───砂岩タイル張りの壁面、翠のスレートで葺かれた壮麗な屋根────
……ひどく日本離れしたこの屋敷は、中央に吹き抜けを取り、その周囲に回廊を備えたホール……ロビーと玄関がある本館を中心にして、洋風の付属屋である西館と東館が左右対称に配置されている。
要するに、玄関を前のほうにしてこの館を鳥に見立てると、ロビーを胴体に東と西の館がまるで羽根を広げたように斜め前に突き出るような構造をしている事になる。
その片翼──つまり、一方の館の大きさは小さな病院並みのサイズで、それこそ僕が昔入院していた病棟並みの大きさがある。
造りそのものは左右対称で、西も東も部屋の間取り自体は同じ構造になっていたと記憶していたが……そのとおり間違っていなかった。
で。
正門から続く道なりに辿り付く正面玄関の反対側、さっき言ってたように鳥にたとえるなら尾羽のほう……東と西の館に挟まれた位置に、ちょっとした――とはいっても、敷地まで含めたこの遠野屋敷全体の規模に比べての事で、実際には最近の建て売り住宅がニ、三個は入りそうなサイズの――中庭と付帯設備(例えばあの露天式の浴場とか)がある、という訳だ。
あと、これまた犯罪的な広さをもつ庭の奥には……和風の別棟として、使用人の家族が暮らす和館の離れ(一軒一軒が、有間の家とおんなじくらいの大きさがあるらしい──うわ、び〜っく!)が──それも、幾つか(!)併設されていた、そうだが――母屋である洋館とは異なり、状態が良いものを除いて、大部分は今は手入れもされず使われていない、ということ。
なんか、それすごくモッタイナイ。
……そして、洋風の館そのものと和風の離れ、そして庭園に至るまで、敷地全体が、むかし――明治から大正、昭和の初めにかけて、外国からやってきて宮家や華族、富豪の大規模な邸宅を数多く手掛けたナントカいう高名な建築家の手に拠るもので、そのひとの作風がよく現れたもの……らしい。
見栄えに関わる装飾的要素はむしろ控えめで、全体として端正で重厚な外見に纏め上げられたこの遠野家本邸は、そのひとの代表作のひとつとして数え上げられても良いものだが、世の中にはあまり知られておらず、ごく稀に建築史とか美術史関係の人が訪れるものの屋敷の見学などは全て丁重にお断りしている……んだ、そうだ。
で、この屋敷は僕が帰ってくる少し前、老朽化のために改装の手が入ったものの、八年前――要するに、僕がいた頃に比べても間取りや何かはそれほど大きくは変わっていないこと。
そのときも、どこからか館が改装されることを聞きつけたその筋のひとが大挙して押し寄せて来た上、何かとやかましい親類連中とひと悶着起こしたらしく、秋葉はしばらくお冠でご機嫌斜めだったこと……。
と、まぁ。
……こんな具合に。
改めて翡翠さんに館の中をひととおり案内されつつ、大体の館の構造や部屋の間取り、調度品やら屋敷そのものの由来なんかを説明されたりなんかしながら───僕は僕で、翡翠さんから最近屋敷で起きた事柄や何やらを聞き出してみたり、屋敷の中を昔の記憶と照らし合わせたりなんかしてた訳だが。
(――姉さん)
(八年ぶりに屋敷に帰ってきた感想はどうです?)
(そう大きくは変わっていないでしょう?――)
―――――。
……秋葉はああは言っていたものの、こっちとしては既に……
此処はもう、まるっきり見知らぬ屋敷みたいなものだ。
大体八年前っていえば、僕はまだ小学生だった。
屋敷のことはおぼろげに覚えてはいたものの、こうしてあらためて中をてけてけ──いや、分厚い絨毯のおかげで足音なんかはしないんだけど──歩いてみると……どうも、他人の家のようで、なにか……ひどく、落ち着かない。
実際、翡翠さんに案内されてる最中も、僕が考えていた事といえば。
僕が成長して目線が高くなったためか──おぼえていたのより小さい、八年も居なかった割りには案外憶えているものだな──程度で、正直そんな感慨しか湧かなかったくらい。
なんだろ。……僕、薄情なのかな……。
僕がそんな事を真剣に考え、悩んでいる間にも。
「───詩姫様のお部屋はこちらです」
「ん」
そう言って。
半歩ほど下がりしずしずと、また時に僕の前に立ち……付かず離れずの位置を保ちつつ館の中を案内してくれた翡翠さんは、最後にロビーを抜けて、手を伸ばした僕が二人くらい寝っ転がったままご〜ろごーろと転がって降りれそうな広い木製の階段を上っていく。
その後に続いて、階段に足を掛ける僕。
歳月を経て黒々と鈍い光沢を放つくらい磨き抜かれた階段は、一歩一歩爪先に体重を掛ける度、キィ…キィ……と微かに軋む。
でも。
(これってやっぱり……)
真夜中になったりすると、昇る時と降りる時とで階段の段数が違ったりするのかな。
先に立って階段を上る翡翠さんの後姿を眺めながら、我ながら、そんな馬鹿げた事を思い浮かべて───つい、苦笑する。
「───詩姫様」
「……ん?」
「詩姫様───いかがなされました、詩姫様?」
そう呼び掛けられて。
ふと顔をあげると、階段の途中、踊り場で立ち止まった翡翠さんがじ…っと僕の顔を覗き込んでいた。
「あ―――」
───ド、クン
その顔が、びっくりするほど近くに見えて。
考えを見透かされたような気がして、思わず一瞬、鼓動が跳ねる。
「詩姫様。先程からいったいどうかなされたのですか?」
どうやら翡翠さんは、僕がさっきから心ここにあらずといった風情でいたのを怪訝に思ったらしい。
まぁ、僕がほとんど上の空で返事をしていたのも悪いんだろうけど。
「あ―――いや」
心配させたみたい。
「その……ちょっと、考えごとをしてただけ。
その、さ。秋葉や翡翠さんは昔とそんなに変わってないっていうけど、僕にとってみるとこの屋敷はやっぱり…すこし、落ち着かないんだ。
このロビーとか居間とかなんかは見覚えがあるんだけど、廊下とか部屋とかの間取りなんかは、やっぱりいまいち思い出せないよ」
「そう……そうですか。八年間は、長いですから」
まあ、そういうことなんだろう。
なにしろ今までの人生の約半分だ。鮮明に覚えているほうがどうかしてる。
「ま、八年ぶりだしね。なんかしっくりこないけど。
そんなわけなんで、さっき秋葉にも言ったけど、ここの暮らしに慣れるまで暫くの間僕の無作法も大目に見てくれるか…注意してくれるとありがたい…かな」
「――――」
あ。
なんか、翡翠さんの視線が痛い………。
「───僭越ながら、詩姫様。私や姉さんはともかく……。
先程までの様子から考えますと、あれ以上詩姫様の無作法を大目に見れるほど、秋葉様の瞳孔は開いていないものと思われます」
「へ、ぐっ………!」
うっ……危ない危ない、思わず咳き込んでしまった。
さっきの夕食、ナイフを持つ手を入れ替えただけで秋葉と翡翠さんから矢のような視線が向けられて冷や汗をかいてたんだけど。
僕、よっぽど無様を晒して、ふたりに耐えさせてたんでしょ〜か。
「……そっか。さっきああ言ってたけど、やっぱりあれでも大目に見ててくれたのか、秋葉は」
(───翡翠さんも)
口の中だけでこっそり続けると。
翡翠さんは、ええ、と賛意を示すよう軽く頷いた後に。
「……おそらく、アレが秋葉様が示せる最大限の譲歩ではないか、と」
そして、どうか今後はお気をつけください、詩姫様、などとオソロシイコトを淡々と仰ってくれた。
う……翡翠サン。
ソレ、モシカシテ。って〜か、やっぱり秋葉をダシにして自分の感想を言っていませんか……?
