2♯/遠野
III.
1day / October 21(thur.)
「───どうして、お父様が兄さんを忘れろと言ったのか……ようやく合点が行きました………」
僕の身に一体何が起きたのか、説明する為の長い話に一段落ついたところで。
手に持っていたカップをかちゃりとソーサーに置くと、秋葉はそう、一言……感慨深げに呟いた。
その話の最中、コトの当事者でありながら殆ど傍観者の立場に追いやられ、ソファーに座ったまんま黙々とティーカップを口に運んでいた僕は……なんとはなしに秋葉のその手元を眺めてて……ふと、視線を外し──卓上に目をやった。
───卓上に並べられていた、人数分のカップ。
紆余曲折の末、どうにかこうにか話がはじまった頃は上品だが控えめな香気を漂わせていたそれも……。
琥珀さんの長々とした説明と、秋葉の要所要所的を得た──言い換えれば御約束の──質問、翡翠さんが状況を整理し、そして僕が時折補足を入れ──そして皆が僕の身に一体何が起きたのか、そして今までどう過ごしてきたのかおおまかな理解に達するまでの時間の経過を示すように、今はもう、殆ど空となっていた。
秋葉は、そんな僕の視線を追い……軽く溜息をついて、一度頷くと、あらためて僕にひたと視線を据えた。
そして僕をじっと見つめながら。
「わかりました。貴女を兄さん……いえ、姉さんと認めましょう。───姉さん、で、よろしいですね?」
「よろしいですね、なんて他人行儀な。
僕は秋葉が認めてくれただけでも嬉しいよ。───まあ、“姉さん”と呼んでもらえれば、それに越したことは無いけれど、ね」
僕が苦笑交じりにそう言うと、秋葉はにっこり笑って、“はい”と頷いた。
ふぅ。
これで一安心。
やっとこ、秋葉に認めてもらえたみたい。
この屋敷に戻って来てからこのかた、ずっと圧し掛かっていた見えない重圧から解き放たれた開放感からか、自然と笑みがこぼれ出る。
そう、口元が緩んでくのが僕自身良くわかる。
「では、姉さんと呼ばせていただきます」
「……そう? でもね、何なら“お姉ちゃん”って呼んで貰ってもいいんだよ、秋葉」
「言うに事欠いて、一体、何を馬鹿なことを言っているんですか姉さん。幾らなんでもあなたは“お姉ちゃん”なんて……」
秋葉も笑みを含んだ声音で穏やかにそう言うと、あらためて僕を頭のてっぺんから爪先に至るまでじっくりと眺め──絶句する。
「?」
「……“お姉ちゃん”なんて……」
「??」
「……呼ばれる、柄じゃ……」
「???」
「……呼ばれ、うぅ……」
あ。
「うぅう……」
秋葉。
何か、凄く複雑な顔つきのまま悩んでる。
そんな秋葉を見て、僕は慌てて両手を振りながら苦笑する。
「ま……まぁ、あれだよ秋葉。ほら、やっぱり、この姿で“兄さん”は流石に──なんか、変だからね」
「……冗談、ですか……?」
“むーっ”とちょっと憮然とした顔を見せた秋葉だが、すぐに気を引き締めるように真面目な表情になる。
あ。
もったいない……さっきの拗ねた顔、なんかすごくいいのになぁ。
「───お父様は最後の最後まで、この家に“兄さんを入れるな、絶対に兄さんを入れるな”……と。殆ど遺言のような状態で。確かに、これで大っぴらに人前に出られてしまったらスキャンダルどころの話では有りませんからね。───御蔭で連絡の遅れと情報の齟齬が産まれてしまいました。ごめんなさい姉さん」
秋葉は身を小さくすると、本当に申し訳なさそうに僕に向かって頭を下げた。
「あ、いや──そんな事だろうとは思ってたから…気にしてないよ、うん」
……まあ、気にしてなかったといえば嘘になる。
でも、それはあくまで“秋葉が僕を認めてくれるか、否か”という事だけであって、親父の死去や連絡の遅れなんか、実は全く、本当に気にしてなかった。
実際、僕は財界人でもあった親父の死去を店売りの新聞の中では一番厚い、一部百四十円のニュースペーパーの訃報欄でたまたま知ったときにも、そうさしたる感慨は受けなかったし……。
……もしかしたら。
秋葉が戻れと言ってくれなかったら、二度と自分からこの屋敷の門をくぐる事さえなかったかもしれない。
