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2/遠野
II.
1day / October 21(thur.)

───だと、言うのに。

 まるで学校の家庭科実習室や理化実験室位に異様に広く、また長細い食堂。
 その真ん中に華麗な装飾を施された、でもこの部屋に置くにはいささか役不足の感がする小さい──それにしたって一般家庭と比べれば遥かに大きい──テーブル。
 天井からはやはりシャンデリアが、テーブルの上からは銀の燭台に据えつけられた蝋燭が、それぞれ柔らかい橙色の淡い灯火を投げかけて……テーブルの上の豪華な食事と、それを挟んで向かい合う僕と秋葉を照らしていた。
 外は完全に暗くなっていて、窓から染み込んで来た闇が形作られるかの様に壁の側にぼんやりとした影を作り出し、食卓に就く僕達を包んでいる。


───でも。
 その影に半ば溶け込むようにして、席につくのは……ただ、自分と秋葉だけ。


 琥珀さんは秋葉の傍らに、翡翠さんは何故か僕の傍らにそれぞれ無言で控え、時折僕らの食事の世話をするだけで、一緒に食卓を囲んで夕食を取ろうとはしない。


───この広い食堂のなか。
 室内に響くのは、カチャカチャと食器が触れ合う音くらい。


 それと時折、傍らに侍る翡翠さんから“詩姫様。これは……という料理です”といった説明や食べ方、マナーなんかを淡々とした口調で耳元に囁かれるだけで。気になるのは僕の挙動を観察――どころか、そのまま射殺しそうな視線で睨んでいる秋葉の目。

 食事が始まってから、僕的には既に半ばを過ぎてそろそろ終わろうかという頃なのに、この部屋では何の会話も交わされる事も無く、ただ沈黙だけが静かに降り注ぐ……家族の団欒とは程遠い雰囲気に満ちていた。

 ……まぁ正直なところ、ここまでは、戻ってきて早々何かしらあると踏んでたし。
 物事がたとえどうなったにせよ、屋敷から叩き出されず晩御飯をとれたなら──お互いに割れ物に触るような細心の注意を払いつつ、探るようなぎこちない会話が交わされ…なんともいえない緊張感のなか、ただ物を食べるという行為に終始するだろう……と、半ば覚悟を決めていた。
 そう……。
 覚悟こそしていたし……そりゃ、八年前、生き別れた姉妹同士感動のゴタイメ〜ン…なんてことはまずある訳無いんだから、これはある意味で当然といえば当然の話なのだけど──いくらなんでも。
 まさか、ここまで緊迫した、こんな──それこそ何処かの映画よろしく敵対するマフィアの幹部同士が食卓を囲んでいる…じゃ、ないや。敵に通じてた身内を吊るし上げようとしている、みたいな……。

 ……うぅっ。

 いずれにせよマイナス思考な形容やろくでもない連想しか出て来ないような、こんなとげとげしい感じの──下手すれば、血を見かねない様な夕食になるとは……まさに不意打ちだったといっていい。


 で。
 ……何故、そうなっているかというと。


「え、えーと、秋葉さまー……」
 琥珀さんが秋葉を伺うように何度目かの口を開くと。
「今は聞きたくありません!」
 それをぴしゃりと無下に却下する秋葉。

 食事の席で聞かせてもらうと言ってた筈なのに、食事が始まったところからずっとああだ。
 そして、その目線はメノマエの馬の骨を吟味するかのように、じっと僕に注がれたまま。もぅ琥珀さんの方なんか見向きもしない。
  初めのほうこそ、もう二言三言くらいは食い下がってくれていた琥珀さんだけど……ことここに至っては、もう話を切り出すタイミングを計るだけでも精一杯なのか──肩を竦めて引き下がり、こちらを向いては、秋葉からは見えないように苦い顔で首を横に振って見せる。
 そんなやり取りが、もう何回も飽きもせず繰り返されている。

───酷く、肩が凝る食事だ。

 それに、全く、食欲が湧かない。

 あらかじめ言っておくけど、食欲不振とかそういったことではない。
 確かに“僕”こと遠野詩姫はもともと少食の方だけれど、ここまで張り詰めた雰囲気では……シエル先輩くらい食欲が旺盛な人でも、入るものも入らなくなってしまうだろう。その上、僕の傍ら、付かず離れずの位置に待機した翡翠さんも、静かでこそあるものの秋葉と負けず劣らずの迫力でじっと僕を見つめているものだから……もぅ、食べ辛いったらありゃしない。
 オマケに、僕はテーブルマナーをよく知らない──いや、正確にいうと昔はここで食事を取っていたのだから「よく知らない」という事じゃなく、ただ単に、日々の食事でそんなものを日常的に気にかけなければならないような格式やら上流階級とかいうものとは、そりゃもう完っ全にかけはなれた生活を送っていて、そんなものすっかり忘れていた───わけで。
 いちおう、断片的には覚えていたからズブの素人というわけではなかったけど、何か間違えるたびに、どころか、それこそ一挙一動ごとに秋葉に火か光線でも飛んできそうな勢いで更に睨まれてしまうのも、肩凝りと食べ辛さに更に拍車をかけている一因だ。
 特に、僕は左利きだから普通の配置では使い辛くて、ナイフとフォークを左右の手で持ち替えたときなんて翡翠さんにまで険しい目で見つめられた始末だ。
 こんな感じのちょっとした失敗のたび毎に、向かい側に座った秋葉の眉がつりあがっていく様は、なかなかに緊張感があってスリリングな経験といえるだろう。
 ……やはり人間というものは、普段日常的に使用しない知識は徹底的に脳内の隅においやってしまう事を、身をもって実感できた。いや、もう二度と実感したくはないけれど。

 そればかりでなく。

 僕としては、今日くらいは屋敷に暮らす皆で食卓を囲むものとばかり思っていたので、これがこれから毎日繰り返されるかと思うと……正直、本当に気が滅入る。


「………………………………御馳走様でした」

 腹八分目、医者要らず。
 ……にも届かない程度、最低、夜中にお腹が空かないくらいに入った所で、僕は食事を切り上げた。
 というか、いいかげんそろそろ切り上げておかないと、逆に心労とストレスのあまり胃に穴でも開きそう───
「───もう終わりですか、“兄さん”?」
 でも。
 食事を切り上げた僕を見て、秋葉も両手のナイフとフォークをコトリとテーブルに置くと、テーブルに両肘を突いたまま顔の前で拝むように両手をあわせ、改めて一段とキツイ視線を向けてきた。

 ……うぅ。
───撤回。

 切り上げても続けても、結局胃に穴が開くのは変わらなさそうだ──

 きりきりと胃に痛みが走るような感覚を覚えながら、何とか頷く。そんな僕の様子をちょっと不思議そうに見ると、秋葉は冷静そうに言葉を続ける。
「そうですか。では、そろそろお話を聞かせていただきましょう。──琥珀」
「はい?」
「お茶を用意して」
「はい、わかりましたー。居間のほうにお運びいたしますねー」
 困ったような笑顔で秋葉に答えた琥珀さんは、『ガ・ン・バっ!』とでも言うようにぐっと握った拳を軽く僕に向けると。ぱたぱたと弾むような足取りで厨房のほうに消えていった。
 これは。

───どうも、どうしても僕が説明をしないといけないらしい。

 指先が、震える。

 僕は自分を落ちつかせるように深く、深く静かに溜息をつくと……意を決して、口を開いた。
「秋葉──」
「……はい」
「どうも、僕は女の子だったみたいなんだ」
 言った途端、さっきの姿勢のまんま秋葉がかくんとずっこけた。何か、座ったままなのにえらく器用だ。
「そ──そんな事は、一目見れば分かりますっ!!」

 がちゃん!