「……。……うん、ありがとう翡翠さん」
どうにもフクザツな僕の“ありがとう”の言葉に。
「そのようなお言葉は必要ありません。詩姫様をお世話する事は、私の責務ですから」
───と、翡翠さんは感情の抑揚も見せず淡々と、能面のように頑なな表情で返答し。
「今お部屋にお連れすることもそれに含まれます。従って、感謝されずともよいのです、詩姫様」
一礼すると、そう、続けた。
う〜ん……。
……ひいき目に見ても、翡翠さんはきれいな顔立ちをしていると思う。
そういう子にこれから身の回りの世話をしてもらうというのは……男だったら喜ぶべきことなんだろうけど。
いや、今の僕が女の子なのは分かってはいるけれど…ねぇ?
でも。
その肝心要の翡翠さんが、こうも身構えて感情をあらわにしないままだと、なんというか、僕はあまり嬉しいという感じはしない。
……もったいない。
なんか、本当に、もったいない。
翡翠さんもせめて、琥珀さんの半分ぐらい――いやいや、そこまで贅沢は言わない。弓塚さんの半分くらい明るければ、ものすごく可愛いし、引く手あまたになると思うんだけど。
うん。
やっぱり、頑なな上万事に控え目に過ぎる感じの翡翠さんのこの顔を、どうにかして弓塚さん並みに朗らかに笑わせてみたいと思う。
それが無理でもシエル先輩の通常の半分くらいにはにこやかに。
と、そう思うのだけど――どうも生半可な努力では難しそうだ。
───過ぎ去ってしまった日々は、もう二度と帰ってこない。
僕も秋葉も、翡翠さんや琥珀さんも、小さかったあの頃にはもう戻れないけれど。
翡翠さんにはせめて。
せめて、あの日まで、いつも縁側まで僕を呼びに来てくれて。
陽のあたる屋敷の庭で一緒に遊んだ女の子───今の琥珀さんのように、満面の笑顔を見せて欲しかった。
そして、それにはまだ遅くない筈だから。
「……あれ?」
―――そういえば。
さっきから。
なにか、妙な感じ……どこか、何か変な違和感がある。
「ところで詩姫様―――なにか、ご用ですか?」
……なんて、翡翠さんを見ながらぼんやり考えていると。
こっちの視線に気づいたのか、翡翠さんも僕をまっすぐに見つめ返してくる。
「いや、なんでもない。
翡翠さんの顔を見ててね、やっぱりここが遠野のお屋敷なんだなー…って実感してただけだよ。──ところで、さ」
「はい」
「……僕の部屋って、こっち?」
それ以前に……。
(──畳──)
(──障子──)
(──床の間──)
(──陽のあたる縁側──)
……僕の部屋って……二階だった…っけ…か?
「はい。こちらの棟のお部屋ですが、内装は八年前そのもの、清掃する以外一切手を加えていませんので不具合はないと思います」
「―――?」
翡翠さんの言い方は、ちょっとヘンだ。
「……ねぇ」
「なんでしょうか、詩姫様」
「今から行く部屋って、もしかして昔…僕の部屋、だったところ……なんだよね?」
「はい」
そう言って、翡翠さんはかすかに首をかしげる。
「少なくとも、私はそう伺っておりますが、詩姫様――違うのですか? 一度御覧になった後、もし、ご不満がおありでしたら、違うお部屋をご用意させていただきますが」
「いや、不満なんてあるわけないけど、その―――」
その、さ。
僕基準からすると、この屋敷は何もかも、ちょっと──いや、それどころか“かなり”──立派すぎるんだけど。
それに……。
さっきの、僕の……は、サッカク?
「───詩姫、様?」
「いや、いい―――いいんだ」
うん。
そうだったんだ。
「……まあ、言われてみればそうかもしれない。ここにも少しは覚えがあるし、翡翠さんの言うとおり。きっとそうだったんだろう」
うん。
でも。
さっきっから……どうも、違和感が拭えない。
だけど。
秋葉も、翡翠さんもそう言うからには、そうだった──筈なんだ。
きっと、そうに違いない。
いくら自分で思ってた以上に屋敷の事をよくおぼえていた様に感じても、八年間も離れてたんだからやっぱりどこかで肝心なことが都合よく記憶から抜け落ちてたり、ぼやけたりしてるだろうし。
───これも、多分。
なんかの思い違いなんだろう、きっと。
今まで案内されてきたのに、この屋敷に親近感がまったく湧かないのも──多分そのせいなんだろう。
(うん、そうだ。そうだよね)
なんといっても八年間もここから離れていたんだから、そんなものなのかもしれない。
(う〜、ん)
でも、な〜。
そんな些細なことが一々気にかかるなんて。
僕も、環境が変わったせいでやっぱりどこか神経質になっているみたいだ。
屋敷に帰ってきてからずっと付き纏ってるこの違和感にも、あとは折り合いをつけて慣れていくしかないのかもしれない。
「けど、やっぱりなんか落ち着かないや。今朝まで六畳半の部屋で暮らしてたからね、なんだか高級ホテルに泊まりに来たみたいでさ」
「そう、ですか」
淡々と受ける翡翠さん。
その顔は一見、自動人形のようにただ与えられた仕事を果たそうと機械的に受け答えしているだけのようにも見えるけど。
でも。
よくよく見ると。
そんな表面的な印象と違って、瞳の奥に湛えられた光は穏やかで。
ビロードみたく滑らかな声音は限りなく優しく、柔らかい。
そして、今も。
今まで過ごしてきた時間に裏打ちされた経験と知性、多分僕には及びも付かないくらいの教養で磨き上げられたような醒めた口調のまま、落ち着いた顔に微かに笑みを浮かべ頷いて見せる。
「……お気持ちはわかりますが、どうかお慣れください。詩姫様は、今日からこの遠野家のご長子なのですから」
「そうだね……」
―――色々と神経がまいりそうだけど、たしかに今日から慣れていくしかないのだろう。
「ん、わかった。せめて外見ぐらいは笑われないように頑張ってみるよ。 ありがとう、翡翠さん」
そんなことを感じつつ改めてお礼を言うと―――踊り場から一歩踏み出そうとした翡翠さんはぴたりと足を止め、くるりと振り返ると…じっ…とこちらを見つめてくる。
階段の途中、踊り場の次の一段目に足をかけているので僕よりも翡翠さんの方が上に居るのだけど、その視線は見下ろすのではなく、なんだかこっちをじろりと睨みつけてきているように感じる。
一見、パッと見だけでは無表情に見えなくも無い翡翠さんにそうして見られていると、なんだかとてつもなく怒られているような気がしてしまう。
─――さっきといい今といい、なんか見事に混乱してるぞ、僕。
……ま、それも当然か。
こっちは慣れない屋敷の空気に疲れているし、慣れない事ばかりしてるから。
正直、遠野家のしきたりを踏みにじるような、何か酷く行儀の悪いことをしでかしていたとしても、今はそこまで気が回らない。
「ええと…僕…何かマズイコトやった……?」
そう思って、訳も無くおどおどと尋ねると、翡翠さんは一瞬はっと視線を反らす。