「そう言ってもらえるとありがたいです。───でも、私……あんなに色々と姉さんに失礼な事言ってしまって───」
「いや、それだって秋葉はあんなに取り乱してたんだから仕方ないよ。もし逆だったら、僕だって秋葉と同じ様になるか、もっとみっともない姿を晒してたと思うからね。秋葉が気にする事じゃないよ」
「───姉さん……はい、姉さん、ありがとうございます……」
先ほどまでの暴言の数々を思い出して恥かしくなったのか、秋葉は縮こまってまたぺこりと頭を下げた。
なんだか、今の秋葉が、僕の思い出の中にいる小さいときの─――まだ泣き虫だった頃の秋葉の面影と重なってしまって……。
僕は思わず、秋葉の頭に手を乗せて優しく撫でていた。
「だから、気にしなくていいってば。僕と秋葉は二人きりの姉妹なんだからそう縮こまる事は無いんだよ。ね? 少しくらい喧嘩できるくらいがきっと丁度いいんだよ。でももう馬の骨だけはやめろよ、秋葉」
「はい……はい……ねぇさん……」
秋葉は僕がその手を離すまでうん、うん、と頷くように俯いて。
「あの──」
上目遣いに。
「ん? なぁに、秋葉?」
「姉さん。気を悪くなさらないでください、ね?」
「うん」
「今の名前は──志貴、のままなのですか」
そう訊ねてから、バツが悪そうにまた俯いて“…すみません。でも姉さん、男の方の名前では何かと不便ではないのですか?”と付け加える秋葉。
どうやら。
秋葉は自分で訊ねた直後に、今さっき自分が何気なく口に出した言葉が僕にどのように取られるか、嫌な方向の考えに思い至ったようだった。
───それ。
いくらなんでも気をまわし過ぎだよ、秋葉。
……僕はもう、そんなこと気にしていないのに。
「ん? 違うよ。読み方は同じだけど」
云いながら、そっと秋葉の手を取って、
「今は──詩姫。 ウタう、ヒメと書いて……“詩姫”」
開かせたてのひらの上に、ゆっくりとドンナ字を当てたのか、書いてみせる。
「僕に帰るよう手紙が届いた時も、“志貴”のままだったからね。秋葉が知らないんじゃないか、とは思ってた」
「すいません、秋葉さま。私も忙しさにかまけてつい、言いそびれちゃいました」
「…………」
「“しき”……“志貴”──“詩姫”、ですか」
───と。
秋葉の手を開かせたまんまの僕のてのひらに、ポタポタと落ちる、感触……。
「……え?」
それが何なのか、気付いて。
思わず、正面から秋葉の顔を覗き込む。
「……秋葉?」
───泣いて、いた。
「秋葉───どうしたの?」
大粒の涙を湛え、揺る秋葉の瞳。
そこから溢れ出、頬を伝い、膝の上、握り締めた拳に滴り落ちる、涙のしずく──。
瞳に涙を溜めたまま、秋葉はじっと僕の手を握っていた。
「秋葉、様? 一体──」
「秋葉さま、ナミダ……」
すると秋葉は、
「え──? 馬鹿おっしゃい、そんな事がある訳が……」
“無いでしょう”、そう続けようとして。
強がって見せようとでもしたのか、長い髪を後ろに流そうとやったその手の。
「……え」
そう。
「え、ぇ──?」
ふと目元に触れた指先に伝わる感触で、自分がやっと自分が涙を流していたことに気付いて。
「そ、そんな……こと……」
両手で頬を覆うと。
「にい、さん……」
戸惑ったように翡翠さん、琥珀さんの順に周囲を見回し、最後に僕のほうを向くと。
日本人形のように整い、固く強張った顔に、どんな表情をして見せればよいのかわからず途方に暮れるような、泣き笑いのような……どうしようもなく、よく、わからない表情を浮かべ……。
それまで浅く腰掛けていた椅子から滑り落ち───絨毯の上に女の子座りにぺたん、と腰を落とし。
おどおどとこちらを向いて、上目遣いに僕を見上げ、眺め、俯き─――やがて。
「ごめんなさい……ごめんなさい、姉さん……ごめんなさい!」
やがて、コドモの頃に戻ったようにえぐえぐと泣き出した。
「…え…?」
───どうやら、アキハが泣き虫なのは、あれからずっと直ってないらしい。
「……あれ?」
目の前が霞む。
「な……」
なんだ、視界が滲んできた……?
「……馬鹿、ばか、なんで……」
声も、なんでかすれているんだ?
