん。
 そんな琥珀さんと秋葉の間には、多分……八年前この屋敷からいなくなった僕より、ずっと強く深い繋がりがあるに違いない。
―――あのとき、秋葉を置いて出て行った僕とは比較にならないほどの………。
 そう。
 傍目からも見て取れる。
 秋葉と琥珀さんとの間にあるもの───今、僕のすぐ横に控え、ついさっき僕の涙を拭ってくれた……琥珀さんそっくりなメイド服の女の子との間に流れるものと同じくらいの繋がりが。
 この屋敷から自分だけ出て行って、置き去りにしてしまった秋葉にそんなひとたちがいてくれたのは──率直にいって………。
 僕のただひとりの妹との間に、そんな強い絆で結び付いて心の支えになってくれたひとたちが居たのは、正直、凄く…………。
 僕にとってそれは、本当に──羨ましいような悲しいような嬉しいような、喜んでいいものやら嫉妬するべきなのか……わからない。
 急に、衝き上げる様に湧き出したそんなオモイ。
 いろいろ、本当にいろいろなものがないまぜになった複雑な感情をどうしていいかわからず自分のココロを持て余す僕。
 でも、それが本当によいことなのか、悪いことなのか。
 わからない。
 わからない。
 僕には、本当に、よく、わからない。
―――だけど。
 ……何故か、確信がある。
 この場は───琥珀さんに任せておけば、皆納得できるような形で、万事うまく行く、と。
 僕と似たような思いがあるのだろう、その琥珀さんが醸し出す厳粛な雰囲気に、秋葉も琥珀さん似の女の子も、姿勢を正して真剣に聞きに入った。
──まるで、今から話される言葉を一言一句聞き逃すまいとするかの様に。

「──よろしいですか?」
その言葉に、頷く一同。
「実は、詩姫さまは──」
「──ええ」
「…………」
 ごくり、と秋葉の喉が鳴った。メイド服の女の子も、真剣に聞き入っている。
「元から──」
「……元から」
 秋葉は琥珀さんの言葉を追うように呟きながら、視線で先を促した。



「“お兄さま”でなくて…“お姉さま”だったんですねー♪」



 と。
 僕の確信をすぱ〜んと覆し。
 琥珀さんはニカーっと笑って、至極あっさりと言い放った。


「―――――――――――――」
 途端、ひどく――重苦しい沈黙が流れた。

「あ――――――――」
 声がうまく出ない。何か、何か僕は何か言わなくちゃいけないんだけど、なんていうか―――
「あの、その、実は――――――――」

 カッチ、コッチ、カッチ、コッチ……。
 柱時計の秒針が立てる、硬い動作音が部屋中に満ちる。そいつに自分の声がかき消されて、僕はもう何を言っても誰にも、何も聞き入れてはもらえない、そんな錯覚に囚われる。

「………………」
「………………」

 ……カッチ、コッチ、カッチ、コッチ……。
 さっきっから、柱時計の秒針がやけにうるさくて。
 ……カッチ、コッチ……
「―――――――――――――」
 どくんどくんどっくんどっくん。
 ……カッチ、コッチ、カッチ、コッチ……。
「――――――――――――――――」
 秒針に対抗心を燃やしたのか、鼓動までやかましくなって。
 ……カッチ、コッチ、カッチ、コッチ、カッチ、コッチ……。
「―――――――――――――――――――」
 ……ますます声が出なくなる。
 ……カッチ、コッチ、カッチ、コッチ、カッチ、コッチ、カッチ、コッチ……。
 緊張のあまり渇き切って張り付いた咽喉がヒリヒリと痛み、
「―――――――――――――――――――」
 ……カッチ、コッチ、カッチ、コッチ、カッチ、コッチ……。
 カラダ中の細胞が、パクパクと音を立てて酸素を求めてる。
「――――――――――――――――」
 ……カッチ、コッチ、カッチ、コッチ……。
「―――――――――――――」
 ……カッチ、コッチ……


───まだ――誰も、動けない。


「ね、ですよねー? 詩姫さま」

「あ……うん──実はそうだったらしいんだ、秋葉」
 それまでの雰囲気ぶち壊しで、ぽわーっとかるーく言い放たれた琥珀さんの言葉と、なんかフクザツ…だけど、琥珀さんには琥珀さんなりに何か考えがあると思ってしょうがなく同意する僕に、
「………………」
「そうだったんですか……実は兄さんでなくて姉さん──」
「うん………」
 一旦はそれですっかり納得したように頷いた女の子と、オウム返しにぽわーっと呟いた秋葉……だが。