「いえ、そんなことは。……えぇ……大した事ではございません。ございませんが……」
翡翠さんはそう言うと、なにやら難しい顔つきで軽く視線を宙に泳がせてから、まるで覚悟でも決めたようにまた僕を睨みつけてきた。
「僭越ながら―――詩姫様」
「―――は、はい」
思わず腰が引ける僕。
「…って、ナンデスカ、翡翠さん?」
そして、敬称付けで訪ね返す僕に向かって“そう、それです、それがいけないのです詩姫様”とでも言わんばかりにずずいぃっと身を乗り出す翡翠さん。
「―――詩姫様」
「は、はい」
「詩姫様。先程も申し上げました通り、私は詩姫様の侍女なのです。ですから、私に対して敬称をつける必要などありません」
思わずわたわたする僕に、翡翠さんはそう言って頭を下げる。
――ああ、なるほど。
つまり翡翠さんは僕より目下なんだから“さん”付けはよせ、と言っている訳なのか。
「う〜ん…でも、もう“さん”付けで覚えちゃったからそう簡単には直せないよ。せめて慣れるまで暫くは“さん”付けさせてもらえないかな? なんだったら、代わりに僕の事は呼び捨てにしてくれても構わないし」
僕がそう言うと、翡翠さんは考え込むようにじっとこちらを見つめてから。
「ですが、詩姫様は私の主です。主人を呼び捨てにするわけには参りません」
そうきっぱりと言い放った。
むむむ。そうきたか。
でも。
自分でもすこし信じられないけど、僕はつい今朝方まで――昔、ヨク、ワカラナイ目に遭い死にかけて、妙な目になってしまったのさえ除けば――ごく普通に生きてた身なんだ。……一応は。
それなのに。
ちょっとは離れていそう…とはいえ、翡翠さんみたいな同い年ぐらいの女の子に“様”づけで呼ばれて、身の回りの世話まで何もかもしてもらえるような生活って……。
(本当は─――)
……なぜか、弓塚さんの笑顔が浮かぶ。
(─――遠野クンは丘の上のお姫様だもんね)
「…自分では似合わないって思ってるんだけどなぁ」
……そりゃ、そんな上げ膳下げ膳お箸の上げ下ろしまでしてもらってのんべんだらりと暮らせるってのにも、少しは憬れるけど…やっぱり、それはそれで何か息が詰まりそうなんだよね。
(でも、遠野クンってそういうのぴったりな雰囲気だよね)
「うーん…でもなぁ……僕は堅苦しいのは苦手だからさ。それに」
(やっぱりさ、僕には似合わないよ……)
目の前の翡翠さんに……と、いうより、ふと浮かんだ弓塚さんの面影に向かって、帰り際に云いそびれたことを口にしかけて。
───ちょっと不思議そうな、なんともいえない顔つきのまま僕を眺める翡翠さんの視線に気付く。
「……あ、ご、ごめん翡翠さん」
“また、ですか”といった感じで軽く眉を顰める翡翠さんに向け、僕は早口で、
「あ、あのさ、“さん”付けを止めて欲しいんだったら、翡翠さん。そっちの“様”付けも止めてもらいたいな」
それを知ってか知らずか、翡翠さんは小首を傾げるとちょっと不思議そうな表情のまま、“はあ”、と気のない返事をし。
「大体、僕にできない事をやってくれるんだから、僕は翡翠さんのほうがよっぽど偉いと思う」
僕が続けた言葉にちょっと眉を下げて、なんだか困っているような素振りをする。
「――ともかく、そういう事だから、僕に対してあんまりかたっくるしいのはナシにして。で、今言ったのお姉さんの琥珀さんにも伝えてくれるとうれしいんだけど」
「はい。詩姫様がそうおっしゃるなら」
「……あ〜」
―――ものの見事に、全然わかってない。
この調子では。
……どうも、一朝一夕で翡翠さんに言い含めるのは難しそう。
でも。
がんばれ、僕。
挫けちゃいけない。
ここであきらめていたら、
僕が遠野家に帰ってきた理由。
僕が此処に帰ってきた第ニの理由。
白いリボン。
……八年前、ただ一人だけ“待っている”と言ってくれた約束の為に。
───いつか、僕がリボンを返しに行く日を待っているといってくれたあの娘。
あの少女がリボンを返しに行く自分を待っていてくれる……そう思うときの温もりが、どんなに僕の支えになってくれたことか。
前にこの屋敷を出て行ったとき、最後にこのオモイデがなかったら、多分、僕はただ父に捨てられたという自分の立場を悲しむばかりだっただろう。
だから、覚えているかぎりは守りたい。
こうして今、屋敷に戻ってきたのは秋葉がひとりきりで屋敷にいたとばかり思っていたからだ。
八年間も秋葉を放っておいて、全ての責任を妹に押しつけて勝手気侭に暮らしていた自分に負い目があるから屋敷に戻ってきた。
それも確かだ。
……でも。
それとは別の意味で、自分はあの約束を守る為に、この屋敷に帰ってきたのだと思う。
今度は、僕が。
あの笑顔を知らない少女に、笑ってもらう為に。
───それなのに、肝心の翡翠さん相手にこれでは。
うぅ。
いけない。
本当に、いけない。
自分の腑甲斐無さに、本当に涙が出てきそう。
このままでは。
このまんまへこたれていては。
秋葉に僕の事を“おねえちゃ〜ん(は・あ・と♥)”と呼ばせるのは、夢のまた夢になってしまいそう。
……。
僕の、僕の妹像がぁ……。
だめだ、今の秋葉がそんなことを言うのは、僕には想像できない、全然、まったくソウゾウできないよ〜。
───やっぱり、短い夢、だったのかも……。
そんな、僕の苦悩を尻目に。
「詩姫様の仰られた事は、必ず伝えておきます」
ダカラ、ソレ、マッタクワカッテナイヨ、ヒスイサン……
「……それにほら、君を雇っているのは僕じゃなくて秋葉だろう? だったら僕がそんな、“様”付けで呼ばれることは無いんじゃないかな?」
どうにか気を取り直してそう言うと。
「いいえ。詩姫様が秋葉様の姉である以上同じ事です。それに、私を雇っているのは秋葉様個人ではなく、遠野家ですから。詩姫様が遠野の長子である限り、やはり詩姫様は私の御主人様なのです。だからこそ、なおのこと呼び捨てにする訳には参りません」
うぅ。
翡翠さんは根っからのメイドさんなのか、おいそれと考えを変えてくれそうには無い。
うーん。これは一筋縄では行きそうに無い。
……でも、それならそれでこっちにだって考えはある。
よし。
「じゃあ、君が僕の事を“様”付けで呼び続ける限り、僕は君の事を“さん”付けで呼びつづけるよ? それでもいいの?」
なんて言うか、自分でもかなりだだっこな考えだと思うけど、きっとこれはかなりな効果を呼ぶものと思われる。僕にはそんな気がする。
で、翡翠さんはやっぱり僕の思ったとおり、怯んだ様に“うっ”と仰け反らせ宙に視線を漂わせる。
今まで見た限りでは、どうもこれは翡翠さんが困りながら物事を深く考える時の癖みたいだ。
と、ちょっとの間見ていると、今度はすぐに俯き、なにやら顎に指を添えている。
(?)