「なんでそこで……」
ああ、目から何かこぼれている。
「な、泣かないで下さい、兄さん……」
秋葉の声が、耳を打つ。不思議に優しく、暖かい声。
───そうか……これ、涙なのか。
「詩姫、様、秋葉、さま、も」
一体……どんな表情をして言っているのだろう。翡翠さんだって、涙声じゃないか。
泣いているんだ、僕も。
僕も、知らない間に涙腺が緩んでいたようだ。ほんと、情けない────
次の瞬間。
本当に、愛しさがつのって……気がついたときには、僕は、床に膝をついて────優しく、妹を抱き締めていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい!」
「……馬鹿、ばか、なんで、なんでそこで、そんなところで謝ったりなんかするの、秋葉! 謝りたいのは、お礼を言いたいのは、こっちのほうなんだから……!」
……僕を。
八年間もおまえを放っておいた僕を、この屋敷に呼び戻してくれたのは秋葉なんだから。
「あきはぁ―――秋葉。その、いろいろごめんな。僕、ずっと身勝手で、秋葉のこと考えてやれなかった。けど、これからは―――」
きゅっと強く抱き締めた僕の背に。
「頼むから、秋葉。これから僕、ずっと秋葉のお姉ちゃんでいたいんだ」
秋葉も、おずおずと遠慮がちに手を回す。
「はい……いいんです。にぃ…ねえ……さん、あなたは…今までどおり、あなたのままでいてください。
それに、謝らなくちゃいけないのは、ほんとうは私のほうなんです。有間の家の人たちにもあんな深く思われてたのに……ねえさん、姉さん、御願いですから、姉さんは───姉さんだけは、私に謝ったりなんかしないでください! そんなことされたら、私、わたしほんとうにいやな女になってしまいます………!」
今まで八年もの間、押さえに押さえ込んできた感情のタガが弾け飛んだのか……言葉にならない声でそう言って、ひっく、ひっくとコドモみたいにしゃっくりあげ。
僕にすがるように抱きついて、誰彼はばかる事なく僕の胸元で泣きじゃくる秋葉。
そんな妹を、あやすように、いとおしむように、ゆっくりと背中を撫でさすってやりながら……僕自身も泣いていた。
再会してすぐのわだかまりを、暖かく溶かしていくように──────
──────でも。
やっぱり……わからない。
どうして秋葉がそんな事を言うのか。
どうしてそんな―――ごめんなさいって、繰り返すのか。
いったい、どれだけの間、そうして過ごしていたのだろう。
抱きしめた腕を離すと、指先でそっと秋葉のまぶたに浮いた涙を弾く。
そんな僕の視界の隅に、僕達姉妹を眺めてた琥珀さんが“うぅ、いいはなしですねー”と呟きながら目元を指で拭い、翡翠さんも同じように目元を擦りながら琥珀さんにハンカチを差し出している姿が映った。
琥珀さんも、翡翠さんも───確かに、瞳に涙を湛えていた。
……が、僕の気のせいだろうか。
今の三人は、再開してすぐのときより、ずっと年相応の少女に見えた。
その後も、暫くしんみりとした──それでいて、温もりに満ちた沈黙が続いたが、その雰囲気に水を差すかの様に。
ぼーん、ぼーん。
柱の時計が、なった。
「……あららー、もうこんな時間なんですねー」
琥珀さんが時計を見ながら思い出したかの様にあらあらと呟いた。
釣られる様に時計を見ると、古めかしい柱時計の針は、丁度八時を示していた。
「あ、そうだ」
僕の間抜けた呟きを聞きつけ、涙を拭いて、椅子にかけ直した秋葉が怪訝な顔をした。
「あら、まだなにかあるのですか?」
「いや――そうゆうんじゃなくて、たんにもう少し皆と話がしたいなって、ちょっと思っただけ…なんだけど」
邪魔ならいいよ、と視線で意思表示する。
「そうですか。それなら──それと言って下さい姉さん。私たちは姉妹ですし、このふたりも家族のようなものですから、遠慮なさらないで」
「ありがとうございます。
───詩姫様。秋葉様も、お茶のおかわりなどいかがでしょうか?」
「うん、わかった。ありがとう翡翠さん……それじゃ、いただきます」
「では、ちゃっちゃと淹れちゃいますねー?」
琥珀さんがティーポットをもって、僕の手元にあったティーカップに透き通る紅色の紅茶をそそいでくれた。
翡翠さん、“おかわりは”って聞く割に、何故か注ぐのは琥珀さん任せなんだね。
「はい、どーぞ」
「ありがとう」
ソファーに座って、ティーカップを口に運ぶ。
目の前には凛と姿勢を正した秋葉が、そして近くには控えるようにいる琥珀さんと翡翠さん。
……ちょっと戸惑ってしまう。
でも。
皆と何か話そうとしたのはいいけれど、こうして改めて面と向かうと、何を話していいものやら、てんでわからない。
「姉さん? どうしました、黙ってしまって。話しがあるんじゃないんですか?」
じっ……、と見つめてくる秋葉。
……その姿は僕の妹というより、どうも見知らぬお嬢さまといった感じで……気軽に話しかけられる雰囲気じゃない。
どうも、気後れしてしまう。
「えっ……と、皆、この八年間なにをしていたのかなって、そう思ってる」
──────場の空気が、凍った。
……って〜か、“時よッ!” って、そんな、感じ?