「………………」
 次の瞬間。

「………………ぅへぁ?」
 と、お互い顔を見合わせて、形容がとても難しい――それこそ呻くような声を上げて目を点にした。

「………………」
「………………」
「………………」
「………………」

――また、ひどく重苦しい沈黙が流れる。

 恐らく思考を総動員してつい先程の言葉の意味を理解しようとしているだろう秋葉と女の子の様子を、僕と琥珀さんはそれこそ固唾を飲んで見守った。

「―――――――――――」
「―――――――――――」

 あ。
 まずい。
 いけない。
 ダメだホント。
 これは本当にまずい。

 秋葉は言うに及ばず、こっちの女の子も、本当に納得して冷静に事実を受け入れてくれたわけじゃない。
 多分、おそらく、いや、こりゃもう間違いなくふたりとも。
 それこそさっきの僕と同じく、到底信じられない現実を受け容れ難くて逃避しているか、思考が完全に停止して頭の中が真空化している、ただそれだけなんだ。
 そう思ってそっと見てみると、頼りの琥珀さんは琥珀さんで、“むーっ”と難しい顔でなにやら考え込んでいる。
 どうしよう。
 どうしよう、どうしよう。
――─琥珀さん、これからドウスルノ……?


「……そ、そんな訳は無いでしょう?! 兄さんはちゃんとした“男”だったんですから!」

――先に沈黙を破ったのは、今度は秋葉だった。

 琥珀さんの言葉を理解しきれなかった勢いなのか……そう叫ぶと、傍らでウツロナ視線を宙に泳がせ硬直している少女を押しのけ、秋葉は凄い剣幕でトンデモナイ事をのたまわった。
「そうよ! だいたい、私、小さい頃に時たま兄さんと一緒にお風呂に入って、お互い洗いっこしてたし!」
 で。
 そのまま、その勢いにあてられたのか、横でぽかーんと口を開けてまた固まってしまった少女を引っ掴み、カクカクと揺する秋葉さん。
「そうだ――――! 昔使っていた中庭の大浴場! 初めて入ったとき、一緒に湯浴みしたのをおぼえているでしょうあなた!! あ、あのときも、兄さんに立派に付いているの、ち、ちゃんとこ、この手でしっかりと確認して――――!」

「「「 手ぇ!? 」」」

──あぁん。
 ソノテでナニがツイテイタのをカクニンしたんですか、アキハサン?
 それに「……大浴場?」
「───って」
 なんだっけそれ?
「……むむむ?」
――思い出した!

 むかし、僕が小学校にあがるかあがらないかくらい……確か六つ七つくらいの頃、親父が中庭に場違い極まる露天式の大浴場を造ったとき。

 完成してすぐにあの親父、
「入り初めだ、気持ち良いぞ。だからお前達もさっさと一風呂浴びて来い!」
 とか言って中庭で遊んでいた僕達を捕まえて、駆けずり回って汚れた服を無理やり引っぺがした上さっさと湯船に放り込んで。
 その後――のぼせ上がる寸前までお風呂に漬け込まれている最中、興味津々にアレ見てた秋葉にお風呂上りに何かの弾みで「これ、なぁに?」ってアレをぎゅっと握り締められ、引っ張られた上、“おにいちゃんについてるの、わたしもほしいー!”――って、湯上がりで紅葉みたく染まったちっちゃな手で力いっぱい僕のアレ掴んだまんま、今にも泣き出しそうな顔でだだをこね始めて。

「あぁ、それ……あのときね。アレ、秋葉より、秋葉におもいっきり引っ張られた僕のほうが泣きたかったよ――――」

 その後。

 掴んだまま駄々をこね始めた秋葉にブンブンと振り回された痛さのあまり、必死なオモイをしてどうにかなだめようとする僕や、げっそりした表情でどうにか言い聞かせようとする親父を尻目に、すっかり拗ねた秋葉は、ぷいっとあの頃一緒に遊びまわってた少女――琥珀さん? と一緒に素っ裸のまんままたしゅぱたたたーっと中庭に飛び出していって。
 そのまんま中庭を走って逃げてくちっちゃな秋葉と琥珀さんを、“こらっ――!”って言いながら僕と親父と――誰だっけ? がバスタオル片手に懸命になって追いかけた事を思い出す。
 で、結局。
 捕まったあとに秋葉とあの子は“もう少し女の子としてのたしなみを――”だの“お行儀というものを何だと心得ている――!”とか、頭に血が昇りすぎた親父どもに支離滅裂な感じでこっぴどく叱られてたっけ……。