俯いた翡翠さんの顔は、ちょうど暗がりになっていて。
何を考えているのか、までは僕にはよくわからないけれど。
(???)
そのまま翡翠さんは僅かに俯いたまま暫くの間なにか考え込んでいたけれど、やがて───。
「───そう、ならばやはり今のうちに、この場で御説明しておきましょう。
私はともかく、詩姫様にとっても、その方が後々なにかと面倒がないでしょうから」
そう、独り言のように呟くと、何かを決断したように顔を上げ――意外なほど強い表情で僕をキッ、と睨みつけ──
「……それでは参ります、詩姫様」
だから、“様”付けはやめてね、って……
「よろしいですか? ―――詩姫様」
そう、冷たく、微笑った。
――え?
翡翠さんの、クチビルの両端がゆっくりと捻じ曲がっていく――
「ひ――」
それにつれて。
ぐらり、と。
僕の視界が、回転していく。
「えっ……?!」
――どく、ん。
おかしい。
おかしい。オカシイ。
ヒスイさんの目って……こんなに、ツメタイヒカリをタタエテイタだろうか。
――本当に、オカシイ。
翡翠さんの緑青色のその瞳で睨まれていると、何故か、どんどん息苦しくなってくる。
まるで無理やり胸を圧し潰され、肺の中の空気すべてを押し出されたような――そんな、ありえないはずの錯覚に囚われてしまいそう。
おかしい。
おかしい。
まるで胸郭の奥深くまでヒスイさんの腕が貫き通されて……なかに収まった心臓が、その掌でふにふにとモテアソバレテいるみたいに、鼓動が高く低く跳ね落ちる。
―――本当に、オカシイ。
「あ……ぅ」
「お部屋を、お連れする最中でなんなのですが……」
「それ……お部屋にお連れする、の間違いじゃないんですか翡翠さん!?」
「いえ、間違いではありません詩姫様。
何しろ、これから詩姫様のお部屋をお連れするんですから。
───それと」
翡翠さんはゆっくりと僕の方に近寄ってきた。
「詩姫様」
「───ナ、ナンデスカヒスイサン? ソレニマダアルノ?」
「えぇ、その通りです詩姫様。先程から再三再四に渡り申し上げてきたように、これからは詩姫様よ私の主となるのです。
ですから詩姫様、これからはそのような瑣末な事柄は御気になさらなくともなにも心配ありません。
私、洗脳探偵にして詩姫様だけのメイド……不祥、この翡翠にあなた様の全てを委ねてくだされば、もう何も悪いようには致しません。
なにもかも、私を全てにお任せください───」
翡翠さんは、囁く。
翡翠さんはゆっくりと、高く…低く……
繰り返し、
繰り返し。
寄せては返す波のように、
洞に響き渡る水音のように。
詠うような抑揚で、柔らかく、滑らかに言葉を紡ぎ出す。
それは、優しい子守唄のよう。
でも。
そう、翡翠さんが囁くたび。
わからない。
わからない。
僕には、よく、わからない。
翡翠さん、一体何を言ってるんだ?
そりゃあもう、のっけっからワケワカなんか一足飛びに越える混乱ですわこれが世に言うデンパさんの典型なのいやそれ違うあぁんもしかしてまさかやっぱりヒスイサン今までずっと楽しいことなくていつのまにかそんなんなっちゃってたのぉ!?
そんな僕の戸惑い、っつ〜かどっちかと言えばもぅ錯乱なんか知らぬように、翡翠さんは、一体何が楽しいのか……クチビルの端を僅かにねじ上げ、まるで───貼り付いたような薄い笑みを浮かべ続けている。
「ひ―──」
「私があなたの使用人、あなたを私の御主人様」
―――――ちょっと、待って。
なにか……翡翠さんの言葉は、恐い。
聞いているだけで、ゆらり。
ぐにゃり。
視界が、地面が歪み、曲がっていくような……。
まるでこの階段が、廊下が、ロビーが…まるで飴で出来ているみたいに、どろどろと溶けていくような、不安定さ。
翡翠さんの顔は丁度暗がりになって隠れてる。
よく見えない、よく見えないけれど。
ただ────囁きが、染みる。
「――もう、おわかりですね?」
翡翠さんはゆっくりと僕の方に近寄ってきた。
「詩姫様」
そして。
ゆっくりと腕が上がり
「そう――」
翡翠さんはびしぃっ! と擬音がしそうな勢いで左の人差し指を僕に突きつけると
「――私を、ヒスイです!」
――キィン!
一瞬、耳の奥で金属音が鳴り響いたような錯覚がするほど凛とした声で、鋭くそう叫んだ。
「────え?」
このオンボロのカラダで無理に立ちあがったりしたときの、立ち眩みにも似た感覚。
―――ワタシ ヲ ヒス イ ――デス―――
闇の中にただふたつ、青緑色の瞳だけが輝いている。
――どく、ん。
翡翠さんの染みひとつ見当たらない白魚のような手、細く白い指先が、ゆっくりと回り始める。
水仕事のアカギレも、ないんだ……そんな、場違いな考えが頭を過ぎる。
ぐるぐるぐるぐる。
翡翠さんの指の動きに合わせて──世界が、歪む。
その歪みに周囲の光が、そして館のロビーが吸い込まれ……
―――私を 翡翠です―――
――ひすい。
――ヒスイ。
――翡翠。
ひ。
ス。
イ。
ひすい。
ヒスイ。
翡翠。
(あ……)
喘ぎ。
(あぁあ……)
……今、
(あぁああ……)
叫んだら。
(あぁあぁあ――!)