「……そ」
キッ、と泣き腫らした後の赤い目で、いかにも文句を言いたそうにこっちを見る秋葉。
「そんな事は言うまでもないでしょう! 姉さんがいなくなった分、お父様の目が私一人に絞られただけの話ですッ!!」
“……詩姫様”と、じっ…と恨めしそうな眼つきで僕を睨む翡翠さん、“それ、いっちゃまずいですよ!”って感じで口の端を捻じ曲げる琥珀さん。
ひっ。
……やっぱり、皆の前で。
この八年間の事を尋ねるのはタブーになってしまっているみたいだ。
「そういう姉さんこそ、この八年間はどうだったんですか? 先程のお話だけではまだ、よく解らないのですが。そういえば、私、何度か手紙を送ったはずですけど、姉さんからの返事は一度も返ってきませんでしたね」
「………うぐぅ」
思わず、息が詰まる。
この八年もの間に。
確かに、僕のもとには。
年始や時節の挨拶など、折をみては秋葉からの手紙が何通か届けられていた。
それらは全て、僕の手元に、今も大事に、大切に取ってある。
───けど。
それでいて。
僕の方から、秋葉に返事らしい返事を出した事は今までに一度もない。
僕が筆不精だった、という事もあったけど……やっぱりどこか、僕も心の底ではこの遠野の屋敷と縁を切りたくて……それで秋葉への返信を送ることがためらわれたのではないか。今思い返してみると、もしかするとそういうことなのかもしれない。
「………まあ、今更手紙の事なんか、どうでもいいんです。
姉さんが返信をしても、お父様のところで止められていただけでしょうから。
そんなことより、今日姉さんが帰ってきてくださった事のほうが、よほど嬉しかった………」
「そ、そう。ありがとう、秋葉。そう言ってもらえると僕、嬉しいよ」
あ、嵐は去った。
出来るだけ穏やかそうに見えるような笑みを浮かべ、そう言うと。
「それより姉さん、八年ぶりに屋敷に帰ってきた感想はどうです? 少し前に老朽化のために改装をしましたけど、そう大きくは変わっていないでしょう?」
「親父が居ないだけでも、すっごく変わっているんだけどね……」
う。
言ってすぐ、マズカッたと思った割りに。
「そうですね、確かに変わったと思います」
秋葉は意外にもあっさりサラッと流してくれた。
「───」
翡翠さんは、目元を険しくし、何か言いたそうな顔をしたものの、その後は相変わらず無言のまんま。
「空気の質が、変わったかもしれませんねー……」
そして琥珀さんは一瞬だけ何か堪える様な表情を浮かべ……軽く、でも寂しげに微笑んでみせる。
そんな三者三様の反応を見て。
ふと、違和感を抱いた。
「……姉さん?」
「あ―――」
なんだったんだろう? 今、一瞬──────
「……いや、ちょっと考えごとをしてた。ま、八年ぶりだからね。なんかしっくりこないけど、そのうち馴れると思う。そんなわけなんで、しばらくは大目に見てくれるとありがたい」
「何言ってるんですか? 馬鹿は休み休み、寝言は寝てから言って下さい、姉さん」
「ぶっ………!」
むせた。
「でも、そうですね。暫くの間は譲歩して、大目に見ます」
ううっ……危ない危ない、思わず飲んでいた紅茶を吐き出しそうになっちやったじゃない。
「……そっか。あれでも大目に見ててくれたのか、秋葉は」
“えぇ、そうです”とでも言わんばかりに、しかめっ面して頷く秋葉。
……まぢですか。
「先に言っておきます。言っておきますが、私も姉さんにできるかぎりの譲歩はしてるんです。
してますし、暫くの間はし続けるつもりです。何しろ姉さんはあれから有間のおばさまに育てられましたから。
おばさまは分家筋の中でもとびきりの放任主義ですから、姉さんがどれほど甘やかされて育ったかはさっきの夕食で思い知りました」
そんな事を言うと、“姉さんのだらけきった生活態度を矯正するにも、少し時間が掛かりそうですしね……暫くは、我慢します”などと恐いことをサラッと呟くアキハサン。
……きょ、“矯正”って……アナタ。
テーブルマナーとかなんかはともかく、それって、まさか。
ボクの左ギッチョまでどうにかして直しちゃおうとしたりなんかするんデショーカ……。
「ま、まぁ、何だよ……仕方ない。僕だっておばさんだって、まさかこっちに戻ってくる事になるなんて思ってなかったんだから」
「そうですか。なんだか戻ってきたくなかったような口振りをするんですね、姉さんは」
「ばか、そんなわけないだろ」
間髪入れず否定し。
「───そりゃあ“戻ってきたかった”って言えば嘘になるし……」
そう、続ける最中にも。
秋葉の、痛いほど真剣な眼差し。視線を頬に感じる。
「……親父が生きていた頃に呼び戻されたんなら、流石に僕だって迷っただろうけど、ここには……遠野の家にはもう、秋葉がひとりきりしかいないじゃないか。
お姉ちゃん、そんなのがほっとけるように見えた?」
(……見えるか)
最後は、軽く、冗談めかして語尾だけ上げてみせたけど。
(見えて、当然だよね……)
連絡ひとつ入れずに、ずっと、たったひとりの妹を置いたまんまで。
内心で思わず、そう自嘲する。
でも。
僕がこの屋敷に戻ってきたのは、それが第一の理由なんだ。
秋葉がいなかったら、いまさらこんな屋敷に誰が戻ってくるもんか───