「私が聞きたいのは理由ですっ! 理由っ!」
 秋葉が両手をテーブルに打ちつけた勢いで、まだ片付けられていない食器が一瞬宙に浮く。
「あなたが“トオノ シキ”だということ、それと貴女が“兄さん”だったことまではわかりました。
 わかりました。えぇ、わかってました、わかりました、わかっていますが。
 でも、何故、あの“兄さん”が…そんな────な…いえ、あなたのようになったのか? 今、私は、その“理由”を伺いたいのです────ッ!」
「いや……理由って…そういわれても……そうとしか言い様がなくて…ぇ…」
 あまりといえばあんまりな秋葉の言いようと勢いのあまり、僕は口の中でごにょごにょと呟くしか出来なくて……それが一層秋葉の癇に障ったのか――秋葉はギッと僕を睨みつけてきた。
「ひ……」
 今までにも増して重く鋭い、それこそ斬れそうなほどツメタクトギスマサレタ視線が突き刺さる。
 その苛烈さのあまり、椅子に座ってるのに思わず腰が引ける僕。

 その髪が、瞳がどうしてか、眼鏡越しに赤く、紅く、霞んで見えて―――僕はまるで陸に打ち上げられた魚のように。

 まるで酸欠になったみたいに、どんどん思考が断片化していく。

「……兄さん?」
「は、はい」
「にいさん?」
 秋葉はボクヲソウヨブト、胸の前で軽く手を組んで。
「は、はいぃいい」
 心底呆れ果てたような様子で。
「一体……」
 ふっ…と溜め息をつくと。

「何をなさっているのです、に、い、さ、ん?」

「え―─―」

 秋葉のその言葉にふと我に帰ると、僕はオモワズ半ば身を捻り、椅子の背凭れに抱きついて、蛇の前の蛙状態になってしまっていた。

 あ……。
 あぅう……。
 あぅ、あぅ、あぅ……。


「――あーっ! もーっ!」

───怒髪天を衝く、とはまさしくこのことか。

 僕の醜態に心底腹立たしい、といった感じで髪を逆立てる秋葉。
「にいさんっ、ほんと情けないったら…もーっ!」
 振り上げた拳が怒りのあまりふるふると震えている。
「しっかりしてくださいッ! だいたい、姉さんはこの遠野家の長男なんですよっ?! じゃ、なくてっ! 兄さんは遠野家の長女……あーっ!」
 テンションが妙な方向に上がり過ぎた所為か、秋葉はおもいっきり混乱した台詞を吐くと、両手でわしゃわしゃと頭を掻きむしった。
「――あは、この場合“姉さんは遠野家の長女”が正解だと思うんですけど、秋葉さま〜?」
「そんなことは関係ないでしょ、琥珀ッ! と…ともかくっ! あなたはこ、この家の長子なんですから、もっとはっきりと物をおっしゃってくださいっ!」
 厨房に行きかけた時に、只ならぬ叫びを聞きつけ戻ってきたのか……ヒョイと戸口から半分だけ顔を出した琥珀さんのツッコミに律儀に反応した秋葉は、取り敢えず自分の中でどうにかしっくりきたっぽい言葉を纏めて、びしっと指をつきつけてきた。怒りの為かはたまた恥かしさの所為か、それとも琥珀さんのツッコミが痛いところをザックリえぐった為か、どもった上僕に突きつけている指がぷるぷる震えている。
 ……大丈夫かな、秋葉。なんか、すごく心配……。
「だいいち、今、私が知りたいのはっ! なんで兄さんが馬の骨…、じゃなくて! 兄さんのような馬の骨が貴女…、でもなく! 貴女のような兄さんがなんで馬の骨……あ、あ、あぁああああっっ――――!!」
 またも思考のループに陥ったのか、混乱しきったことを言いつつ秋葉はまた両手でがしがし自分の頭を強く擦る。

───こりゃ、ダメだ。

 秋葉は、表面上はいつもどおりに振舞って見せているつもりでも、内心は僕と再会したときの衝撃に打ちのめされたまんまゲンジツトウヒして思考の迷路をさまよっているらしい。

 ……いや、理性ではこの現実を認めているのだが、感情的には……秋葉の目の前にいる「僕」が、紛う事無い自分の“兄”のなれの果てであり、昔“兄”とよんでいたひとが実は“姉”だったという事実を到底認められなくて……その齟齬が、秋葉の現状認識を今、根底からずらしてるのかもしれない。

───だいたい、秋葉にとって八年間。

 いや、生まれてこのかた、“兄”だと思い込んでいたトオノ シキが、実は“姉”でした〜、だ、なんて。
 ……今まで何ひとつそうと知らされず育った秋葉がいまここで急に言われたところで、一朝一夕に納得しろ、というほうに無理がある。
 実際、僕もそう思う。
 でも。
 でもなー、秋葉。まだ馬の骨か?
 いくら言うに事欠いても、ウマノホネって……。
 ……馬の骨。
 うまのほね、ウマノホネ。
 馬の骨……。
 もしかして。

 元から僕は馬の骨?

 …あきはぁ、ねぇ、秋葉にとって、ニイサンは、にぃさんは元から、馬の骨だったの……?