――狂える。
――――――私を翡翠です。
――――――私を翡翠です わたしをヒスイです わたしをひすいです ワタシをひすいです ワタシをヒスイです 私を翡翠です わたしをヒスイです わたしをひすいです ワタシをひすいです ワタシをヒスイです 私を翡翠です わたしをヒスイです わたしをひすいです ワタシをひすいです ワタシをヒスイです 私を翡翠です わたしをヒスイです わたしをひすいです ワタシをひすいです ワタシをヒスイです 私を翡翠です わたしをヒスイです わたしをひすいです ワタシをひすいです ワタシをヒスイです 私を翡翠です わたしをヒスイです わたしをひすいです ワタシをひすいです ワタシをヒスイです 私を翡翠です わたしをヒスイです わたしをひすいです ワタシをひすいです ワタシをヒスイです 私を翡翠です わたしをヒスイです わたしをひすいです ワタシをひすいです ワタシをヒスイです 私を翡翠です わたしをヒスイです わたしをひすいです ワタシをひすいです 私を翡翠です わたしをヒスイです わたしをひすいです ワタシをひすいです ワタシをヒスイです………………
た し
わ を
を ひ
私 翡 翠
す で す
… す
で … い
で
イ す
ス ヒ
わ を
を ひ
私 翡 翠
す で す
… す
で … い
で
イ す
ス ヒ
―――ワタシ ヲ ヒス イ ――デス―――
……闇の中にただふたつ、青緑色の瞳だけが輝いていた……。
──────はっ。
――ナンダロウ?
――わからない。
わからない。わからない。
一体ヒスイさんはナニヲシテイルんだろう?
わからない。わからない。
――わからない。
……というか。
翡翠さんがこう、困ると唐突に奇行に走る人だとは、僕…思いもしなかった。
何か、あんまりにも度肝を抜かれた為か、まだ頭の中でヒスイです! ヒスイです! ヒスイです! と言う言葉がぐーるぐ〜ると回っているような気がする。
「………………」
「………………」
翡翠さんが放った鋭い叫びが、私を翡翠です、ヒスイです、ひすいです……と反響し、やがて階段に敷き詰められた絨毯や分厚い壁紙に染みて、屋敷を満たす静寂に消えていった後も。
……まるで時が止まってしまったかの様に二人の間に気まずい沈黙が流れる。
この間の悪さこそ、いつだったかシエル先輩が言っていた、「天使が通り過ぎる」、と言う奴なのかもしれない。
弓塚さんは天使でなくてトンボだと言うけど。
────沈黙が、すごく痛い。
今の叫びで何か溜まったものを発散でもしたのか、翡翠さんは何事もなかったかのように僕に突き付けていた手を下ろすと――こほんと小さく咳払いをし、何事もなかったかのように。
「………さて、詩姫様」
「…………えーと、翡翠さん?」
「───今の、ナニ?」
なんて言うかあんまりにも訳がわからなかったもので、思わずストレートに聞いてしまった。
その瞬間。
「────え?」
翡翠さんの目が驚愕に見開かれる。
何がそんなに驚きなのか僕にはよくわからないけれど、踏鞴を踏んで後ろによろめきかけるなんて芸まで披露してくれる。
「……詩姫様……その……」
翡翠さんは心底意外そうな面持ちで、僕の顔を穴が開きそうなほどまじまじと見詰め、ニ、三度瞬きすると、
「……申し訳ありません。お見苦しい所をお見せしました」
……なにか、触れてはならない事に触れてしまったのをたしなめるような感じで、いつもよりこころもち慇懃に一礼した。
「?」
そのまんま、翡翠さんは押し黙ってしまう。
でも。
……一体……どのあたりがお見苦しい所なのか、僕にてんでわからない。
――っというか、どこからどのあたりまでを指してお見苦しい所と言っているのか、僕には…なんだか、よく、わからない。
いや、もしかすると翡翠さん的には全部なのかも知れない。
「え…あ、いや」
僕にはなんだかよくわからないけれど、うん。
「……よくわからないけど、翡翠さん」
はい、とうなずく翡翠さん。
「トコロで、今のは一体……」
「詩姫様。お顔の色が優れないようですが――どうかなさいましたか?」
「……翡翠さん。そんなことはいいんだ。なんなんです? 今のは、一体……」
「……一体、何のことでしょう。わたしにはわかりかねますが――それよりも詩姫様」
「え、えぇ」
「今、わたしがお部屋をお連れする途中なのですが――?」
翡翠さんは額に手を当てると二、三度軽く頭を振って、ナニゴトモ無かったかのようにそう言った。
その言葉を聞くと、今までが全ての些細なことに思えてしまう。
そうだ、僕がそのためにここを来た――
(――違う!)
ここ“を”来たんじゃない。ここ“に”来たんだ。
今まで“が”じゃダメ、駄目なんだ――それに。
「っ―――――!」
また。
叫び出しそうになって、なんとか声を堪えた。
(しっかりなさい、詩姫)
何時かの先生の言葉とダブらせ、落ち着こうとしてみる。
(――いい?)