「八年間も音信不通だったから、今更だとは思うんだけど…これでも秋葉が一人でも大丈夫なのかずっと気になってた。
今更だけど、僕が屋敷に戻ろうって思ったのは、秋葉のことが心配だったからだよ」
わずかに秋葉から視線をそらして、正直に自分の気持ちを言葉にする。
「──え」
内心に抱えてたものが口からするりと滑り出した、そんな感覚。
「もう、秋葉をひとりぼっちにしたまんま自分だけ楽な思いをするのは嫌だった。そう思って、この屋敷に戻ってきたんだ」
(けど、そんなのは杞憂だったかもなー)
「でも、帰って来て安心したよ。ほんと、この八年間で秋葉は僕が想像してたのよりずっと綺麗になってたし」
「あ───うん、その……ありが……」
「それに、もっのすごく打たれ強く、頑丈に育ったみたい。
いや〜、お姉ちゃん安心出来たけど、その分ちょっとさびしい、かな〜」
いや、“ちょっとさびしい”なんて生易しいものじゃない。
僕には子供のころの大人しい秋葉のイメージしかなかった分、今の凛然とした秋葉は僕のオモイデの中の秋葉とはまるで別人みたいで、ちょっとどきまぎしてしまうぐらいだ。
ひとの話し聞かなかったり、頭堅いわりに妙に脆いあたりなんかどうかと思ったけど、それもまぁ可愛げのうち。
……怒られそうだけど。
「………………」
「……? どうしたの、秋葉?」
「──そう──そう、ですか」
ひ。
秋葉の、秋葉の目が怖い。
「───そうですか。私、姉さんの期待に応えられない、不出来な妹でもうしわけありません」
うぅ、こ、声が、声が凄く寒い。まずい、また余計なことを言ってしまったみたいだ。
「それで、姉さん。───有間の家での生活はどうだったんですか?」
怒りのあまり引きつった口元を無理矢理に整え、ぎこちなく、硬くこわばった笑顔を形作った顔のまま、秋葉は話しかけてくる。
……なんていうか、ただ話しているだけだっていうのに、すごい緊張感だよまいしすたー。
さっきまでのアキハは、いったいどこにいったのぉ?
「……姉さん。私の話、聞いていますか?」
「き、聞いてる、聞いてるよ。有間の家での生活だろ? いたって普通、とりわけ問題はなかったよ。僕としてはこっちの生活より有間の家での生活のほうが性にあってたみたいだし」
「そういうことじゃなくて、姉さん、体のほうはどうだったの?
慢性的な貧血でいつもいつも倒れていたって聞いてましたけど」
「ああ、そりゃぁたしかに退院してからの一年はしょっちゅう倒れてたけど。今は、もう大丈夫だよ。
まあ……今でもときどき貧血は起こすけど、月に一度、アレきつかったりする時とかぐらいだし。もう、おまえに心配してもらうほどやわな体してないさ」
そう言って。
そっ……と傷口のある胸元に手を添え、微笑んでみせる。
「姉さん、“アレ”って……?」
秋葉は“アレ”がなに指してるかに思い至らなかったのか、ちょっと悩んだような素振りを見せた後。
僕に向かっておずおずと訊ねてくる。
……うぅ。
「秋葉さま秋葉さま、女の子は月に一度はど〜しても辛くなりますよねー?」
そんな様子を見かねたのか、僕のカップに紅茶を注いだ後空になったティーポットを手早く片付け始めていた琥珀さんも、その手は休めずに助け舟を出してくれた。
それを聞いた秋葉、“へ!?” といった感じにアングリ口を開けて。
そこまで考えが及ばなかった、というか、まったく気が回らなかった事柄に気付かされたような顔になった。
「まさか……ごめんなさい。もしかして“アレ”って、やっぱりそういうこと、ですか?」
「うん……そういうこと」
どうやら、秋葉は自分で口に出した後すぐ気付いたらしい。
でも。
やっぱり。
頭で解って、納得して受け入れたとはいっても。
秋葉はまだ、“兄さん”が“オンナノコ”だってこと、ほんとうには実感できてない。
女の子なんだから、どうしても、月に一度辛くなるんだって……特に僕の場合、生理不順だったり、来たら来たで下腹のあたりがずぅん、と疼いて立ってられなかったりするくらい辛いときもあるんで、あんまりいい気がしないんだってば。
遅まきながら、自分が忘れてたことが何なのか思い至った秋葉は秋葉で“あ〜、あ〜”と何か納得したように頷いている。
どうやら、秋葉にも思い当たることがありそうだ。
やっぱり姉妹だし、その辺の事情は僕と似たようなものなのかも。
「じゃあ、それ以外には?」
「それくらい」
そう、と真剣な顔で頷くと、続けた。
「そう───そう、ですか。でも……その、さっき会った時は驚いたわ」
「そう? そのわりにはすっごく冷静だったじゃない、秋葉は」
「─――当たり前です。妹が八年ぶりに“兄”と再会する時、普通無様なところなんて見せられないと思うものじゃないですか」
ふん、と秋葉は不機嫌そうに眉をよせる。
「いくらなんでも“姉さん”だったなんて思いもよらなかったし、このような事になるとまでは、私も予想だにしていませんでしたから、姉さんには無様なところを…その、おもいっきり…見せてしまいましたけど」
「そうですよねー、ほんと、この上なく無様でしたよねー……」
しみじみとした琥珀さんの言葉に、皆思わず頷いていまう。
……。
……ん?