「――あのー、いってることがまた回っていますよー、秋葉さま〜?」
「コハクぅッ!」
 秋葉の怒声に、戸口の柱の陰に半分隠れた琥珀さんは“あらあら。しょうがありませんねー、秋葉さまはー”といった感じの、ちょっと困ったような笑顔のままワザトラシク首を竦めると。
「詩姫さま、がんばってくださいねー…じゃッ(は・ぁ・と )」とでも言わんばかりに僕のほうに“しゅたっ!”と軽く片手を揚げると、そのまんまいそいそと厨房のほうに去っていってしまった。

 あ――あぁん、マタデスカ。

 シエル先輩といい、琥珀さんといい……僕の身の回りで頼りになりそうな人たちは何で皆、こういう本当に助けが必要なときに限って手を貸してくれないんだろう――。


 ……先生。
 もし仮に、今、ここに先生が居たとしたら。
 もしかして、先生も僕を助けてはくれないんでしょうか―──。

 それとも、僕の星回りが良くないんですか?
 やっぱり、僕の今日の運勢って、トコトンツイテナイんでしょうか。
 あぁ、弓塚さん愛読のヲレ・バースディとかに載ってる本日の占い、無理いって見せて貰ってた方が良かったのかなぁ……。


「だから、今、私が知りたいのはなんで兄さんが馬の骨…兄さんのような馬の骨が貴女…貴女のような兄さんがなんで馬の骨…なんでよ、なんでなの……あぁああああっっ――――!!」
僕が、そんなこと考えてゲンジツからニゲテル間に。
 またも思考のループに陥ったのか、さっき言った事を繰り返し、秋葉はまたも両手で自分の頭を強く掻きむしる。
 どうも、まだ秋葉は…秋葉“も”…混乱から抜け出しきっていないらしい。
 と、いうか
 ここに到って、まだ馬の骨言うか。

 ……うぅ。

 仕方ないといえば仕方ないんだけれど、僕は秋葉に認められてるんだかられてないんだか僕はなんなのかよくわからなくて、なんだかまた泣きそうになってきた。

「――ねぇ、あきはぁ……」

 僕が声をかけると、秋葉は頭を抱えたままこちらを鋭い視線で睨み付け──
「……混乱するのもわかるんだけど、その、お願いだからもう少し落ちついて……」
――かけてぎくりと止まり、驚き、ふいと視線をそらし。
「ま、まあ、ともかく、私はにい…ねえ…うぅ、取り敢えずあなた…が、なぜ今の状況になった理由さえ、納得できればいいんですから──」
 自分も瞳に涙を湛えつつ、そうごにょごにょと口の中で喋りながら、まるで機嫌でも伺うかのようにちらりちらりとこっちに目線をよこして来る秋葉。
「あ……うん……。ええと──どこから話せばいいのかちょっと分からないんだけれど──」
 よく分からないけれど秋葉がちょっと落ちついたみたいなので、今のうちに少しでも話を続けようとした矢先。


 じりりりりりん。じりりりりりん。


 古風なベルの音───多分、電話が鳴った。

 僕と秋葉のやり取りの最中、僕の脇に立ったまま何故かおろおろしていた翡翠さんが、その音に“はっ”と我に返ると急ぎ足で食堂から出て行った。
 よほど慌ててたのか、開け放ったまんまの扉から、ロビーの右手、居間のほうに行って、その横っちょ隅の方にある小部屋みたいなところに入っていくのが見て取れた。

(確か……)

 あそこ、帰って来てすぐ、琥珀さんに居間に連れられてく時ちょっと気にかかったんだっけ。
“小部屋みたい”と言っても、ただ単に部屋の一部が壁に区切られただけの所のようで、なんだかホテルとかの電話ボックスを思い起こさせる感じだったけど……。
 なんとなく電話っぽいものに出鼻を挫かれた感じで、この後どう繋げようかと迷っていると、向こうでなにやら(雰囲気だと、多分電話の向こう側と……でもあれ、使用人のひとが湧いて出て来たりするのかも)……。
 と、ともかく。
 あっちで向こう側となにやら、二言三言やり取りしてた翡翠さんがそそそっと戻ってきて、秋葉に向かってぺこりと頭を下げた。
 ……あれ?
「秋葉様、お電話です」
 あ。
 やっぱり今の、電話でよかったんだ。……なんか一安心。
「有間 文臣様からですが──」
 え!?
「見て解らないの、翡翠!? 今は取り込み中だから後に────って、有間?!」
 でも。
 それを聞いた秋葉は一旦断固拒否の構えを見せ───次の瞬間、がたりと勢いよく立ちあがった。
“有間”といえば、昨日まで僕が住んでいた家だ。そして、文臣さんと言えばまごうことなく僕がお父さんと呼んでいる人である。
「翡翠、すぐに取り次ぎなさい! いえ、今私が行きます!」
 秋葉は言うが早いか早足で歩くのももどかしそうに急いで電話ボックスに向かう。

 でも。

 さっきからつい“ボックス”、“ボックス”って言っているけれど、あれって本当はなんて言うんだろう?

“電話部屋”はちょっと変だし、かといって“電話台”と言うにはつくりが大仰だ。じゃあ“電話置き場”? う〜ん、これも何か違う。“電話窪み”に到っては日本語として成り立ってない。
 なんか、いきなり置いてけぼりにされたみたいで、ちょっと悲しい気分。
 で、結局“電話ボックス”が一番しっくり来るな〜、等と考えていると。

「えー……っと、詩姫さまー?」

 秋葉にお茶を用意する様言われたのにかこつけて、厨房に向かう戸口の裏に一時避難していた琥珀さんが、その陰からまたも半分だけ顔を覗かせる。
「はい……?」
「あ、大丈夫そうですねー。ところで」
 そういう琥珀さんだが、ついさっきまで、食事の間中延々と秋葉の矢面に立たされていた割りに、ついぞ消耗した気配がない。
「お分かりになりましたよね? さっきまでのアレで」
「あ──うん、わかった。よっくわかった」
 うん。
 僕がここに帰ってきてすぐに、“秋葉さまは理解不可能な事があると凄い頭が堅いんですからねー?”と琥珀さんにいわれたわけは、もうよっく分かった。
「じゃあ、お茶の用意して、お茶菓子と一緒に持っていきますから。お先に居間の方にどうぞ。……あ、そうだ、詩姫さま」
「ん? なぁに?」
「ここはいったんひいて、仕切りなおしてもう一度。今度こそがんばりましょー!」
 そう言いつつ、琥珀さんはふん、と胸の前に拳を作り───
「ありがとう、琥珀さん。……あ〜、でもガッツポーズはもういいからね」
 苦笑しながらそういう僕に、膨れっ面にあからさまに残念そうな表情を浮かべ、むーっ、と流し目を送って寄越す。


 ……それで肩の力が、抜けた。


 どうやら僕はただ緊張するだけじゃなく、知らず知らずのうちに頑なに身構え過ぎていたようだ。
 そうと気付いて、思わず自嘲の吐息を漏らす───これじゃあ、秋葉も身構えて当然だよ。
 あんな食卓になったのも、半分は僕のせいかも……。
「まだまだだいじょうぶ、なんとかなりますよー。詩姫さま、平常心ですよ、へ・い・じょ・う・し・ん!」
 ……そうだ。
 今、うまく話せないなら、いつか、うまく話せるようになるまで頑張ってみる、それでいいんだ。

 お互い、離れてた八年間の時間を埋め合わせることは出来なくても。


 これから姉妹としてやっていく機会も時間も、まだまだあるんだから。


「うん、そうだね───ありがとう、琥珀さん」
 そんな単純なことを忘れてた僕に、気付かせてくれて。
 そして、笑んで目を細めたままそんな僕の様子を見届けた琥珀さんは、僕の言葉にクスリと笑って。
“じゃ、ひすいちゃ〜ん、しきさまを居間に御案内しててねーっ”
 とだけ言い残すと、着物の衣擦れの音も爽やかに、今度こそ本当に厨房へと去っていってしまった。