「そうでしょう? ね、やっぱり、兄さんもおぼえていてくださったんですね!」
「うん、僕もおぼえてた……秋葉もおぼえていてくれてたんだ……よかった……」

 ……ついさっきまで忘れてたし、出来れば忘れていたかったんだけど。

 事実は言わないほうが賢明だろう。
 それよりも、今まで躾けられてた筈の日頃のたしなみなんかすっかり忘れたように、秋葉が手放しで喜んでくれているんだから。
 でも……なんか秋葉、尋常じゃない喜びようだ…連日の徹夜でどうにか間に合わせ文化祭を大盛況に導いたときの達成感みたく、ひどく危うさを感じさせるテンション…憑かれてるみたい……。


「ほら御覧なさい二人とも、これでこの馬の骨が兄さんじゃないって……!」
 そう言いつつ、私が言ってたことが正しいでしょうと言わんばかりに胸を張る秋葉。

「「………………えっ?」」

 (秋葉:この馬の骨は)一体、ナニを言い出すんですか?
 一体、ナニを言い出すんですか(僕:アキハサン)?

──そんな感じで、思わず妹と顔を見合わせる。
 それいただけない、イタダケナイヨあきはぁ──ってーか、やっぱり僕の事を認めてくれないの? いや、それ以前に言ってることが完全にリングワンダリングして………


――――はっ。


 そして、秋葉と僕の爆弾発言に一瞬度肝を抜かれ、唖然として口を開けたまま………真っ白に燃え尽きた感じの僕と秋葉をホケ〜っと眺める琥珀さんと引っ掴まれて振り回された姿勢のまま凍っている女の子からの視線は、一体……?

 その視線を意識した瞬間。
 思わす僕は、さっきのやり取りをもう一度反芻していた。

(……そ、そんな訳は無いでしょう?! 兄さんはちゃんとした“男”だったんですから! そうよ! だいたい、私、小さい頃に時たま兄さんと一緒にお風呂に入って、お互い洗いっこしてたし! そうだ――――! 昔使っていた中庭の大浴場! 初めて入ったとき、一緒に湯浴みしたのをおぼえているでしょうあなた!! あ、あのときも、兄さんに立派に付いているの、ち、ちゃんとこ、この手でしっかりと確認して――――!)
(あぁ、それ……あのときね。アレ、秋葉より、秋葉におもいっきり引っ張られた僕のほうが泣きたかったよ――――)

―――それは。

 それは…それは……。
 それは、確かに僕は前はオトコノコのカラダだったけれど、妹の口からそんな事を明言された上思わず頷いて相槌打っちゃったりなんかした挙句姉妹でナニがドウツイテイテドウイジッタとか漫才なんかやらかしてるのは…今はソレ、付いていないとは言え、流石に…いくらなんでも、こっ恥かし過ぎるぅ──!?

──────へぐっ!

 一体、姉妹でナニいってたのか理解して――自分の頬がみるみるうちに熱くなっていくのを止められない僕に向かって。
「あ…あはー、もぅ、秋葉さまったら――詩姫さまもぉ……」
 コドモの頃の恥ずかしい記憶を呼び覚まされたのか…微かに頬を染めた琥珀さんが、“きゃーっ!”って感じで両頬を手で覆うと、いやん、いやんと首を左右に振りながら……。
「御本人同士と当事者の目の前で…すごっく、だ・い・たぁーんなハツゲン、ですねー?」

──────あぁん。

 さらに琥珀さんは、追い討ちどころか
「もぅ、ふたりとも! 年頃の女の子がそんなこといっちゃ、めー、ですよー!」
 なぁんて、ニッコニコとワライナガラさらっと火に油を注ぐような事を言ってくださりやがる。
 ……もとい、ワザトラシク言ってくださりやがりました。
 僕の様子と琥珀さんのツッコミで、自分が何を言ってしまったのかを理解したのか、それとも出来れば忘れていたかった(痛かった)昔のいくつかの思い出が蘇ったのか…秋葉もメイド服の女の子から手を離すと、一瞬で真っ赤になって。
「だっ……それ……あ、う、あうぅ……」
 頭が真っ白になったのか口をぱくぱくと開け閉めしつつ、
「でも、兄さん…兄さんは、兄さんはぁ…ぁぁ……」
 と、そう、言葉にならない、どうにも切なげな呻き声のようなものをあげてる。
 ソレ聞いていたもうひとりの女の子のほうも……茹で蛸のように真っ赤になって、胸の前で両手のひとさし指なんか突付きあわせながら恥ずかしげに俯いたまんまだ。
 なぜだろう。
 どうしてだろう。
 僕は、よく、わからない──わかれない──つーか、わかりたくない。
 でも。うん、わかるよふたりとも、その気持ち……わかりたくなかったけど。
 そんな秋葉と僕と女の子とを等分に見て、にったにたといぢめて愉しむのかと思いきや。
 琥珀さんは寂しそうに、懐かしそうに微笑んだまま頷くと、それまでの雰囲気をがらりと変え、まるで何も知らない幼子に、伝え難い事を優しく教え諭すような静かな声で。