「……こ、は、く?」
「あ、あれ? 私なんか言っちゃいましたー?」
「……琥珀、あなたには改めて使用人としての分別を教え込む必要があるようね……」
なんていうか、そこまでカタリマスカあなた達は。
とか、冷や汗をかきつつ思っていると、秋葉はコホンと咳払いを一つして。
「あの、姉さん」
「うん」
「気を悪くなさらないでください、ね?」
いや、悪くはしないけど。
僕の表情や顔色が気を悪くしているように見えるのは、多分。
さっきから、あなたがさりげに怖い事を云ってるからですアキハサン。
「あの……“姉さん”、だったことはともかく……えぇ、それだけじゃなく、姉さんが、眼鏡をしてるなんて知らなかったから。前は、眼鏡なんてかけてませんでしたよね?」
「そうですねー。さっきお会いしたときはほんと、驚きました。
詩姫さまが眼鏡をしてるなんて、誰からも伺っていませんでしたから」
琥珀さんも“そのまんま迎えにいってたら、わからなかったかもしれませんねー”、と受け、それを横で聞いてた翡翠さんも、コクリと頷いてみせる。
「その、まさか姉さん。昔入院してから、視力でも落ちてしまったんですか?」
「――――――」
……そうか。
秋葉は……いや、秋葉だけじゃなく、翡翠さんや琥珀さんも。
ここにいる皆は、僕がなぜメガネをかけたのかも、し続けている理由も知らないんだ。
───それもそうだ。
けど、イクラナンデモ……僕には物の壊れやすい『線』が見える、だとか、このメガネがそれを見えなくしているとか───
幾ら僕にとって切実なモンダイでも、他人に説明したところで──こればっかりは、理解してもらえるとは到底思えない。……いいとこ、電波さんは雨の日には殆どとどかなYinデスYOギコハハハHahaha! 扱いされるのがオチだろう。
ましてや……。
さっきから望外にいい感じにはなってるけれど──この八年もの間、まるで他人のような希薄な繋がりしか持ってこなかった秋葉には。
今はまだ、とてもじゃないけど、そんなこと説明できない。
「……いや、ちょっとね。事故の後遺症ってヤツで少しだけ眼がおかしくなって、眼鏡かけてないと周りがズレて見えるんだ。
けど、視力が落ちたってわけじゃないから、そう大した問題じゃない」
「そうなんですか……なら、いいんですけど」
そんな僕と秋葉のやり取りを見て。
“でもそんなこと、特には聞いてなかったようなー”とかぶつぶつ呟いている琥珀さん。
だ、だから、そのあたり深く突っ込んだりしないで、お願い琥珀さん!
引きつって、カミサマにそう祈るのもつかの間。
「あらー!?」
いきなり素っ頓狂な声を上げた。
な、なに?
「そうでした!」
だからなんなの〜!
「秋葉さま詩姫さま、入浴の支度ですが、どうしましょうか?」
……ふ〜。
「琥珀──」
それを聞いた秋葉は小首を傾げ、形良い眉をひそめてみせる。
「あなた、姉さんが帰ってくる日だというのに、用意していなかったとでも言うつもり?」
「いえ。ですが、思ったよりお話が長引いてしまったので、おそらく少しばかり湯加減が。もう一度沸かし立てるのに、お時間を頂きたいのですがー……」
そう言って、申し訳なさそうに身を小さくする琥珀さん。
「あら──」
「あぁ──」
「では、そのあいだに詩姫様に屋敷を御案内します」
「そう? わかりました。では二人とも御苦労だけど御願いね。翡翠、姉さんを御部屋に案内してさしあげて」
まあ、取りに行くものもあるだろうし。時間的にも良い頃合だったのかもしれない。
秋葉のその一言で、おのおのやや疲れた様子で立ちあがる。
「……あ、そうです。姉さん」
「ん?」
「有間の家ではどうだったかは知りませんが、この屋敷では門限が八時です。八時になったら門を閉めますのでそのおつもりで」
「うん、わかっ……って、八時?!」
秋葉があんまりにもさらっと流す様に言った言葉に頷きかけて、その意味を理解した瞬間に驚いた。幾らここがお屋敷だからと言って、それは幾らなんでも早過ぎではないだろうか。
確かに商店街などは後一時間ほどで殆どの店が閉まるが、繁華街なんかはここからやっと活気付く位の時間ではないか。
もっとも僕は繁華街なんてそうそう行く事はないけれど。
だけど、僕が驚いたのはそう言うことじゃなくて。
実は前に僕が暮らしていた有間の家では門限は七時厳守で、時間を過ぎたら泣こうが喚こうが頑として朝まで入れてはくれなかった。もっとも、僕は、二、三度位しか締め出しを食らった事はないが。
だから、それに比べたらまだ一時間も猶予がある事になる。
まあ、一時間やそこら増えたくらいではあんまり変わり映えはしないが、それでもこの一時間は結構大きい。
「何を驚いているんですか姉さん。姉さんはこれからこの屋敷で暮らすんです。これまでがどうで有れ、ここにはここの規律があります。この屋敷で暮らす以上は、今までの無作法とだらけきった生活態度を改めてもらいますからね」