 うーん。
 和服の着付けって、普段から着慣れてる人じゃないとほんとに難しいんだよねー。
 ……ほのかにカラダのラインが表に出ちゃうし、着物って普通、普段着慣れないものだから、こう、折り目正しく綺麗に着付けて、その上似合うってひとはあんまり多くない。それが自然に映える琥珀さん…啓子さんくらいの歳のひとにはそれなりに居るけど、僕と似たような年頃となると…うぅ…いぃなぁ……。
 場を和ませる細やかな心遣いといい、ひとが何か忘れてることにそれとなく気付かせてくれたことといい──琥珀さんって、大人だなぁ。
 う〜、何か、すッごくうらやましい……。

 で、琥珀さんの後ろ姿を眺めながらぼんやりとそんなこととか考えてたせいで……僕はいきなり、この修羅場の跡地に翡翠さんとふたりきりで取り残されてしまっていた。


「………………」
「――――――」


 今、食堂に残るは、僕と翡翠さんのふたりきり。


 ……。
 …………。
 ………………。


 ん───弱った。
 弱ったなぁ。翡翠さんと共通の話題なんて、僕にはそうなさそうだし。
 こうなると僕、話の接ぎ穂にすっごく、困る……。

「……えーと、翡翠……さん?」
「はい。どうか、翡翠、とお呼びください。――詩姫様」
 そう言って、ふかぶかと頭をさげる翡翠さん。

「――――――」
「――――――」

 思わず、お見合い状態になってしまう。
 何と言うか……すごく、気まずい。
 翡翠さんに悪気がないのはわかる。わかるんだ。それはわかるんだけど、僕と同い年ぐらいの女の子にそんな事を言われると、僕、どうしていいかわからない。
 かといって、延々お見合い状態になるのもなんだし。……そうだ。
「翡翠さん、あのね―─―つまらない事を聞くけどさ。電話って、この屋敷のどこにあるの?」
「電話……ですか?」
 翡翠さんは微かに目を細める。
 う……もしかして僕、何かマズイコトを聞いたかも。
 しかし、そう思ったのもつかの間。
「電話でしたら、電話室にございます、詩姫様。宜しければ後程、御案内させて頂きますが」
「……電話室……?」
「はい、電話室です」
 翡翠さんは“いま、秋葉様が居られるところです”と言って、ついさっき僕が抱いた疑問をあっさり解いてくれた。

 なるほど。――そうかー、“電話室”かー。

 電話室、でんわしつ、デンワシツ。うん……何か、納得。
 置かれているのは、ダイヤル回してかける懐かしの黒電話なんだろう……おそらく。
 う〜ん―――でも、やっぱり、何と言うか、こう――つくづく、今まで暮らしてきた世界とはまったくかけ離れた場違いなトコロに迷い込んだ気分がする。
 まあ、二度と戻ってこないと思っていたこの屋敷の門をふたたび潜り、足を踏み入れた時からずっと……どこか、そんな気分があったのは確かだけれど。


―――あ。


 時代がかったこの屋敷にも、“電話”って便利で現代的な文明の利器があるということは、今のでわかった。
 だけど。

「……そういえば、この屋敷にテレビってあるの?」

 考えてみると。
 この屋敷に入ってから。
 ロビーでも、居間でも、食堂でも。あのお馴染みのシカクイ箱型を見た覚えがない。
 でも、これ……なんていうか、自分で言っておいてなんだけど、ひどく頭が痛くなる質問だ。
 これだけ贅沢な洋館にテレビがあるかないかを訊ねてるなんて、何か、どこかすごく間違ってるような気もする。
 でも。
 電話だってあることだし、テレビくらいあるだろうと軽い気持ちで尋ねた割に。
 翡翠さんは困ったような顔をして、視線を宙に泳がしている……え?
「……居間には、ありません」
 そう。
 居間で見た覚えは無い。
「……食堂にも、談話室にもありません」
 ……だから、不思議に思って翡翠さんに聞いてみたのだけれど。
「遊戯室にも、撞球場にもありません。……従って、本館にある共用のスペースには、そのようなものは一台たりとも設置されておりません」
 おぉう、やはりか。──何という事だ、遠野家ともあろう格式高い家に、テレビがないとはナサケナイ。
 でも、そうすると、僕の記憶の中では現代的な文化ってモノを“俗物的”と心底毛嫌いしていた親父が、間違ってもテレビなんて観るはずもなく。
「これは、あの――いえ、先代の御当主たる槙久…様の御意向に沿って、こうされていると聞いております」
 うん、やっぱり、そう来たか。
 と、なると。
 あの親父のもとで八年間も躾けられていた秋葉も、そこいらあたり何も言わないということは……結局、テレビに関する認識は親父と似たようなものなのかもしれない。
 で、さっきから覚束無い口調で遠野家の“てれび”事情を教えてくれる翡翠さんもソレは同様だろう。
 ……これじゃあ、この屋敷にいる人間は庶民の娯楽の何たるかなんて、ぜんぜん知らないんじゃないかと邪推してみたくもなる。


 (?)


 そこまで考えて、気がついた。
 そういえば、昔は僕や家族――親父や秋葉、それに引き取られてきたあの二人の女の子以外にも、この屋敷には一緒に暮らしていた親戚連中やら、親父に仕えてた執事さんや使用人のひとたちが沢山いて。
 騒々しさこそ無かったけれど、なにかこう、それなりに生活臭とかが漂っていて。
 少なくとも有間の家と同じ程度には、ひとが暮らしている実感に満ちていた。

 でも今、この屋敷に満ちているのは……。

―――静謐さ? それとも………

 なんだろう。この屋敷には、何故か“誰か”が生活しているって実感に乏しい。
 そう。
 妙にこう、芝居の書き割りジミタ――表面だけ取り繕ったものって感じで、誰かが……いや、それ以前にニンゲンが生活している空間といった感じがしないんだ。

――――――ハ。

 まさか。
 そんなばかな。
 そりゃあ、確かに麓の町の方じゃ、ずっと前から遠野の屋敷はあまりよく言われていないし。一応は遠野の「身内」である啓子さんにまで

(遠野の方達はみなどこか違っている人達ですから、詩姫が圧倒されないかと心配で――)

 とまで言われてしまうような、そんな家ではあるけれど。
 いくらなんでも、ソイツは――今考えていたところの突飛さ加減なんか、想像力が旺盛過ぎやしないか、遠野 詩姫?