そう――昔、先生が教えてくれたみたいに。
(ピンチの時はまず落ち着いて――)
まず深呼吸。
(――その後に、よくものを考えるコト)
はあ、と大きく息を吸いこんで、なんとか思考を落ち着かせようとする。
「――詩姫様?」
「え…」
「――詩姫様、いかがなさいました? 詩姫様?」
「え…あ、いや」
……。
…………。
………………。
やっぱり……僕にはなんだかよく分からないけれど。
「………………わかった」
うん。
よく、わかった。
──────この件に関しては、「見なかった」事にした方が、お互いの為に良さそうだ。
「……気にしないから。うん、気にしない、もう気にしてない。僕はまったく、気にしないから」
慌てる様に手を振って、さっきのをどうにかして「なかった」事にしようとする僕の思いを汲んでくれたのか…翡翠さんはまた、ありがとうございます、と、今度は何事もなかったかのようにしゃっきりと姿勢を正して頭を下げる。
――とはいえ。
そんな事でついさっきの出来事を本当に「なかった」事に出来る訳もなく、二人の間にまた気まずい沈黙が流れ始める。
と。
「あらー? 二人とも、そんな所で一体なにしてるんですかー?」
この状況にはそぐわない、陽気だかなんなんだかわからない微妙に調子ハズレな声が届く。
見ると、厨房のほうに続く廊下から琥珀さんがひょっこりと顔を覗かせていた。
ロビーに出てきた琥珀さんは、一度こちらを見上げると、そのまんまパタパタと足音をたてて階段を駆け上がってくる。
声の正体が琥珀さんだとわかった僕は、視線を戻し……同じく視線を戻した翡翠さんと、また見つめ合う事になってしまう。
いけない、このタイミングではまた気まずい沈黙に逆戻りだ。
いや、それ以前に沈黙から抜け出せていなかったんだけど。
「あれ?」
じーっと踊り場で見詰め合う僕らを見て、同じくここに来た琥珀さんが声を上げる。
────ああ、琥珀さん。ただ見てるだけじゃなくて、僕らをこの痛い沈黙から救い出してください、お願いします。
……このままではまるでヘビに睨まれたカエルのよう……どっちがヘビでカエルかは、分からないけど。
だというのに、琥珀さんはメズラシいモノでも見るかのように僕らの周りを右から左から、ぐるぐる回るように眺め始める。
「あ〜」
じーっ。
「あー」
じ〜っ。
「あー、もぅ二人でじ〜っと見詰めあっちゃったりなんかしてー、あ・や・し・いフンイキー……と、いうことは」
琥珀さんは僕達の様子を見るとぽんと手を打ち。
「きゃあー! 詩姫さまったら、また翡翠ちゃんに御無体な真似をー!」
と。
望んでいた助っ人は、更に事態を悪化させるような叫びを屋敷中に響かせやがった。
“真似をー!” “真似を──” “真似を……”
……もとい、響かせてしまった。
む…いや、だけど…ちょ、ちょっとまって。
ま、“また”って、ナニ?
それに“御無体”ってイッタイ、なにー?!
前いつやったの?
いや。それ以前にボク、そんな悪いことしてないよーっ!?
なんて思ったのも束の間。
「きゃー! 詩姫さまったら、もしかして禁断の恋にでも目覚めちゃったとかー!?」
“あ、もしかして〜♪”な〜んて軽い調子で、またしてもそんなとんでもないことをノタマワッテくれた。
「な────」
あんまりにも突飛過ぎるその発想の飛び方に頭の中が真っ白になってしまう僕。
真っ白になったついでに思わず…そんな事になって、僕が翡翠さんを“きゅっ”と背中から抱き締めてる光景なんかが頭をよぎってみたりなんかして。
─――
――む〜っ。
僕は確かに元はオトコノコだけれど、今は立派に女の子なんだから流石にそれは拙い……気がする。いや、気がするどころじゃなくて明らかに拙い。
――ん〜。……でも。
でも……それはそれで、なんだか結構、いいかもしれない。
翡翠さん可愛いし、きゅーっとだっこするとふわふわしてや〜らかくてあったかそうだし。
こいぬみたいにわんこわんこしてくれそう。
――あー…… いや、違う。
違うだろ、詩姫。
大体そんなことで現実逃避していてどうする?
っていうか、わんこわんこってナニ?
で、その傍らで。
「ううぅ、私というものがありながら……詩姫さま―――なんて、ひどい…ひどい、ひどいひどいひどぉーい……!」
と、その場によよと泣き崩れ、ぐすぐすと咽喉を詰まらせ袖で涙をぬぐうフリなんかしつつ、ワザトラシイ事この上ない仕草でキリキリとハンカチまで噛んでさらに拍車をかけて見せる芸達者な琥珀さん。
でも。
人徳なのか、そこまでやってもまるっきり嫌味に見えないあたり――コノヒト、なんか、何処かの盛り上げ上手な宴会幹事の仲居さんといっても通用しそう。
いや、そうじゃなくて。
「………姉さん。幾らなんでも突然それは詩姫様に失礼だと思うのですが」
思わず飛んでいた僕より翡翠さんの方が立ち直りが早かったらしく、翡翠さんはやや呆れた声色で琥珀さんに溜息をついて見せる。
「いや、それ別に失礼ってほどじゃないと思うんだけど」
って、うわ──
「僕もそれはそれでいいかなとか思っちゃったし」
しかも──一体何を口走っているんだ僕!?
何か、ふたりの視線がとっても痛い。
錯覚ではなく、そんな気がする。
「あ――――――――」
あ────なんだ、こういう時ってどうすればいいんだろう?
「あの、これ、は――――――――」
わからない。
わからない。わからない。
思いもかけず出してしまった言葉に自分で頬が熱くなっていくのが分かる。
どうしよう。
どうしよう。どうしよう。
声がうまく出ない。何か、何か言わなくちゃいけないんだけど、なんていうか―――
(――!)
天啓が閃いた。
そうだ!
なんか言って、さっきの冗談だったことにしてしまえばいいんだ!
じゃあ。
そ――そうだ。
そうだ、そうだ、と、とりあえず何かこう、場を和ませるような一言でも──!
「…こ、琥珀さんも一緒とか…、良くない?」
あ────
「……あ、いや、その、そうじゃなくて、ええと、あああ」
……っていうか、もしかして。
これって今の誰よりもトンデモナイ台詞なんじゃ……?
いや、トンデモナイどころじゃない。
これは、まさに。
テンパッてる。
あんまりにもトンデモナイ自分の言葉に水面に顔を出した金魚みたいにぱくぱくと口を開け閉めしながら二人を見ると。
発端である琥珀さんは“きゃーっ!”と両手で上気した頬を包んで笑ったまんま見事に固まっているし。翡翠さんに到っては耳まで真っ赤にしてまるで頭から蒸気でも噴いてしまいそうな勢いだ。
そうか───わかった。
琥珀さん、自分でからかうのはいいけれど、自分“が”からかわれる側に回ると、テンデ弱いんだ。
いや、そうじゃなくて。
も、もしかして僕、今こそエイエソに逝き時なのかも? それなら、僕の手を引いてくれるちっちゃなアキハは一体何処? ──なんて、今度こそ本当に現実逃避しそうになっていると。
「──姉さん、皆もこんな所でぐずぐずと何をやっているんですか──?」
そろそろ部屋に戻ろうとでもして居間から出たら、さっきの翡翠さん琥珀さんの叫び声が耳にはいったのか―――もう僕の手を引いてくれそうにない大きな秋葉までこの場にやってきて、階段の下、ロビーから声をかけてきた。
「あぁ、秋葉さま。丁度良い所に!」
──え〜ん。
なんか、波瀾の予感。
いや、ここまでで十分過ぎるほど波瀾なんだけど、さらに輪をかけて事態は混迷の色を強くしていくようですよ詩姫さん?!
僕、もうお腹一杯。
取りあえず事態収集のために言い訳なんぞしてみたり。
「あー、いや、その、別にぐずぐずして居た訳じゃなくって、その」
「ええ、途中からですが、大体の話は聞こえていました」
え――
イマノキコエテイタンデスカ、アキハサン?