それでいいのかと僕が呆けた表情をしていると、秋葉はむっとしたような顔で宣言でもするかの様に言い放った。
「あー、うん……それは、分かる。出来うる限り努力してみるけれど」
でも。
(……努力以前に)
これまでの生活を続けていれば、全然余裕があるよな〜。
高校生にもなって、こんな事で一喜一憂するのはちょっと何だけど、それはまぁ、ココロの棚に上げて置こう。
……そんなことを思いながら生返事を返す僕に、秋葉はすかさず次の釘を刺してきた。
「ちなみに外泊なんて以ての外ですから。念のため、先に云っておきますけど」
う……それはやられた。
昼に有彦達にも釘を刺されたが、僕は結構外泊が多い。
有間の家に居た頃───あぁ、もう、つい今朝方までいたとは信じられない───には家の人たちに遠慮をして外に泊まっていたのだけれど。
こっちはこっちで、息を抜くために外に泊まる事になりそうだ。
そう考えていたから、秋葉のこの釘刺しは、効く。
有間の家では、僕がどこにいるかをきちんと明かして連絡をいれれば取り敢えず外泊OKだったが、秋葉の睨むような目を見ていると、例え行き先を伝えてきちんと僕がそこに居たとしても、どうも許して貰えなさそうな気がしてくる。
「ええと……“もってのほか”って事は、連絡とかきちんと入れても……?」
「ええ、断固として認めません。貴女は遠野家のちょうな…長女なんですよ? 前々から予定を伝えてきちんと計画をなされた上での外泊なら兎も角、ただの遊びでの突発的な外泊などは論外です」
僕が言い終わるより早く秋葉はきっぱりと否定してきた。
「大体にしてですね姉さん。そのように学生にあるまじき行為は何ですか、学生の本分を理解してください! 大体、そんな風にふらふらしているとやがて不純な交遊に……」
あーだ、こ〜だ。
学級委員宜しくなにやらカタクルシイ事を言ってくる秋葉のお説教を右から左へと聞き流しながら、もう一度、つい先程まで秋葉が言っていた言葉の内容を吟味する。
(…これまでがどうで有れ、ここにはここの規律があります…)
(…きちんと計画をなされた上での外泊なら兎も角…)
(…ただの遊びでの突発的な外泊などは論外です…)
ふーむ。
……言質的には、逃げ道はある。
あるけれど、流石に「屋敷の生活が堅っ苦しくて息抜きをしたいので外泊許可を」なんて、それ、ギャグを通り越してほんとシュールそのものだ。
第一、秋葉にそんな事を言ったら絶対にその日は外に出してもらえないだろう。
この先の肩凝りまくりの日々をちょっと考えてやや寂しい気分になっていると、何だかんだと言い終えた秋葉が軽い溜息をついて“仕方がないですね”、と言いそうな雰囲気で口を開いた。
「外泊は認めませんけれど、別にお友達を呼ぶ事に付いてはあんまり煩くは言いませんよ? 馬鹿騒ぎをされるのは困りますけれど、少しくらいなら大目に見て差し上げます。それに、私も姉さんの御友人にはお会いしてみたいですし」
それは嬉しい。確かに秋葉の言葉は嬉しいんだけれど、それは僕にとってはあんまり救いになってい無い気がする。
特に、有彦なんか呼んだ日には一体どんな馬鹿騒ぎになるのか……想像もつかない。
というか、それでは結局肩が凝る事には依然として変わりがないから、秋葉の申し出は──気持ちはありがたいけれど──言っては悪いが、殆ど意味がない。
「あ…うん…ありがとう…」
結局、僕は歯切れの悪い返事で御茶を濁す事しか出来なかった。
「姉さん、折角姉さんがこの家でゆっくりくつろげるように人払いまでしたんですから、もう何処か外に行く話は止めて下さい。使用人も姉さん付きの翡翠と私付きの琥珀を残して殆ど暇を出しましたから、この屋敷にいても、もう煩わしい事は何もないはずです」
「うん。それ、さっき翡翠さんから聞いた。で、さ。その、人払いしたって事なんだけど、秋葉──」
このどでかい屋敷で殆どの使用人に暇を出したって、それでこの屋敷が維持できるんだろうか?
いや、まあ、考えれば住んでる人が少なくなれば手入れするべきところは減るのだろう。けれど、それにしてもこの屋敷は───四人だけで暮らすには、幾らなんでも広すぎないだろうか?
それに。使用人とはまた別に人払いをしたということは、後々………。
そんな僕の考えを読んだのか、秋葉はむすっとしたまま無造作に言い捨てた。
「聞く耳持ちません。私はあの方達の小言はいいかげん聞き飽きましたから、これを期に皆さんに御退去頂いたんです。姉さんだってその姿でおもむろに親族に会うのは嫌でしょう?」
確かにそれは嫌だ。例え斗波さんのようにこっちの事を知っていたとしても嫌なものは嫌だ。っていうか、あの人に関しては個人的に嫌って言うか。
でも、だからと言って勝手に人払いなんかして、秋葉の立場は大丈夫なんだろうか?