―――だけど。
 そうはいっても。
 思い出してみろ、詩姫。
 いくらだだっ広いとはいっても、この屋敷は廃墟じゃないんだから、普通なら……
 普通なら、誰かが歩いて廊下が軋む音とか、足音とか、そんな類の、ひとが居る、存在していることを感じさせる気配くらいはあっても良いはずだろう?
 でも、さっきからそれもまったくない―――

―――いや、違う。
 落ち着け、遠野詩姫。そしてよく考えろ。

 この屋敷の敷居をまたいで以来、琥珀さん、翡翠さん、秋葉と──今まで会った三人以外………ここに、誰か居るのを目にした…か……?

 いない。

 誰もいない。

 他に誰も、いない。

 そう。
 他には、誰ひとりとして、目にしていない。

 ──この屋敷の敷居をふたたびまたいだ、そのときから。

 どこもかしこも、昔。
 そう……思い出せないぐらい昔か、それとも思い出す必要がない昔に見た、映画に出てくる修道院の廃墟みたいな──静謐さに包まれていた。

 この広い屋敷に僕も入れてたったの四人しかいないなんて、いくらなんでも、それはオカシイ、おかしい、おかし過ぎるじゃないか。
 一体――?!


 何故!?


 ……そんな疑問を抱いたのも束の間。

 またも、その答えは翡翠さんが教えてくれた。
「ですが……最近まで屋敷にご逗留されていた方々のうち、何人かの方は私室でご使用になってらっしゃいましたが――引き払われた際に荷物は全てお持ち帰りいただきました。
 その際、不用品と判断され置いていかれたものはこちらで処分しましたので、もう残ってはいないと思います」
「──────え?!」
 最近まで屋敷にご逗留?
 引き払われた?!
 あ、そ──なんだ。
 なぁんだ、そんなことか。単なる僕の考え過ぎね。
 なるほど、なっとく。
 あぁ、もぅ…僕ってば──ひっどく、ぶ・ざ・ま(てへっ♪)

 ……。
 …………。
 …………………。
 ……………………………。
 ………………………………………恥ずかしい。

 自分に全く似合わないことをしてるみたいで、なんかすっごく、恥ずかしい。

 ……いや、待て、待てよ。

 何でこの屋敷に今、人がいないのか、その理由は今のでわかったけれど、それって――?!
「ちょっと待って翡翠さん! それって、一体…何の話?!」
「───テレビの話をしていた筈ですが、違ったのでしょうか」
(ちが〜う!)
 力一杯、ボケてくださる翡翠さん。
 そりゃ確かに僕がこの屋敷の事を、
 考えていた。
 考えていて。
 ちょっと怖い考えになってしまっていたから、翡翠さんの言ったことが目一杯ボケているように思えるのだけど。
 ……僕主観で見た時間はともかく、客観的に見れば、実時間自体はそう経っていないのだから……。
「あ……いや、それはそれとして……逗留って、一体…誰が、どのくらいしてたのさ?!」
「遠野家の分家筋である久我峰さまのご長男とそのご家族、刀崎さまのご三女とその婚約者の方、それと――軋間さまのご長男がご逗留なさっていました。期間は三年ほどです」
「……三年、か。翡翠さん、そういうのって逗留っていうんじゃなくて居候、とかって…言わない?」
 翡翠さんは目を閉じ口も開かない。
 居候していた連中がどんな人間であろうと、使用人である以上失礼な事は言えないみたいだ。
─――あ…でも…ちょっと待て。

「…ちょっと聞くけどさ」

「何でしょうか、詩姫様」
「久我峰の長男…って、まさか久我峰 斗波…?」
「はい、その通りです。……よくご存知ですね」
 久我峰 斗波の名前を出すと、翡翠さんはテレビの有る無しを質問したときに輪をかけて複雑な表情になり口篭る。
――うぅ、やっぱり。
 基本的に、親父に勘当されて以来、親戚連中とは没交渉な僕なのだけれど。やつらがどういう連中なのか、概略くらいは知っているというわけで。
 僕の存在そのものを「無かった」ことにしようとしているきらいがある親戚連中の中では珍しいことに、彼、久我峰 斗波とだけは……僕がこうなってから何故か、行く先々で幾度となく第三種接近遭遇した事がある。
 で、そのときも。
 久我峰 斗波は僕がいることをワザトラシク知らん振りしてくれたり、なにかと風当たりが強い僕に対して妙にこう、何くれとなく気遣い、世話を焼いてくれていた。

 実は久我峰家は、遠野の分家筋の中で最も格式の高い一族だ。

 その力は経済面において発揮され、財団法人でもある遠野グループの三分の一は久我峰の息がかかっていると聞く。
───そんなこんなで、遠野の本家としても久我峰家は邪険にできる相手ではなく、そこのご長男であるあのふとっちょ……もとい、斗波さん。実は彼、僕がこの屋敷に帰ってこいと言われるちょっと前に身を固め、めでたくも「無かったこと」にされるまで──秋葉の…婚約者(げえっ)候補筆頭に挙げられていたくらいだった……と、そう聞いている。
 ……僕としては、実のところ“あの”親戚連中が押し付けたにしては、そう悪くない部類だったとひそかに思っていたりなんかしていた。していたのだけれど、この場合──他の比較対照のほうが世間一般から見てよほど性質が悪過ぎると思う。だいいち、ナニガドウマチガッタトシテモ僕、あんなのにだけは「義姉さん」と呼ばれたくないし───秋葉が心底嫌がるようなら、そう、そのときは…「お姉ちゃん、実力行使もやむなし」と思っていたふしがあるのも確かだ。
 そういう意味ではトナミさん、秋葉との婚約を解消してからこう、性格も体格も一段と丸くなったようだし、更に僕にそれなりに好意を抱いてくれているようであったりなかったりと、まぁ……これ以上、親戚連中でも僕と秋葉の味方をしてくれるひとたちとのツテをなくさない為にも、そう邪険には出来ないんだよね。


 でも。


「……また、妙なのを思い出しちゃった、かな……」

 ……うぅ、たぶん今夜あたり夢に見そう。

「けど、なー」
 失礼だ、失礼だと思うんだけど…
 出会うたびに、彼、久我峰 斗波が僕を見るときの。
「視線が、なんかこう――」
 なんというか、妙に脂ぎって粘着いているというか……全身を舐め回されるように見られているようで。
「すご〜く、背筋がぞわわわって、して」
 いやぁな感じがするんだよね。
 僕もオンナノコになって以来、一応人並みにはそういう視線が気になる訳で。
 そんな生理的に合わない人に妙に気に入られてるあたり、喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。

 僕には、よく、わからない。

 で、相変わらず。
 翡翠さんは僕の様子を眺めつつも“ノーコメント”ワレカンセズを押し通し、じっと押し黙っている。
 ……使用人の鑑というか、翡翠さんは聞かれた事以外は何も喋らない。
 居候していた連中がどんな人間であろうと、使用人である以上失礼な事は言えないみたいだ。
 そう。いえないみたいだ、けど……。
 ……でもね、翡翠さん。
 おなかの前で淑やかに合わせた手がかたっぽ拳になってたり、こめかみのあたりがすこし震えてるあたり、彼の事をどう思ってるか、隠し切れてないよ───。