「はい、そうです。――秋葉様は、何ひとつ、間違えておられません」

───ただ、ぽつりとそう言った。


 琥珀さんの言葉を聞いた秋葉は、ようやく我を取り戻し。
「確かに先程秋葉さまが言われました通り、八年前に志貴さまがこのお屋敷にいた頃は――詩姫さまは、それはそれは立派な男の子だったんです」
 続けられた言葉の意味を図りかねたのか、直にえ──と悩むような表情を浮かべて考えこんでしまった。
 確かに、僕と、僕にまつわる事情を知らなければ。今の琥珀さんの言葉を聞いたひとは、まず十中八、九の割合で何を言わんとしているのか考えこんでしまうだろう。大体、元から“女”だったのに実は“男”だった。それは、あまりにも矛盾がありすぎる──
「あ、あのね、秋葉――」
 でも、僕はいま。僕自身に関することについて、何を言えるのだろう?

「―――――――――――――」

「──でも姉さん、姉さんはさっき志貴ちゃ…志貴様は元々女だったと言ったじゃないですか?」

 考えこんでしまった秋葉、言葉を失った僕に代わる様に、秋葉の突拍子も無い発言のショックからどうにか立ち直ったメイド服の女の子──“姉さん”というからには、どうやら、琥珀さんの妹さんらしい──が、そう琥珀さんに問い掛ける。
「ええ、確かにそう言いましたよー翡翠ちゃん。でも、これはどちらも正しいんですよー?」
 琥珀さんはその問いかけに、出来の良い生徒に質問を投げかけられた先生のような笑顔を浮かべてその問いかけを肯定する。それを聞いたメイド服の女の子──ヒスイと言う名前らしい──は、やはり秋葉と同じように難しい顔をして考えこんでしまった。
「さて、ここからちょっと長い話になるのですけれど──秋葉さま」
 琥珀さんはきりりと顔を引き締めると、真剣な声で秋葉に呼びかけた。
 やや心此処に在らずと言った感じであった秋葉は、一瞬気圧されたかの様に俯いて──もうこれ以上どんな事実を告げられても取り乱さないようにか姿勢を正し、視線だけで先を続けるよう琥珀さんを促す。
 で、僕とメイド服の女の子、じゃなかった翡翠さんも固唾を飲んで見守る目の前で。
 琥珀さんは口を開くと──

「……もうこんな時間ですので、夕食でも採りながら落ちついてお話しませんか?」
「へ」

──せっかく身構えたと言うのに思いもよらない提案が飛び出てきて、秋葉は目を点にしてぽかんと口をあけた。かく言う僕も、てっきりここから長くて複雑な説明をするのかと思っていたから…鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているに違いない。
 その視界の隅で、難しい顔付きをしながらも静かに佇んでいた翡翠さんだけが、姉さんは相変わらず、と言ったような感じで肩を竦めると、琥珀さんに同意する様に微かに頷いた。
「実は、志貴さまをお迎えする為に、夕食の仕度はもう全て整えてあります。志貴さまが来ると聞いて折角腕をふるった料理ですのに、時間が経ち過ぎては美味しく頂けません。冷めてしまってからでは、勿体無いですよー?」
 その琥珀さんの言葉にふと外を見ると、なるほど確かに既に日は落ちていて外は夜の闇に支配されていた。
「なにより、御腹が空いていると分かるモノも解らなくなっちゃいますからねー」
 秋葉は、やや悪戯っぽく微笑む琥珀さんの顔をじっと見つめてから、静かな、でも深い溜息をひとつ吐くと同意する様にこくりと頷いた。
「そうですね──このままここで話しこんでいても埒はあかない様ですし……食事にしましょう」
 秋葉はそう言うと。


“―――その後に、改めてどう言うことなのかじっくりと聞かせてもらいますからね……兄さん”


 まるで遠くを見る様に窓の外を――いや、今は無い思い出の中の景色を眺めながら、そう呟いた。



第壱話 「1/胞衣」] [ 第弐話 「2♯ /遠野  II. 」→]

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