「でも秋葉、幾ら当主だからって───」
「あぁ……もう! またそんな顔をするっ! 私の事なんてどうでもいいんです姉さん! 今は、これからのご自分の事だけ心配していればいいんですっ!」
僕の心配そうな顔を見て秋葉は僕の台詞を遮るように不機嫌そうに怒鳴ると、話はこれで終わりと言うかのようにぱん、と掌を打ち鳴らした。
「取り敢えず姉さんは部屋に行って休んでいてください。それに、帰って来たばかりで館のほうも不案内でしょう? 分からないことがあったらこの子に聞く様に───翡翠」
秋葉が翡翠さんに目配せをすると、翡翠さんは一歩前に進み出てぺこりとお辞儀をした。
「流石にもうわかっているでしょうけれど、この子は翡翠。姉さん付きの侍女にしました。よろしいですね?」
────え?
いやなんとなくそんな予感どころか、実はさっきさらっと言われてたから気付いてたけれど。
「えっと、その、侍女ってもしかして腰元、じゃなかったメイドさん?」
「ええ、分かりやすく言うと召使です」
僕の何と言うかピントのずれた質問に秋葉はきっぱりと言いきった。
いや、そうでなくて。その僕付きってやつ、強制ナンデスカ?
「えっと、その、それって変更不可?」
僕の言葉に秋葉は、“一体なにを何を言っているんですか、姉さんは”という顔になった。
「もしかして大決定?」
続いて聞いた事に対して、今度は“今更何を分かりきったことを聞いているんですか、姉さんは”という顔になる秋葉。
「て言うか既定事項?」
その言葉に、“あぁ、ようやっと分かったんですね、姉さん”と言わんがばかりに秋葉は大きく頷いた。
先ほどの言葉の最後になされた確認も、どうやら選択肢は“はい”“うん”“YES”“了承”等の数パターンくらいしか用意されていないらしい。
―─―いや、そりゃ探せば他に幾らでもあるだろうけれど、全部意味は変わらないっぽい。
そう考えると。
どうも、秋葉的に言うと、僕には自由選択の権利は最初から“ない”みたい。
───嗚呼、秋葉。
秋葉、秋葉はこの八年もの間、親父に一体どんな教育を施されてたの――?
「────ちょっと待ってくれ、秋葉。幾らなんでも侍女なんていらない。自分の面倒くらいは自分でみれるから────」
「だまらっしゃい。炊事、洗濯、掃除まで御自分でなさると? ──いえ、よしんば姉さんが一人で生活できる能力を持っていたとしても、この決定は変わりませんし変えませんし変えさせません。何しろ姉さんはこれからここで暮らすんですからそれ相応の待遇は嫌だと言っても無理矢理にでもさせて頂きます。当然、いいですよね姉さん?」
僕の文句をぴしゃりと跳ね除け、返す刀でそこまで一息で言ってのけた上で。
秋葉はふんっと息も荒く勝ち誇ったように意外と薄い胸を張ると、僕をキッと睨みつけた。
────あの〜、アキハサン。そうじゃないかと思ってたのは確かだけれど。 僕の選択の自由は一体どこに……?
……うぅ。
人付き合いが苦手な僕に侍女なんてつけられても──困る。
ていうか、自分がのんびりしている脇で働かれられるとおちおちのんびりもしてられない。つ〜か、手伝わないと悪い気になってしまうじゃないか。
それでどうやってのんびりしろと?
……なんて悩んでいるって言うのに、こっちはこっちで。
「──あの、詩姫様。私ではやはりお気に召しませんでしょうか?」
なんて、翡翠さんは胸の前でもじもじとせわしなく指を合わせて、捨てられる直前の子犬さんのような、今にも泣きだしそうな上目使いでおずおずと聞いてきた。
「──あ〜、いや、その、そうじゃなくて、ええと、うーん――」
いけない。
いけない。本当に――いけない。
僕は何故か、他人のこう言う表情にはとことん弱い。
そんな聞き方をされたら無下に扱うなんて絶対に出来る訳が無いじゃないか。
……しかしなんだ。
パッと見無表情に見えるけれど、翡翠さんって実は結構表情豊かなんだな。やったね大発見!
──いや、そう言う事でもなく。
「あー、その…不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「あ、いえ、こちらこそよろしくお願い致します。詩姫様」
暫し迷った末に、翡翠さんが僕の侍女についたことを承諾する旨を伝えると、翡翠さんもつられたように頭を下げてきた。
……こういうのって、なんだかくすぐったい。
そんな風に、二人でぺこりと頭を下げあっていると。
「二人とも何をやっているんですか。大体それは──こういう時の挨拶ではありませんっ!」
心底呆れたような表情で、秋葉が突っ込みを入れた。
「ああ…もぅっ! 翡翠、いいから早く姉さんをお部屋に連れて行って頂戴!」
「あ──失礼致しました。それではお部屋をご案内致します、詩姫様」
なんだかやってられない、といった風に秋葉が言うと、翡翠さんはぴしっと姿勢を正して影のような気配のなさでロビーに向かう。
しかたがないので僕は秋葉にまた、と挨拶をすると翡翠さんに付いて暗いロビーに踏み出した。