 でも。
 さっきのあの感じに今のこの様子だと。

 もしかすると翡翠さんも……あのふとっちょが巨体に似合わない妙に身軽な動きでズシャーアー! と迫ってくる夢を見ては飛び起きたことが有るのかもしれない。

 なんか湧き出す親近感。

 まあ、それはともかく。
 翡翠さんの話から考えると──結局、屋敷の主である遠野家の人間はテレビを使っておらず、使ってた「屋敷の居候」こと親戚筋の連中は、屋敷から追い出されたとき一緒に自分たちの荷物を持ちかえらされた為、この屋敷にはテレビなんてもう残ってないよ、ということらしい。

「───ま、ないからって別にどうということもないけれど―─―」
 ちょっとした気晴らしも無いのねー。

 すこし気が滅入って、人差し指に絡げた髪なんかくるくると弄ってみたりして、ちょっとだけ拗ねてみたり。


 そのとき。

 ふと、僕の髪を纏めたリボンが目に入り――――

「……あ」


 ───白い、リボン。

 ……約束を交わした大きな木。

 その日はとてもいい天気で。
 果てのないそらの蒼さは。
 見上げれば自分が融けていきそうなほど高く、澄み渡り───

 八年前の、あの日。
     その景色が、遠野の屋敷を後にする時僕が見た最後の記憶。


「……そっか」

―――そうだ、そういえば。
 大事なことを、僕はまだ聞いていなかった。
―――丁度いいや、今………

「翡翠さん、もうすこし聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
「はい、なんでしょうか詩姫様」
「その、間違ってたらごめん。翡翠さんと琥珀さんって姉妹だよね?」
「―――――」
 一瞬。
 翡翠さんの無表情な目に、確かに微かな驚きの色がまじる。
「……はい。たしかに、琥珀はわたしの姉です」
「そっか、そうなんだ。それじゃあ、翡翠さんと琥珀さんが、昔、ここに引き取られた子供でいいんだね? よかった―――」
 嬉しくて、僕はつい声をあげてしまう。
 よかった、本当によかった。
 あの日、僕にリボンを貸してくれたあの女の子は。
 ……八年前、ただ一人“待っている”と言ってくれたあの女の子は。

 まだ、この屋敷にいてくれた―――

 そう、僕は約束を、……?


「……………」


 だけど、喜ぶ僕とは正反対に。
 翡翠さんはじっとしたまま、その姿勢を崩さない。
 でも。
 嬉しそうな僕の様子を見て、翡翠さんの表情が僅かに翳ったように見えたのは、果たして僕の気のせいだろうか────
「───ね。
 さっき秋葉が言ってたのはともかく……。
 翡翠さん、覚えてない? 昔、一緒に遊んだことだって―――」

 そう、言いかけて、口を閉じた。

 ……違う。

 違う。
 僕たちと一緒に遊んでいた子は、明るかったほうだ。


 醒めた目で、窓から庭で遊ぶ僕らを眺めているだけだったのは、その―――


「……その、よく君のお姉さんと遊んでたんだけど、翡翠さん……?」

「……。──はい、それはよく存じております。詩姫様が有間の家に行かれる二年ほど前に、わたしと姉さんは槙久さまのもとに引き取られましたから」
 翡翠さんは、瞳に懐かしさを浮かべつつも、淡々とそう語る。
 ……翡翠さんと琥珀さんが思い出の双子だってわかったのは──いい。
 それはいいんだけど。
 そこまでは良かったんだけど、どうも、翡翠さんはその事をなんとも思っていなさそう───。
「……そっか。翡翠さんとはあんまり話をしてなかったものね。かってに舞い上がっちゃって、ごめん」
「それは……詩姫様が謝られる事ではありません。こちらこそ、幼年期の事とはいえ詩姫様に失礼をいたしました」
 そう言って、ふかぶかと頭をさげる翡翠さん。

「――――――──」
「――――――──」

 すごく、気まずい。

 翡翠さんに悪気がないのは、もうわかってる。わかってるんだ。わかっちゃいるんだけど、それでも──ここまでシャクシジョウギに礼儀作法に則られると……。
 やっぱり、なんかこう、反応に困る――すると。
「詩姫様、他にご用件はおありですか?」
「あ……いや、別にない、けど」
 翡翠さんは、露骨に話を逸らした僕にはなにも言わずに。
「じゃあ、そうだ。琥珀さんが言ってたのって居間だったよね? 僕、行ってるからね」
 僕がそう言いつつわたわたしながら席を立って、あたふたとロビーに通ずる廊下に出た後も。
 ただ食堂のなか、入り口近くに突っ立ったまま、どこを見ているんだかわからない眼差しをしている。
「───翡翠、さん?」
 それでも、翡翠さんはうんともすんとも言わず。
「あ、あのー」
 ただ宙の一点だけをじーっ、と見詰めている。

「ひ───翡翠、さん?」

 と、突然まっすぐにこちらを見据えてきた。
「姉さんの部屋になら、あると思います」
「は?」
 いやもう、まったく脈絡がない。
 なにがなんだか、さっぱりワケがわからない。
「……えーっ、と。あるって、何が?」
「ですからテレビです。以前、確か……姉さんの部屋に有るのを見かけた記憶がありますから」
 そう言う翡翠さんの口振りは、まるで数年前の出来事を思い出して話してるみたい。
「あ……そ、そっか。でも、まぁ……」
 なんか琥珀さん──“カメラは見た衝撃の瞬間、映像一挙100連発!”とか見ながら、ビルに旅客機が突っ込むところとか見て、嬉しそうに手を叩いて“あははーっ、やりました、今やりましたよーっ いっきみごとに命中でーすっって笑っていそう。
「……確かに、琥珀さんはバラエティ番組とかも観てそうなキャラクターしてるし──」
 でも。
(───琥珀さん、時間がかぶったら)

 バラエティなんか見ないで、絶対そっち観てる。
 それも、僕なんかオモイッキリ退きそうなはっちゃけた喜びかたで。

 僕には、何故かひしひしと、そんな気がする。
 よく、わからないけど、なんか手にとるようにその場の情景が脳裏に浮かぶんだよな……。

 けれど。

「ん〜……」

 ここで、ちょっと冷静に考えてみよう、詩姫。
 屋敷には他にテレビは無い。
 ちょっとした息抜きも無い。
 だからといって『コ・ハ・クさ〜ん、チョッとてれび観ぃ〜せてぇ〜』とかいって琥珀さんの部屋に入り浸るのも……正直、気がひけるし……。
「ごめんね、翡翠さん。いまのこの話はなかった事にして。これからここで暮らすんだから、屋敷のルールには従わなくっちゃいけないしね」
 それにテレビなんてものを観ていたら、秋葉にどんな顔されるかわかったもんじゃないし……。
 ここは、遠野家の人間に相応しい勤勉な学生になりきろう。
 せっかく呼び戻してくれた秋葉の手前、少なくとも、そのフリくらいはしてみよう。
 うん。
───出来るかどうかはともかく、表向き、努力くらいは。
「まぁ、いいや。たしか、西館のほうに書庫があったよね。暇なときはそこから何か見繕う事にするよ」
 翡翠さんにそう声をかけた、そのとき。