そう言いつつ、カツ、カツ、カツと硬い足音を響かせロビーの半ばまで来ると――我が妹ながら、本当に優雅な、一部の隙も無い気品に満ちた仕草で舞台女優のようにクルリと振り向き、下から見上げてくる。
───あぁん。
ただでさえもとからなさそうな僕の姉としての立場、もしかして今ので完全に台無し?
それより秋葉、今の話いったいどこから聞いていたの?
僕サッパリわからない、わからないよ!
でも、そうして胸を反らすと、余計胸元のラインが目立っちゃうのに――見た目明らかに十六歳女子の平均値を下回っていても、僕はその、ぜんぜん気にしないけど、さ。
姉さんをそんな風に腕を組んで、あからさまに心底呆れたって感じな蔑むような目で見なくてもイイジャナイ?
だからさ、あのね、秋葉。
僕は秋葉は遠野家の当主としてのそれよりも、もう少し世間一般に通ずる女の子としてのたしなみを身に付けたほうがよっぽどいいと……。
「一体何考えているのですか、に、い、さ、ん?」
「は、はい……なんでしょうか、アキハサン……」
僕の視線がどのあたりにあったのか悟ったのか、キリキリと音が立ちそうな勢いで柳眉を釣り上げていく秋葉。
そして、秋葉の怒りのボルテージが上がっていくにつれ、階段の手摺りを掴んだままどんどん縮こまる僕。
「まったく、なにをしているかと思えば……!」
「ですから、詩姫さまが、また翡翠ちゃんに御無体な真似を!!」
「な───」
「ワタシ、ちゃあ〜んとしっかりこの目で見せていただきました! そりゃもうはっきりくっきりと! 詩姫様、わたしが近くまで来ているのも全く気がつかないで翡翠ちゃんにあぁんなこととかこぉんなこととか!」
そのひとことに、秋葉は(そして当然僕も)絶句した。
「な、な、な、なんですってーーー!!」
音階というものを実感出来る、実に見事な叫び声。
「琥珀、コハク、こはく――! 今のはいったい、どういう意味よ―――!!」
烈火のごとく怒り狂い、般若もかくや、という形相のまま顔を真っ赤に染めて、ドタタタタ、と土煙でもあげそうな勢いで声に典型的なドップラー効果を掛けながら階段を駆け上がり、埃を巻き上げ通常の三倍の速度で踊り場に迫り来る妹、秋葉。
で。
……その目の前、階段の踊り場には凍りついた僕と茹蛸よろしく茹だった翡翠さん、そして性懲りも泣くひどいひどいとハンカチを噛んでいる琥珀さんが居る訳で……。
───あぁ、そうか。
僕は、それで何の脈絡も無く理解した。
このひとは。
このひとは──琥珀さんは、本当にハメを外してしまうと、何か面白そうなことがあるとひとの迷惑顧みず物事をひっかきまわして……周りがしっちゃかめっちゃかになっていくのを見てタノシム、そんな傍迷惑な部分があるひとなんだ。
しかも、僕がそんな事を考えてるの見透かしたように、こっちにこっそり“やりましたよー♪”ってな感じで極上の笑顔まで浮かべてVサインなんか出してくださりやがるあたり、完全に確信犯だ。
「一体、何を考えているんですか、にいさんは────!!」
──でも、秋葉。
僕、“兄さん”だけはもう止して欲しいんです、アキハサン。
それに、ついさっき、“これからは姉さんでよろしいですね”って言ってくれたばかりじゃない。
だから、“兄さん”はもうやめてよ……ね?
「……じゃなかった、ねえさん!!」
───よかった。秋葉も、忘れていたわけじゃないみたい。
「姉さんが昔“男”だった頃の気分がまだ抜け切っていないのはいまのでよ〜く解りました。でも!」
───で、“でも”?
でも、いったい、なんなんでしょうかアキハサン?
ただならぬ勢いに思わず身構えた途端。
「そんな浪漫全開な――!」
……がくっ。
ぜ、全開って……。
「もとへ! 美味しい思いを――でもなく!」
───アノー。
アキハサン……ろまん全壊とかおいしいオモイとかって、イッタイ?
「あ、あきはぁ、オイシイオモイとかロマンゼンカイとか、それオンナノコから見ると浪漫全開じゃなくて全壊じゃ……」
「全壊も臨界もバケツもありませんッ!」
あぁ、秋葉──秋葉ぁ。
残念ながら、そのねたもう古いよ、古過ぎるよ……じゃなかった。
「頼む秋葉、お願い、お願いだから……これ以上僕のいたいけで清純な妹像を壊さないでぇ〜っ!!」
「なに寝惚けたこと言ってるんですか、兄さん!
兄さんこそ、にいさんこそ……この純真な私の憧れだった兄さんのイメージと大切な初恋の思い出をこれ以上踏みにじらないでぇーッ!!!!!」
脱力感のあまりいまにも崩れおちそうな体を支える為、力一杯手擦りにしがみついて叫んだ僕に。
胸の前で両拳をぎゅっと握り締め、オモイッキリ叫び返す秋葉。
あ………………。
なにか、何かホントウに大切なものが……掌におさめたものが、固く握り締めた拳の、ホンの僅かな指の隙間からまるで砂粒のように零れ落ちていくような───そんな、錯覚。
……どころじゃなく。
そりゃぁもう、メリケンの採石場で頑張る10tトレーラーのおじさまが走るマサカリよろしく暴走大ジャンプの頂点でコークスクリューをカマシタ挙句辺りにバラバラと積み込んだ内容物を撒き散らしているかのようにこぼれておりますョもぅどうしましょ…って、そんな感じ?
じゃ、じゃあ、ひすこはさんはきるぼっと?
そんなぁ……。
「お姉さんは、お姉ちゃんはぁ―─―たったひとりの妹が、そんなふうになるよう育てた憶えはまったくアリマセンヨ!?」
「安心してください、姉さん! あなたに育てられた憶えはありません。えぇ、まったくありませんとも!!
何しろ姉さんは私をここに置き去りにした挙句、ふろちょろと八年間もどこかをほっつき歩いていたんですからね!」 ……あぁん。
もう、こんな事になったのも、もとをただせば──そう、親父。
そうだ、一体全体…親父は、秋葉をどんなふうに育ててたんだ?
もう秋葉がこうなったのも僕が追い出されたのも郵便ポストが赤いのもみんなみぃ〜んな親父のせいだ!
親父……親父。
おやじ、ずっと駄目人間だと思ってたけど──僕は今、改めてあなたを心底軽蔑します!
……あ。でも。
こればっかりは、親父の影響だけではないかもしれない。
そうだ。
あの忌々しい親父になにもかも、全ての罪をおっかぶせたいのは山々だけれども、いかなロクデナシとはいえ仮にも僕の父親だ。あの親父にだけ全ての責を背負わせるのはいくらなんでも酷というものだろう。
そう、秋葉は全寮制の学校に行ってる筈だから。
「もしかして、秋葉……」
まさか、やっぱりそこで。
「寮友に揉まれてイィ感じに腐れてしまって――?!」
「―――そんなこともありません! それは蒼香も羽居も腐ってますけど、私だけは違います―――ッ!」
って、秋葉、なんで僕の内心が聞こえてるの〜!?