「あー、詩姫さまったら、こんな場所で何されているんですかー?」


 背後からそんな声をかけられ、ふと振り返ってみると。
 そこには。
「もぅ、翡翠ちゃんも。先に居間で待ってて下さいねって言っていましたのにー………」
 いま話題の“テレビの主”こと琥珀さんが、お茶を淹れおわったのかティーポットとカップを載せたカートを押して厨房から戻ってきていた。
───なんと、カート。

「……はぁ……」

 そうかー。
 そりゃ、遠野の本家は…屋敷からして…金持ちだ、金持ちだとは思っていたけれど、まさか……蓋を開けたらここまで金持ちだったとは。
 感心するやら呆れるやら、妙なところで感心している僕と傍らでかしこまってる翡翠さん。
 そしたら琥珀さん。
 オモイっきり僕に顔を寄せ、くんか、くんかとカラダの匂いを嗅ぐような仕草をすると、眉間に皺寄せてナニヤラ難しげな表情をしてみせる。

───ぎくっ。

 ……いや、僕は何もしてない。
 していない。
 してないはずだけど。誰かにこんな顔を向けられると、訳も無く動揺してしまう。
「……? アノー、コハクサン。どうしたの?」
「詩姫さま。ちょっと……よろしいですかー?」
 そのまんま、ずずいっと寄って来る琥珀さん。
 無作法とか、そういうものなのかな。───だとすると、心当たりが有り過ぎる。

 すると琥珀さん、そそそっと近寄ってくるとそのまんま僕の耳元に口を寄せてきて、

「───まさか詩姫さま」
 ?
 ナンダロウ。
「私がいない間に、翡翠ちゃんにあぁんなことやこぉんな事も……」
 ……えっ?!
「既に済ましてしまわれたとかっ!」

 あ、あの。

 琥珀さん、こはくさぁん……僕は、ボクは一体、あなたの中でドーイウフーニ、ニンシキサレテイルンデショーカ……

 一瞬、思考がトンデシマッタ僕を尻目に。
「いやぁん、もぅ、詩姫さまったら…お手が早いにも程がありますよぉーっ!」
 自分の邪推で真っ赤になった琥珀さん、照れを隠そうとしてかけらけらと笑いながらカートの横に置かれてたお盆でばしばしと僕の肩を叩いてくる。
 ……それ、勘違いってーか、誤解もはなはだしい。
「あ――いや、そんなことはない、そんなことはないけど―――」
「……………………」
「これはなんていうか、質の悪いイタズラっていうか、琥珀さんのデタラメな空想が巻き起こした事故っていうか―――」

「────────」

 あ。
 ……目、目が怖い。

「……残念です。詩姫さま」

 ひいっ…琥珀さん…ホント、怖いデスひすいさんたすけて……。

「……詩姫さまったら、実はひそかに子供の頃からそういう方だったんですね。
 まだお屋敷に居られた頃も、子供だったのに庭先で遊びまわられては誰彼かまわずキスをして回るわ、お風呂ではあ〜んなことやこーんなことまでなされてたわ……あげくはお屋敷にお帰りになってすぐ、翡翠ちゃんにお情けをかけられるわ。
 それなのに、私をまぜてくださらないなんてショックです。……あぁ、もう私、秋葉さまになんとご報告すればいいものやら……」
 そう、別な方向に間違った、トンデモナク恐ろしいセリフを呟きつつ、重苦しいため息をつくと。

───ニカーっ、と悪の華じみた笑みを浮かべる琥珀さん……っ!

「詩姫さま、私もまぜてくださらないと……そのうち秋葉さまに言いつけちゃいますからねー────っ!」


 ……いけない。本当にいけない。


 琥珀さんが周囲に発散する暗黒桃色ぱぅわ〜に僕も染め上げられそうな……そんな、変わらない予感。
 なんか、このまんまいくと世界法則がズレていきそうな気もする……止めよ。
 どうにかして、止めないと……!
「いいですか、琥珀さん。そんななにもかもぶち壊してしまうような真似だけは止めて───どうか正気に戻ってください」
 めー、と琥珀さんのお得意ポーズを真似しつつ、どうにか冷静を装ってつっこむと……琥珀さんは“ちぇーっ”といかにも残念そうに舌打ちし。
「……あ〜、もしかして」
 すぐに、ぽん、と得心したように手を打った。
「詩姫さま、この手の冗談は苦手だったんですかー?」
 そう言いつつ、お盆で口元を隠しはにかんでみせる。

「………………」

 その言葉と仕草に、しかめっ面して無言で頷く僕。
「もう、詩姫さまったら、ほんと真面目なんですからー!」  そう言いつつ、またもお盆でぺちぺち僕を叩いてみたり。
 ……うぅ、僕、琥珀さんのペースに巻き込まれて、いいように遊ばれているよぅ。
「あの……」


 ……ごめん。もう、この会話リセットさせて。


「姉さん、詩姫様。居間に行かれるのではなかったのですか?」
「あ……あはー、そうでした」

 ありがとう、翡翠さん。
 猫リセット宜しくトウトツに入った翡翠さんの冷静な突っこみに照れ隠しっぽくぺろっと舌を出すと、ささ、詩姫さまもと言う琥珀さん。
「あ……うん」
 うまくごまかされたというか、なんていうか、色々混じってよく分からない気分のまま、先導する翡翠さんとカートをごろごろ云わせながら楽しげに歩く琥珀さんに連れられるように居間に向かった。言うなれば気分はとほほ。

 だけど。

 前のほうでこっそりふたりして“思ったとおり、詩姫さまって可愛らしいかたですねー。ほんと、からかいがいがありますよー”とか“───えぇ。そうですね、姉さん”とか囁きあっているのだけは、聞かなかった事にしたかったなぁ……。




 とかなんとかやりながら、居間までやって来て。
「今淹れますから、詩姫さまお座りになってお待ち下さいねー」
 なんてにこやかに笑う琥珀さんが押してきたカートから、翡翠さんが手早く茶器の類とちょっとしたお菓子(?)の盛られた皿や籐のバスケットなんかを取り出し、並べていく。

 でも。
 バスケット……?
 なんなんだろう、あれ……
 う〜ん。
 布で覆われてて、盛り付けられてるのが何なのかよく分からないけど。
 あれ、スコーンとか、甘くないものならいいんだけどなぁ。
 僕にはちょうど食事制限があるから、あんまり甘いものとか食べられないのよねー。
 これでタルトなんか出て来た日には……(じゅるっ)


 ……いけない。糖分の採り過ぎとか、しょっぱ過ぎるのとかも食べるの駄目って、後でちゃんと言っとかないと。


「お飲み物ですが、紅茶でよろしいですねー?」
「……ああ、おいしいものならなんでも」
 ホントは日本茶のほうががいいんだけど、今はそんな我が侭はとりあえず黙っておく。
 軽く、楽しげにハミングしながら見事な手際で紅茶を淹れる琥珀さんを居間のソファに座りながら眺めていると、こう──何か別次元に迷い込んだ気分がして来る。気分はもう、ほとんど超高級ホテルのラウンジ独り占めって感じ。
 まあ、この屋敷に着いた時からずっとそんな気分だったけれど。

 そうこうしているうちに、卓上には人数分のティーカップが並べられ、ポットからは上品だが控えめな香気が漂い出す。
 これ、どこのだろ。マイセン? 僕にはなんか高価そうとしかわからない。
 ん〜、シエル先輩あたり、詳しそうな気がするけど。

 そうだ……シエル先輩といえば。
 隣町のホテルで、ケーキと軽食が食べ放題なデザートビュッフェがドリンク付きで値段据え置き、実質値下げになったんだったっけ。
 シエル先輩が言ってたんだけど、先輩の知り合いのパティシエ──お菓子職人?──さんいわく、「ホテルのラウンジは普通、昼食後に御茶を一服した後お客さんがはけちゃうと夕食前までほんと、ガラガラになっちゃう」んだそうで。
 隣町のホテルがそんなお昼過ぎのお客さんがあんまり入らない時間帯に、流行りのデザートと季節モノやなんか、何十種類かの甘いものを取り分けて食べ放題なサービス、デザートビュッフェを始めたと聞いて。
 ここらへんではやっていなかったという物珍しさも手伝って、弓塚さんとクラスメイト数人、シエル先輩を始めとする三年生女子、なぜか生徒会女子一同、そしてオマケの僕とで征って来たのだけれど。
 いや、“征って来た”ってのはあれだ、字面的には間違っているけどその場の雰囲気はまさしく「征くぞ諸君!」 って感じそのものだったし。
 クラスのおんなのこ達に到っては
「そう、あの可愛いケーキくんたちは今日、私たちに美味しく頂かれる為にこの世に創り出されて来たのッ!」
「「「おおっ!」」」
「解るよね遠野くん!!」
「お〜……」
 とか気勢をあげてたくらいだから、やっぱり間違っていないと思ったり思わなかったり。

 で。

 ブレッドプティングやムース、ワッフル、みつ豆……自分たちの事だから悪く言うのはなんだけど、高校生のオンナノコたちがお冷や飲みながらカウンターの一口サイズのケーキをイナゴのように貪り尽くす姿に哀れみを感じたらしく、みんな張り切って食べてる最中に支配人のひとがアンケートがてら話を聞きに来て。
 僕の
「高校生って、お財布には余裕無いの……」
“飲み物一杯頼んだだけで税サービス代込みでもう千円越えちゃうし、ホテルのラウンジで飲み物頼めない……”
とか、
ケーキを頬張ったシエル先輩の「このメニューにドリンクが付くだけでもお客さんの回りが違うんじゃないですか? 客単価にもよりますが、2、300円くらい値上がりするくらいでかなり変わると思いますけど」って提案に冷や汗掻きながら真剣に頷いてたっけ。

 でも。
 そういえば。

 シエル先輩と食べに行った店って……何故か大抵その後波乱の運命を辿って、大繁盛した後に食い潰されてしばらく臨時休業するとか、お客さんさばき切れなくなって下手すると夜逃げするとかしちゃったりするんだよね。
 つい最近、先輩と食べに行った駅前の本格インド料理の店、メシアンなんか……それ以来、店主だけじゃ手が足りず、最近店主さんのカレーに惚れ込んだって評判の新人のシェフが入ってくる始末だし。
 ……支配人さんとかフロントのひととかの対応とか雰囲気とかすごくよかったから……。
 あのホテル、どうにかなったりしないといいんだけど……。


「では、どーぞ」
 僕がそんな事考えているうちに、琥珀さんはティーポットをもって紙のように薄い白磁のカップに透き通る紅色の紅茶をそそいでくれた。
「それじゃ、いただきます」
 受け取ったティーカップを口に運ぶ。
「ん〜!?」
 それを一口、口に含んで……驚いた。

 こんなに咽喉が渇いていたなんて……そんなこと、全然気が付かなかった。

 と、ぼんやりとカップから立ち昇る湯気を見ていると、ボックス──じゃなかった、電話室からまだ電話中らしい秋葉の声が聞こえてきた。


「はい……はい? ええ……」
「はい、それはもう……は? はあ……」
「ええ、わかりました……はい……いえ、こちらこそ……」


 何か、ずいぶんながい。一体。
───何の話をしているんだろう?
 恐らくは僕に関する事であるとは思う。そこまでは察しがつくんだけれど、流石に内容までは見当がつかない。

 わからない。
 わからない、わからない。

 でも。

 父さん――文臣さんの事だ、何か考えあっての事に違いない。
 文臣さんのことだから……。
 こうなることを見越して、秋葉に――じゃないだろうな、新たな遠野の当主への挨拶と、詩姫を帰しましたという報告にかこつけて、僕…詩姫のことについて何か一言言っておこうと、話が踊っている頃合を見計らって電話をかけた――そんなところか。

 まあ、よしんばそうじゃなかったとしても。

 この電話が水入りになって、秋葉が落ちついて納得できてくれるといいなぁ、とは思う。
 ついでに、僕の話も聞き入れてくれるといいなぁ、とも思う。それはもう、切実に。
───まてよ。

 もしかして。

 もしかして、文臣さん──そっちのほうが狙いなの、か、な……?

「詩姫様。僭越ですが、人の電話に聞き耳を立てるのは正直感心いたしません」
「あはー、詩姫さま、電話を盗み聞きするなんてだめですよー」
「あ…済みません」
 なんてことをぼんやりと考えていたら、二人にたしなめられてしまった。
 本人的には普通なのかもしれないけれど、琥珀さんの笑顔との対比で、無表情に見える翡翠さんには、どうも叱られてるように感じてしまう。

 そうこうしているうちに、秋葉が電話を終えて戻ってきた。こころなしかやや身体が傾いでるような気がする。文臣さん、話は分かりやすいけれどあれで疲れるような言い回しをするからなぁ。
 ……まあ、それ以上に僕の事で疲れが溜まっているのだろうけれど。
 秋葉はふらふらとテーブルに近付くと、どさりとソファに座りこむと。
「琥珀──やっぱり貴女から聞いた方が良いみたいね───」
 酷く深い溜息と共にそう呟いた。───やっぱり。
「あはー、ですから、わたしがお話しますと言ってましたでしょう? さて、長くなりますけれど───」


 そんな秋葉にお茶を淹れながら、琥珀さんは困ったように微笑むと、長い長い説明を始めた。




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