「それに、琥珀は兎も角、翡翠は真面目な娘なんですから、そんな行為やいかがわしい冗談でからかうのだけは止して下さい!!」
うぅ。でも今ので最後のが確実に聞かれていたことだけは手に取るようによく分かった。
そう言って、あからさまな溜息混じりにむすっと僕を睨みつける秋葉の頬も、恥かしさの為かそれとも怒りの為か、うっすらと赤みがさしている。
そして、目尻に涙が滲んでいるように見えるのは……僕の気のせいなのか…な?
「あ〜、いや、それホント冗談じゃないんだけど……そうだ、せっかくだから秋葉も一緒する?」
……まて、遠野詩姫。
ちょっとまてや、コラ。
それ、言っちゃあオシマイだろう? ソウジャナイノカ?
でも。
まさか。
やっぱり、僕ってそう言う趣味が?! あ、もしかして環境が変わったおかげで新たな自分大発見!?
今までマッタク気付かなかったけど、ソーダッタノカー!?
……。
───いや、そんな筈が無い。
幾らなんでも僕だってここまで壊れちゃいない。
いない筈だ。
いないと思いたい。
つーか、壊れていないと誰か言ってくれ…お願い。
……。
……翡翠さん、琥珀さぁん。
助けを求めてちらりと目線を走らせると、琥珀さんは何を考えてるんだか両手で頬を包んだ先ほどの姿勢のまんま、ほんのり膚を火照らせくねくねと身体をくねらせて、「ふぁあ――うわ…うわ、翡翠ちゃんイィ、凄くイィデスよそれー、もぅ詩姫チャマちぇきっス〜!」とかホントわけのわからないことを口走っていて。
……てーか、琥珀さん。ソコで何気に色っぽく身悶えないで下さい、頼むから。
――うぅ。
肝心の琥珀さんが助けてくれないんじゃ……。
……なら。
翡翠さんは?
う……こっちはこっちで、もう穴があったら一目散に飛び込むんじゃないかと思うほどに茹蛸よろしく真っ赤に茹だって、俯いたまんまこう、露骨に僕から視線を逸らして胸元でもじもじと指なんか絡め合わせていたりなんかする。
で。
この場でただ一人、この件に関しては到底僕の味方になってくれそうにない秋葉だけが見た感じ冷静で。
「あぁーっ! だ、か、ら、にいさんっ!! そんなくだらない冗談なんか言ってないで、さっさと部屋に行ってください! っていうか、そう言うことはせめて廊下じゃなくて部屋で────!!」
―――前言、撤回。秋葉もかなり動転している模様。
何しろ、怒りのあまり振り上げた拳がふるふると震えている。
そして。目尻にうっすらと涙が滲んでいるように見えるのは……僕の気のせいなのか…な?
……うぅ、ごめんね、ごめんね、秋葉。
僕も完全にイメージ壊されちゃったけど、秋葉が今まで僕に抱いてたイメージ、会ってから半日だけでぜんぶ突き崩しちゃったみたいだね。
逢わない八年間の間、心の中でずっと大切に暖めてた秋葉の幻想を、このたった何時間かで徹底的に壊しまくるなんて……僕、ほんと悪い姉だよね?
……あぁん。
やっぱり。
僕、秋葉のお姉ちゃん失格かも……。
「────琥珀! 翡翠!」
「「 はい! 」」
「あなたたちも浸ってないで、ちゃんと職務を果たしなさい――――!」
「「 はいっ! 」」
でも、鶴の一声というか、その怒鳴り声で背中に鉄棒でも挿れられたかのようにびしっと姿勢を正した翡翠さんと琥珀さんは、今の出来事を振りきるかのようにふたりそろって秋葉に一礼すると……そのままつつつつっと二人して僕の背後にまわりこみ、両脇から僕の腕を取った。
――え?
そして、僕の右後ろに立った琥珀さんは、その右手で僕の右手を取って。
同じように僕の左後ろに立った翡翠さんはその左手で僕の左手を取って。
ぐっ、と琥珀さんはあっちの腕を掴む。
「えっ、ちょ、ちょっと琥珀さん……!」
ぐっ、と翡翠さんもこっちの腕を掴む。
「ひっ……翡翠さんも……!」
互いの腕を絡ませる様に手を回し。
――あ、あれ?
ぎゅっ。
と腕に抱きつかれた。
――─えぇええぇーーー!
「あわ。あわ、あわぁ」
うわ、でもふたりとも見た目よりずっと……秋葉よりありそう……
生地越しに肘に伝わる思ったより豊かな感触と重みに、思わず首振り人形みたくわたわたと二人を等分に見遣る僕に。
翡翠さんは蔭に咲く牡丹のように…ひっそりと、儚く仄かに微笑んで。
琥珀さんは陽に伸びる向日葵のような…屈託のない満面の笑顔を向け。
――もしかして。
これって両手に華? じゃないだろ、詩姫。
でも、まさか。
まさか二人とも、さっきの本気にしたんじゃ……ないよ、ね?
サーッと音を立てて、さっき回った血が引いていく。
そのあまりに妙な成り行きに僕が呆然としていると。
「――さあ、詩姫様」
「…ささ、詩姫さま」
ふたりで僕の両腕をがっしとつかみ。
「では、今度こそ、お部屋をお連れいたします!」
「じゃ、どんどんつれてっちゃいますからねー!」
―――肩口まで固め、完全に関節をキメると、そのまんま後ろ向きにぐいぐいと引っ張り出した。
「わ」
堪らず引きずられ、翡翠さんと琥珀さんの為すがままになってしまう僕。
「わわ、ちょっとまった二人とも、僕自分でお部屋行けるから離して──」
でも。二人とも僕の話なんかまったく聞かないで、
「あ…あうぅ〜!」
思わずだだっこみたく両足をばたつかせる僕にはまったく取り合わずに。
「おねがい〜、お願いだから!」
そのまんまふたりして、僕を……。
「お願いだから〜〜、は、な、し、て〜〜〜!」
ずーるずーると何かのお荷物みたいに引きずっていく…うわ〜ん。
「姉さん! お風呂の準備はできてますから! お部屋を片付けてする事終わったら──もとい、そのふたりに場所を聞いて――」
二人に両脇を抱えられたまま何処かのうちゅーじん宜しく引きずられ、新しい自分の部屋に連行されて行く僕に追い討ちをかけるかのように、
「――今度こそ、きちんと用意してくださいね――――!」
そんな、両手をメガホン代わりに口元に添え、真っ赤になった涙目の秋葉が放った怒鳴り声が、ロビーに響き渡った。